本日はこちらの続きです。

磁場は幾つもあるらしい

私がストレスを感じる出来事に「パソコンの動きが遅い」というものが有ります。動きの遅いPCを使うという事はある種我慢を強いられる。残念な事に私のMyPCが前はあんなにサクサク動いていたのに今では旧時代のPC感がすごいです。買い替え検討の1位はマイカーでしたが、PCも同列1位です。随分前に検討していた、PC作業をipadに移行してみようかな。試しに。

 

磁場は幾つもあるらしい

という説

磁場は幾つもある。という説を聞いた。どういうことかと言いますと、脳の磁場と心臓の磁場は違うというようなお話だった。

それぞれに核(?)のようなものが有るから、超簡単に書くと、身体には2大磁場があるというようなイメージなのかな。

別の説

先程の話も、この話も、「説」なのか実際に証明済みなのか不明ですが、以前もブログやホームページのコラムに書いたように、感情にも磁場がある(らしい)。

そして、人間関係、環境も磁場が影響する。

 

磁場だらけである。

その中で、何からも影響を受けずに確固たる「個」を貫く事があるのか?ないのか?出来るのか?できないのか?となると、やはり私たちは揺れているなぁと思った方が辻褄が合いやすいような気がしている。

揺れている、動いていると感じるものは他にもある

髄液

前回、私が施術を行っている最中に「揺れ」(振動という細かいもの)を感じると書きましたが、それは自分の拍動、または施術を受けている方の拍動ではないのか?と思う方もいるかもしれないな~と思ったので、もう少し書いてみます。

そんなこと誰も思っていないかもしれないけど書く。

 

拍動とはまったく振動のリズムも細かさも違うんです。そうだなぁ・・静電気ってどんな感じ?ということを知らないけど、静電気っぽいと書きたくなりました。バチっとくるアレじゃなくて、本当の「静かな電気」って感じ。

 

私が最初にキネシオロジーを学んだ本間先生はLA近辺でナンバーワンの評価を受けているカイロプラクティックのDr.で、とにかく治療する件数が多い。早朝からずっと予約でいっぱい。LA近辺の日本人だけが来院されるのではなくて、人種関係なくそれこそ人間の身体に触れて診てらっしゃる。

10年以上前に本間先生から頭部の回復点に触れてバランス調整をするというスキルを習った時に、「波がある」「拍動とは違うリズム」「ドーン、ドーンという感じ」と解説されたのを今でも鮮明に覚えています。

脳と脊髄が硬膜という袋の中に入っていて、髄液で満たされている。当時は、この髄液の動きを感じているのだろうと勝手にイメージしました。(先生がはっきりとそう解説をしてくださったのかもしれませんが、そこは忘れている。)しかし、本間先生が人間に触れて何を感じられるのか?を当時の(今も)私がそのまんま想像できているとも思えない。髄液以外のナニカを感じていても全然不思議じゃない。

 

そもそも論

そう、私達の心体はいろんなリズムで揺れまくっている。(生きている間は)

 

本当に生きているって奇跡だと思うし、壮大なシステムが働いている。

 

その奇跡と壮大さを忘れたり、気づけなかったりすると、まことしやかな情報や常識というレッテル、比較をしてあれやこれやで悩む。苦しむ。喜ぶ。

私も散々やったし、これからもやるだろう。

そして、それも人生。それが人間。

 

しかし、今回書いているような視点に立つとこれらを「素晴らしい不確実性」とも呼びたい。「人生はギャンブルだ」と人類で最初に言ったのか誰か知らないが、きっとその方はナニカを見通した一瞬があったんじゃないかな。

 

また、「この世は幻」という名言の作者もこの「不確実性」というようなニュアンスを肌で感じたか、視覚で捉えたか、なにかあってもおかしくない。

 

安心したい、安定したい、と望むけれど、そもそもが揺れているし、不確実性の上に成り立っている。と思うと、狭い意味の柔軟性ではなくて、そもそもの意識の持ち方や生き方の設定が180度変わった時に「楽になれる」というケースもあるような気がする。

法則も変わる

前回の記事で、苦労の前払いシステムは全人類に適応されるのか?ということを書いたけれど、そう言えば故・水木しげる氏は「努力は自分を裏切る」ということをおっしゃっていた。「努力は叶う」という金言を肯定されてはいなかった。それは漫画家界で志半ばで去っていく多く(ほとんど)の方を実際に見たからだそうです。(これについても過去数回ブログに書いています)

 

そして、いろいろな法則や教えのようなものを発表されていた故・小林正観さんも他界される前に「私が言っていたことは違っていた」とおっしゃったという情報をどこかで目にした。世の中を牽引したカリスマでしたが。具体的にどの部分を指して「違っていた」とおっしゃったのかまではわかりませんが、私個人は、生前氏の主張されていた「法則」というものに非常に違和感や ??? という考えになったことがあったので、過去、世の中(あるいはスピリチュアル界)を牽引した方々が前言を撤回されても全然ショックは受けない。

カリスマだって揺れるという事ですよね。

長い年月という時間単位の揺れ。その長い年月の揺れを生む「今この瞬間の揺れ」と、その連続によって。

環境が変わって視点が変わるってこともある。過去に3大カリスマについて書いたことがありましたが、その時に既に4大カリスマと書いても良かった。

思考と想念と感覚と実際

 

それを、カリスマたちの間違いとレッテルを貼ることも出来るけれど、ただ単に「揺れ」とすることも出来る。私は個人的に「揺れ」と捉えることにしている。

人生にはいろんな時期があって、いろんなことを信じている時期があって、いろんなことを否定している時期があって、というように。

 

軸足

前回も書いたし、度々書きますが、揺れているのがデフォルトとしても「軸足」みたいなことまで揺れているよりは、大まかにザックリと、ぼんやりと自分の人生の過ごし方をうイメージしていると良いんじゃないか?などと思ったりしている。それは、私個人的には目標設定とは違う。その意味合いは、人生=目標達成というわけじゃないから。

 

しかし、ここがどうやら難しいらしい。

それは「条件」と「自分の軸足」がこちゃまぜになってしまうからのようだ。

ごちゃ混ぜにしてしまう多くのシチュエーションのうちの1つに、「法則」というものも一役買っているケースがあるよね? どう? そういう法則って、唱えている方のハロー効果まで含まれていたりするから厄介をこじらすことがあったりして、こんがらがった紐が益々こんがらがったりして。

 

どうであれ揺れているんだろうけど、そのアレモコレモの揺れ具合が美しい旋律を奏でている時ってあると思うんですよ。今日現在の私の勝手なイメージでは、その美しい旋律を奏でる土台として、その旋律を時々妨害してしまう世の中やそれぞれの脳内の「条件」「条件付け」がなるべく少ない「シンプルな自分」という状態が良いような気がする。

 

時として「愛」という言葉も、シンプルな自分から湧き出る愛ではなくて、なにかしらの条件(や条件付け)として使われているケースもあるような気がする。

 

こういったことも、長い年月かけて揺れて揺れて揺れて、わかってくる場合もあるし、わからない場合もあるだろうけど、それも個々の人生の「軸足」にかかってくるのかもしれない。

私自身もこの先のことは不確実でしかないけれど、今日現在は生きていて嬉しいし、生まれてきて幸せ。

ようやく「お友達との会話」について書きます

腰を抜かすほどではないが、ここからが本題で今までは助走であったことに驚く方がいるだろうか? 毎度すみません。

 

これも科学?

歪んでいるのは次元? 空間?

上のブログで「お腹の宇宙」について書きました。

 

そしてそれが「泡宇宙」にひょっとして繋がった(発想が。という意味)??? となりました。

こんな話をアレグリアの開場を待っていた時にお友達に話をしていたんですが、実はお友達に会う前にブログに書いた感覚に加わったイメージがあったのでそれも話したんですよ、お友達の彼女に。

 

いやもう、こんなこと書いたら、益々(ヤバイ! このヒト いっちゃんてんな~)と思われるであろうことを覚悟して書きますが、言い訳としては ただの脳内に沸いたイメージなんで そこんとこヨロシク です。

 

細胞の1つ1つに銀河がある

私の場合はお腹にも脳内にも、他にも宇宙というか銀河みたいなものがイメージできるのですが、(ということはどこにでもあるってことだな~)って思ったら、ふと

あ! 細胞1つ1つにも宇宙ってあるじゃん

と思ったんだよね。 という話をしたんです。(2大磁場とはまた毛色の違う話になってますが。)

 

そう、これが当初の「今回のブログの結論は、お友達と会話したことです」という結論のはずでした。

 

が、今回の文章をここまで書いてきて、またまた ふと 思ったんです。

 

細胞の1つ1つに宇宙があって、それで構成されている人体は確かに「あってないようなモノ」なんだなって。

あらまぁ トンデモナイことに気がついちゃった。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

 

これまで、言葉では色んな表現で聞いてきたようなトンデモナイことが、自分の感覚と独自のルートでなんだか理解できるような気がしちゃった。

 

あらまぁ

 

私はとりたてて興味がないのですが、「真理」を知りたい方々はこういったことが興味の対象なのかしら? もっと他の何かなのかしら?

真理を知ったら(触れたら)世界が変わる(変わって見える)と信じて追及されたりするのかしら?

 

私が体験(と書いて良いのかわかりませんが)した限りでは、特に生活は変わらないっす。ザ・人間のままですし。ザ・人間で良いですし。

知識欲というか、研究者欲としては1つの新しい感覚体験として有り難いですし、この僥倖に感謝してもしきれませんが、今まで通り ザ・人間です。

 

私はそれで良い。今幸せ。

みんな一緒

これは以前も書いたように皆一緒というか、誰でもある。単なる、気がつくか?気がつかないか?の違いだけなはずですが、カリスマでもないから有難みは特にありませんが、こんな風に文章に起こしてシェアするという一個人としてできることをしています。

 

この記事を書きあげた今日は、天気が良く、湿度も低めで風が爽やかで、とっても心地よくて気分が良い。生きていて嬉しい。

真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をする前も生きていて嬉しかった。真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をした(?)今も生まれてきた喜びは変わらない。

ただ、ありがたいです。

 

みなさまにも、喜びがありますように(^^)

自然に笑顔になってしまうような出会いがありますように(^^)