潜在意識と顕在意識は両輪の輪

東洋医学論や陰陽論を採用してるけど・・・

書かない方が良いのか? 「自分に素直」を選ぶのか?

結局「自分に素直」にした

グルっと回って陰陽論

↑ 上の記事を書いた後に、常日頃から私が(それってどうなの? なんかオカシクナイ?)と思うに至った理由がわかった。

なぜ私が(それって・・???)と引っかかってしまうのか? その理由が分かった。

 

潜在意識ってさ

真面目さが苦しい、真面目ゆえに生きづらい

それは ↑ の文章に

 

”潜在意識とか使い勝手のいい言葉に丸投げしちゃうんじゃなくて、自分の思考する脳を使う事を勧めたい。”

 

と書いたことでよりクッキリした。

 

私はずっと潜在意識至上主義ってどうなんだろう? 潜在意識と顕在意識は両輪の輪だと思えて仕方ないんだけど。と文章にも散々書いてきたし、キネシオロジーの体験講座などを開催していた頃にも講座の中で何度もお伝えしてきました。

 

これらは、体感的、感覚的から「だってそうだよね」という確信みたいなものがあったんですが、加えて、潜在意識至上主義の論調というか主義主張を伺ったときの何とも言えない偏った感じからも(なんだか変だな)みたいなしっくりこない感じがしていた。

例の一見そのような感じがする、一見良さそうという類のものとの共通性だ。

 

確かに私も、「潜在意識」云々という言葉を知った当時は、素直に(へぇーーーそうなんだ!)と学ぶ意識で捉えていて、(そういうもんなんだ)と自分に落とし込んだ。がしかし、年月が経ち(それってホント?)と自分の体感として違和感を感じてきた。

 

牛は反芻して消化という過程を進めていくが、私の場合は(潜在意識が全て、潜在意識が全て?・・・)と反芻しているうちに、ナンダカシックリコナイとリバースして口から出てしまったような感じか?

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似たような事ってありますよ。先生や大人からずっと「これが正解」と教えられていたことが色んな意味で「全然違うじゃん」ってこと。こんな感じに、経年の変化として「潜在意識」の解説の仕方や教える側が「こうだ!」と教えていることについて「私はそう言う一面があるとは思うが、全てがそうだとは全然そんな風には思わない」みたいな変化が起きてきたというだけの個人的な話なのですが。

 

潜在意識ですべて解決みたいな話を見聞き(読んだり)するたびに バランスが悪い?ような感じがするし、それってホント? と感じるから、ますます「潜在意識と顕在意識は両輪の輪」みたいな考え方を選択してきたんですよね。

 

潜在意識至上主義の方が一点の曇りもなく信じておられる様に、私は私で「潜在意識と顕在意識は両輪の輪」の方が落ち着くわ~と思って居る。

 

正解も不正解もないだろう。

信じたい物を信じるわけだから。

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だけど、もし東洋医学論を採用しているのなら話は別

そう、だけど、もし東洋医学論を採用しているのなら話は別じゃないか?ということを、別に書かなくてもいいのに書く事にした。

理由は、一応「潜在意識と顕在意識は両輪の輪」だと私が考える根拠の1つの説明になりそうだから。

 

東洋医学論や陰陽論を基本・ベースにした思考体型に基づいている(セッション)のなら、

一応現代では、顕在意識と潜在意識は陰と陽にジャンル分けされている。そして、陰陽のバランスについて「整えよう」というメソッドならば、潜在意識至上主義は非常にバランスが悪いことになる。

陰陽のバランスではなくて、潜在意識という片方だけを重視して、尊重しているわけだから。

 

東洋医学論や陰陽論を基本・ベースにした思考体型に基づいて施術やカウンセリングやセッションを行っているのなら、なにかしらの顕在意識に対してのバランス調整も含まれているのが理想なのかもしれない。

 

そしてもう1つ本当に生意気だし、余計な事を書くと、「潜在意識は本当のあなたで、潜在意識の反応が〇〇だということは、あなたは自分に嘘をついています」というアプローチは陰陽論的には非常に偏っていると私には感じるし、それはナニについてバランス調整しているのだろうか?と「バランス調整」を知り、行うようになったあと、割と早めに基本に立ち戻ってしまった。

 

多分、0 or 100(ゼロかヒャクか)思想だと、ONは100でOKとかYES、OFFは0でNGとかNOとかみたいになっていた方が理解しやすくて便利なんだろうか?とも推測するけれども、それだと、テクニック重視で、人間そのものには無関心みたくなってきやしないだろうか?

 

機械、マシーンの調子を診ているわけじゃないんだからさ。

0や100以外にもいろんな状態があるよね。0と100は、1つずつだけど、その間には99もの「状態」があるわけだから。

 

いや、人間には様々なタイプと好みと特徴があるから、本当の意味で人間には無関心でテクニック重視の方が居ても良いし、潜在意識至上主義でもそれぞれの人生なので全く構わない。潜在意識至上主義が好きな方は好き同士集まるだろうし(当たり前だ)、それとはちょっと違うんだよね~と思えば自分の思うような道を選ぶだけだから。

 

潜在意識至上主義のセッションなどがお好みなら、それらを提供されている場所やヒトの門をたたくだろうし、「潜在意識と顕在意識は両輪の輪」という考えがお好みなら選択する場所やヒトはかわるだろうし、顕在意識だけをフルに使ってストレスケアをしたいという方だって私は応援したい。

 

結果、本人が満足して幸せならいいんだし。

そう、私は私で「潜在意識と顕在意識は両輪の輪」の方が落ち着くわ~と思って居て今日現在は満足しているし、しっくりきている。

じゃあ顕在意識ってなんだ?

冒頭に紹介している陰陽論のなかにも、パラレルワールドという言葉を書きましたが、

↓ こちらの記事にはもっと書いている。

補足】「共鳴」と「時間」

 

私が書いたような意味でのパラレルワールド的陰陽論でしたら

顕在意識 ⊂(含む) 潜在意識

潜在意識 ⊂(含む) 顕在意識

という事になるんだと思う。

 

だからこそ、顕在意識を使って自己認知をすることも非常に非常に大切になってくる。

私は「マインドフルネス」を勘違いしており、それを「ストレスケア」と呼んでいた

FacebookでCBSキネシオロジーの川村修一先生がこの顕在意識を使って自己認知をすることが「マインドフルネス」だと投稿されていました。「自分の中に何があるのか、何が起こっているのか気づきましょう」と解説されていました。

ということは、マインドフルネスは顕在意識領域を育てるという意味合いがあるんですよね。

私などはブログやコラムにそもそもこれまでにマインドフルネスという言葉を書いた覚えがほぼないが、それほどこの「マインドフルネス」に無関心過ぎた。私は「マインドフルネス」が瞑想とセットになっているもんだと勘違いしていたものだから、(私瞑想しないし)と無関心に拍車がかかってしまっていた。

しかし、投稿を拝見していて、私の場合は「マインドフルネス」と書かずに、これらを「ストレスケア」と表現していると気がついた。

 

瞑想っぽいことをして厄介な事になったりするのは、おそらく潜在意識至上主義の思想がお好きな方では無いかと推測したりしますが、そういったことに傾倒する理由を自己認知されても良いと思う。

瞑想で自己認知。ではなくて、瞑想である種のスピリチュアル体験や能力を手に入れたい。や、瞑想でウエ(上ってどこ?)と繋がる。とかがマインドフルネスじゃないんだということでした。

 

紛らわしいから、もう皆、瞑想という言葉を一度忘れて、「ストレスケアからスタートするんだよ。」ということが常識になればいいのに。とこれまた偏ったことが頭によぎったりする。(笑)

 

ちょっと例を挙げてみた

例)真理をしりたいから ← 真理以外にも私たちが知らないことは世の中に山ほどあるのに、それを知ろうしない理由は? なぜ「真理」という思想にのみそれほど関心を持つのか?

 

例)覚醒したいから ← 覚醒したら何をどうしたいの? どうなると想定していますか? 何を得られるつもりでいるのか?

 

例)心穏やかになりたいから ← 瞑想や潜在意識頼り以外に、他にも手っ取り早く出来ることにトライしてみませんか? 身体を動かしてみるストレスケアとか。

 

例)潜在意識を書き換えて思い通りの人生をおくりたいから ← 潜在意識を書き換えるための準備は顕在意識で行うのでは? プランニングとかいろいろ。その顕在意識が「嘘」だという設定では、書き換えられる潜在意識は「嘘なの?ホントなの?」

 

例)引き寄せたいから ← 楽で簡単だったらそりゃそうですよね。その引き寄せを妨害している自分の潜在意識と格闘するために想定している期限はいつまでですか? 一生? そのまえに実際に行動したら余程早く叶う部類の出来事って多いような気がします。

 

こういった左に挙げた例のその後ろにあるのも「本当の自分」の一部だと思いますよ。

本当の自分を知るために潜在意識に丸投げではなくて、自分がそれらを欲する理由や根拠に注意を払って、聞こえの良い言葉で自分を煙に巻かない、誰かに煙に巻かれないことって大切ですけれどね。

 

書き間違えました。

大切だと私個人は考えて、実際にそうするように気を付けています。と書くべきでした。

 

私はFacebookでCBSキネシオロジーの川村修一先生の投稿を拝見して、(あれ? じゃあ私って子どもの頃からマインドフルネスやってたわけ?)とちょっと目からウロコが落ちましたわ。(笑)

 

だから、有り難い投稿に感謝しています。

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マインドフルネス = メタ認知 ?

そして、これもまたパラレルワールド的というか、∞(無限大)入れ子の箱方式みたいな話になりますが、川村修一先生が書かれていたマインドフルネスって、自分の中を観察するというような感じなのに、メタ認知と感覚が似ています。

 

まさにこれも、これぞ陰陽論!という感じがしましたわ。

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オモシロいね。

本当に人間って面白い。

 

John HainによるPixabayからの画像

まとめ

 

本当の答えを潜在意識が知っているんだと度々聞くし、いかにもそれが本当かのように聞こえるけれど、パラレルワールド的には、潜在意識の答えが正解ではなくて、潜在意識の反応と顕在意識の認知の両方が存在し(確かにそれっぽいですね)、両方が同時進行している。

 

正解も不正解も無いけれど、あえて「良さそうな事は?」と問えば、両者のバランスが取れている事ではないだろうか?と私個人は考えています。

 

もう少し書くと、潜在意識の反応が正解だという1つのルール・決め事だけが判断基準だというのはなんだか変だと私は感じていますよ~ というだけの個人的な考え方の記事でした。

 

おそまつ

 

勘違いナリ。お恥ずかしい(笑)

効率が悪いのに(笑)

勘違いして、自己満足の極みへ

私は脳をマルチタスクで使う事が得意。こんなことを過去に書いた。

そういうことをして居る自覚があるから書きました。

が、

こういった脳の使いは効率が悪いそうだ。(笑)

 

笑える。

 

調査もされていて、シングルタスク脳の方が効率や集中力が高いそうだ。

 

私の自覚のあるようなマルチタスクは世の中の一種の「悪い例」みたいなことだった。

こういうことを「いろいろ出来て(例)仕事をどんどんこなしてるぞ」とマルチタスク的なことをやっちゃう人が多いけど、それは効率が悪いんですよ~という言葉を耳で聞いたのですが、まさにその、多くを占めている「やっちゃう人」だったわけだ。

マルチタスクの悪い点は、実は効率が悪いのに、「いろいろ出来て(例)仕事をどんどんこなしてるぞ」という勘違いを起こすという点らしい。

 

まさに!

 

自分は集中しているという勘違いを起こすらしい。

 

なんと!

 

 

なんか、自分の脳の使い方の認知能力はそこそこ合っては居たんだけど、結果効率が悪いと証明されたわ。心中複雑というよりも笑えました。

 

最近の脳の変化も気にしなくて良かったかも

そう、最近脳の働き方がちょっと変わってきた。

老化による変化かもしれないが、前みたいにマルチタスク的にじゃんじゃん(例)仕事をこなしていける感が味わえなくて、(アレコレやってると効率悪いなぁ)と前には思わなかったことに気がつく事が多いのだ。

 

直ぐに(老化か)と頭によぎったし、(意地を張って変化に抵抗するのもねぇ)とお得意のアキラメみたいな心境になっていた。(無理してマルチタスクしてもなんせ効率が悪い訳だから、前は出来たとかっていってしがみついてもね)と得意な諦め風味に浸っていた。

 

子ども還り?

老化していくと子供に還っていく。という話もよく聞きますでしょ?

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多分、元々アスペルガー的や、自閉的やそんな脳の傾向を持っている自覚はあるんですが、それを社会経験・社会性みたいなもので薄めていく練習を人生の多くの時間をかけて行ってきたような気がするんですが、この辺りも子供に還るんだとしたら、シングルタスク脳に変化していっているのかも知れない。

Cheryl HoltによるPixabayからの画像

なぜこんなことを脳の変化?と思って居たのかというと

集中し過ぎなのか、特にはし過ぎているわけじゃないのかはわからいのですが、

前みたいに、見えない所までの気配を察知している感がない。いや、視界に入る範囲のことでも前みたいには見てない。

 

気を抜いているのかも知れないし、目の前のことに集中しているのかもしれないが、あんまり周りを見ていない感が増している。

 

  • 神経が張っていないと言えば、なんか自分には良いような気がする。
  • 眼科的に視野狭窄の話なのかもしれない。
  • 老化による何かしらの能力の鈍化なのかもしれない。
  • 今回私が感じたのは、その時行っていた作業に対する熟練度の低さによるものとも言える。余裕がないというような。

 

しかしそういえば、数年前講座に参加していた際に、「その役割は他の方(運営者)がするから、私は他のことは気にしなくてOK」と知らぬ間に決めていたようで、隣の方のことも他の受講生の皆さんのことも、もう全く意識から除外していたことがあった。隣にいるのに、な~~~~んにも見てなかったし、他の受講生さんが何をやっていても視界には入っていても見ていなかった。

 

もちろんこんなことはケースバイケースなんだけど、(確かにシングルタスクの方が集中力は高いもんだなぁ)と改めて認識したのが新鮮だった。

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自分の世界以外で気がつく事

私は人生の中で、割といろいろ新しいことにTRYする性質のような気がしていますが、いろんな体験が出来て楽しいですわ。自分のことも(へぇ~そうなんだ。)とか(この感覚は前には無かった)とか、今回みたいに(以前との違い? 今だけの感覚?)みたいなことも、脳の感覚や体の感覚や、社会の中で生きている感覚・体験も(へぇ~)って感じる。

慣れ切った、自分天下の世界では体験できないし、感じることができないことってある。

得意な事以外もいろいろやってみてわかることって多いです。

おもしろいです。

 

キツイこともあるし、自分の違和感やその反応にいろいろザワザワすることもありますから、

”楽しいっす。面白いっす。(笑)”

では収まらず(ヤバイ!)ってこともあるんですよ。あるんだけど、それも永遠には続かない(続けない)ことも体験的に理解しているつもりにはなっている。

 

昔は(こうじゃなきゃ!)と硬かった記憶があるけど、そういったのも以前に比べたらユルユルになってきましたよ。

 

 

いろいろ体験しながら歳をとってきて良かったな。って思う瞬間です。(^^)

 

Alisa DysonによるPixabayからの画像

 

グルっと回って陰陽論

バカほど単純

前書き(読み飛ばしても何の影響もありません)

車を運転している時に、多分、瞑想状態になるんだろうと思う。

運転しながら寝てませんよ。

頭が中が「無」みたくなる瞬間があって、その無のような時間が頭の中を整理しているみたい。

多分、もともと瞑想類が得意なんだろうと思うのはこういったこともその理由です。私が瞑想類はしないと書いたりするのは、何かを得ようとして瞑想をすると純度が下がる気がするので、そういう主旨ではしないという意味です。

勝手に瞑想しちゃってることは多いような気がする。

 

そして今回書く事に気がついた。

しかし、ひょっとしたら、過去にもあった気がしたような、どこかのどなたかが私の記事を読んで「それは〇〇だよ」って念を送ってくれた気もする。

ありがとうございました。

一つ利口になったような気がしています。

【結論】散々書いて、グルっと一周

ある日、車を運転していて

あっ!

と心の中で気がついた。

 

いろいろ書いてきた事が、結局のところ陰陽論だったことを。

 

この記事の一文が頭の中でサインを送っていた

肉体の記憶

 

”禅問答みたいな話にまたなるし、今の私は正解をしらないですが、1つのルールじゃなくて、幾つもの真逆なルールが両立すると仮定すると丸く収まるんですよ。(笑) パラレルワールドってそういうことでもあるんでしょ?”

 

自分で書いたこの文章が頭の中に居座り続けていた。

 

”1つのルールじゃなくて、幾つもの真逆なルールが両立すると仮定すると丸く収まるんですよ。”

という言葉を冷静に耳の中で聞いたら、

「当たり前じゃん」

と思った。

 

陰陽論ってそういうことでしょ?って。(笑)

 

結局、陰陽論

Peace,love,happinessによるPixabayからの画像

 

オシャレ陰陽図。

私は好きです。しかし、こういった物語風なものに視点を奪われると盲点も生まれやすくなります。

 

ということで、パラレルワールドって結局陰陽論だよねっていうことは、こちらの図の方がしっくりきます。

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

笑えた

同じところをグルグル回ってバターになりそうですわ。

その位グルグル回ってる。(笑)

 

しかし、過去最高、陰陽論を体感したような気がしている。

 

わかったつもりの集大成から、ほんの小さな欠片が「そうか、そういうことか」という棚に移った気がした。

真面目さが苦しい、真面目ゆえに生きづらい

真面目って悪いの?

こちらの過去ブログの続きを書きたかった。

じっくりPCに向かって文章を書く時間ができたので早速書きたい。

余計なお世話のエール

手を抜けば楽になる?

私は、手を抜けば楽になると知っていても、見てしまうともうなかなか知らないふりもしにくい。

嫌いな人でも、こと仕事となると困っていたら知らん顔も出来ない。

例えば、仕事場で意地悪されたり、虐めっぽいことをされても、仕返しをするということが難しい。

 

理由は、「こういった事は良くないことだ。」という自分のルールがあるから。

倫理観というものと似ているだろうか?

基本真面目なんだとは思うんですが、この真面目が自分を苦しめたりする。

 

勘違いされると困るのは、自分のルールがユルい方面のことだってある。それが以前は平気でも、歳を重ねるにつれ(経験も積んで)「やっぱり今後はやめる」と変化したことだってある。

 

きっと周りが迷惑するほどに過剰に手を抜くヒトや、自分さえよければ良いというヒトには、「真面目にやったら損だ」というルールがあるんだと思うから、結局両者とも自分の価値感によって人生を生きていることになる。

 

Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像

そして、気がついた

私も自分の真面目さに苦しんだり、厄介に感じることもあるが、相談者さん達も苦しんでいる。

 

そう、私がIQ・EQ・SQ・AQ・CQが生まれついて高い神童ならば、この辺りの自分の勝手なルールとの折り合いをつけるのも楽勝なんだろうけど、なにしろ「生き下手」を自覚していたので若い頃は結構シンドかった。そして、今でも「くっそーーーー」と思う事はあるけれど、自分のその真面目さに反する事をやってもHappyは感じないことも知っているし、自分なりの倫理感みたいなものを尊重するジレンマにも慣れてきた。

確かにラクな選択とは思わないんだけど、しかし、ラクを選択せずにグッと踏ん張る事が人生で後々大Luckyに繋がることがあった。だから結果は厄介な真面目さを尊重して良かったことになる。

 

それは、吉事は凶事。禍福は糾える縄の如しということを何度も体験したから。

目先のことじゃなくて、自分なりの面倒くさいルールを守った後日(月単位、年単位、十数年単位もあり)に非常に善い印象に繋がる出来事が多かった。

信じているもの、信じていたものは変わる

 

だからという訳でもないんだろうけど、真面目がゆえに苦しんでいる相談者さんをサポートする事が多い。

私も同じような体験をしたことがあったりすると、その苦しみやジレンマに共感出来る気がするときがある。

損な性分

「損な性分」という言葉もあるよね。本当にこういった性分を持て余すこともあった。

それは、多くの相談者さんも同じだと感じてきた。

 

自分のルールを愚直に守ることがだけが良策ではないと感じて初めて手を付けられる分野もあるし、その愚直さが報われることもあるし、報われないと感じることもあるかもしれない。

 

本当に人間界は色とりどりなんでしょうね。

 

真面目さが探求心を生んだりする

だから、真面目がゆえに信仰に没頭というか、そこに救いを求めたり、「真理」と呼ばれる曖昧なイメージを探求するケースもあるんだと思う。

(私はある程度真面目ではあるけれど「真理」の追及には今のところ傾倒してこなかったな~)

 

そして、真面目がゆえに途中でやめられない。いろんな方面やいろんな意味で。

だからきっと、性分という便利な言葉があるんだろう。

 

「真面目さ」が見事に裏切られると

真面目さが裏目に出る時がある。

いや、裏目に出たと自分で感じた時がツラい。

 

自分の慰め方がわからないし、救いがない様な気持ちになる。

 

そして、じゃあ 一体ナニが実を結ぶんだよ!と絶望的にもなる。

 

Raka C.によるPixabayからの画像

 

じゃあ どうしたら良いのか?

多分、答えを求めて探す類のことではなくて、人生を生きながら考えていく事のような気がする。

何を考えるのか?

う~~~ん、それは自分の特性、特徴、傾向を捉えて、それらとの付き合い方ではないだろうか?

 

一旦、自分の基準を知る、確認する、把握してみてはどうだろうか?

真面目≠不器用

真面目が =(イコール)不器用とは限らない

真面目 & 器用 というケースだってある。

 

いろいろ決めつけずに、自己観察してみると良いと思う。その時の自分は時間が経過したら変わっていくこともあるだろうから、自分のことも決めつけずに観察してみたり、感じてみて欲しい。

 

真面目=損 とは限らないけれども、真面目=損を選択していくのが真面目というものなんだ。と思い込んでいる場合もある。

自分が苦しむ妙なルールをわざわざ創り上げている場合だってある。

 

真面目=視野が狭い とも限らないはずなんだけどね。なんだか結果そうなっちゃう(そうなっちゃってる)ことって多いような気がしています。

 

自己認知はそれぞれ

遥か昔、私が見聞きした1つのケースですが、ご本人は「真面目だから損している」と自己認識されていたが、行動は、他人にタカっているというケースがあった。

相談業などを始める遥か昔の「見聞きした」という個人的体験のうちの1つです。

 

多分、自分の真面目は評価されるべきだから、取れる(タカれる)ところからは頂く。遠慮はしないし、取れるだけ(タカれるだけ)取った方が得だ。と思っておられるんだろうな~と感じるようなケースにお見受けした。

 

多分、ご本人なりに報われない感があったんだと思う。

 

しかし、この報われない感に負ける(勝ち負けではないし、人間だから負けることだってあるんだけど)と、益々人生の厄介さがこじれてくる時がある。

 

”報われないかもしれないけれども踏ん張る”ってキツイ。保証もないし。また違うシンドサがある。が、そうするかどうかが運命の分かれ道ってこともあると思う。

しかし、アレがそうだった!(自分ののちの人生に大きく影響する)とは後にならないとわからない。

 

似たような倫理観の変容や、価値観の変容や、投げやり感は珍しくないし、真面目がゆえにこれらの一種の誘惑というか、挫折などに傾いていくこともあるだろうし、真面目がゆえに踏ん張ってしまってシンドイということもある。

 

真面目も様々だと感じるんですよ。

 

多分いろんなことを経験して、価値観が出来上がっていったり、自分なりのルールが出来てくるんだろう。

 

バランス感覚

ここまで書いてきて、ふと「良い悪いの明確な線引きがないのにどうしたらいいの?」という点が悩みを生んでいるのなら、やはりバランス感覚を養うことが優先かなぁと思う。

それは、バランス調整をしていたらそれで良いのか?というわけでは無くて、やはり自分でちゃんと考えるということが必須な気がする。

潜在意識とか使い勝手のいい言葉に丸投げしちゃうんじゃなくて、自分の思考する脳を使う事を勧めたい。

 

もう一度書くと、

バランス調整=バランス感覚とは限らない。

真面目さを活かす

バランス感覚って自分で育てるんだと思う。経験をして、それらから学んだりする。

 

  • いかに脱力するか。自分に合った脱力方法を試したり。
  • 自分の真面目さがヒトを活かしているのか?ダメにしているのか?
  • 他人のことなど気にせず、自分の真面目さを貫くのか?
  • 自分の真面目さを認めて、まだまだダメだとか過剰に負荷をかけすぎないことも大切だし。

真面目な方をサポートしたい

あなたのその真面目さが、自分の生き易さに繋がりますように!

自分の真面目さとの付き合い方が理解できますよう!

損な性分だけれども、いつかは報われますように!(自分で、「これで良かった」と思えれば、それは報われたことになると思う)

バランス感覚を意識できるような余裕が生まれますように!

 

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ストレスと肉体の記憶について

これも肉体の記憶

書こう書こうと思いつつ、先延ばしにしちゃった。

こちらの記事の続きです。

脳にタトゥーが入ったかのようにストレスを記憶している

気のせいだという可能性も大きいが

こちらについて、あまりに体感を説明した過ぎて、つたないイラスをまた多用したくなり、実際に準備しました。

 

で、それをホームページのコラムとして書く事にしましたので、なるべく早めにアップします。

 

久しぶりにコラムを書くよ(^^)

 

ヒントはサムネイル画像だよ。

 

余計なお世話のエール

余計なお世話

勝手に同志な意識

大袈裟かもしれないが、私も似たような体験をしたという話を何度も書いたけれど、また書きたい。

特定の宗教を信仰していませんが、自分なりの信仰心のような心持はあるという一個人が書く、小池龍之介氏のごく少ない情報を見たことへの反応です。

ご本人は、(もうそっとしておいてほしい)と思っておられそうだから、やはり目に入らないことが最良かとも思う。だけど書く。

自分の振り返りと、ひょっとしたら迷っておられる方のために。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

挫折感

最初は挫折感についてです。

前回の記事でふれた、小池龍之介氏が挫折感を感じたという伝聞を目にして、ご本人の目に触れることはないが文章を書きたくなりました。ご本人の目には触れなくても、ひょっとしてそういった類のこと(悟りとか覚醒とか)を目指して挫折感を感じそうな方がいらしたら、知識の1つにはなるかもしれない。

時間が経つと、それは経験という感覚に変わる

挫折も、いつしか「経験」だと表現する言葉が変わることがある。

私はそうなった。出来事は覚えているけれど、それに伴う感情が風化したように感じた時に「経験だった」という過去形になる。過去完了形になる。

失敗は無い、経験だ

失敗は無い、経験だ。とよく目にしますし、今は私もそう思います。

しかし、挫折を知るまでは、ただこの言葉を知っていただけで、多分同意するような体感はやっぱりイマイチだった。

そう、いかに自分が、「わかったつもりの集大成」だったか、ということは大きな挫折をしてグウの音もでない体験をしないと中々わからない。

 

しかし、回復したらいいだけなんだ。そしたら降伏するしかないことってあると気がつく。それは「知らなかった自分」に降伏するような感覚で、そういったことに抗うのをやめると、「経験したらわかることってあるね」と思うしかなくなるし、「経験して良かった」と思える位回復したら勝ちだと思う。自分に勝つって感じ。自分の体験に勝つって感じ。

勝ちもないし、負けもないけど、なんだか「勝つ」という言葉がそんなに遠く感じないのが不思議。

そう、誰でも挫折したと感じることがあるやもしれないが、その後、いつの日か回復したらいいだけなんだと私個人は考えるようになった。

慌てても、心体は心体のペースでしか回復しない。ゆっくりじっくり回復するということを寄る辺なさや虚無感で身体に空洞があるような感覚を感じながらも自分に言い聞かせるしかない。

 

私の場合はそうした。

 

懺悔

小池氏が話されたという言葉の伝聞でしかありませんが、「懺悔」という気持ちがあると読んだ。

懺悔というのは、なにか「自分をゆるせない」時に使う言葉かもしれないが、自分がゆるせない限りは悟りもないような気がする。

 

多分、こういった心の持ち方を「伝える」ことは容易いけど、自分に置き換えることや、自分も同じだと認める事がツライのではないだろうか。

先程と同じことを書くと、ヒト様の失敗に対しては「心の持ち方」をアドバイスできるけど、自分が失敗だと思った事は「懺悔の念」をも伴って「ゆるせない」。

この反対の「私は知っている」という意味でも、こういう意味での「失敗や懺悔」も自分を特別扱いしていて、人間の共通性を拒否しているような風合いを感じる。

しかし私たちはさして変わらないし、皆同じ。

 

ということをわかっているつもりだったけどその実は違う自分に気がついた。ということだけで大いなる一歩だと思うんですよ。

 

学びと実際

多分、仏教やいろんな宗教でもこんなこと学びませんかね?

学んでも、学ぶ事・知る事によっての、エゴ肥大系の「私は特別」感が熟成することもありますしね。

 

それほど自分を高め設定にする時ってあるんですよ。生きてると。

生意気言うな!と言われそう(-_-)

完璧人間が悟るわけじゃない。

 

自分が完璧じゃないことを受容した時に悟りの扉が開くんじゃないかな?

 

って、誰が誰に向かって言ってんだ!って自分でも思ってるんだけど、小池氏の感じた挫折感ってとんでもなく大きくて、メンタルも危うくなるし、シンドイにも程があるほどシンドイ事を勝手にお察ししてる。

 

私も同じような大きな挫折感を味わい、一時はもう回復できなくて地を這う感じがした。

地を這う前は、奈落の底に落ちていく感じがした。

大きな挫折感ってホントにダメージがデカすぎる。

 

根底が揺らぐどころか、足元の地面がパックリ割れて、真っ逆さまに落ちる感じがするんだよ。

 

そう思うと、今の自分に対して、

人間は復活する事ができるんだ! 運が良かった!と毎回思う。

そして、折れた骨が折れる前より強くなる的な、なんだか鍛えられた感がある。

 

だからこそ、小池氏にも、勝手に「今からが本番だよ」と言いたくなった。

 

振り返ると、わたしもあの挫折感のあとから人生の本番が始まった感があるし、非常に心体が弱った時に不思議な体感が幾つかあった中にそんなことを象徴するような脳内映像があったことを覚えてる。

簡単に書くと、脳内で「人生ゲームが始まった」ようなことを知らされている?というようなイメージ映像だった。

PeggychoucairによるPixabayからの画像

奈落の底から回復

かなりしんどかったんだけど、もう過去だし、過ぎてしまったら忘れてる。

イェイ! (^^)

だって、最近も、海風に吹かれて「あーしあわせーーーー」って心が幸せを感じたし、ニコニコ笑ってるちびっ子を見て、幸せを感じたもの。

 

ずっと長い間 身体に開いていた虚無感の穴も随分前に閉じたし、足元はしっかりしているように感じるし、ずーーーっと一緒に居た「自分に対する心もとなさ」「不一致感」という感覚もない。

 

昨晩も、おやすみーと布団に入った時にも幸せだった。この先も同じだろう。

 

気がついたら、もう地を這ってる感じなんて全然しない。普通に歩いてる感じがしてるし、なんなら身体が軽いもの。

おそらく似たようなことを書いて出版されていたのでは?

多分これまで書いてきたような事を含めて、以前は書籍や講演?放送?を通じてマス(大多数)にお伝えされていたんじゃないかと予想してる。

 

私はある意味筋金入りで、中学生、高校生の時には人生を苦しいと感じて「悟りたい」って思って居た派です。

私が昔目標としていた理想人間は、完璧人間で、ほぼ悟っているような精神状態だった。だから私も手法は違えども「悟り」を目指し、それに近づいてきたと思ったところで、そのために努力したつもりだった我が実態が目指していたものとは全然違うという現実に気がついたので、挫折感がすごかった。多分小池氏と雰囲気は似てると思う。

 

悪い意味でも良い意味でも、人間らしさみたいなものを嫌ってた。でも、マジメ人間ではあった。

いろいろ苦しくて、その苦しみの元が「人間らしさ」からきていると思っていたものだから、人間らしさを排除したら生き易いのかと思ったし、感情が動かないような達観者を目指したし、人間臭さの薄い完璧人間を目指すという大間違いをやらかした。

しかし、この大間違いと挫折が無ければ今の私は居ない。

yogesh moreによるPixabayからの画像

しかし、多分書籍には書いてないと勝手に予測しているその先もあるんだよ

そう、生命の灯がうす~~~~く、消えそうだよ~~~ 消えるかもね~~~ と感じた時期もありましたが、こんな凶事は吉事となりましたよ。こんな有り難いことってあるだろうか?

挫折の前には感じなかった「生まれてきて良かった」「生きてて嬉しい」などを今はマジで思うもん。

 

こんな日が来るなんて!

ありがとう神様!

ありがとう皆様!

「生まれてきて良かった」「生きてて嬉しい」

私はこういったことを感じたくて、勘違いして「悟り」を求めたのかもしれないね。悟ったらラクになって「生まれた事が嬉しい」というような根底の基礎固めがされるのかと勝手に思い込んだのかもしれない。

こういった事を感じたいなら「しっかり生きる」とか「丁寧に生きる」という方が最短ルートなのかもしれないが、「しっかり生きる」とか、「丁寧に生きる」ってどういうことなの?と理解できなかったから、そんなことを教えてくれるのかも!と仏教やキリスト教とか禅とか神道とか、その区別がよくわからないままごちゃ混ぜにしたままで信仰や思想に関する書籍などを読んだり、出家などは選択せず自分なりに勉強したりしたのかも。

 

粉々に挫折した感 → 数年かけてゆっくり回復 → 今 元気

神様ありがとう。

自分よありがとう。

皆様ありがとう。

 

多分これらは、まだ小池龍之介氏が感じた事のない領域だと思うが、回復したら多分同じことを思う(と思う)。

 

概念と勉強と観念、思想では理解できない領域がある。

フシギとか、ライトなスピリチュアルとか、ある種の瞑想で得るようなそれらしい感覚とは全く違って、人間の根源を強固にする体験や体感は、ただ生きているだけでも得られる。ちゃんと得られる。

というか、そういった思念や瞑想ものと一線を画した「体験」「体感」ってある。ユニバースもマルチバースも貫通しちゃうと書きたくなるような「体験」「体感」が。

 

なんならあの挫折感から回復したからこそ美味しさ数倍みたく、その素晴らしさに付加価値がつくような気持になる時ってある。

今からが本番

小池氏も私と同じように、大きな挫折感からが人生の本番スタートという可能性だってあるわけです。

 

書籍を多く出版したから、それが自分の重荷になることもあるようですが、それは自分だけの世界の話で、”ドリーン・バーチュー氏のオラクルカード” で救われた気持ちになる方が今でもいらっしゃるのと同じで、やっぱり小池氏の書籍が支えになった方も居ると思うんです。

環境を変えた先、自分以外の世界で挫折を感じたかもしれないが、元々いた環境で、自分以外の世界で救われている方もいる。

 

ご自身は解脱失敗と感じられたかもしれないが、仏教をわかりやすく伝える能力は解脱とは関係ない。そうなると、解脱者しか仏教に関わってはいけなくなっちゃう。

信仰ってそういうものじゃないですよね? 違うの?

 

こんな個人的な理解も含めて、「これからが本番ですね!」 こんな捉え方もありますよ!と文章に残したくなった。

 

解脱は知らないが、さとりって・・・

わたしごときがどんな立場? どんな立ち位置のつもり? と自分でも自覚はあるけれど、過去のコラムにも既に書いているので同じことを書く。

 

さとりって瞬間的な事だと思うんです。「今」。その瞬間。

解脱が永続的な状態を指すのかどうかはわからないが、それは前回も書いたように、世界の覇者になることじゃないですよね?

今いる世界(ユニバースと仮定してみる)で解脱?

マルチバースで解脱?

 

全世界制覇?

 

でもですね、全世界ってどこ?

 

前回のブログに書いたように

思考と想念と感覚と実際

ヒト・個の中に

  • ユニバース ⊂(含む) マルチバース
  • マルチバース ⊂(含む) ユニバース

という面がある。と私は思っているからです。

という前提に立った場合に、全世界ってどこ?

(あくまでも私個人の見解の話ですからね。)

 

いったい どこから脱する(解脱)つもりなんだろう?

 

と、またまた禅問答のようなことを書いて終わります。

 

私はこういったことを考えるのは好きだけど、今ある生命を大切に生きることを優先しております。

だから「悟り」もましてや「解脱」も目標にしていない。

生きている間には悟れないということを悟った?

遥か昔、「生きている間には悟れないということを悟った」と対話の中で発言したことがありましたが、今はあの表現が間違っていたと理解している。

 

私の真意は、「生きている間に、悟りを目標にする事をやめた」ということでした。

私はそれで良い。

 

それを数年前?10数年前?に自己理解できて以来なにかが軽くなった。なにかがラクになった。

 

文章の締めくくりは、小池氏の目指すところとは目標や目的が異なっているようですが、この文章を書き始めたきっかけは、勝手に、余計なお世話と知りつつ、エールを送りたくなったからです。

 

そう、私も昔、願ったことのある『「救われる」と望みを持った道』でしたから。

ついつい余計なことを書いちゃった。

 

小池龍之介氏がHappyを感じますように!

RalphによるPixabayからの画像

 

思考と想念と感覚と実際

数ミリの話

理解が数ミリ進んだような気がしたので、その数ミリ分進んだと感じた内容を書きます。

Pascal UhlemannによるPixabayからの画像

前回の記事のこの部分を引き継ぎます

私の今のこのブログ、編集の際に”引用”というスタイルを選択するんだけど、どうもそれが出来上がった記事に反映されないんですよ。(-_-)

だから手作業で ” ” こんなマークを入れてます。

どうしてこんなことになっているのかわからないし、私ができるのはhtmlをネットの中の先生方に教えて頂いて少し参考にできる程度。で、htmlも書くんだけど、反映されないというこのサイトの頑固さ。

cssが書けるようになりたいです。これはもう何年も前から思ってる。しかし今はそこを勉強しておらず書けないので、引用部分は文字の色を変えてみます。(原始時代方式)

前回、

 

東洋医学的というか、ヨガ的というか、禅的というか、なにかしらの思想的に傾倒して、失礼にも私が「厄介なことになってる」と感じる場合は、こういった「宇宙」の概念がどこかズレてるから、人間も大切なところがズレてくるのかもしれない。

いや違う、そのご本人の「宇宙」の概念とご本人の「内なる宇宙」が相似形を成す場合に、なぜか「禅病」とか「魔境」というような状態として表面に出てくる場合がある。と書いたら良いかな?

 

生きてきて、次第に理解していくものを、結論や概念、効果(なんですか? 特殊能力的なものですか? 悟りとか覚醒者というタイトルホルダー希望ですか?)ありきで、なにかする(瞑想?修行? なに?なにしてますか?)、それも過剰になにかするから生体(脳内)電気が乱れるんですかね?

 

その方の想定している「宇宙」「おおいなる仕組み」とご本人の「内なる宇宙」が相似形を成したら、結果「厄介になった」というのはなかなかキビシイ。ツラい。我ながらひど過ぎることを書いたと反省しております。が、私は昔「理想の人間」になりたくて、そうなるようにそれなりに励んだつもりだったけど、結果めちゃんここじらして非常に生命力が弱まった。という経験があるので、同じ事だと思います。そう、私はこのキビシイ、ツラいことを経験済みでございます。(笑)

と書きました。

 

この記事を書いた後に、とあるサイトで紹介されていた小池龍之介氏の「解脱失敗とその懺悔-小池龍之介さんからの電話」というWEBサイトの内容について触れているブログを目にしました。

時系列としては、

前回の記事を書いた → こちら ↑ のブログを読んだ → 今から書く内容が頭に浮かんだ

という流れですが、この間24時間経ってないですよね。これが良かった。丁度前回の記事を書いた後だったから非常に短い情報記事を読んだことで、私の思考が数ミリ進んだような気がした。

補足】「共鳴」と「時間」

 

抜けた。自分は特別になった。と、思うもんなんだね

過去のコラムにもブログでも散々使った表現ですが、「抜けた!」「抜けたい!」とある一定数のヒトは思うようです。

  • 現世を抜けたいとか、
  • 周りの人々から抜けたいとか、
  • 俗世から抜けたいとか、

言葉は違えども、根底に流れているモノは一緒なのかな。

 

そして、その感覚が味わえるような環境で暮らせるときも確かにある。

 

そう、ここ大事。

S KによるPixabayからの画像

「自分が中心の世界」と「世界の構成員の一人としての自分」

「自分が中心の世界」と「世界の構成員の一人としての自分」。こんなことも同時進行していると仮定してみた。

 

解脱とか悟りとかそういった事では無いが、わかりやすい私個人の例で言えば、

A.個人事業主として自分のルールで自分の世界で生きる事ができる(これが私がスタッフを雇用していて複数人で構成されているとなるとまた話は別です)

B.勤め人になれば、上司も居て、先輩、同僚もいて、自分以外の人間関係や諸条件に影響を受ける。指示系統や業務内容があるので自由に思うがままに自己裁量する面が減ったり、会社の方針というようなことに属している。

というような違いがあるよ、というイメージです。

 

環境が違うってこんなことでもありますね。

 

あくまでも私の場合ですが、Aの環境では、(あぁ私ってストレスケアを行ってきたおかげで、もうストレスに強くなって、「抜けた」かも)と勘違いしますよ。しかし、その同じメンタルでBの環境に属した時に(ストレスケアをしても追いつかない。ヤバイ。ある程度は俯瞰や達観ができるけど、その先はキツイ! じわじわ効いてくる! ヤバイ!)ってことがあります。

 

Bの程度にもよるし、相性などもあるけれども、「属さないといけない」「属していないといけない」というような縛りが発生した場合に、そうそう涼しい顔もしていられないってことってあります。

 

私は今これを書いている数時間前に小池龍之介氏についてのほんの少しの情報を目にするまで、どういった経緯があったのかを全く知らなかったんですが、その知らなかったことを知った時に、小池龍之介氏が「限りなく悟りに近づいた」と感じていた環境から、違う環境に移ったことによって「自分の状態に気がついた」とおっしゃったそうですが(伝聞ですけれども)、例にあげた自分自身と照らし合わせても、「そりゃそうだ」と思えたわけです。

 

そこは、小池龍之介氏が中心な世界じゃなかった。

そこは、私が中心の世界じゃなかった。

 

単純な理由だと思う。

こういったことも相似形なのか?

私は複数回転職しているし、おかげさまで多業種多職種のお仕事をするラッキーに恵まれたので、自分の能力や個性と合う環境も合わない環境も体験したし、「合う」という感覚もいろんな側面があるという体験もした。

そして、仕事とはまた別の方面で「私の世界」という感覚もある。

2つがうまいこと両立する時もあれば、全然反りが合わない感じもあった。組み合わせは数限りなくあるだろうけれども、この「組み合わせ」みたいな視点も大切かも知れませんね。

 

それは、「1つじゃない。」「1つ。とそれ以外」みたいな視点が活きる時もありそうだから。

やっていたことをやめた

今日現在はわからないが、私が読んだブログによると、その当時の小池龍之介氏はお坊さんをやめたそうです。

船井幸雄氏

ドリーン・バーチュー氏 に続き、

小池龍之介氏もかなりのブームを起こし、心酔する方を多く生んだ方と認識しておりますが、「あれは魔境の最中の出来事」というような発言をされたのかな? 書籍は今でも「良書」として世の中で評価されているように思いますが。

 

私は単なるへそ曲がりで、1~2冊(数冊)書籍を読んで、すーーーっと離れてしまったのですが、心酔する皆様の気持ちがとっても分かる。理解しやすいような書き方がしてありましたよね。

 

一見とっても良さそうでしたが、私はその底辺に何かしら感じました。とかじゃなくて、ただ単に、過去私なりにこの辺りを深堀したことがあったので、(もうこういうのはいい)というへそ曲がりな好みだっただけです。

 

ある意味の「私は覇者になった」感か?

悟り=世界の覇者 じゃないんですよね。

小池氏が環境を変えたことが自分への失望感を生むきっかけになったのだとしたら、世界のどこでもそれ(その価値観、やり方)が通じるという勘違いをしただけだと思う。そこにはやはり「今」という時間(感覚)を忘れただけだろうと思うんですよ。『「今」を =(イコール)ALL(すべて)』と思うときってありますもんね。

 

前回「そもそもの設定」と表現したことになります。

 

世界観とか、人生観とかって自分が感じるものだから、良いも悪いもなく、そこには「覇者感」というか「世界の中心感」が実はあるんですよね。実際にそれをそう感じるあなたが中心だし。

だから、調子がいいと、その環境すらも自分が内包しているように感じるんだけど、しかし実際は、環境って「属している側」だったりするんですよね。

 

人体に宇宙はあるけれど、地球に住んでる。みたいな意味で。

 

前回書いた

ヒト・個の中に

  • ユニバース ⊂(含む) マルチバース
  • マルチバース ⊂(含む) ユニバース

という面がある。と私は思っているからです。

という意味と似ています。

 

思うようにならない環境に属したら、それまで培ってきた自分が通用しない。だから一層思うようにならないと感じる。という人間社会のある種当たり前のことを忘れちゃうのかも。

  • 高尚過ぎて?
  • そういった現世を抜けかけているという幻(というか、なんというか、難しいですが)状態って気持ちいいし、気分も良いし
  • 現世よりもアッチ(どっち?)の方がランクが上というようなことに結果なってしまっている元々の設定が違うのか?

 

上も下もない(並行宇宙)という前提に立つと、それらの設定も随分違ってくるような気がします。

というようなことを既に書いています。 ↓

自分の不安をストレスケアする。視点が変わる。

 

自分は特別

自分はいい意味で特別だと思うと気分が良いですよね。我が子が素晴らしくて鼻が高いとかも「自分が特別」みたいな優越感をくすぐる時があります。

 

私は本当にへそ曲がりなのですが、

「〇〇の法則をつかって」とか「覚醒」いうような謳い文句を見ると、それが宇宙だろうか何だろうが、

ヒト・個の中に

  • ユニバース ⊂(含む) マルチバース
  • マルチバース ⊂(含む) ユニバース

という面がある。と私は思っているからです。

ということも法則だよね。と頭によぎるし、なにかしらのパターンや相似形も頭に浮かんだりする。

 

もちろんそこには私も居る。含まれている。

忘れかけると、思い出すような出来事がおこって、(あぶねぇ あぶねぇ 勘違いするところだった)と思う事もある。別に勘違いしていたって構わないことって多いけど、(あぶねぇ あぶねぇ)と感じる類のこともある。

 

ヒトは一人ひとり特別。

その特別感が反作用に働くかのような時もあると思わない?

John HainによるPixabayからの画像

みんな一緒

ヒト・個の中に

  • ユニバース ⊂(含む) マルチバース
  • マルチバース ⊂(含む) ユニバース

という面がある。と私は思っているからです。

と考えると、大嫌いなあのヒトとあなたは同じであり、大嫌いな出来事を引き起こすナニカや集団は=(イコール)あなた。 まんま=(イコール)ではなくて、成分表の構成物は共通してるという意味です。ただ配合は個々による。しかし、他人の性質であなたがとても嫌っている部分はあなたにもある、私にもある。他人の性質でとても好ましい部分はあなたにもある。分量は違うみたいだけど。

 

だから、随分前に既に書いているように、はるか昔に私も「悟り」を求めていたし、引き寄せの法則みたいな知識を得たら使いこなしてラクしたいし楽しみたいと思いました。

 

しかし今は、しいていうのなら「意識してそれを選ばない」という感じです。

そうそう、私は自ら瞑想もしないっす。数年前は試験的にやってみた事がありましたが、それももうやめました。思いがけず瞑想みたいなことをしている時があるのかもしれません。というのは、施術中は自然にそんな状態になることがあるようなんです。

しかし、何か目的をもって瞑想をすることはやめています。多分瞑想類は得意だと思うんだけど、なんというか、あくまで感覚的なものなんですが、ハズレやすくなるような気もしたので、別にわざわざ瞑想しなくてもいいかなって思ってる。ハズレるっていうのは自分がズレるというイメージです。良くなるためにやっていたはずなのに、やり方や嗜好が影響して、アレ?!おかしいな?! ってことになる例もあるような気がするし。

瞑想せずにいられなくなるような中毒性にアテられるのもイヤだし。(って言いながら、コーヒーを毎日のみ、砂糖が入っているお菓子もパンも食べてます)

悟りと言うイメージに救いを求めるとき

悟りについて考えるのをやめて、仏教などについて考えるのも止めたら、知らぬ間に体験していた

悟り・解脱について 以前考えていたことと最近感じたこと

 

これらを選択肢から外していった理由って簡単に言うと何だろう?と自分に訊ねたら、

『「それらを選んで、ラクになりたい。ラクしたい。不思議を体験したい。ワクワクしたい。楽しみたい。叶えたい。抜けたい。」という方法を取らない人生を生きてみよう。』という選択をしたいみたい。そして、実際にやってみてる。

 

あら~失敗だったわ。も経験だし、

人間まだまだだわ。と思えば、人間だもの。と思ってみたり。

 

今のような人生観を選択すると、何かを操った結果のラクはできないかもしれないし、抜けることもないかもしれないけど、これはこれの「楽しい」はある。「幸せ」も感じられる。いろんなことに気がつけば「不思議」も感じる。

それで良いよね。って今は思っています。

補足】「共鳴」と「時間」

分かりづらい! を解消したい

ここのところのお決まりの、「出かける時間なんで取り急ぎアップします!」と記事を公開したものの、前回の記事は読み返してもわかりづらい。

余計な文章が多くて、解説の文章が少ないから分かりづらかった。いつも通りと言えばそうなんだけど。

「共鳴」と「時間」

 

どこに、どのような補足があると分かりやすいのか?

わかっていたはずだが

どこに、どのような補足があると分かりやすいのか?とまた眠りながら考えていたようで、目が覚めた時に幾つか対応策が頭に浮かんだ。

しかし今、猛烈に、あの起きた瞬間に浮かんだ妙案の数々を寝ぼけて忘れてしまってはいないかと心配になってきた。3つくらい凄い良い案が浮かんだのに、メモしなかったものだから忘れてしまったようで怖い。

 

でも一応TRYして書いてみる。

 

1つだと思い込んでいる

まずはパラレルワールド風なことから補足

時間についての話も、宇宙についての概念もそれは1つの時間、宇宙についての話だと思い込んでいるとスコトーマに気がつけない。

パラレルワールドとか言いながら、その概念が、「1つの世界に、1つの時間」みたくなってて、その「1つ時間をもつ、1つの世界」が沢山あるから(幾層も同時進行しているから)パラレルなんだという思い込み。

ユニバースが幾層もあって、その集合体がマルチバースと前回書きましたが、一種のこんなイメージ。

 

いや、確かに「1つの世界に、1つの時間」が沢山あるからパラレルなんだろうとは思うけど、「1つの世界に、沢山の時間」という状態でも多分それはパラレルワールドだと思う。(なんの証明も出来ないよ。ただの「私の思考」上の話です)

 

だから、「時間なんて無い。」というよく聞くお説は、私的にはどうも納得しづらい。しかし、この「時間なんて無い」ということが、1つの時間じゃなくて、幾つも時間が同時進行しているから「決まった1つの時間という概念ではない」と説明してもらうと理解しやすい。

(じゃあ「時間」というものはあるじゃん。という可能性も出てきますでしょ?これについては後の項で補足を書きます)

 

私がここまで書いてきた「こんな風に考えられるんじゃない?」と思う理由は、自分の脳内が「過去、現在、未来」がごちゃ混ぜになって混在しているからです。

過去のコラムにも書いたけど、脳内では過去現在未来を瞬時に行き来しているし、同居しているものだからアッチともコッチとも紐づいてるし、それぞれの境目なんて無いし。

 

時間が数限りなく同時進行している。実際に脳内で。

ということはパラレルワールドではないのか? ってこと。

 

私の場合、概念だけを丸呑みして理解できるような頭の良さを持ち合わせていないゆえに、いろいろな事を理解しようとすると本当に時間がかかる。しかし、正解か不正解かはしらないが、このように自分の身体で理解できる(腑に落ちるも含めて)ような気になるととっても楽しい。

そして、こういった話をする際に、人間の思い込みとしては、「外」の話だと捉えたりする。

自分を取り巻く環境とか、自分が住んでいる世界の話だと捉えて概念で理解する。しかし、相似形、マトリョーシカ方式、入れ子の箱というのは、もうアチコチに存在しているし、幾重にも関わり合っている。そして、私達の「中」にもそれらは存在している。(ような気がしている)

東洋医学的に、「人体に宇宙がある」と言う話と同じですよね。

人体にパラレルワールドがある。

 

面白くないっすか? 私はオモロイです。

 

Peace,love,happinessによるPixabayからの画像

余談 生体電気

私は文中に余談を入れ過ぎるので文章が分かりづらくなる。

が、今書いておかないと忘れそうだから書く。

 

東洋医学的というか、ヨガ的というか、なにかしらの思想的に傾倒して、失礼にも私が「厄介なことになってる」と感じる場合は、こういった「宇宙」の概念がどこかズレてるから、人間も大切なところがズレてくるのかもしれない。

いや違う、そのご本人の「宇宙」の概念とご本人の「内なる宇宙」が相似形を成す場合に、なぜか「禅病」とか「魔境」というような状態として表面に出てくる場合がある。と書いたら良いかな?

 

私はこの辺りをもっとしっくりくるように、個人的に整理したくて、なんだかいつも薄っすら考えて居るみたい。ホント、こういう面では研究者気質っぽい。

 

う~~~ん、なんだろう・・・・ そもそもの「設定」の話なんだろうか?

「宇宙の仕組みはこうだ!」と決めてかかってるのかな? 知識を入れ過ぎて?

 

ひょっとしてこれは(脳内や生体)電気の方向が順行じゃないのかも知れない。

 

生きてきて、次第に理解していくものを、結論や概念、効果(なんですか? 特殊能力的なものですか? 悟りとか覚醒者というタイトルホルダー希望ですか?)ありきで、なにかする(瞑想?修行? なに?なにしてますか?)、それも過剰になにかするから生体(脳内)電気が乱れるんですかね?

 

いやもう、本当に失礼なことを書いていますが、【人体の中の時間の流れ(生きてきて理解する。ということに関わる「時間」)】と【生体(脳内)電気の向き】って関わっていてもおかしくないな~なんて今初めて思ったものだから、ついついまた余談に大輪の花が咲きそうになっています。(笑)

 

いや、電気の話って、フレミングの法則的には、いろんな向きって根底の考え方にあるし、実際に発電?する際には「時間」という要素が関わるよね? ということは見当違いな話も書いていないような気がするんだけど・・・・

 

「禅病」とか「魔境」という話になると、「エゴ」というような切り口が多いし、私もそのような切り口で過去コラムも書いたのですが、そういった精神論的な話以外にも「生体(脳内)電気」の逆行というか、時間を無視というか、こういった物理的?な切り口もあるのかもね。

 

その方の想定している「宇宙」「おおいなる仕組み」とご本人の「内なる宇宙」が相似形を成したら、結果「厄介になった」というのはなかなかキビシイ。ツラい。我ながらひど過ぎることを書いたと反省しております。が、私は昔「理想の人間」になりたくて、そうなるようにそれなりに励んだつもりだったけど、結果めちゃんここじらして非常に生命力が弱まった。という経験があるので、同じ事だと思います。そう、私はこのキビシイ、ツラいことを経験済みでございます。(笑)

そして、この先も同じことをしないという保証はない。それが人間だからね。

 

さあ、話を元に戻しますよ。

「パラレルワールド」を補足

私なんかが、壮大なパラレルワールド概念の補足などできるわけがないのですが、自分が書いた文章の補足ならできる。

 

今から書くことは、禅問答みたいな種類の話なので、読んでも(意味が分からん)と思われそうですが、一応書きます。

 

  • 個人のユニバース
  • その集合体のマルチバース

 

と前回書きました。

これは、個が集まって集合体になるというイメージがしやすいから例として挙げたのですが、多分こんな単純な話じゃないんです。

 

なぜなら、個・個人の中にもマルチバースがあるからです。

ヒト・個の中に

  • ユニバース ⊂(含む) マルチバース
  • マルチバース ⊂(含む) ユニバース

という面がある。と私は思っているからです。

 

∞(無限大)入れ子の箱方式と言いましょうか。

 

物理学者・科学者の皆様には失笑されるかもしれませんが、これを「時空の歪み」現象の1つみたいに捉えています。メビウスの輪みたいなこと。

 

同時に成立するという、これこそパラレルワールド?

 

時間について

見えている範囲というか、仮に目の前としましょうか。

そこには時間がある。

時計を見たら時間が経過していたり、太陽の位置や月の位置が変わったり、風で雲が流れて行ったり。これらを見ると私達は「時間」という概念を感じる。

そして、他には細胞にも「時間」がある。少なくとも今の私と子どもの頃の私は身体のサイズも経験により培った能力にも違いが有る。ここには「時間があった」と感じている。

 

世の中の「時間なんて無い」ということをおっしゃっている皆さんに本当に時間がないならば、細胞の生まれ変わりの周期とか、爪や髪が伸びるとか、子どもから大人になったとかとどう折り合いをつけているのかを存じ上げないし、私はこういったことを解説できない。

だから私は脳内には時間が無いという実際の体感を書いたんだけど。

 

ということは、一人の人間(例:私)には、「時間がある」「時間が無い」が同時進行しているよね?ということが書きたかった。と同時に、この私には、ユニバースもマルチバースも同時進行している。ということも書きたかった。

 

しかし時短をしたい

しかし、時短をしたいわけですよね。

  • 早く成功したい。
  • 早く解脱したい。
  • 早く手に入れたい。

 

こんな時に、やっぱり便利な「引き寄せの法則」。

 

私は以前はこういった類の本なども読みましたし、(引き寄せられたら良いな~)って思っていましたが、数年前からすでにもう推奨していないです。お好きな方は私のことなど無関係に個々に傾倒されているし。

 

今日、ここまで文章を書いてきて、「引き寄せの法則」の強烈な魅力として、「時間」を超越できるというその謳い文句にヒトは魅かれていくという面について一層腑に落ちた。

 

  1. 時間がない(幻)っていうし、
  2. その説明聞いたら確かにそんな感じがするし、
  3. 脳は現実も空想も区別できないって言うし、
  4. イメージと感情を利用して引き寄せ慣れるならラッキー。

という感じですかね。

 

私も1~3については、間違っていないと思う。しかし、この説明はあくまで一面であって全てではないような気がする。そして、4については、それが出来たら確かにラッキーだとも思う。

 

本当のところは私のようなちっぽけ人間にはわからないっす。

 

ただ、昔から、自分の脳内を整理するために書き出したり、ブレインマッピング(マインドマップは面倒で時間がかかるから、私にはこっちが合っている)は描く。

 

それで引き寄せられたか?と振り返ってみると、「よくわからない」

なんでも書くから、かすりもしなかったものも沢山ある。そもそも本当に自分が何を求めているか?も何度も書いて、人生を生きて、また書いて、生きて、を繰り返しているうちにその輪郭が浮き上がってきたような感じなんですよね。

そもそも、引き寄せの法則的には、それが「本当に欲しい」とか関係ないですよね。「欲しい! 引き寄せちゃおっと!」 よーし、ワクワクするぞ! というイメージじゃなかった?

「本当に欲しい」とかそういう重さみたいなものはかえって邪魔な感じですか?

 

あくまでも私の場合は、「引き寄せの法則」とか一切知らない、知識のない頃からの信念みたいなものは体感出来ている(叶っている)気がして嬉しい。ここが大切だったから、他のいろいろは「引き寄せられたかな?」と追跡調査してない。(笑) あんまり気にならないみたい。ある意味、過去を忘れてます。

 

個人的に記憶に残りがちなのは、引き寄せたい!と何かに焦点を絞らず、ただ目の前のことを丁寧にコツコツと行っていたら、思わぬ時に、それらには関わりがあるものの全く思いもよらぬ方向からラッキーを与えて貰ったという出来事の方だと今再確認しました。

 

時短をしたいと私も過去思いましたので、それがエゴと言えばその通りですけれども、そのエゴがあるのが人間ですからね。 うんうん。

 

今回の記事のように考えると「カルマ」ってあたりまえ

前回の記事のようにミラーニューロンに「今」という時間の影響がないのなら、

書き換えると、「過去」や「未来」と当たり前に影響し合うのなら、「カルマ」という概念は当たり前のことになりますね。

良い子とも悪いことも、という区別などする必要もなく、全てが関係しあっていることになる。

 

いちいち、「これは過去のカルマの影響ですね」という区別する事すらナンセンスになる。(あ!あくまでイチ個人の考え方なんで)

 

∞(無限大)の大きな中に入っているから。皆が同時進行しているから。理論上は。

 

だから、やっぱり過去にも何度も書いたように、入り口は「今」だと思っている。

 

時間でいうところの「今」。

今目の前の相談者さんのバランス調整を行うと、そのカルマと表現されている反応個所、紐づいた箇所に届く時は届くと考えてる。時間感覚の「今」の相談者さん、クライアントさんをストレスケア、バランス調整すると時間の関係ない並行世界(過去、現在、未来)に影響があるだろうと考えています。

 

「私達の認識と脳内の特色」と「宇宙論」と「量子力学」

 

今朝起きしなに頭に浮かんだことは全部書けただろうか? 補足できただろうか?

また思い出すことがあれば補足として書きますね。

過去にも同じような事を書いています

関連記事としてホームページのコラムへのリンクを貼ります。

そして念のため、読み返したら・・・・文章が分かりづらかった _| ̄|○

しょうがない。過去は過去。

改善していきます。

今日のブログは改善の策としての補足です。

脳コチョコチョのヒントはアニメ「かぐや姫の物語」の解説にあった

波動よりも、私がしっくり来る感覚「電子・電気・磁場・重力場」

次元と陰陽

波形を脳回変換してるのか? ひとの気持ちにも波形がある?

フラクタル理論は物理か? 化学か?

シリーズ4話目 ランオーバー・バッファオーバーランで「量子心理学」「次元心理学」へ

 

 

「共鳴」と「時間」

共鳴に時間なし?

身体が軽くなった瞬間

個人セッションの受付枠は減りましたが、これまでと同じようにずっと個人セッションは行っています。

実際にお会いすることもあるし、リモート・オンラインで行う事もあります。

 

相談業(施術業)を行っている方が、実際にセッションを行う前からなにかしらの反応が起きたり、感じるという話も時々聞いてきたし、私もそういった反応があったことがある。

がしかし、セッションを行う前のそれを、本当にそのセッションの前倒しの反応と紐づけて良いのか? 正解なんてわからない(と思っています)。

けれども、自分の特殊性のようなものをアピールしたくなると、そういった反応に対して、「自分はこんなに敏感なんだ」とどこかで自慢しているような気がするケースもある。何を自慢に思うのかは自由だ。

HSPという感覚でなんらかの生きづらさを感じている方は、こういった「反応」類で苦しんでいたりするわけですが、私もそれなりにとある面ではHSP気質であろうと自覚しておりますが、

なんで急にこんなふうに感情が動くの?

とか

急に体調の変化を感じてきた!(例、頭痛、首コリ、肩こり)

が起きると、それは私自身に「感情が動く時の熱量にちょっと疲れる」とか「頭が痛い。首が固まってきた。身体がみるみる重くなってくる。」という現象が起きるわけですわ。

 

今日この先に書くのは、こういったことがイヤだとか、辛いとか、実はその敏感さが自慢だという話では全くない。

もうこういったことは自分の特性なんだと諦めている部分が大きく占めているし、自分の(アレ? なにこれ?)みたいな現象も、原因が推測できそうとか、わけわからん、とか、単なる気のせいとか、気にしない。とかまぁザックリさせて終わらせている。

粛々と生きている。

 

細かいことを気にしだしたらキリがない。終わりもない。

ただ、現象を「分解」したり、その現象の「構成物」について、ふと(あ!こんなことかな?)と頭に浮かぶことがあるのでそれらを考えたり、「構成物の関わり方」「性質」を考えてこうやって文章にして自己理解を深めたりするのは好きだ。

 

今日書く内容について、私にこんなヒラメキを与えてくれたクライアントさんに非常に感謝しています。

 

HSP気質の「感じる」「敏感」な割と生きづらさに直結しやすい面が、私にはホームページのコラムや過去のブログに書いたり(こういった場所では発表しないが、実際にお会いした方とは話題にしたり)するような「自己研究」「検証」に非常なメリットとして働く。

これもミラーニューロンという概念の一部よね?

  • 時間は観念であって実際には無いとか
  • 時間だけが人間皆に平等に与えられているとか

色んな言葉や考え方がありますが、今日は身近な体感と時間について書きます。

身近な例(のつもり)

虫の知らせをイメージしてもらえれば良いんですが

先述した通り、私は個人セッションの前に、クライアントさんの感じている身体の痛みや違和感。心のざわめきや感情の重みを感じることもあるようだ。

 

アレ?自分のこの心体の急な反応・変化はなんだろう?と思うような事がある。その後、個人セッションの日を迎え、面談した時に

(あっ!コレって)と、クライアントさんの心体の状態を、実際にお会いする前に前倒しで共鳴していたようだと気がつく事があります。

 

ミラーニューロンって他者と自分の境界線を認識するのが難しいからこそ自分のこととして

”アレ?自分のこの心体の急な反応・変化はなんだろう?と思う”

わけなので、

その影響(他者・環境)に気がつくにも経験や訓練が必要な気もする。しかし、100%精度を上げることは無理だと思ってる。

筋肉や骨格のON、OFF反応で識別・判別するということで確認する方もいらっしゃるかもしれないが、私はこういった時に最初からON、OFF反応を確認するという方法はほとんどとらない。(理由はそれなりにありそうだけど、長くなるから今日は書かない。)

 

ですから、自分の反応と、共鳴した時の反応の「感じ方」の微妙~~~~~な違い気がつく時がある程度だと今は思ってる。

そう、最初はわからないんだけど、そのうちに、反応の「感じ方」の微妙~~~~~な違いに(アレ? これ私(自身の反応)か?)とうっすら気づいてくる時がある。

こんな風に仮定したらやけにしっくりきた

「ミラーニューロン」と「時間」の関係と可能性

だから、現実と「その背後」と書いて良いのかわからないけど、

現実(目に見えている現実と書くと良いのか?目に見えているものは現実か? いや、目の前のモノだってヒトによっては見え方が違うから、今はそこはサラッと流してください。一応このカッコ内の文章にもリンクを貼っていますが、文末にも過去記事をご紹介します。)には時間という作用が働いて

「その背後」には時間という観念を持ち込まなくても良さそうな領域があるんだろうとなんとなく感じてる。

Markéta (Machová) KlimešováによるPixabayからの画像

 

「その背後」のイメージとしては、それはある種、私達の脳内での『「宇宙の地平」より先』という領域と言っても良いのかな? と思っています。

「宇宙の地平」と私達の認識の相似形について私風見解

 

人それぞれ、個々に内包している宇宙の性質によって、認識・認知できる範囲だって勿論違う。ミラーニューロンについての作用や反応、感知する範囲も「宇宙の地平」的な差異があってもおかしくないような気もするし。「人体には宇宙がある。」と東洋医学的な思想がありますが、こう聞くとその「宇宙」とは1つで、結局共通しているように思い込みますが、個々の宇宙はユニバース、この個々が集まってマルチバースが構成されているという世の中にあふれているフラクタル性(過去ブログにマトリョーシカ現象とも書いた)も考慮すると、実は単純なんだけど、理屈を説明しようとすると果てしない物語になりそうです。共通した宇宙もあれば、個々の領域の宇宙もあるというかなんというか。(書いていたら当たり前のことを書いている気がしてきた)

 

また話が横道にそれましたので、元に戻して続きを書きます。

 

以前、頭が一時的に良くなって、キレていた時に、「脳内に時間が無い」ということを事例を挙げて書いたのを覚えていて下さる方には伝わりやすいと思うのですが、今回 時間がないと仮定したのは「脳内」ではなくて「その背後」と書き記したい領域のことです。

多次元の理解。皆が元々それを体験しているという私風理解。

「私達の認識と脳内の特色」と「宇宙論」と「量子力学」

アダルトチルドレンや共依存、〇〇障害で起きている脳内ループ、スリップ

 

脳内に時間が無い=ミラーニューロンに時間の影響がない

 

というようなこと(というか、可能性というか、事例解説)を書きたいのである。

ミラーニューロンについては、会った事もない過去に生きていた方達の影響を受けるという説もあるが、それは一体どういう仕組みなのか?という意味でもある。「説」として結論だけを鵜呑みにするのではなくて、その仕組みを考えるのが好きだから。正解・不正解は知らないが、先ずは考えてみたいのだ。

 

そう、私は、事例解説が好きである。自分の半径数メートルくらい(ということは、皆様の半径数メートルと感覚は似ていると思うんですが)の現象で解説するのが好物である。

 

誰かが発表したまま文言を使ったりしたり、理解したつもりになることを好むわけでは無くて、自分で咀嚼して自分の言葉や体験を例題として事例解説するのが好き。

だから、興味の持てない内容の丸暗記が大切な学校の勉強は興味が持てなくてつまらなかった。

フラクタル理論は物理か? 化学か?

 

 

量子学や次元論など小難しく説明しても、分かったようでまるでわかってなかったりするし、

ただ「時間なんて無い」と聞かされると違和感を感じるけれど

こんなふうに「2つが共存してるよね〜」

それって、今目の前のことと、見えていないその背後の状態という2つの領域が共存してるという観念・イメージすると理解しやすくない?

なんて思った。

「脳内に時間が無い=ミラーニューロンに時間の影響がない」をもう少し書き進めてみよう

自分におきているように感じる現象を

コレってどんなこと?と感覚を辿っていったら、こんな風に捉えたら小難しい学問風なことも理解しやすいかも?と頭に浮かんだ。

 

ミラーニューロンという事象(というのか?)を1つ説明文に加えると、私にはヤケに「時間」という概念のカラクリが今まで以上にクッキリと見えてきたような気がした。

 

アレ?

私ってまた頭が良くなってきたか?笑

 

そう、そして、個人セッションの後ではなくて、

個人セッションの前に私はクライアントさんの相談前の状態に共鳴して

同じく個人セッションの前に、クライアントさんのセッション後の身体の軽さに共鳴する。

と、感じるような感覚を得て(そんな気がして)、並行世界があるという前提に立ったならば、今回のクライアントさんとのセッションについての2つの世界の時差は24時間位(1日〜2日)かな?なんてことにしてみるとしっくりきた。

 

なんと! ここまで書いて、既に同じことを書いていた自分の過去記事を見つけた。

_| ̄|○

 

 

本当に繰り返し同じことを書いている自分をこんな風に突きつけられると

ガックリ _| ̄|○

するんだけど、自分の脳内スリップのさまを再発見できてこれはこれで自分が過去に書いたことを立証しているようで面白い(ことにしておこう)

そう、「脳内スリップ」ってほんと上手く表現してるよね~と違うところに感心したわ(笑)

アダルトチルドレンや共依存、〇〇障害で起きている脳内ループ、スリップ

 

よくよく見つめたら同じじゃなかった

ただ、同じことを書いているんだけど、理解の深さが進んでる感覚がある。ということは、同じ場所をスリップではなくて、統合が進んでいるようにも思う。

体感の深さと言ったらよいだろうか?

 

これまでも、感じた事、気がついたことを書いてきたのですが、同じ現象について触れていても、書いている私自身の感じ方が深くなったり、書いている自分に対して理解が進んだりしているようです。

 

オモロイです。

 

以前はもっとはっきり、「並行時間」と感じたものを、今回は、「ミラーニューロン」側から時間を感じている。時間、ミラーニューロン、HSPの関わり方を以前とは異なる角度でその関係性、関わり方を見ているような気がした。

 

多分こういったことを自分では「立体的に理解する」と感じているようだが、本当は誰でもが行っている脳内処理なのかもしれない。自覚の有無の違いだけで。

 

そして、今回

あ!!!

と思ったのは、これらに「個々のユニバースと集合体のマルチバース」「地平のはて」みたいな概念が加わった(統合が進んだ?)瞬間に、スリップしているかのように同じような所を深堀していたら、陰極まれば陽となりみたいに、ポンっと明るい場所に出たような気がした(笑)

Peace,love,happinessによるPixabayからの画像

 

オモロイっす。

 

的外れなのかもしれないけど、それはそれで可能性を検証するという意味では満足しています。

 

そう! 理論、観念を現実に起きていると感じる身近な事柄で理解できたような気がして満足しています。

 

そして、私はこういった話を他人様とするのは全く好んでおりません。というより、私(武田)と会うと武田は好んでこういった内容の話をするんじゃないか?と想定する方もいらっしゃるようですが、全く話題にしません。相手の方が何か興味を持ってくださって話を振ってくだされば話題にしますが、元々大した学術的な知識がないから大した対話のラリーも出来ません。

 

自己研究が好きなんですね。

そして、中には私の自己研究に理解を示してくださって、ヒントを下さる有り難い存在が居てくださったり、(こういう考え方があるよ)と教えて下さったり、(それは〇〇という言葉があるよ)と追い風を吹いてくださる有り難い方がいます。

だから、私はそういったヒントを下さった皆様に、その対話のあとに私が次に疑問に思った点をいろいろ質問したいんです。またはお礼を言いたいです。

 

RalphによるPixabayからの画像
今はこの写真の頃とは眼鏡も髪形も変わっています。

 

参考過去ブログ

先述した『「現実に見ている」というつもりのもの。』について書いています。

目と脳と身体と思考の調和・統合

余談

脳内スリップと「ミラーニューロン」が何かしら影響し合っている? と一瞬脳内をよぎった。

 

が、今はまだなんにも浮かんでいない。

 

そして、やっぱりなんだか、また頭が良くなってきたような気がする。脳内の独特のスッキリ感も戻ってきたような気がする。気のせいか? 思い込みか? 答えは無いけど。

 

念願の晴れ姿を見た

我が子じゃなくても我が子感

勝手に我が子感

以前ブログに書いた彼の晴れ姿を見ることができた。

願いが叶っておめでとう!

 

私はこれ(彼の晴れ姿)を楽しみに、非常にヤバかった2~3カ月を頑張った。

もうダメだ。本当の母ちゃんじゃないから弱弱メンタルでもう耐えられない。ダメだ。もう折れる!というか、もう折れかけていてあとちょっとで真っ二つになる。というような断崖絶壁感のときに神風が吹いて私の方の環境が変わった。

 

私が自分の環境が変わったことですっかり元気を取り戻し、意気揚々と無事息子ほど年下の友人の晴れ姿を見に行くことができた。

 

彼も嬉しそうだったし、制服姿が超かっこよかった。

 

他の仲間にも晴れ姿の写メを送ったら、彼女も「息子みたいに嬉しい」って言っていたし、二人共他人なのに共通した「自慢の息子感」で盛り上がりました。(笑)

 

彼の性格の良さが周りに引き起こす化学反応だなぁといつも思う。

彼のファンというか、彼を好きな方って男女問わず多いんだよね。

凄いよ。

 

自慢したくなる気持ち

自分が好きな人や好きなモノを自慢したくなる心理ってありますよね。

何度も書くけど、私には子供がいないので、「我が子を自慢」感ってやっぱり無くて、以前愛犬が居た時は「賢いのよ~」としみじみ思っていたので、ひょっとして一番近い感覚だったのかも知れない。

チビッ子たちや年の離れた知人、友人も、年齢は無関係に他人として認識していたし、凄い!と思えば一人の人間として凄い!と思ってきたし、それは今も同じ。

「年齢なんて関係ない」と信じるようになったのも、これまでのチビッ子~先輩までの多くの有り難い出会いがあったからです。

 

カワイイが最強

そうか、仲間の彼女がいつも「可愛い、可愛い」って言っていたのを思い出す。

 

可愛いって最強。っていう言葉をどこかで目にして以来、ホントだ!って思ってる。

 

私の故・溺愛犬もとにかく可愛い!だけだった。アホなことしても賢くても可愛くて、ただ可愛がっていたんだけど、やっぱり当時の私の支えになってくれていましたよ。

また会えるのなら、飼いたいですね。可愛かった、賢かった、アホだった。(何年も前に死んでいますが)

 

下とは ↓ 種類は違いますが、そもそもは引き取り手の居ない迷子犬をウチの子に迎えたんです。

スパニエル属でした。

John WrightによるPixabayからの画像

 

故・溺愛犬が名古屋で危篤の時は、私は沖縄で夜眠っていたのに、実際に抱っこした感覚があるような夢を見ましたし

他界したあとも夢に出てきましたが、非常に意味深な脳内映像でして、「天国行ったな。良かった。」と思えるような夢でした。

 

あなたには、「カワイイ」がいますか?