自己理解の進む過程にあったもの

私の人生に「皿うどん」という言葉はある。自分で作る気などさらさら無いので、皿うどんは外で食べるものであり、数年に1度食べられる条件がそろうと食べている。コロナの前、長崎に旅行に行ったときは中華料理屋さんで皿うどんを食べた。美味しかった記憶がうっすらある(ホント?)。いい記念だった。

なぜこんな私の皿うどん事情など知りたくも無いあなたに教えるのか?

それは数年ぶりに皿うどんを食べて美味しかったから。全国チェーン店の「長崎ちゃんぽんリンガーハット」の皿うどんを食べた。ちなみに長崎ちゃんぽんは食べない。好きじゃない。皿うどん一択。私は細麺好きなので。(ふと気が付いた。そうめんみたいな細麺なのに「うどん」なんですね)

というマクラはさておき、今日も本題をスタートします。

今は採用していないけれども

私も一緒だった

本日はこちらの続きです。

自己理解の進み方

アレヤコレヤ書いている私を「あなたはそうでしょうけど、私は違いますから風味を漂わせている嫌なヤツ」だと感じている方がいらっしゃっても全く不思議じゃない。書き方が嫌味なんだよね~と思う方も居るでしょう。こんな私も大抵の駅には下車しています。

駅???

熊本のえいこちゃんと東京の新大久保の韓国居酒屋さんで夕食を食べた時に話したことを整理して書いていきます。

占い駅

過去にあちこちで書いていますが、随分昔、私は占いの本を数冊丸暗記しました。母親の本棚にあった本を読んだのがきっかけで、(へぇ~)と思って読んだ。新しい本が本棚に入ってこないので、同じ本を何度も何度も読んだら覚えた。活字中毒だからなんでも読んだうちの1ジャンルだった。そのとき読んだ占いの本の1冊に(それは手相の本だった)「自分の可能性を信じたり、自分の可能性を願って手をじっと見始めた時からあなたの運命(手相)は変わる」と書いてあった。その著者は人間の機微というか、人間の悲しみも喜びも清濁併せもった視点や、著者が運命と書いた不思議や不条理も言外に伝えるような書き方をしていた。スピ系というよりも、小説風味に。

こんな風に、占い駅には私も下車したことがある。

私はその駅からまた列車に乗って次へ移動したけれど、その占い駅に生涯、ずっといる方も居る。

人生の選択として、私は占い駅から移動した。

 

そして、最初に母親の本棚で手相の本を見て、自分の手相を見たあの時と今の手相は違う。

(こんな線があると良いんだ。そうなったら苦しみが去って幸せになれるのかな?)と確かに私も自分の可能性を願って手をじっと見たわけです。あの時本で見た「良い線」があの後自分の手のシワとなって現れた。

だから、誰でもハマる時期があることも知っているし、一生それに左右される方がいることも知っているつもりです。

左右されるというか、信念になるというか。

 

かつて美輪明宏さんが、「占い? そんなもの!」と軽んじていたけれど、何かしら心当たりがそのあとできて、「満更馬鹿にしたものじゃないと思ったわ」と話していた。私も完全否定などはしていないのですが、

ではなぜ?私は占い駅を後にしたのか?

それは、多くのケースで(健康的な思考とはなんだか違うな~)って感じることがあったから。骨の髄までは影響されなかったから。

当たっていることよりも、自分で考えたり決める方を私は選びたかったし、こちらの方が単純に私に向いていた。なんというか、依存心というか、体質というか、自立できない感じがしたんです。あくまでは私個人の感覚と好みの話ですが。

占いがどう出ようと、自分の人生の責任は自分にかかってくるというか、占いは責任を取ってくれないとか。(笑)

 

占い駅を後にした後でも、なんとなく年に一度くらいは「どんな感じかな?」って占いを利用していましたが、何年も前からそれも辞めた。おみくじも引かない。

 

私が過去「楽になりたい」って思った、ただぼんやりした具体的な案のない「楽になる」というイメージでしかありませんでしたが、今のこの状態はその状態になったんですかね? もしそうだとしたら、ただただひたすらにありがたい話です。

 

しかし、2023年9月の今日に至るまで、底なしに厳しい環境になっていくような、(楽にならない。自分が強くなる分、どんどん逆風も強くなる。これいつまで続くの?)と遠い目になりましたが、振り返れば、ストレスケアを覚えてからは最強のパートナーを得たように回復曲線が右肩上がりでした。

 

ですから、ストレスケアを知っていて、何年も変わらないとか、ゆっくりと言うよりもはや進んでいないのならば、

そのストレスケアはストレスケアになっていない

か、

ストレスケアというナニカに対して新たな依存みたくなっている

とか、

変わりたくないことを認めたくない

というような可能性も考えられる。

 

ストレスケアという言葉を「占い」に変えても似たようなことが言えそうだ。

 

ストレスケアをやっている、占いでいい結果などがでたらOK。というところで完結しているのかもしれない。

ストレスケアをやっている。という行動はしていても、焦点が外れている。すると行動の結果と言われるような現実のあなたに変化は起きていない。

 

優しくない表現になるかもしれないけれど、多分、「ストレスケアをやっている自分」が好きなのであって、特に変化は求めていないという本来の目的は果たしているのかもしれないから、選択したものは得ている。成功している。達成している。

私はやめることを選んだけど、「占っている自分が好き」という結果を得ている方もいらっしゃる。

だから、他人様の本当の願望を、私がどうこう言うことじゃないなって思うようになったんです。

 

ヒトの価値観は様々。本当にそう思う。

ElisaによるPixabayからの画像

本当の願望、Top of 無意識

変わることを結果(願望)とするとは限らない。「ストレスケアをする」という状態を結果とする価値観・選択だってあるんだな~って思えるようになった。

「ストレスケアをやっている自分が好き」(他人に行うことも、自分に行うことも)だから、特に自分が変わることには興味がない。そして、(現在のところは)満足している。

そんな価値観を「それってどうなの?」一本やりじゃなくて、その方のその願いを受容しようと思うようになった。

悩んでいるとストレスケアができる。悩みがなくなったり、楽になったら楽しみがなくなっちゃう。目的と結果を両方失ってしまうという方がいるかもしれない。

 

以前、”悩みや苦しみを手放したら「生きている感覚」を得られない”。逆を言うなら、”悩んだり苦しんだりするから「生きている感じがする」”という無意識of無意識

Top of 無意識

みたいなことに気が付いたような気がした時があった。

 

過去ホームページのコラムに書きました。

なんにもない。怒りも喜びもこだわりも欲求も。

 

なんにもなくなっちゃった後 只今のところ(解脱説をどう考える?)

 

悩んだり苦しんだりして「生きている感じを味わいたい」「生きている実感として体感したい」という心底の願望。Top of 無意識。幸せを感じなければいけないという強迫観念もあるかもしれない。ステレオタイプの幸せを感じないと不完全であり、失敗であるといつかどこかで(子供の頃に読んだ絵本が繰り返しあなたに言い聞かせたかもしれない)思い込んでしまう環境もあったかもしれない。ステレオタイプの幸せとは、他者の価値観に阿たり、他者からそのように判断されることを良しとするというようなイメージだろうか。

 

成人以上の皆様にこういった「本能」のようなものがあると仮定してみたら、もうね、認知と受容だけが残るような気がしてる。受容。私が壊れたレコードみたいにシンプル、シンプルとばかり書くそのシンプルって何を指しているんだろう?と思った時に「在るがまま」というか「在る様を受容」ということなのかもしれない。

だから、理由とか解説(法則や教えなどなど)を用いた瞬間に「一枚かませた」「1枚挟んだ」と感じるのかもしれないですね。

悪くなってることが・・・無い!

自己理解の進み方

 

そうか、それは「なんにもない」と感じる感覚を一度でも感じるとあれ以上のシンプルってないのかも知れず(少なくとも私に人生の最高のシンプル感覚だった。なんせなんにもないんだから)、それが価値観として脳内の底辺に上書きされた(または生まれ直して新たに構成された)のかもしれません。すべては推測でしかありませんが。

 

そうなって楽になっていくこと

自分と他人は違う。

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

そういうことを忘れない方が私自身が楽だということも知ったような気がする。何度も何度も知ったような気がするし、この先も相も変わらず知っていくんだろう。

リンクを貼った過去のコラムに「生まれ直し感か?」と書きましたが、何度も生まれ直さないとなかなか自分以外の価値観を受容する(受容しているつもりとは違います)ことによって自分が楽にはなりにくいのかな? いやいやそもそも私が非常に脳の変化、シナプス結合が遅いんだろうと思うんですが。(笑)

 

他の駅たち

  • 教えの駅
  • 悟りの駅
  • 解脱の駅
  • 金言の駅
  • ヨガの駅
  • 高次崇拝の駅
  • エネルギーの駅
  • 波動の駅
  • 成功哲学の駅
  • 潜在意識を使おうの駅
  • おろすとか、伝授するとか、繋がるとかの駅
  • 龍関連の駅
  • 神社仏閣の駅
  • 先祖関連の駅
  • 過去世とかカルマの駅
  • ハイヤーセルフの駅
  • メッセージの駅
  • 信仰とは異なる天使云々の駅
  • 霊云々の駅
  • 魔女・魔法使いの駅
  • 引き寄せの駅
  • 因果応報の駅
  • 運命、宿命の駅
  • 天職、適職の駅
  • ソウルメイト、ツイン何とか、何とか星人の駅
  • 信仰の駅
  • 目標、願望類が大事駅
  • 使命の駅
  • キネシオロジーなど、セラピーの駅とかも
  • パワー〇〇の駅(石とか、場所とか)
  • 新月、満月の儀式系
  • 浄化とか祓うとかの駅
  • アセンション、次元上昇の駅
  • ホロスコープ、星読みの駅
  • チャクラの駅
  • サイキック云々の駅
  • 量子学の駅
  • 物理学の駅
  • エビデンスの駅
  • 風水の駅
  • 陰陽師関連とか
  • 意味のある記号とか数字とか
  • 覚醒の駅
  • 陰謀論、結社の駅
  • 真理の駅
  • 霊能力の駅
  • アカシックレコードの駅、アガスティアの葉なども

 

もっとあるんだろうけど、すぐに思い出せないから思い出したら追記します。(コツコツ追記しています)

 

私もそれぞれの駅に停車して、下車して街に滞在したこともあれば、ホームには降り立ったものの周りをざっと見渡してすぐさま電車に戻って次の駅へ進んだこともあるし、ボタンを押さないと開かないならボタンを押すほどの興味もわかずスルーしたこともある。

へぇ~こんな駅があるんだ。誰が創ったの?と駅名だけを車窓から眺めたこともある気がする。

 

駅の掛け持ちとか、行ったり来たりしたり。

この電車の駅は、人生ゲームのマスにも言い換えできるし、並行してダブルゲーム、トリプルゲームを行っている時もありそうだ。

 

正解でも不正解でもないのかあるのか、アレヤコレヤが各自のルールにのっとって脳内リミックスされています。私は全否定もしていないし、見えないものも(あるだろうな)と信じていることがある。目には見えないけど、脳内映像で見えたりすると(ほほぅ)と思うこともあるし、ひょとして、他人様よりいろいろ信じていることが多いかもしれない。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

自己理解

私がこれらの駅をあとにした際にあったものが「自己理解」でした。

  • なぜ私はこの駅で降りたのか?
  • 私がこの駅を去りがたいのは何故か?
  • ここでなにを得たいと思っているのか?

などなど、コーチングという言葉を知る前から自問自答していた。

 

Top of 無意識。みたいなところに、キネシオロジーテストという類のものを知る前から思考+感性でアプローチを試みていたのかもしれません。

ですから、キネシオロジーテストの際に利用される「無意識」という概念にも深浅や幅があるようだということを自分なりの統計(自社データ。当社調べみたいな感じ)から1つ頭に置いていたり、「本当」「正確さ」みたいなところを追及するセッションよりもストレスケアを大切にしたいという方針を選ぶようになった。

 

顕在意識と潜在意識は両輪の輪。

この考え方も大切にしている。

 

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

占いなど上に書いたようないろんなものを経て、自分の輪郭の手探りをちょっとずつ進めて、考えて、ストレスケアをして、と少しずつ自己理解を深めている。

 

自己理解と、なにかの教えに忠実に生きることは私の場合はイコールじゃない。

それらが別々だと認識することが私の場合は自己理解に近い。

そのあとに、自分で選んでなにかの教えに忠実に生きたければそうする。

 

ながながと書いてしまいましたが、果たして読んでいる方に内容が伝わるのだろうか?

 

余談

勝手に占われて聞かされた結果や、自分が調べたこともあるが、

  • 文才がある
  • お金に困らない

と言われたことがある。

 

文才はどうですか? それは私の書いたものを読んでくださってる方が決めることですよね。

 

お金に困らないというのは、私はこれまで質素な生活をしておりまして、今日食べ物を買うお金がないということは無かった。そうならないように収入を得る仕事をしてきたし、やりくりしておりますので、計画がその通り実を結んでありがたいです。

が、私が若かりし頃から贅沢三昧をしていたらどうだったのか?というのはやっていないからわからない。今日食べ物を買うお金がないということが無い皆様も占いで同じように「お金に困らない」と言われるのではないでしょうか?

 

大器晩成と書いてあるのを読んだことは前のブログにも書きましたが、

(頼むよ)

と心底願いましたよ。

ここから救って!とすがる思いのような。

 

別に大物にはなっておりませんが、あのすがるような思いは今はない。

だって、ラクだから。

占いは当たったかもね。マジで感謝。

 

大器晩成画像がすぐ出てこなかったのでこちらにしました。(笑)

 

というところで今回は終わります。

 

長文におつきあいいただいてありがとうございました。(^^)

See you!

 

(2023/09/17以降も文章を手直ししたり、コツコツ加筆しています)

自己理解の進み方

我が家もちょっとずつ変化していて、キーボードもマウスも新調しまして、オモチャみたいなピンク色になりました。またワイヤードテンキーをわざわざ使っていましたが、それも新調してワイヤレステンキー薄型白色になりました。他にも気に入り過ぎて使い倒してお湯が沸きにくくなった電気ケトルもようやく新調。

動きが遅くなりすぎているPCもいろいろだましだまし使っていますが、いよいよミニPCかiMacかなにかを購入検討中です。 使えるうちは大切に使いたいと思っていますが、快適さも大切だな~って思いましたね。気分が違う。

 

さて、今日は前回の記事を書いた続編、補足になるかもしれません。

悪くなってることが・・・無い!

ストレスケアの基本としていること

シンプルの底流

前回、私がシンプルとはとらえていない、「1枚挟んでいる。」「一枚かませてる」と感じている感覚について書きました。これれは正解とか不正解とかそういう話ではなくて、ポリシー(方針)のようなものでしょうか?

そうですね、「方針」と書くと他者にも理解しやすいし、他者を理解しやすいような言葉ですね。Goodチョイスな感じがします。

 

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 

イメージ

私は現象や価値観、信念を形成した背景などをある意味深堀、ある意味分解していくことをしています。行動や感情の深堀、分解と書くと伝わるでしょうか?

ですから、あくまで私の感覚の話ですが、法則や金言やとあるスピリチュアル系解説や教えというようなものは事象、現象の表層に位置しているものだととらえている。

 

そっちを理由付けとされるケースが多いことは知っている。そっちが基だと思う価値観だということも理解が進んだ。それを受容してなお、私はそれらを「1枚挟んでいる。」「一枚かませてる」と感じている。

 

また、私たちの体のように目視できる物質としては存在していない思考や価値観、感情も立体としてとらえている。顕在意識と潜在意識の氷山の一角云々みたいなあのような単純な三角形の平面構成とは違って、ミルフィーユケーキのような層、地層のような層が繊細に関係しあっていたり、はたまたその層のような状態を縦や斜めに貫いたりするような作用があったり、それを遠目に見たら球体のようなときもあるし、実は形のないモヤのようなものだったりというイメージがあります。

Andrew MartinによるPixabayからの画像

 

複雑に構成されているけれど、ご本人のストレスや悩みについて分解したり、深堀するとシンプルなコアが現れることがある。こういったコアはたった1つとも言い切れない。ヒトにはそれぞれの人生の物語があるし、それらを平面とは感じない。

 

ですから、それぞれのヒト(物語)に主を置きたい。なにか法則や教え、金言、信仰に私が当てはめることは避けて、シンプルにご本人のストレス・悩みに向き合いたいと思っている。

悩みやストレスについてレッテルを貼ったり、分類するのがストレスケアではないから、私はその先のストレスケアに主を置きたい。私が「ストレスケア」と表現しているその内容はどうやら多岐にわたっているようだけど、自分を「楽」にしたのは1枚かませたり、1枚挟んだりするのを辞めたあとだったという自覚がはっきりとある。断捨離みたくシンプルな視点を持てば持つほどどんどん楽になっていった。

 

こういった私の方針があるから、法則や教え、金言、信仰を基にする考え方を見聞きすると、「1枚挟んでいる。」「一枚かませてる」と感じるわけです。自分の体験を基にしているとも言えます。

それこそ、こういったことを「価値観」「価値観の違い」と言いますね。

 

法則や教え、金言、信仰を基にする考え方すらももっと分解したり、深堀したりするということでもあります。それがストレスや悩みに関係しているならば。

人生の選択は様々なので、ご本人が機嫌よく暮らしているなら何よりだし、そこを私がおせっかいに深堀することは控えたい。が、なにか私が引っかかってしまったり、考えちゃったりすると記事に書いちゃうときがある。そうすることで、自分が他者の価値観をイメージして、(なるほど!)と腑に落ちやすくなる傾向にある。

表層と深層

これらが表層なら深層はなんだと考えているのか?という問いには、

  • 「感情」や、
  • 感情を生み出す「反応」や、
  • ある時は「反射」、
  • 信念や価値観を生成した思考、体験、環境
  • 性質、特性、脳・思考の傾向

などを挙げてみたい。

ElisaによるPixabayからの画像

 

これらは「心理学」と言われる範囲ではないだろうか?

確かに、いろいろ知識や情報や体験が以前よりは増えたかもしれないが、基本に忠実と言えばそんな気がするし、ブレてないと言えばそうかもしれない。

 

量子学みたいな話が人間についての理解の一面として登場したこともあるし、不思議っぽく感じることや、東洋思想に「なるほど!」と思ったこともコラムやブログに書いたりしても、軸足はブレたくないなということをポリシーとしていきたい。

 

心理学を出発点に、いろんな方向へ進んでいく方は多い。各方面との境界線って見えないし、境界線もあるんだかないんだか・・だし。そのあたりのハンドリングは自分でする必要はあるだろうけど。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

自分の価値観が浮き彫りになってくる

ですから、心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアの基本には

  • 心の動き
  • 感情の動き・変化
  • 感性、特性

と、

  • 脳、心、体の記憶

などのストレスケアがある。

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 

こういったことが最初から明確になっていたわけじゃなくて、前回も書いたし、今までもたくさん書いてきたように、社会に接して、他人様と接して、社会の価値判断を見聞きして、他人様の言動・行動を見聞きして、その時の自分の反応を認知して、そして自分が浮き彫りになってきた。

この先も同じことの繰り返しだと思う。

 

続きます

まだ続きますが、長くなるので今回はここで〆ます。

 

皆さんも、自分を知りたい、自己理解を進めたいと思ったら、価値観をおさらいしてみるのもオススメです。

他人の価値観に乗っかっているだけの時もあるし、他人の価値観と合致するならそれはあなたの価値観ですし、他人と違っても自分の価値観は価値観として認知したら良いだけですし。

良いとか、悪いとか、判断するのとは違って、「知る」ということを意識してみることが「シンプル」かと思いますが、どうでしょうか?

 

 

悪くなってることが・・・無い!

今は2023年8月最後の日。昨晩も美しく輝く月を見ました。今晩も強風に流れる雲の合間に大きな月が見えました。

またまた台風の影響が始まっています。

 

昨日か一昨日、運転中だったのかな? 過去のアレコレを思い出して、(嫌な事とか、嫌な人とかいたな~ でもみんなどっかいっちゃったな~ 今はもう誰もいないな~)と思って(今はマジ幸せだし、楽しいことが多いよな~ ありがたいな~)と思った時に気がついた。

 

悪くなってることが・・・無い!

こりゃあ 大層ありがたい

なんだかんだ日々の細かいことがあるときもあるし、日々の細かいことすらない時もあるんですが、

悪くなってることってなんもないんじゃない?

って気がついた。

今幸せなのは気が付いていたけど、悪くなっていることがないってことに気がついて ハッ とした。  これは大変!  めっちゃありがたい!

2023年1月の時点よりも9月になろうとしている今の方が超楽しい。2021年9月に日常生活の環境変化があって、久しぶり、数年ぶりにシンドイことがギュッと集中したんですが、今日現在ぜーーーーんぶ終わったし、なくなっちゃった。

すべて去っていった(◎_◎)

 

そう、悪くなっていることがない! 全方位でそう。

いやいや、ありがたいです。

 

お陰様で幸せにやれてるな~って日々思っているし、ブログにもそう書きますが、それは本当なんです。神様ありがとうございます!っていつもお礼を言いたいから言ってます。心の中で。独り言が大丈夫な環境だったら独り言を言う時もある。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

人生の前半と後半

人生、前半が苦しいのと、後半が苦しいのとどっちがいい?と考えたことありますか?

PexelsによるPixabayからの画像

 

私は子供の頃というか、成人する前から(ということは人生の前半にいる最中。成長期の最中。)考えていまして

「今は苦しいが、前半苦しい方がぜんぜん良い。大器晩成で後半は楽に過ごしたい!」

と何度も考えました。(二者択一とは決まってないけど、成長期の私が想像する長い人生って、前半や後半というザックリしたイメージしか持てなかった。)

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

願ったというか。

 

そして願いが叶ったんでしょうか? 全く嫌なことがなくなるわけじゃないとしても、昔と比較したらなんのことはない。

 

楽勝。

 

そして、忘れるチカラというか。過去のことを過去として脳内処理していく能力が上がったことにより、シンドイ最中や、イヤだな~~~~って思っている最中も、そのダークモードに完全に浸りきらずに頭と心の片隅で(これもそのうち忘れるし)と思っている自分へと成長(?)している。今現在は。

ささやかな実例

本日も運転中、ちょっとした不快に思いそうなことがあったんですが、全然心中ザワザワしないので アレ? と思いつつ自分を観察した。感情に感情で反応しないなぁ って。そう、感情に巻き込まれたり、影響を受けないとまぁまぁ楽ではあるんですが、この時は無意識に自分を押し殺して無感情なふうを装っているわけでもなかった。

自分のよく見られる脳の傾向として、(あの感情的で強気な態度をとった女性のことを忘れるだろうな)と思ってなんとなく自分を観察して数分後、・・・忘れてました(笑)

途中、運転中なのでイメージワークで1~2秒のストレスケアを行いましたが、ひょっとしてあのストレスケアをしなくても忘れたかもしれない。

 

ボケが始まった可能性もちゃんと頭に置いてあります。そういう冷静さは今はまだあります。

 

ストレスケアを続けてきて「脳」が変わった?

いや、年齢による変化か?

多分、私は自分に合うストレスケアを見つけることができたのかもしれない。と今思った。

世間的に、一般的に、ストレスケアと言われるアレヤコレヤは多いけれど、私の場合はストレスケアの研究が趣味みたいなところもあったし、自分への影響を観察してきたら、よりシンプルに、アイテムなどを使わず身1つで、みたいなスタイルが非常に自分に合っていることが発見できた。

思想でストレスケアをするということもしなかったのも個人的にはとても相性がよかった。(いや、思想でなんとかできると思ったんだけど、それがなにやら複雑さを生んでいるような気がして、それらをやめたことが良かった)

 

不思議体験とかまぁあるような気がしていますが、ストレスケアに関してはとても現実主義というか。「不思議」と「ストレスケア」、これらをごちゃ混ぜにしないという脳の傾向が自分には良かった。現象と作業を区別していたとでも言えるのか? もっと適した表現があると思うけど残念ながら今は出てこない。

 

なんでしたっけ? 行動と結果という言葉がありますが、「結果」の捉え方というか、なにを「結果」とするのか?も私なりにルールがあるみたいで、スピ寄りじゃないような気もするし、そのあたりに「法則」類を持ち出さずに、事実を見るみたいな姿勢を持ちたいと決めたのも個人的には良かったのかもしれない。

目の前の一次情報を大切にするというか、理由付けやそれを何かのルールを基にして解釈する癖を控えるというか。

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 

余談

話の筋は大きく変わります。

いきなりですが、散歩していた時に気が付いたことがあったので書きます。

 

なぜ自分が「法則」とか「波動」とかに ちょっとした抵抗感があるのかについては既に過去記事に書いているんですが、今回気が付いたのは、私の抵抗感についてではなくて、

私と、「法則」とか「波動」とかを推奨している方はどこが違うんだろう? ということです。

 

私は以前も書いたでしょうが、私の考える「シンプル」には、「思想」「法則」とか「波動」とか持ち出さないことを指す。というようなざっくりとしたニュアンス・意味がありまして、「法則」とか「波動」というようなことについて(目の前の出来事について、そのまま認知するのではなくて、1枚重ねて、1枚挟んで思考しているのでは?)というような感覚がついて回っておりました。

しかし、「法則」とか「波動」というようなことを推奨されている方は、こっちが根っこだと感じておられるんだな。と思い当たった時に そうか! すっきりしたよ! と思いました。

 

そう、前提が違うことを今までで最高に理解できた気がしたんです。

読んでいる方は、(それって当たり前の話でしょ?)と思うかもしれませんが、価値観の違いという理解を私は私の価値観を基に考えているというアホほど基本的なことを体感として感じたような気がしたんです。

 

ヒトはそれぞれの価値観で生きていることはわかっているつもりでしたが、その「それぞれの価値観」についてもう一段階理解できた気がした。

世の中にはいろいろな価値観があるね。と言うのは簡単だし、わかっているつもりになるのは簡単だけど、自分に無い価値観について想像するのってそれに興味がないと難しい。自分の想像力を基に他者を理解しているつもりになるけれど、なんだか今回はこれまでの私の想像力の範囲がほんのちょっと広がった気がした。

 

例え

この そうか! というそれまでの理解よりも一段階進んだ気がしたのは。幻聴や幻影が「本当のこと」として脳が認知しているということを映画の1シーンを見て理解できたような気がした時と似ています。

私たちは勝手に「幻聴」「幻影」「幻視」みたいに「幻を本当なんだと訴えている」というレッテルと貼ったり、判断を下すけれども、ご本人の脳では本当だと訴えているわけではなくて「事実」なんだということを、それこそ「盲点」に気が付くかのような ちょっとした衝撃があった。

 

そして私はまた楽になった

こうやって自分以外の方の脳の癖や、価値観や信念を自分なりに理解できるようになると、そういうことに由来するストレスが減る。他者理解とまでは言わないけれど、認知や受容というようなことには関連するような気がしてる。

するとちょっと前に書いたこちらの記事の、ご本人が今聞いた話や、見聞きしたちょっと良いな~と思ったことや、感銘を受けたことを「ヒラメイタ」と変換することも

そうだった そうだった、ヒトにはいろんな脳のタイプがあるんだった。ただ単にそれだけの話だった。その辺りを(それってどうなの?)と思うこと自体がナンセンス。

と思うことが易くなるし、

それが心理的な作用からくる行動だとしても、それだって他人には変えられない。

 

出所が他者でも、自分発信みたいにマルっとパクったり真似したりということの敷居が低くなるだろうけれど、そんなことを言い始めたら今の世の中誰一人オリジナルを発信している方はいないような気がするし、そもそも私だって他者からの情報の集大成+感性、感覚で出来上がっている。

カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い

そう、みんながみんな古来からずーーーっと影響し合っているわけですよね。

 

泡宇宙みたいに。

だから それがナニカ? と言われましても

 

私はこうやって、何度も何度も行ったり来たりしながら ほんのちょっとずつ理解が進んでる気がしてる。

 

遅いんです。

本当に進みが遅い。

 

行ったり来たり、ゆらゆら揺れながら人生が進んでる。

そんな感じがしています。

Esi GrünhagenによるPixabayからの画像

 

今日、今を大切にするとは?

読み方によっては、前後の記事とのバランスってどうなん??? と感じて、(この記事を書いた方ってちょっと不安定なのかしら?)と思われるかもしれませんが、こちらの記事は台風の気配もまだない普通に外出していたある日の下書きに肉付けしたものです。

今日現在考えていることではありませんので、最初に一応補足をしておきます。だから前後の記事との連続性は特にありません。

ふと、目の前からいなくなる

人生劇場

私の人生劇場にある日現れて、そして消えていく物、事、ヒト。

 

昔、港にいた時に、ベンチに腰掛けて頭空っぽで景色を見ていたことがあるんです。(1度や2度ではありませんが。)

船がついて、ヒトが乗り降りして、また別の船が着いて。という繰り返しを見ていて

これは、まるっきり人生だな〜って思った。

 

港じゃなくても、駅でも同じことが比喩として使えますが、港のベンチの「あの解放感+頭真っ白ぶり」がホント人生をしみじみ感じた。

rubyliaによるPixabayからの画像

 

思っている以上に出会っていて、別れている

今回は空港にいて

私が空港で働いていたら

  • 私の人生劇場にほんの一瞬登場する人の存在とか、
  • 今日を生きるとか、今を生きるとか、
  • 目の前のヒトとの交流が永遠には続かないとか

言葉ではわかってるつもりになれても、実際にはわかりづらいこれらを身をもって理解できるよね〜

なんて思った。

 

いつも顔を見ていた人達が、なんの前触れもなく(私にはわからなかっただけで、本人達は本人の都合や予定はわかっていたんだろうけど)見えなくなって

再登場する方もいれば

それっきりの方もいる。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

変わらない毎日とか思っていても、世の中は動いているし、あなたもその中にいたりする

さっきの「空港で働いていたら」と仮定するとイメージしやすいけれど

とても感じの良い素敵なお客様も

その逆に感じるお客様も

お得意様であっても、

相手都合、自分都合で目の前の世界、人生劇場はクルクルと場面が変わる。

 

人生劇場にずっといて欲しくても、

人生劇場から退場していただきたい方も

私の都合や希望とは無関係に出入りするが、自分でそれらを構築できる場合もある。

 

私のこれまでの人生には

その一瞬だけだったけど、とても心の交流があり、温かく、お互い思いやりあって、その温かい記憶が何年かに一度ふんわり脳や心に浮上してくる方達がいる。

そして、もう二度と会うことのない方達。

 

相手は私のことなど思い出すことは無くても全然不思議じゃない。

でも、私はそういった、「あの一瞬」「あのひととき」のおかげで人生の「喜び」を感じた。記憶という過去の喜びを感じる。

 

言葉が通じない、けれど目を見たら意思が伝わり合う方も多かった。

 

今日、今、を大切にしていると、ぐるんと回って自分に温かさが巡ってる様な気がしてる。

 

私は今回(この下書きを書いたのは間もなく3か月ほど経とうとしている2023年6月です)、羽田空港から二俣川駅まで直行のリムジンバスを利用しましたが、案内所で券売機について教えてくれたお兄さんも、バス停で運行を切り盛りしてるお兄さんも、二度は会わない方かも知れない。その逆にまた会う可能性だってあるし、ひょっとして将来お馴染みさんになる可能性も否定できないけれど。

つんけんするのも、朗らかにしているのも私次第。相手も同じ。

 

利得とか、損得勘定とか、メリットとか、目標とか、達成とか、精神修行とか、人生修行とか、知識とか、そんなこととは全然違う世界の話。

 

そう思うと、付き合って気持ちのいいヒト、良い方と(だけ)付き合っていければ もういっか。と思ったよ。

それは相手の立場からしても同じ。

もう随分会っていないけれども、会えば気持ち良く付き合える方だっている。下手したらこういう感じにお付き合いしている方の方が私には多い。

 

そう思うと、

双方感覚が一致して、または違いが楽しめたり気にならない相性で

それなりに長く付き合えるのって随分な僥倖なんですね。

 

長い付き合いじゃなくて、一瞬だったとしても、そんな方達に出会えて、温かくて、幸せを感じて、顔がニコニコするってありがたいな〜って。

 

過去の良い思い出、過去のシブイ思い出

将来変わりたくないこと、将来変えたい事

いろいろあるんだけど、頭を過去や未来で占領しちゃうのはちょっと勿体無い気がする。

 

過去にとらわれていたら将来のラッキーやハッピーを見逃すこともあるだろうし、

未来にとらわれ過ぎていたら、過去のホッコリ体験や他者からの愛を忘れることがあるだろうし、

未来にも過去にもとらわれ過ぎていたら、今目の前にある愛や好意に気が付けない。

自分にしか意識が向かない傾向にあるみたい。自分のことで目一杯になっちゃって。

 

すると他者とのコミュニケーションに注意を払えないこともある。目の前のヒトが何を言っているのか?どんな価値観をもっているのか? 聞いているつもり、理解しているつもりにはなるけど実際は何も聞いてないことがある。自分以外に全然意識が向かない。

 

それはそれで人生観ではあるんだけど、意識を今にしっかりもっていると現れてくる世界、見えてくる現実があるんだよね。と、こんなことをこの文章を書きながら考えました。

 

私もこんなことを感じる時期が来たんだね。こういった人生のありがたさの感じ方もあるんだね。

Alisa DysonによるPixabayからの画像

 

 

台風記

去った台風の際に体験したことを書きます。時間が経ったのでいろいろ忘れてます。でも書く。書くと約束したから。

 

今、この文章をタイピングしているキーボードはおNEWでして、今までのキーボード投資額を大きく更新した人生初の10,000円超えのキーボードです。オモチャみたいなピンク色のキーボード。

軽いタッチなのに、キーを押した感触がしっかりしていて、文章をタイピングするのが楽しいです。

 

台風が来るよ!

なになに、台風が直撃だって?

沖縄は台風銀座でして、住んでいたら流石に慣れてきます。

私はお陰様で水道をひねっても水が出てこなくてショック!という体験はありませんが、ずいぶん前に計画断水というお知らせが当時住んでいたマンションのエレベーターに貼られていたことがありました。そう、断水があらかじめ知らされていた経験がありますが、断水したことに変わりはありません。

ですから、水の確保は大切だということが身に染みています。

それならスーパーなどでペットボトルを買わなくちゃ!買いだめしなくちゃ!と思う方が多いようですが、それはちょっとした飲み水分にしかなりません。

停電になると集合住宅などは屋上の水タンクへの水の補給がとまりますので、停電してすぐではなく、ある程度時間が経ってから屋上の水タンクが空になり、トイレも流れなくなるし、風呂もシャワーも使えなくなるというようなことは忘れられがちみたい。ですから、ペットボトル数本分というような数リットルの水では間に合いません。

「ザ・汲み置き」という頭に切り替えないといけません。

風呂桶にトイレ用と水浴びか沐浴用の水を溜めて置いたりすることが大切。

私は風呂桶にも水を溜めますが、簡易バケツや、水が溜められるプラスティック製のバケツ状の入れ物などにも水を溜めます。空きペットボトルもこんな時用にいつもストックしているので、全てに水道水を汲み置きます。一度も台風前にわざわざ混んだスーパーなどにペットボトルの水を買いに行ったことはありません。

例えば、有事だからラーメンを食べるとします。鍋にラーメンをゆでる用の水もいるし、それを器に入れて食べたら食器を洗う水も必要。箸も洗うならその分の水も必要。たっぷりの洗剤で洗えば泡が切れるまでの大量の水が必要になります。数本のペットボトル分の水ではまさに焼け石に水。

現在のところ、これまでの私が体験した台風の影響で水の不足を感じるのは大変ありがたいことにほんの数日。水があるだけでありがたいし、買ってきたペットボトルの水がそれほど上質とも考えていないので自宅にある、停電になっても使える浄水ポットで水道の水を濾して飲んだ方が良いとすら考えています。

時間や手間を省エネしたいのです。

もっと早く買えばよかったんだけど、飲み水用の折り畳み式のスイカンも1年ほど前に買いました。そのスイカンに自宅の浄水器(停電になったら使えないタイプ)の飲み水を汲んでおきましたので、機能的に水ライフ(?)を過ごすことができました。

私は今回は大丈夫でしたが、実際に台風が来てすぐに断水した方も居たそうなので、洗い物が出ない工夫も必要ですね。洗い物って食器もそうだし、調理するなら調理水も必要だし、衣類なども台風明けに洗えば良いような段取りにしておく方がいいと思います。

 

で、今回の台風の話を書きますと、実際はお陰様で停電5日ほど経っても水道から水は出続けましたので、トイレは問題なし。お湯は停電ででなくなったので、水を汲んで、ガスで沸かしたお湯で快適なお湯を作ってお湯浴び(ざっくくしたシャワー状態)をしたり、沐浴したりしていました。

 

汲み置き水はありがたいことにたくさん余りました。余った水は、台風後の掃除につかって無駄なく消費しました。

 

こういった事前準備は結局のところストレス対策になるんですよね。

ホント、ストレスはたいしてなくて、停電生活をエンジョイして昼間は読まずに溜まっていた本を読んだり、暗くなったらしっかり寝て、のんびりしまくっていました。もともとよく眠るたちなのですが、ほんと良く寝ました。めっちゃ健康でしたわ。

 

考え事とかしてみようと思っても、たいして考えることもなかったので、空想、妄想も存分に楽しみました。

Cheryl HoltによるPixabayからの画像

食べ物

お子さんのいらっしゃるご家庭は大変だと思いますが、私は自分一人分をなんとかしたらOKなのでその点は楽です。

IHコンロの方はコンロでは停電時は煮炊きできませんし、レンジも使えないし(我が家にレンジは無い)、冷蔵庫も電気が止まりますので代わりの加熱機器も必要なら備えないといけないし、買いだめして冷蔵庫に入れたらOKというわけでもない。冷凍ものも同じ。

ですから、ゴミはたくさん出ますが、カップラーメンみたいなものがやはりお湯を注ぐだけなので有事には威力を発揮しますし、パン類も良いですね。袋ラーメンは先述したとおり洗い物がでるから。

プロテインバーとか簡単に食べられるものは大切ですね。台風が激しい時は外に出られないので、買い物に行くことができませんから。

ウチはガスコンロで、台風の時に火が使えなくなったことは一度もありません。これはお湯を沸かすことが常にできるので食事にしても、入浴(の代わり)にしても大変助かっています。オール電化が嫌いというわけではなくて、元々ガスで調理するのが好き。という感じです。

 

この時、台風用の食べ物の買いだめはほとんどしませんでした。家にあったもので食いつなげばいいやって思っていたので、缶詰やそうめんやお菓子とか、そんなこんなで無事巣ごもり期間が終われました。たまたま、台風のちょっと前に通常の買い出しに行っていたので、停電後溶けた冷凍野菜とか、溶けた冷凍果物とかもあり、なんだかんだ持ちました。

 

良い案だと思ったら

ゆで卵

ゆで卵を台風が来た時に作りました。冷蔵庫の中に入っていた5個くらいを全部ゆでた。そして停電になり、(そうそう、こうなってもいいようにゆで卵を作っておいたんだよね~)と悦にはいっていたんですが、私はそのゆで卵を保存食感覚で作りましたが、2日目?3日目?に卵を食べようとしたときに異変を感じました。

 

腐ってる????

 

ゆで卵からあんな感じがしたのは生まれて初めて。

停電中、スマホのバッテリー残量を気にしながらゆで卵の保存期間をしらべましたら、あらビックリ。めっちゃ早い(笑) 全然保存食にならない。

卵を1つダメにしました。なんだか悔しかった。最後の1個はどうかな?と思ったらそっちは運良く大丈夫でした。

 

2023年に私が学んだことに、「茹でたら卵は長持ちしないからすぐに食べること」があります。1つ利口になりました。

 

おにぎり

そうそう思い出しました。これを書いているのがかなり日にちが経った後なので何かと忘れがちですが、台風が本格的になる直前におにぎりをたくさん準備したことを。

ゆで卵は傷みましたが、おにぎりは息が長かった。美味しく食べました。

 

ティータイムを楽しむ時間は贅沢なほどありました。長い夜、長い昼という感覚は新鮮だった。

洗濯物

台風で家に缶詰なので服は汚れない。お陰様で台風中は涼しくて何度も着替えなくてOKでした。台風ってちょっと弱くなる時があるんです。そしてまた強くなる。ですから、ちょっと弱くなった時にコインランドリーで洗濯乾燥しました。

洗濯機は停電で使えませんでしたし、手洗いしてもいいんだけど、もうどうせコインランドリーに行くから全部外で済ませました。

皆が一気に押し寄せるからすごく混むんだけど、タイミングの妙で余り長く待たずに用がたせて本当にラッキーでした。

他に準備しておくもの

  • スマホなどのバッテリーは満タンに。
  • 充電器もフル充電。
  • 懐中電灯 と電池類
  • ロウソク
  • 電気がなくてもできるもの(パズルが好きならパズル、編み物が好きならその準備など)。私は日頃手を付けていなかった洋服のちょっとしたお直しをしました。他にはブログのネタの整理など。

 

試しに「生まれて初めて」をやってみた

江戸時代?体験

ロウソクの灯を頼りに字を書いてみました。なんもやることないから妄想、空想マインドマップを書いた。今の私はなんでも叶ならどんな欲求が満たされたら嬉しいかな?という懐かしさすら感じるネタでも描いた。

欲望を自由に書く! ロウソクの灯を頼りに。という非常にシュールなことをしてみた。

楽しかった。

でも、なんだかよく見えにくいからいまいち乗りきれないということがやってみたらわかった。しかし、乗り切れなくても、なんでも叶うなら書いておこうと欲がメキメキと沸き起こってきて書くという、本当に「人間ここにあり」ということをした。

瞑想とは?

詳しい方にお聞きしたいのですが、瞑想とかって、正解は無になって何も考えないことですか? それならば私は瞑想できてました。(笑) 頭の中真っ白。なんもない。だからすぐにやめちゃった。やめようが、それをやろうとしようが、結局一緒だということもやってみたらわかった。

特に楽しくもないし、台風の間中たくさん寝ていたから瞑想中に眠気も襲ってこないし。

 

停電になる前にしていたこと

映画とか見てました。映画見ながら寝落ちばっかりしてた。

停電する前は、外は大荒れしていながらも、家の中ではとにかく平和にゆったりと過ごしていました。

David MarkによるPixabayからの画像

写真みたいな雷は今回見ていないような気がするけど、わすれちゃった。

 

もともとコロナ騒ぎになってからの巣ごもりも私個人は非常に満喫しておりましたので、(あら!またこんなにゆったり過ごせるなんてラッキーだわ)という感じでした。もうね、本来出不精なので巣ごもりは得意なんです。

得意なことをやっているのでストレスはあんまり?ほとんど?感じないんですね。まさかこんな得意技がめちゃんこ活きてくる環境が世界的な社会生活に起こるとは想像したことがなかったけど。

Engin AkyurtによるPixabayからの画像

現在のところの結果

台風時の妄想・空想で、車と引っ越しについて花が咲きました。で、実際に台風明けに車屋さんに欲しい車を見に行きました。相場や程度も見たかったから。

家についてはネットでちょっと見た程度。そのお陰で家賃見当を狭めることができて、この先本格的に物件を探す際に絞り込めそうです。

 

そう、この車の買い替えと引っ越しについて2023年内に両方終わるとは決めていませんが、自分の思い込みや設定した枠について気が付くことができました。

この自分の価値観に気が付いたことは非常に大きなラッキーでした。それは過去の私の価値観で、それはそれで今に至るまではOKでしたが、今はもう状況が異なるので無くてもOK。そんなことに ハッ! と気が付きました。

 

台風で巣ごもりを強いられた私でしたが、時間を贅沢に使った感がありました。これはとっても「豊かさ」体験だな~なんて思ったりしました。

災い転じて福となす。の一例な気がした。

 

台風の時も、夏風邪の時も、無事回復してありがたいです。

日々の生活って本当にありがたいことの集大成ですね。

 

John HainによるPixabayからの画像

 

 

カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い

いろんなことを体験・経験したら良いのか?

どーでもいいし。と思う方は飛ばしてください。

夏風邪ひいたよ

あんたの日々の出来事はいいから、さっさと本題に入ってほしいという皆様の願いを叶えず申し訳ありません。今日も私の本当にどーでもいいつぶやきを最初に書きます。実は夏風邪を何年振りがわからないほど久しぶりにひきました。自宅では寝ても覚めても扇風機ガン回し、外では蒸発しそうに暑くて非常な疲労感を感じ、はたまた寒いほどクーラーが聞いている建物にいるというような今書いていても、そりゃあ体調不良になるわな。という当然の結果を招く生活を送っておりましたら見事に夏風邪みたくなりました。

我が家には飲み薬がないのですが、最初喉の痛みの段階で我が家にあった蜂蜜を舐めたら あら!ラッキー やっぱり蜂蜜って良いのね! と思ったほど喉の痛みが引きました。すっかり気をよくして、回復するつもり100%で(薬を買うことを思えば同じかも!)と奮発してお高めのマヌカハニーを購入して食しておりました。

お陰様で完全回復手前です

風邪の諸症状は他で書いたので省きますが、あんなに調子が悪かったのに、PCに向かってブログを書くほど元気になっております。強制断食みたいなことになったので、体もなんだか透明感っぽい。元気いっぱい!という力強さとは違いますが、体も頭も軽いです。

この風邪の山場が超えたあとの鼻水が止まれば終了ですが、無理してぶり返したら元も子もないのでこの後もしばし養生します。

体の声

風邪のウイルスが胃腸に影響しただけと言えばそうなんですが、私の体も正直でして、

喉の調子が一旦良くなって油断したときに「よし! 栄養を取ろう!」とご飯(肉のおかず)をしっかり食べたんですがコレが裏目に出ました。そのあと非常に具合が悪くなったんです。体は(ナニも食べないで!なんでそんなに食べ物を胃に流し込んでくるんだよ!受け付けないよ!)と主張しておりましたわ。

体の主張の強さが怖くて、体の主張に従って強制断食状態になりましたが、その間は張り切って購入したマヌカハニーと普通の蜂蜜は体はOKでしたので舐めてましたし、おそるおそる様子を見ながらスープを飲んだり、バナナを食べたりし始めました。買い物に行ける元気が出た時に「ゆし豆腐」も買ってきました。

日頃胃腸が強いという自負がありましたので食べるものをキネシオロジーテストすることはないのですが、今回の回復期はキネシオロジーテストしました。食べる時も買う時も。

今夕はコーヒーも飲みましたが、まだ前ほど美味しく感じないです。

美味しーと思ったのは今回はスープでしたね。(あと、ゼリー状の軽いものはまだ大丈夫だった。)

沖縄に「カチュー湯」と呼ばれるものがあるのですが、私はだし汁に梅干しを入れたものを飲んだんです。これがマジ良かった。体も喜んだ。(作る前にキネシオロジーテストしましたが、飲んだ時に体がこれを受け入れやすい状態だったのも感じた)

よし!タンパク質を取ろう!とゆで卵を作ったものの、体が(それはまだ早いよ)と反応しましたので食べるのを半日遅らせたこともありました。米や麺やもちろんパン類という主食系は一切食べておりません。おかゆもOFF、うどんもOFF、パンは元々食べなくなってきてるから論外。

 

夏風邪が流行っているのかいないのかわかりませんが、どうぞ皆様もご自愛くださいませね。

ここ数年?体調が不安定になりかけた時にプチ断食した方が治りが早いような気がしてる。だから今回みたいに「栄養取らなきゃ!」と食べるのは意味ないなということをすっかり忘れていたけど、再体験して再確認したような気持になりました。

本題はここから。

高次について今日も書いてみよう

高次ってそーゆーこと?

スピリチュアル界好きの方はこの先読み進めるのはご注意ください。

が、人生観や価値観、趣味嗜好は様々なのであなたの信念、思想、価値観と合わなければただスルーしていただければ良いだけです。

 

という前置きを皆様に踏まえていただいて(強制か?)、相互確認したていで先に進めます。

 

上にリンクを貼った記事から引き続いて

”人間皆高次” ニンゲンミナコウジ

という東洋思想ベースで話をすると、

あなたと私は違う?

「(あなたは違うが)私は高次と繋がっているので云々」という発言をされている方は本当にはそれを感じたことがないのかもしれない。もし本当に(と書くと微妙ですね。感じ方の深さなのか? う~む、わからん)感じたら、その点においては人間皆同じということも感じるはずだから。

という視点も現れてくる。(あくまで1つの説です。個人的な)

高次と切れてる? 繋がれない?

高次との繋がりが切れてる。とかいう仮説も、

生きてて、細胞がある限りは切れようがない。という視点からすると 切れるってどーゆーこと??? ということになる。

自分と繋がってない? 自分を生きてない?

「自分」を生きてないから繋がりを忘れてる。というお説があったとしても、覚えてる忘れてるというところに執着する必要ないよね? 生まれてからこの方忘れてることって山ほどあるのに、なぜそこだけ覚えていないことを「劣性だ」と刷り込み(売り込み)ますか? だって覚えていようが忘れていようが「そう(高次)」なんだから。

いや、それよりも、生きている奇跡みたいなことを忘れていることの方が悩みを生みませんかね?

という視点も持てるかもしれない。

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 

なんか すみません

もうね、書きながら、スピリチュアル界大好きな方にはホント腹立たしいことを書いているのかもしれないし、書き方も可愛げがないことが腹が立つのかも知れないと想像しています。

 

私も不思議系なこととか全否定してないんですが、私の脳内なりの整合性というか、なんというか、自分なりに考えちゃったりするんです。というあくまでも個人的なことを書いています。

 

そう、私はこういったことを内部対話しております。内部対話しようと思うと視点は2つ以上必要なんですよ。こんなことを内部対話(自己対話)したからって社会的になんの得にもならないし、自己研究しても自己満足でしかないんですが、習性なんですよね。

その昔ホームページのコラムに書いたような

今他人が目の前で話していたことを聞いて「ひらめいた」と脳内変換する(自分がひらめいたと信じこめる)ような脳のタイプとはやっぱり異なって、そういう意味では(ある一面では)もう少し「自分」「自己(と感じる脳の特性)」があるのかもしれない。

良いも悪いもなく、それぞれの脳の特性だし、私もいろんな情報で私の脳内が構成されている。

考えていることもあるけれど、そのモノを考える土台には誕生してから後の他者からの情報がないことには言葉すらも発せないわけです。

Cheryl HoltによるPixabayからの画像

自分を大切にする

そうですね、私は「自己」と感じるナニカを大切にしたいと思い続けてきたのかもしれない。

自分を大切にする。という言葉にはいろんな要素が含まれているんだろうけど、自分で考えることや自分の言葉にしていくこと(別にブログやコラムを書かなくても、対話でも)、ひらめくこともまぁあるんですが、それは自分で考えて、考えて、自己対話して、他者とコミュニケーションして、静かに脳内を見て、聴いて、というような習慣を大切にすることもそれに含みたい。

John HainによるPixabayからの画像

 

情報や感性、感情を刺激されたものの表層をササっとMIXすることも必要ならするけど、それをヒラメキだと変換したり、自分の考えだと信じるのは、なんだか大切なものを軽んじてしまう気がしてしまう。という好みが私にはあるという自覚があります。というより、そういうことが気になってしまう脳の傾向があるというだけなので、読んでくださっている方はお好きにしていただいたら良いだけです。

本当に人間の脳の働き方は面白いですね。感じ方も千差万別です。

 

タイトルに「カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い」というのは、こういった意味です。脳の特性って100人いたら100通りあるんだろうと思うんです。

私は脳科学を突き詰めたいわけではないのですが、いろんな特性があるな~ということを前提にしておくと う~~ん、腹が立たないというか、相手を従えたいとか、自分流儀に正したいという欲求が少なく済むような気がして、自分が楽かな?と思う機会が増えた。

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

 

過去記事を読んで(う~~~む)と思うとき

私は過去、やはり(それってどうなの?)という否定的なニュアンスで文章を書いたこともある。これからもあるかもしれない。実際今のこの記事にそんなニュアンスを受け取る方も居るでしょう。

 

が、私も変化していて、過去否定的なニュアンスで書いてしまった記事を(今読み返すと、あの書き方は良くなかった)と思うこともあるんです。考え方が変わっていることもある。当時その記事を書いたことでそののち今現在の考え方に変わったこともある。

ですが、当時の記事はそのままにしています。

記事をアップしている日付などに注目したら私個人の変遷もわかるから。

 

” 私も変化していて、過去否定的なニュアンスで書いてしまった記事を(今読み返すと、あの書き方は良くなかった)と思うこともあるんです。 ”

ということを今日現在は恥や失敗としないでそのまま残していますが、この先(記事を抹消することがベストだ。)と思うようなことがあれば消すこともあるかもしれないし、訂正、修正することが良いと思えばそうします。

 

最後に本題とはズレるけどちょっと書く

私は書きたい内容のメタファーのように下のイラストをよく使う。ハーメルンの笛吹き(男)と文字で例えることも多い。

 

WikiImagesによるPixabayからの画像

 

ヒトに影響を与えたい方は、ご本人自身もこんな構成(魅了されてついて行く側)になっていることが少ないないのかもしれない。

そこもやっぱりフラクタルって感じで。

 

ご本人はカリスマみたいになっちゃう(カリスマになりたい方もいるし、自分がカリスマだと思っている方もいるんだろうけど)ことも多いんだけど、やっぱりイラストの笛を吹く存在に付いていっており(他者から影響を受けやすくて)、自己が割と薄いことも珍しくないといういうか。

磁場は幾つもあるらしい 2

 

良いとか悪いとかじゃないし、需要と供給ということでもある。

 

そんなことを書くアンタはどうなの?と言われても、私も何一つ証明する術をもっておりませんが。

 

そう、

”人間皆高次” ニンゲンミナコウジ

ではあっても、こういったイラストのフラクタル形は形成されるわけです。

 

ナゼ???

 

問いかけ

これを読んでくださっているアナタは、その理由を考えたことはありますか?

 

私は今考えている最中です。1つの仮説はメモ済みですが、もっと考えてみます。

シェアするのがお好きな方はアナタの考えたことを教えてください。

Facebookファンページでこのブログをシェアしますので、Facebookファンページのコメント欄をあなたのお考えを発表する場、シェアする場として頂くことができます。

 

しかしですね、わたくしカリスマとは程遠く個人的に細々とコラムやブログを書いており、見事にFacebook(ファンページ含む)も静かな感じです。

根っから好かれる方や、カリスマ炸裂してる方はやんやと書き込みや いいね! があって盛り上がっておられますが、ウチはもう真逆。そんな静かなところに書き込むのは恥ずかしい!という方もいるでしょうし、そもそも(なんでアナタに考えたことを教えんとあかんの?)と思う方もいるでしょうから絶対に絶対に無理しないでOKです(笑)

 

私も無理しません。

今のところ病み上がりなんで。

 

そこのところヨロシク。今日はここまで。

高次ってそーゆーこと?

沖縄の台風6号(名前:カーヌン(Khanun))の影響で停電し、それに伴いネットも使えませんでした。モバイル通信でもネットが使えなかった。

その間の台風体験記も書くつもりですが、その前から下書きに入っていたこちらの記事を先に仕上げます。

本日は高次について

高次って、そんなりすんなり常識に入ってきます?

高次、高次とスピリチュアル界?で使われる言葉がある。

 

私はこれまで、(それって何かな?)と思いながら話を見聞きしていた。

わからなくてもなんとかなってきたし、高次ってナニ?とネットの民に質問したこともない。検索はもちろん。

 

いつものお得意なニュアンス理解風味のまま今に至った。

 

突き詰めたところでねぇ・・・と少し冷めてたし、ネットの中の答えも、誰かがそれっぽく創作した話が多そうね。と相変わらずひねくれ気味だった。

「高次」ビジネス

私は高次についても、(それは高次ビジネスですか?)と感じてしまうことがあり、そんな自分がひねくれてるとも思うことがあるし、冷静に世界を見ているとも思うこともある。

しかし、それはビジネスですね?と思うような高次案件であっても、需要があるから供給もなりたつわけだから良いも悪いもない。人間が「高次」という言葉や思想、ビジネスであったとしてもその取扱い方について魅せられる傾向がある。はるか昔から。

最近では、(それによって安心したいんだよね)と寄り添うことが増えた。

 

「魅せられる」「心が持ってかれる」というようなことを自分が過去、ホームページのコラムでは「酔っぱらう」と表現したことがある。

魅せられるのも、心が持っていかれるのもそれぞれに理由や原因があるんだろうけど、(安心を得たいんだよね)と思うと、ちょっと物悲しく感じる時もある。

別に私が物悲しく思う必要なんてないんだけど、(世の中っていろいろあるよね。)ってちょっと思う。

 

ありがたいことに、基本楽しく幸せに過ごしており、しばらく遠ざかっていた読書をしたら1つの視点から解説があった。

スティーブン・キング先生の物語の中で

スティーブン・キングの「アウトサイダー」という小説を読んでいたら、

高次=宇宙

と解説されていた。

 

 

”大宇宙こそ偉大な「高次の世界」よ。そして、現世という「低次の世界」にあっても、一握りの砂には砂粒の数を超える宇宙が存在していると信じている。”-書籍「アウトサイダー」より抜粋

 

 

私もほぼ同じようなことを感じたし、この小説の中の人物も似たような感性のようです。

 

磁場は幾つもあるらしい 2

 

そして、私が散々書いてきたことをコレに当てはめると、人間みな高次の存在である。

 

人間みな高次の存在と書く理由

なんかもう、世の中にはそれらしい理屈や、妙な(と私が感じる)ルールをわんさかと創ってデコレーションされた解説があるけれども、当人が感じようが感じまいが私たちの細胞の1つ1つが宇宙、細胞の1つ1つに宇宙があるという東洋思想にのっとるならば。という仮定というか、前提とした場合ではあるんですが。

 

 

多分、よく聞くパターンは、「外」に高次というものを設定しているようだったけど

灯台下暗し、それは個々にすでにある。

同居済みである。生まれた瞬間から今までずっと。

 

なんという素敵な話だろうか。

これらを尊びたい皆様は、もうそれを探す必要も、ナニカと繋がりたいと色んなオプションみたいなことをしなくて良いんだから。

 

コレをすんなり受け止めることができると、シンプル化が一気に進むし。

 

そう、松原先生がFacebookでシェアされていた「太極図は立体球」という記事のリンクをはりましたが、こちらの最後に書かれている東洋思想にのっとるならば、やはり細胞は宇宙。

https://sinsindoo.com/archives/ball.html?fbclid=IwAR1aakTPdMh1RMYrrIzIGQsf4pG8zEloiYj3AMWChrocwx8S92FfBISSWj

 

私たちが生を受けた瞬間から宇宙を内包というか、根本が宇宙ということになり、「高次」を求めたり、つながりを求めてあくせくする必要など一切ない。

 

自分探しと一緒。

 

自分探し

私も自分探しという考えにハマったことがあります。それをやった経験から書くならば、探し始めると見えなくなるという不思議な関係性があるように思う。

それは、自分探しと言いながら、理想通りの自分じゃないことは気に入らない、認めたくないという固い決意が心の奥底にあるという心理的矛盾や心理的逆転が影響していることがあるような気がする。

 

これは受け入れがたい方もいるかもしれませんが、今のあなたが本当のあなた。

過去のあなたも本当のあなた。

未来のあなたも本当のあなた。

人は変わるし、多面的なので、多くの特徴を持っている。

 

こんなのは本当の私じゃない!と思うのならいつでも変われる。

 

高次もそう、自分もそう、探したり求めたりすると見えなくなる。それらは「もう在る」「もう有る」という視点もあるということを頭の片隅に入れておくのもあながち悪くない考えだと思っています。

 

blogを書くネタはたくさんあるので、順に書いていきます。

今日はここまで。

 

おそまつ。

だから それがナニカ? と言われましても

昨日の記事に補足します。

磁場は幾つもあるらしい 2

 

それがナニ?と言われましても

「泡宇宙」再び

前回、細胞全てに宇宙があるような気がした。という話をお友達にしたと書きました。

記事を書いた後、ふと、またフラクタル、相似について気がついた(ような気がする)。

 

それは、泡宇宙と、細胞毎の宇宙の相似です。

TomによるPixabayからの画像

 

こういうことを感じたからと言って、それがどうなるのかもわからないし、そもそも合っているとか間違っているとかもわからない。

しかし、誰もこんなこと言ってない。少なくとも私は聞いたことが無い。

 

がしかし、細胞って泡みたいに重なってるよな~って思った。

 

ヒトは変わる

こういった気づきなのか?気のせいなのか?こじつけなのか? なんともハッキリ書けない内容も、今、生命があると感じている私個人の感覚でしかありませんし、特に他に転用したり流用したりすることでもないのかも知れない。できるのかも知れない。なにもわかりません。

 

私の感性は色々な変容を遂げているような気持になりますが、人生を送っている現実は同じ。

ナニカを知って、ナニカがわかって、人生から脱するような、ゲームで言われる「あがり」は無いと思ってる。

 

間違えた。

私個人は、人生から脱するような、ゲームで言われる「あがり」が無くても全然構わない。

ハナから期待してない。

楽にはなりたいと思ってきたけど、別に人生から脱したいわけじゃない。

いやいや、私は貝になりたいと強烈に願った時があったのを思い出した。www

 

私も色々揺れて、今はそういうことを思わないだけであった。(なんでも忘れちゃうもんですね。)

命の灯が消えたら強制的に今回終わるし。

 

シンプルをおすすめ

バランス調整方法っていろいろありますよね。

それそれの個性や感性にあうものが有ると思いますが、個人的にはシンプル化をお薦めしています。

 

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

こちらにも既に書いていますが、「願いを入れるよりもストレスを抜く」というような引き算方法がシンプル化に近いんじゃないかと今の私は感じている。

 

以前は違ったけれど、いろいろ揺れて、試してみて、現在は「願いを入れるよりもストレスを抜く」というアプローチが結果多くなった。足すより引く。

もちろん相談者さんの相談内容にもよりますが。

 

願いを入れるのは割と簡単かもしれないけれど、ストレスを抜くとなると人間に興味を持っている方の方がカウンセラー、セラピスト、ケアする側として適しているような気もする。しかし、そういうモノサシを私が決める必要なんてない。

組み合わせは無限大だから。

 

キネシオロジーテストについて、ルールを沢山作る方や、カリスマになろうとする方は多いけど、私がお会いしたことのないジョン・シー氏は生前

「腕押しができたら皆キネシオロジストだ」とおっしゃっていたという逸話を聞いたことがある。

 

習った側があとからあとから山ほどルールを創って、キネシオロジストとはこうあるべき。と複雑さを優秀さと何故か変換して厳しく厳しくしていく、習った側が習った側を「認めない」ということもあるようですが、これも揺れの最中の一つの段階なのだろうと思うようになった。

それに、こういった事自体が人間の特性であるという事実を見たら良い。感情はいろんな反応をするかもしれないが、もちろん感情があるのが人間だし。

反応し合って人間社会が成り立っている。

TomによるPixabayからの画像

 

これこそ、泡泡がくっ付いているこの画像のように、人間社会も泡宇宙のごとくだと思えてきた。

これも相似なのだろうか?

 

とまぁ、わかったようなことを書いている私も、いろいろ揺れた結果の「シンプル推奨」なので。

そして、ジョン・シー氏のおっしゃっていることもシンプルだった。多分内容もシンプルだったのだろうと(勝手に)思っている。そして私は、そのシンプルな内容を非常に好んでいます。

 

それがアイテムを使わないストレスケアを好む理由です。

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

 

 

今回の内容を「磁場が幾つもあるらしい」というブログの補足とします。

 

 

また次回、違う内容でお目にかかります。

磁場は幾つもあるらしい 2

本日はこちらの続きです。

磁場は幾つもあるらしい

私がストレスを感じる出来事に「パソコンの動きが遅い」というものが有ります。動きの遅いPCを使うという事はある種我慢を強いられる。残念な事に私のMyPCが前はあんなにサクサク動いていたのに今では旧時代のPC感がすごいです。買い替え検討の1位はマイカーでしたが、PCも同列1位です。随分前に検討していた、PC作業をipadに移行してみようかな。試しに。

 

磁場は幾つもあるらしい

という説

磁場は幾つもある。という説を聞いた。どういうことかと言いますと、脳の磁場と心臓の磁場は違うというようなお話だった。

それぞれに核(?)のようなものが有るから、超簡単に書くと、身体には2大磁場があるというようなイメージなのかな。

別の説

先程の話も、この話も、「説」なのか実際に証明済みなのか不明ですが、以前もブログやホームページのコラムに書いたように、感情にも磁場がある(らしい)。

そして、人間関係、環境も磁場が影響する。

 

磁場だらけである。

その中で、何からも影響を受けずに確固たる「個」を貫く事があるのか?ないのか?出来るのか?できないのか?となると、やはり私たちは揺れているなぁと思った方が辻褄が合いやすいような気がしている。

揺れている、動いていると感じるものは他にもある

髄液

前回、私が施術を行っている最中に「揺れ」(振動という細かいもの)を感じると書きましたが、それは自分の拍動、または施術を受けている方の拍動ではないのか?と思う方もいるかもしれないな~と思ったので、もう少し書いてみます。

そんなこと誰も思っていないかもしれないけど書く。

 

拍動とはまったく振動のリズムも細かさも違うんです。そうだなぁ・・静電気ってどんな感じ?ということを知らないけど、静電気っぽいと書きたくなりました。バチっとくるアレじゃなくて、本当の「静かな電気」って感じ。

 

私が最初にキネシオロジーを学んだ本間先生はLA近辺でナンバーワンの評価を受けているカイロプラクティックのDr.で、とにかく治療する件数が多い。早朝からずっと予約でいっぱい。LA近辺の日本人だけが来院されるのではなくて、人種関係なくそれこそ人間の身体に触れて診てらっしゃる。

10年以上前に本間先生から頭部の回復点に触れてバランス調整をするというスキルを習った時に、「波がある」「拍動とは違うリズム」「ドーン、ドーンという感じ」と解説されたのを今でも鮮明に覚えています。

脳と脊髄が硬膜という袋の中に入っていて、髄液で満たされている。当時は、この髄液の動きを感じているのだろうと勝手にイメージしました。(先生がはっきりとそう解説をしてくださったのかもしれませんが、そこは忘れている。)しかし、本間先生が人間に触れて何を感じられるのか?を当時の(今も)私がそのまんま想像できているとも思えない。髄液以外のナニカを感じていても全然不思議じゃない。

 

そもそも論

そう、私達の心体はいろんなリズムで揺れまくっている。(生きている間は)

 

本当に生きているって奇跡だと思うし、壮大なシステムが働いている。

 

その奇跡と壮大さを忘れたり、気づけなかったりすると、まことしやかな情報や常識というレッテル、比較をしてあれやこれやで悩む。苦しむ。喜ぶ。

私も散々やったし、これからもやるだろう。

そして、それも人生。それが人間。

 

しかし、今回書いているような視点に立つとこれらを「素晴らしい不確実性」とも呼びたい。「人生はギャンブルだ」と人類で最初に言ったのか誰か知らないが、きっとその方はナニカを見通した一瞬があったんじゃないかな。

 

また、「この世は幻」という名言の作者もこの「不確実性」というようなニュアンスを肌で感じたか、視覚で捉えたか、なにかあってもおかしくない。

 

安心したい、安定したい、と望むけれど、そもそもが揺れているし、不確実性の上に成り立っている。と思うと、狭い意味の柔軟性ではなくて、そもそもの意識の持ち方や生き方の設定が180度変わった時に「楽になれる」というケースもあるような気がする。

法則も変わる

前回の記事で、苦労の前払いシステムは全人類に適応されるのか?ということを書いたけれど、そう言えば故・水木しげる氏は「努力は自分を裏切る」ということをおっしゃっていた。「努力は叶う」という金言を肯定されてはいなかった。それは漫画家界で志半ばで去っていく多く(ほとんど)の方を実際に見たからだそうです。(これについても過去数回ブログに書いています)

 

そして、いろいろな法則や教えのようなものを発表されていた故・小林正観さんも他界される前に「私が言っていたことは違っていた」とおっしゃったという情報をどこかで目にした。世の中を牽引したカリスマでしたが。具体的にどの部分を指して「違っていた」とおっしゃったのかまではわかりませんが、私個人は、生前氏の主張されていた「法則」というものに非常に違和感や ??? という考えになったことがあったので、過去、世の中(あるいはスピリチュアル界)を牽引した方々が前言を撤回されても全然ショックは受けない。

カリスマだって揺れるという事ですよね。

長い年月という時間単位の揺れ。その長い年月の揺れを生む「今この瞬間の揺れ」と、その連続によって。

環境が変わって視点が変わるってこともある。過去に3大カリスマについて書いたことがありましたが、その時に既に4大カリスマと書いても良かった。

思考と想念と感覚と実際

 

それを、カリスマたちの間違いとレッテルを貼ることも出来るけれど、ただ単に「揺れ」とすることも出来る。私は個人的に「揺れ」と捉えることにしている。

人生にはいろんな時期があって、いろんなことを信じている時期があって、いろんなことを否定している時期があって、というように。

 

軸足

前回も書いたし、度々書きますが、揺れているのがデフォルトとしても「軸足」みたいなことまで揺れているよりは、大まかにザックリと、ぼんやりと自分の人生の過ごし方をうイメージしていると良いんじゃないか?などと思ったりしている。それは、私個人的には目標設定とは違う。その意味合いは、人生=目標達成というわけじゃないから。

 

しかし、ここがどうやら難しいらしい。

それは「条件」と「自分の軸足」がこちゃまぜになってしまうからのようだ。

ごちゃ混ぜにしてしまう多くのシチュエーションのうちの1つに、「法則」というものも一役買っているケースがあるよね? どう? そういう法則って、唱えている方のハロー効果まで含まれていたりするから厄介をこじらすことがあったりして、こんがらがった紐が益々こんがらがったりして。

 

どうであれ揺れているんだろうけど、そのアレモコレモの揺れ具合が美しい旋律を奏でている時ってあると思うんですよ。今日現在の私の勝手なイメージでは、その美しい旋律を奏でる土台として、その旋律を時々妨害してしまう世の中やそれぞれの脳内の「条件」「条件付け」がなるべく少ない「シンプルな自分」という状態が良いような気がする。

 

時として「愛」という言葉も、シンプルな自分から湧き出る愛ではなくて、なにかしらの条件(や条件付け)として使われているケースもあるような気がする。

 

こういったことも、長い年月かけて揺れて揺れて揺れて、わかってくる場合もあるし、わからない場合もあるだろうけど、それも個々の人生の「軸足」にかかってくるのかもしれない。

私自身もこの先のことは不確実でしかないけれど、今日現在は生きていて嬉しいし、生まれてきて幸せ。

ようやく「お友達との会話」について書きます

腰を抜かすほどではないが、ここからが本題で今までは助走であったことに驚く方がいるだろうか? 毎度すみません。

 

これも科学?

歪んでいるのは次元? 空間?

上のブログで「お腹の宇宙」について書きました。

 

そしてそれが「泡宇宙」にひょっとして繋がった(発想が。という意味)??? となりました。

こんな話をアレグリアの開場を待っていた時にお友達に話をしていたんですが、実はお友達に会う前にブログに書いた感覚に加わったイメージがあったのでそれも話したんですよ、お友達の彼女に。

 

いやもう、こんなこと書いたら、益々(ヤバイ! このヒト いっちゃんてんな~)と思われるであろうことを覚悟して書きますが、言い訳としては ただの脳内に沸いたイメージなんで そこんとこヨロシク です。

 

細胞の1つ1つに銀河がある

私の場合はお腹にも脳内にも、他にも宇宙というか銀河みたいなものがイメージできるのですが、(ということはどこにでもあるってことだな~)って思ったら、ふと

あ! 細胞1つ1つにも宇宙ってあるじゃん

と思ったんだよね。 という話をしたんです。(2大磁場とはまた毛色の違う話になってますが。)

 

そう、これが当初の「今回のブログの結論は、お友達と会話したことです」という結論のはずでした。

 

が、今回の文章をここまで書いてきて、またまた ふと 思ったんです。

 

細胞の1つ1つに宇宙があって、それで構成されている人体は確かに「あってないようなモノ」なんだなって。

あらまぁ トンデモナイことに気がついちゃった。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

 

これまで、言葉では色んな表現で聞いてきたようなトンデモナイことが、自分の感覚と独自のルートでなんだか理解できるような気がしちゃった。

 

あらまぁ

 

私はとりたてて興味がないのですが、「真理」を知りたい方々はこういったことが興味の対象なのかしら? もっと他の何かなのかしら?

真理を知ったら(触れたら)世界が変わる(変わって見える)と信じて追及されたりするのかしら?

 

私が体験(と書いて良いのかわかりませんが)した限りでは、特に生活は変わらないっす。ザ・人間のままですし。ザ・人間で良いですし。

知識欲というか、研究者欲としては1つの新しい感覚体験として有り難いですし、この僥倖に感謝してもしきれませんが、今まで通り ザ・人間です。

 

私はそれで良い。今幸せ。

みんな一緒

これは以前も書いたように皆一緒というか、誰でもある。単なる、気がつくか?気がつかないか?の違いだけなはずですが、カリスマでもないから有難みは特にありませんが、こんな風に文章に起こしてシェアするという一個人としてできることをしています。

 

この記事を書きあげた今日は、天気が良く、湿度も低めで風が爽やかで、とっても心地よくて気分が良い。生きていて嬉しい。

真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をする前も生きていて嬉しかった。真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をした(?)今も生まれてきた喜びは変わらない。

ただ、ありがたいです。

 

みなさまにも、喜びがありますように(^^)

自然に笑顔になってしまうような出会いがありますように(^^)

磁場は幾つもあるらしい

同じタイトルで結構な量を書いた下書きが他にあるのですが、どうも横道のそれ具合がよろしく無くて、まとまらなくなりました。折角書いたけど、まとまらない文章を眺めていると筆がますます乗らないので新しく書き直します。

 

先日上京し、シルクドソレイユの「アレグリア」を鑑賞し、自分のメンテナンス目的に治療、施術を受けていますが、お友達と食事をとったり、お茶したり、待ち時間を利用してユンタクした際に話したこと。二人の会話の一部が本日の結論になります。

しばしお付き合い下さい。

 

磁場は幾つもあるらしい

磁場の捉え方

波動ではなくて、「揺れ」と言いたい感覚について

言葉は1つでもそれに紐づいている印象やイメージは個々により多岐にわたります。

波動という言葉がしっくりくる方もいるし、私のように波動という言葉がどうもしっくりこないタイプもおりますが、とどのつまり、言いたい事や捉え方はほぼほぼ似ていたりすることもある。

本当に言葉って難しい。面白いけど難しい。

私も以前、

” 感情も細胞も、私達人間はいろいろ揺れている ”

と書きました。

この揺れているモノの中には、来るべき未来というようなことも含まれているし、過ぎたる過去なども含まれている。生きているとは揺れているような意味合いがあると書いたことがありますが、これは =(イコール)「波動」では無いんですね。私の中では。

施術中に「揺れ」「振動」を感じるから

1つは、施術中に(この揺れは相談者の細胞が揺れているのか? 私の細胞の揺れなのか? 電気信号を揺れと感じているのか? それとも全く違うナニカなのか?)と思う感覚があって、実際に「人間は揺れている」(理由は特定しないけど)と思っている私がいる。

昔のブログでもご紹介しましたが、施術を受けておられる最中のご本人も「細胞の揺れ」と感じる方もいらっしゃった。

体感覚とは別の「揺れ」

またこれとは別に私が意味したいところは、生命に伴っている「不確実性」というようなニュアンスなんですよ。

揺れている = それは波でしょ? 波動でしょ?  という事では無くて。

揺れている ということをすぐさま「波」とは脳内変換するつもりがない。というニュアンスです。

 

そしてあくまでも個人的な好みとして、「波動」という表現をほぼ使わない。が、そこに電気信号が加わった「生体電気の反応(揺れ)」「磁場」というようなことは非常に私の感性や皮膚感覚にフィットするという個人のこだわりみたいなことってあるんですよね。

 

と、ここまで書いて、ふと気がついたのは、なぜ「電気」を帯びている状況を表す言葉がフィットするのか? 感性や皮膚感覚にフィットするのか? の1つの原因について。

私が「生きている」から?

ただの気のせい。とか、ただのこだわり。ということも十分理由になるし、原因だったりすることも踏まえたうえですが、この辺りの「感覚」「感じ方」というものの私なりの探求心に潜っていくと、その電気を帯びているとしっくりくるという理由のようなモノは、私が今生きているからかな?などと考えてみた。

生きているこの私が電気を帯びているから。

その私の感性には、同じようなものがエッセンスとして抽出されてくることもあるし、違和感をかんじるものとして抽出されてくることもあるというようなイメージです。

プラス、マイナス、中性があるように。(中性という言葉を使うのなら、電気ではなくてイオンと書くのが正しいのかどうかもあやふやです。(T_T) )

同じ波動のモノ(だけ)を引き寄せるというような論理展開とはこの辺りがちょっと異なるのかもしれません。引き寄せるというよりも、「感じる」「反応する」「反応しない」ということを主に置いていると書くと良いのかな?

・・・難しいですね。上手く書けませんので、今後の私の成長に期待しましょう。

 

とんでもない、ブラックボックス案件になりませんように

と、ここまで書いてきて、以前のブログに書いた「潜在意識界の常識 パンドラの箱オープン案件か?」というようなことも本日やらかしちゃうような予感がしてきた。

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

治療体験記 後日編-3 顕在意識について

 

気が小さいので最初にお詫び

私はこの文字を何百回書いただろうか? そして今日も書く。

私は世の中のいろいろな現象や常識や刷り込みについて、一人でコツコツと考えている癖がある。

そして私には私の過程があり、違うと思ってみたり、いや間違ってもいないんだな。と思ってみたりと、それこそ揺れながらなんとなく自分の落としどころに諸事を納めていっているような気もするし、納める必要などなかったと気がつくこともあったりと様々です。

 

これから書くことは、そんな私の思考の過程の話です。

結果では無いし、結果など出す気もそもそもない。

そうですね、「常識」だと思われていることの、「その枠の外」について可能性を考えるのが好きな人が書いている個人の意見ですから、そこのところ宜しくお願いいたします。

 

人間と機械の違い

当初、磁場に関するブログを書こうと思っていて、助走を書いていたら、いきなり曲がり角から想定外のものが登場した。

なぜ、私個人が「そもそも波動(という表現)に興味が無い。」と感じるのか? を改めて考えてみた。

好き嫌いはあっても、その理由は考えてなかったけれども、そう言えばなんで? と自分に問うてみた。

  1. 機械で測定&数値化に興味が無い
  2. 波動という言葉が、引き寄せもそうなんだけど、幸福になるための条件みたいに使われているように感じるから

1.数値化

「パワーか、フォースか」という書籍がある。キネシオロジーテストというスキルを知ったのちその存在を知り読んだ。今も手元にあると思うが、もう随分読んでない。手元に無くて処分してしまっていても不思議じゃない。

数値化とは、人間が理解しやすい有効な手段という事は知っている。それが使われて文明の利器は発達して、私の生活もお陰様で便利だし。

数値が良くなりました。ということが人間の回復を後押しする作用も知っているつもりだ。機械で数値化せずとも、キネシオロジーテストによって人間が数値を計るってことだって当たり前に行われている。

 

ただ、人生は数値だけじゃない。数値に支配されるものでも無い。数値の扱い方や適用部所にもいろんな意味があるよね?って思ったりすると、初めて「パワーか、フォースか」を読んだ時の心情と今現在の心情は少々違っている。

私自身も変化したせいで、感性も変化したみたい。

 

  • 機械で測定する数値って 結局ナニ?
  • いろんな電気状態の測定者がいるであろう、その測定者が計る数値って 結局ナニ?

みたいな、まぁ簡単に言うと、中二病と言われるような視点なのかもしれないですね。

 

ですから、あくまでも私の生きながら考えている「2023年6月19日現在」の過程の話なんですよ。

しかし、なんとなく、そもそもの設定説明や刷り込みの枠からヒョイっと出ると、こういった疑問はブラックボックス案件っぽいような気もするし、パンドラの箱案件のような気もする。

 

が、しかし、私も私の信じているような道があるように、皆様は皆様の信じている道をこれまで通りお進み頂きたい。

私は決して「考えを変えて!」と言いたいわけじゃなくて、自分がふと感じていることを呟きたいだけなんです。

 

キネシオロジーテストのON、OFFにだって同じような視点を持つこともできる。ということを頭の片隅に入れておくことも大切だと私個人は思っている。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

2.目的が変わっちゃって

間違った事は言ってないんだろうと思っていますが、引き寄せと波動の関係というか、含み方のようなものになにか違和感を感じるんだよな~ と自分の違和感を深堀してみた。

多分、幸せになるために修行思想。みたいなものと似たニュアンスを感じているんだろうな。

人生の過ごし方や、幸せの価値観はヒトそれぞれですから、修行がお好きならしたら良いんだけど(っていうか、わざわざ修行の現実を自ら創りださなくてもただ生きているだけで好むと好まざると修行みたいな出来事ってあるような気がします)、私が言いたいのは、「修行しないと幸せになれない」というような無意識の刷り込みのことです。

なかなか気がつけない「条件付け」ってありますよ。

 

苦労の前払いみたいな感覚? 前払いシステムは万人のどのような状況にも公平に適用されますか?

 

どんな生き方が正しいとか、良いとか、わかりませんが、「どう生きたいのか?」という軸足みたいなことが、修行という言葉や、波動といういような言葉で煙に巻かれてしまうようなことがないですか? ということが書きたいのですが、どうでしょうか?書けてますか?

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

結局、当初書こうとしていたことは次回以降へ

冒頭に書いた、まとまらなくなった下書きよりはなんとか形になったものの、書きたいことへ到達する前に今回は一旦〆ます。

 

友達との会話にあったという書く予定だった結論にも今回の記事は触れずに終わりました。

 

違う事ばかり書いていて、当初の予定の着地点を忘れてしまわないか心配になりますわ。w

 

ではまた次回 お目にかかります。