セルフケア講座のご感想

セルフケア講座とは?

こんな内容です

ホームページでご紹介していますので、興味をお持ちの方はお読みください。

↓ ↓ ↓

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! | 心体カウンセラー 武田美紀|沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談

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そしてセルフケア講座 参加者さんのご感想

<講座で得たいものは何ですか?>

 

 

(記入用紙をご本人にお渡ししたため、ご本人のその時のお気持ちが正確に書けません。よってこちらは今回は空白です(^^))

<講座で得られたものは何でしたか?>

セルフで筋反射を得るための具体的な方法やコツを学べただけでなく、ONとOFFの感覚を実際に自分の身体で体験できたことが非常に大きな収穫でした。
この感覚を身につけたことで、今後セルフでキネシオロジーを行う際に、自分自身の感覚を信じて取り組める自信が持てました。
また、武田さんに実際にキネシオロジーをしていただいた際、自分の身体が示す反応にとても驚きました。
自分の身体や、普段は意識していない潜在意識と向き合う貴重な機会を得られたこと、そしてその具体的な方法を学べたことが、今回の講座で得た大きな成果だと感じています。

<今後、自分でチャクラを整えたい!講座の内容を活用できそうですか?>

忙しい毎日の中でも、講座で学んだ内容を活かして、自分自身の課題や問題と向き合い、チャクラの状態を確認・調整する時間を持つことで、生活の中に落ち着きやバランスを取り戻せると感じています。
今後もセルフケアの一環として、積極的に講座の内容を活用していきたいです。
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ありがとうございました!

我が家は暑いんですよ。暑い室内が苦手な方は涼しい季節に予約変更をご検討ください。ということもお伝えしています。

引っ越すまではこのような環境です。

 

今回の受講生さんにも「暑くてすみません!」と言いながら講座を開催しましたが、とっても楽しい講座でした。

「痛みのケア」を体験

セルフケア講座なので、もちろんどんどんご自分でストレスケアは行っていただくのですが(実践講座なので)、講座受講の際にまずは気になるストレスが1つでも減っていた方が良いと考えて「痛みのケア」を私が行いました。1分?2分?くらいの施術です。

 

痛みのケア

↓ ↓ ↓

沖縄 痛みのケア(ペインケア)|頭痛、腰痛、肩、首、顎関節症、手首、足首、生理痛 | 沖縄心理カウンセラーカウンセリング

 

「痛みのケア」以外にも

全身の筋肉反応をチェック、調整する体験セッションも行ったんですよ。

折角なんで。

 

この日以降、他のキネシオロジストにもセッションを受けやすくなりますでしょ? 一度体験してみたら。

アンケートによると、その際のご自身の体感が興味深いものだったようですね。

 

バランス調整

バランス調整を実感するって大切だと考えていますから、講座内でも臨機応変に施術も行います。

自分で考えて構成したコンテンツなので、規則や規制を気にせずにいられることが本当に良い。一生使える知識やスキルを講座でお伝えできて、他に何も販売しなくて良いのがまたまた良い。

シンプルでいられるのが自分の好みに合っていて良い。

 

講座の中でいろいろお話しました

受講生さんといろいろお話しました。楽しかったです!

ご質問も受けました。正解は不明ですが、わたくし個人の現在の考え方などはお伝えしました。

 

いろんなものを吸収されて、ご自身の体感も増えて、今度ご自身の考え方、受け止め方を構築されていかれるのだと思います。

 

楽しい機会をありがとうございました(^^)

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逃げる権利 一例

常識が正解だと思い過ぎる弊害

生育環境や家族環境について

親を尊敬しなきゃいけないとか、家族愛が一番大切という美しい言葉が自分の人生を苦しくする呪縛になるときがあります。

機能不全家族ってあります。自分の家族がそれだと思いたくないという心理が働く時もあるし、自分が機能不全家族の犠牲者だと思うときもあるし、それが事実なときもある。

ですから、悩みがあるときは他の方の相談などを参考に調べてみるのも有効です。その相談者と同意である必要もないし、その回答者が正しいと思う必要もないのですが、世の中のいろんな悩みを見聞きした時にふと自分を客観視できるときもあるし、支えになるときもあるし、妙案が手に入るときもあると思う。

 

私は読書を沢山してきましたが、本の中から(これはいいな)と思う考え方を自分に採用したり、事実を認める役に立ったりしました。

 

自分の世間が狭いうちは生育環境や家族環境について客観視する判断材料が手に入らない時がありますが、生育して年齢を重ねていくときに「自分の人生」にシフトしていける。そうしようと思えば。

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回答者と同意である必要はないけど、とある1つの考え方として知るのは有効的だと思う

例えば、今の日本に不満があるとしましょうか。仮定です。

国を運営しているかのような立場の方はいわゆる上級国民と言われる方だったり、官僚だったり、政治家だったり、司法だったり、行政だったりするんでしょうか? 超大手企業とかもそうですよね。

これらの皆様はほぼほぼ高学歴ですが、あなたが今の日本に不満があるとしたときに、非常に通りの良い、聞こえの良い学歴や家柄はあなたの幸せな生活に役立っていないかもしれないですよね。なのに不思議とあなたの日常に非常に通りの良い、聞こえの良い学歴や家柄の方がいるとためらいなく尊敬したり、無条件に信用したり、正しいと思ってしまう。

不思議です。

レッテルとか、条件にどれほど影響を受けているか?という風景は人間社会では当たり前だとしみじみ思う。

 

相似形の1つの例になったかしら?

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24:43~の相談も見てみてね

逃げる権利 逃げないことで得ている利益

24:43~以外の相談も見てほしい。が、責任のないことに「加害者にされる」ケースとして良い一例かと思います。

他にも有名なセリフは、我が子に、「あなたがいるから私は幸せになれない」などがあるでしょうか? 我が子に「あなたさえいなければ離婚できるのに」というセリフもあるようです。

このような言葉を親から言われたことがある方は一度24:43~の相談と、その回答を見てみてください。

回答者の岡田氏が正解とは言っていません。が、親を尊敬しなきゃいけないとか、家族愛が一番大切という美しい言葉が自分の人生を苦しくしているのなら1つの回答としてご紹介したい。

 

生育して年齢を重ねても「自分の人生」にシフトしないことを選択することについても動画の中でご意見をおっしゃっています。

祈りと呪い 相手のため?

願いを叶えたい

それは息子を変えること

そのために必要なのは「心を折る方法」

前回、決して祈りを否定しないし、私も祈りますが、

「「他者を変えたい」となればそれは呪いじゃない?」と書きました。

相似形 考察「無関心」 – 武田美紀のブログ

 

書いた後、(もっとわかりやすく書けるなら書きたい。)思っていたんですね。

そしたら、適した話題を得ました。

こちらの動画の中に、「息子の心を折る方法を教えてください」という【とある相談】があります。それがケーススタディとして向いていると思えました。

 

特殊ケースじゃない

親子

お子さんの幸せを願う親御さんは多いですが、ご自身が愛だと思っているものもいろいろです。

いや、親なら全員子供の幸せを願いますよ!というご意見もあると思いますが、おそらく全員ではありません。八つ当たり、イライラの発散相手として非力な子供を選び、死に至らしめる親はいますし、どうしても子供を愛せません!というお悩みもあるようだ。愛していない。という自覚が無い方もいらっしゃるかもしれない。

自分の承認欲求に役立つための条件に合う「子供の幸せ」以外は認めない。ということもあるでしょう。

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夫婦、恋人、好きな相手

例えが極端ですが、藁人形も祈りと言えば祈りですからね。

痴情のもつれという言葉があるように、アレコレともつれたら呪いと感じるような祈りも発生したりする。古今東西の芸術作品にも影響するモツレが。

双方の健康的な愛情ではなくて、自分のためだけの愛?愛もどき?もある。

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直接知らなくても

私は自分のできる範囲で寄付をしますが、寄付の先の皆さんの幸せを祈ってはいても、直接は知りません。

芸能人やインフルエンサー、ネットの中の誰か、知人の知人などなど、ファンにもなればアンチにもなる。

 

だから、と書くのは適していませんが、「祈り」と書くとなにやら良いイメージ、良い行為だと決めつけがちですが、その内容によっては風味が変わってきますでしょ?

ヒトを知る、他者を知る、自己を知るって奥が深いなぁって思います。

 

ヒトを知りたかったら、まずは自分が先だとつくづく思いますが、こんな単純なことになかなか気づけない。私ももちろんそうでした。今でもそうかな?まぁそうでしょうね。(笑)

 

本当に人間って興味深いです。

 

それにしても

岡田氏の動画を数年前は見ていましたが、今はもう遠ざかっています。が、丁度いいタイミングでおすすめに出てきてよかった。動画を見てもらったら話が早いから。

しかし、この方、幅広い世代にファンがいる。これはすごいことだと思う。

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相似形 考察「無関心」

他者を観察ではなくて

心理の研究はまずは自分から

ここにもフラクタル形があるねぇ と思った話

「自分と世界は相似形。自分と宇宙は相似形。」と書いてみた。

 

いやいや、ナニソレ!? スピ? コワインダケド。

 

そう思われました?ですよね? (笑)

 

ははは、書いた私が笑えてきました。

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今回私が注目したのは「無関心」という現象

そのためにも自分を冷静に観察してみる

私は発達障害系のいろんな要素が少しずつ?沢山?持ち合わせておりますので、「興味が無いモノを勉強する」ということが苦手です。ですから、勉強自体が好きとか、良い成績を取ることに興味があるのなら優秀でしょうが、これらは私にはモチベーションにならない。ですから、興味がない教科がありますと大変でした。興味のない商品の営業をするのも非常にキツイ。しばらくはできるけど、長くは続かない。

(自分はバカなのか?)

とも当然思ったんだけど、しかし、ヒト様が気が付いていない「心理」とか「精神」「感情」「その行動をとった思考展開」とかは誰に教えてもらわなくても子供のころから割と理解していたから

(100%バカじゃないかもしれないけど、さりとて自分を活かすこともできない)

という感じでした。

 

なんなら人間の闇のように感じる側面や、負・ネガティブと感じるものをじゃんじゃん知覚するわけですからね。子供の頃は自分にもそういった要素があると理解するに至らず(あぁ 嫌だなぁ)(この世は理想と現実が乖離しすぎているなぁ)(言いくるめたいんだろうな)と思うわけですよ。子供ってこういう思考をするんでしょうね。

 

しかし、いくら私が(嫌だなぁ)と感じようが、「心理」とか「精神」「感情」「その行動をとった思考展開」ということに興味・関心があったということにほかなりません。

 

そして、この後

(あぁ 嫌だなぁ)と思うソレは自分にもあり、

(この世は理想と現実が乖離しすぎているなぁ)と思うソレも自分もあり

(言いくるめたいんだろうな)と思うソレは、自分の本心を誤魔化す自分にもあるという

悲しい現象にも気が付くんですよね。

 

他人のこと、社会のこと、環境のことが不満に感じたその時に、同じようなものが自分にあるか、そうさせる要素が自分にあることが実に多い。

嫌なら嫌だと意思表示したらいいのに、それをするのは疲れるし面倒だし嫌われそうだから、自分では何もしない。それどころか、他者を操作して自分の欲求を満たそうとしたり。自分の手を汚したくないみたいなイメージかなぁ。

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今回私が注目したのは「無関心」という現象

ここしばらく、「無関心」という現象について考えていた。

 

前回のブログを書く前から推敲しているんだけどこちらの続きにもなるかな。

→  全てをあきらめると幸せになる?! – 武田美紀のブログ

 

ナニカについて発言があるとかないとか、行動したとかしないとか、そういったことは2次的要素と分類して、そもそもの「無関心」。

これは私が自分について注目したら1つの答えがわかる。そこで自分を観察した。自己観察というか、自己分析。

https://takedamiki.wpxblog.jp/20240129/

例えば

「A」に無関心だとする。「A」はヒトでも事象でも物でもいい。

Aに興味が無いということは、Aに対する愛が無いとも言い換えられる。関心が数ミリだとしたら、数ミリの愛しかもっていない。数ミリの愛を持っている。

子供に興味が無い親もいるが、子供に愛が無い。日本に興味が無いのなら、日本に対する愛がその程度。

 

がしかし、人間はそれまで興味がなかったけれども、失う、無くなるとなると「惜しくなる」こともある。初めてそこで自分に「惜しくなった」分量の愛があったんだと気づくこともあるだろう。無くなるのは惜しいけれど、それに至るまでにいつも意識するほどの量の愛はなかったとか。

 

さんざん家族を顧みなかったけれども、家族が去ったり、身近から失ったときに「愛していたんだ」と気が付くことがあると聞きますでしょ?

無理に無理を重ねて体調を崩して、健康の大切さを思い知ったとか。

 

あって当たり前、居て当たり前と思ってることって、それに対して愛を自覚しているとは限らない。

 

愛って不思議ですね。

 

与えられるものじゃなくて、気づくものだという一文を目にするような気がしますが、「なるほど」と思ったりします。

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自分に興味がない、自分を愛してない

自分のことがわからない。私は私を知らない!と感じる瞬間があったりするけれど、じゃあアレはどういうこと?

 

自分よりもほかのナニカを優先していて、それまで自分を愛していなかった可能性もある。自分に興味が持てなかった可能性がある。自分の愛し方を知らなかったかもしれない。

 

「他のナニカ」の例として、

  • 世間体とか
  • 他者の価値観(親とか)
  • 夫、妻、家族
  • 地位、名誉
  • お金
  • プライド
  • 自分の思い込み、価値観

これらは「他のナニカ」に該当するだろうか?

 

自分には興味や愛があまりなくて、他力本願意識はあったり。

人間って複雑なんです。シンプルだけど複雑。こんな表現をしたくなる時があります。それは、意識や意図以外にも偶発性や奇跡性が大きく影響しているからだろうか。

 

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これらの相似形、フラクタル性を感じた

政治的なことを勉強しています。とすでに書いていますが、私が日本に大した愛が無ければ、日本の政治家の多くや、多くの国民も同じだろう。

こんな日本に誰がした!と怒ったとしよう。

それは自分もそこに含まれているという相似形をしみじみと感じた。

 

私は「どうせ」と諦めていたので、こんな日本に誰がした!と怒ることすらないわけだから、その程度の愛の量だった。

しかし、「これはまずい。国を失うかも。」と思えば勉強もするわけだ。「嘘ばっかりだし、すでに失っているかもしれない(そもそもそう思っていたんだけど)。しかし諦めたら最後だ。」とこれぞ悪あがきかもしれないが勉強を始めた。

あがけるうちはあがいてみよう。

 

日本人が目覚めるとか、覚醒するとかスピ界で好んで発信されているが、急に悪あがきして勉強を始めることがコレにあたるのならそうだろう。

目が覚めたから、覚醒したからと言って何の保証もない。そう今書いていて気が付いたのは、スピ界の方は、目が覚めたら、覚醒したら「幸せが保証される」「勝利が保証される」みたいな理解してませんかね?

それはやっぱりスピ界の思想遊びだと思う。現実はまたそこに「行動」というような具体的な何かが加わらないとバタフライエフェクトは起こらないんじゃないかな? 少なくとも「現実の保証」「結果の保証」はされてないと思う。

 

思念だけでなんとかなれば楽だというのはわかる。

ネットの中のどこかで、祈れば神風が吹く。という言葉を見た。私は不勉強でしたので歴史に明るい方に質問した。

「祈れば神風は吹いて平和になるんですか? 過去もそうだったんですか?」と。

答えは「神風が吹かないことも何度もあった」ということでした。

 

政治と、国と国の権力闘争、メガ企業の戦略に祈りがどこまで届くのか? スピ界の公式・法則保証があるならば、すでに、いや、とっくに届いていて世界平和が実現していてもおかしくないと思うけど。

 

世の中の事象すべてに、スピの公式で一点突破するのは難しいのではないかと今日現在は考えています。世の中に相似形、フラクタル性が存在するとするならば、陰陽両方あるわけだから。

陰の属性の祈りも陽の属性の祈りもあることになるし。

 

現実を認知することも大切だと思っています。

スピ界の思想は、ある意味、現実認知に対しては無関心、興味が無い、愛が持てないということかもしれない。と書いたらひど過ぎるだろうか? ひど過ぎたらゴメンナサイ。

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祈り

私も祈りますが、「(私が)祈ればすべて解決!」とは思っていない。解決する分には大感謝ですが、他者を変えることはできないという意味的に、私が祈りによって他者を変えたい意図はない。「他者を変えたい」となればそれは呪いじゃない?

 

祈りにより自己内部の平安が訪れることがあったり、愛を再確認することもありますが、祈りで外界や他者を変えてやるぞ!というソレは下手したら呪いとなるので注意した方が良いし。

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まとめ

言いたいことが伝わるように書けているだろうか?

 

世の中の相似形、フラクタル性をもし人間側から利用できるとしたら、「まずは自分から。」「自分が行動する」ということが冒頭に書いた

「自分と世界は相似形。自分と宇宙は相似形。」

にならないだろうか?

 

変えたいこと、理想がある。ならばすでに関心を持っている、その関心・興味の本質(愛?欲?嫉妬?羨望?支配欲?)を自覚する、愛の向け方・表現の仕方を考える、まずは自分から行動する。

こんな感じ。

 

祈りも「行動」にカウントするのは好き好きだけど、祈り以外の「結果から逆算したより具体的な行動」が一層バタフライエフェクト的には有効だろうと感じる。

 

おそまつ(笑)

全てをあきらめると幸せになる?!

情熱などは無い方が良い?!

愛もない方が良いかもね

私はたびたび、ふと耳にしたり、目にする言葉に

ハッ!

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とする、させられる。

 

どなただったかなぁ、どこで目にしたのかな?YouTubeの中でおっしゃったような気がするけど。

 

「すべてをあきらめたら幸せになります。(幸せを感じられます。だったかな? 楽になりますだったかな?)」という言葉。

 

この場合のあきらめるは、放棄するというような、関心を持たないとかそうゆうニュアンスだった気がする。「執着を失くしたら幸せになる」という言葉に置き換えられるのかもしれないが、私は置き換えたくない。

理由は今から書きます。

 

そしてその理由の説明に自分が書いた前回のブログを利用します。

それはこちら

ただいま勉強中 – 武田美紀のブログ

 

幸せってナニ?

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光があるから闇を感じる。闇があるから光を感じる的な意味合いですが、(昔ホームページのコラムを書く際に引用した)古いヨガの師(祖)がおっしゃった、修行する意味?修行の目的?とは「死んでいるように生きる」という話がありましたけれども、死んだように生きていることを幸せと感じる方もいるのかもしれないし、そもそも「幸せ」とか感じないこと、求めないことが最終目標とも解釈できますでしょ?

執着を失くして、生きている感覚も手放す。

 

私はこれに言うほど魅力を感じない。これとは無関係にヨガもしていないわけだか。

 

執着を心の状態、欲望の状態だとすると、状態を良い意味合いにするのも、良く無い意味合いにするのも、思想?教育?価値観?次第とも言えますか?

 

美しい愛にも、ドロドロの愛にも何かしら、どの方向性かによる執着ってあるだろうし、

人生を豊かにする情熱、人生が豊かに感じる情熱にも何らかの執着的要素ってあるような気がする。

平和を希望するとか、祈るという行為にも数パーセント?もっと?の執着を含んでいるように思うし。

減らず口でゴメンナサイ

減らず口を文字に起こすと、

「執着」にこだわることが執着だし、「執着を失くそう!」という執着だったりする。

これも昔に文章にしたけれども、「悟る」ことに執着するというパラドックスはありはしないのか?ということだったり。

 

そういう思想ならば、そりゃそうだ

だからある意味、

情熱などは無い方が良い?!

はたまた、

愛なども無くて良い

(と感じる)というのもある種の思想的にはそうだろうと思う。

 

楽しいとかもいらないわけだから。

いや、なんなら何があっても「苦しい」とも感じないわけだから。

プライドも無ければ、成功や失敗もないし、恥ずかしいとかもないし、清潔な洋服を着なくてもいい。

住むところが無くてもいい。

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自分がどんな人生を送りたいかだけ?

執着を失くすこと、悟りを開くことのみが人生だという方もいらっしゃるかもしれない。

 

私は楽しみも愛も光も闇も嬉しいことも悲しいことも経験があるが、これらを我がことだと感じることで感性や思考が育ったと思う。

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全てを放棄するというような、関心を持たない、なにも感じなければどれほど楽だろうかと思ったし、それが悟りという状態かな?とも思った過去があるけれども、そういう「遮断」系、「無感覚」系ではなくて、【あきらめる】を「明らかに見る」という言葉で使っての全てのことに反応するし、感情も動くし、不満も感じ、執着もするし、愛も欲するが、それらを認知して、気が付いて、あるものとして包括して、内包していく、受け入れていくことが「強さ」であり、生命であり、人生であるというようなことも悟りと表現したければしたら良いんじゃないの? と今は思っている。

 

自分の執着との共存、その共存の仕方を考えて理解して実践していくことを、悟りと言いたければ言えばいいと思っている。

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また

  • またあの人に会いたいな
  • またあれが食べたいな
  • 次はあそこに行きたいな
  • 今日は幸せ(平和)だった。これが続くといいな
  • 昨日より痛みが減っているから、明日はまたもう少し痛みが減るといいな

こういった欲望も生きているからこそ感じる。光も闇も両方。

大抵いつかは死ぬんだから、なにも折角生命を授かって生きているうちから死んだように生きなくても良い。いくら権威があるかもしれなかったヨガの師(祖)が推奨したとしても。

というような気持がいる2025年6月現在です。(笑)

 

師(祖)の推奨する人生もあるだろう。

しかし、自分が生きたい人生を構築していって試行錯誤しても楽しいと思う。

 

政治にしても、人生にしても、なんにしても全てが勉強しながら、考えながらなので、今回書いたことは今日現在の私の脳内にあったものです。

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ただいま勉強中

変わったことと言えば

思っていることを書くようになった

私の個人的なFacebookを見てくださっている方はいらっしゃいますでしょうか?

ものすごくFacebookから遠ざかっていたのに、最近動画をシェアしたり、いま日本で起きていることについて書いたりし始めています。

コロナ騒ぎの頃など今よりよほど発信しなかったのに、急に投稿を増やしています。

今だけかもしれないけれども、投稿内容は私がいま勉強中な様を記録しているような感じです。

右派とか左派とかタカ派とか、いろんな「派」の存在はしていますがその内容はわかっておりません。いい年齢なのに政治音痴です。

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馬鹿丸出しだが

その政治音痴、馬鹿ぶりをFacebookというある意味全世界に通じようと思えば通じる場所でお知らせしている体たらくですが、今まで自分の頭の中ではいろいろ思っていたけれども発信はしなかった方面のことでもあるんですよ。

なんでもかんでも思ったことを書いてきたわけじゃなくて、このジャンルのことはこの先一生書くこともないだろうと思っていたんですよね。基本楽しい話じゃないし。こういう話になると、その方の社会の不満を非常に感情的に私に向けて発散される方もいて、まぁ触らぬ神にたたりなし的にヒト様との会話には適さない話題だと学習もしたし。

加えて、私がなにか思ったところで、言ったところで、書いたところで何も変わらない。という深いあきらめによるものです。政治家じゃないからその現場を見ていないし、知らないことが多すぎて。とも考えたりしています。これは今でもそう。

なのになぜ急に方向転換?と自分でも驚いておりますわ。

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良くしたいという情熱を感じたから

いろいろな方向性、いろんな価値観で「良くしたい」とう考え方があって、それらがぶつかって戦争、争いが生まれることも確かなんですが、私自身が「ストレスケアは自分の人生を生きていくときに非常に有用で良いものだ」という情熱を持っています。損得じゃなくて、これは情熱ではないかと思っている。別に「心体カウンセラー™ 武田美紀」という仕事をしなくても「ストレスケアは自分の人生を生きていくときに非常に有用で良いものだ」と思う。だって自分の人生のとらえ方・感じ方が激変して良くなったから。

 

情熱という狐の皮をかぶったナニカとか、生きていると魑魅魍魎的な事象、現象、症状も見聞きするときありません?

愛という狐の皮をかぶったナニカとか

優しさという狐の皮をかぶったナニカとか

これらは人間には付き物で、良いとか悪いとか感じることもあるけれど、ただの事象、現象、症状ともいえるんですよね。

 

で、日本を良くしたい、とか、国民が幸せになるには?と考えてたり、行動したり、主張したりする方たちの中に、(そんなこと考えてないよね?自分の利益だけしか考えてないよね?)と感じてしまう方も入れば、そこには情熱があるな。と感じる方もいらっしゃる。

こんなことがきっかけでただいま、社会というか、政治というか、薄~~~~く勉強中です。

 

この情熱も、自分でお考えになっている自己発信なのか、他者の受け売りなのか?によっても、その情熱の感じ方が違うんだなぁとも思うことがあります。その違いを生む理由の1つにそのご本人の「感情」が関わっているんだろうな。と書いていて思った。自分が中心にいるのか、自分の感情だけが他者に揺さぶられているのか?ということかもしれない。

理性と感情という話になるのかもしれないが。

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職業でヒトは決まらないし、わからないし、1つの職業のなかも人間・社会の縮図だと思っているので、ヒトは見た目が9割とかいう人間の判断基準・能力を超えて、起きていることを冷静に見たり、現象をそのまま受け止めたりすることは大切ですよね。

それは心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアにも通じることだろうし、セルフケアしていく際にも、どこまでセルフケアを深めていくか?という自己選択にもよりますが、あるときには「自分を誤魔化さない。厳しい視点を持つ」ことが大切な時ってあるんですよね。

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深く話し合いましょう!と誘わないで。私も誘いません。

ディベート好きな方、政治の話をする話し相手を求めている方は私を誘わないでください(笑)

言いたいだけのご意見のキャッチャーになる心の準備はできておりません。

ただいま勉強中ですので、マイペースでやりたいです。

 

多分、私も過去、自分が何かに夢中になっていて、相手の方の興味や温度を考えずに辟易されたことがあるはずです。こうやってグルグル似たような現象が回っているんですね(笑)

 

ですから、心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアのセッションにいらしたら、私が政治の話をするってこともないです。セッションはセッション、My勉強はMy勉強。

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昔はLINEビジネスアカウントって呼びました?

現在はLINEオフィシャルアカウントと呼びますか?

「これを閉じました。」

というお知らせをホームページに書いております。

下記にリンクを貼っているのでご一読ください(^^)

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なるほど! 気力!?

聴いた小説によると

わたくしは門外漢ですので

そう! 私は世の中のすべてをわかったつもりにもなっていませんし、知っているとも思っていません。自分なりに考えたり、My統計をなんとなく意識していますが、いち人間というか、世の中のすべてを把握しているような存在でもないし、あんまりわかったつもりになっても怖いなと思ったりします。

悟りを目指してエゴ炸裂というようなことを昔ホームページのコラムに書いたと思いますが(ブログだったかな?)、自分の創造力やキャパシティ以上の領域っててんこ盛りあるというか、多分そっちの方が量的に圧倒的に多いだろうと思っているし、そういうスタイルでいた方が悪い意味での慢心をしない気がします。

ですから、小説、映画などからも知識を吸収しています。正解とか不正解とかではなくて、いろんな人の考え方を学んでいます。理由は門外漢だという自覚があるからです。でも私なりに考えたことと同じような考え方を見ると、そうそう! そういうこと! と納得したりします。

で、前置きがながくなりましたが、今回私が なるほど! と思った一文がこちら。

気力が枯れることをケガレ(穢れ)という

そう、そもそも前回のブログを書き始めたきっかけが上の小見出しのセリフです。

→ 浄化、邪気が気になる いや夢中だ – 武田美紀のブログ

 

気力か。

外的な何かの影響を払うとか、不浄なものを遠ざけるとか、そういう他責的なイメージではなくて、「自分の気力」という視点についてなんですよね。

私個人は、他からの影響で気力が枯れるということもあると思っていますが、でも、それに対して、栄養面でのケアや、自己の心体に具体的にアプローチするストレスケア、出来事に対する対処方法などなど自分で考えたり、思考力、行動(休憩する。ということも行動ですが)の選択、自分で期限はコントロールできないですが日にち薬も考慮に入れたり。

 

多分、穢れとか不浄とか自分も含むという言葉や教えは知っていても、行動や感情的には対象というか、標的は自分以外のナニカにすり替わっていることが多いような印象を受けることが多かったんですよね。

 

知識と感情の矛盾というか。

 

表現が適切かわかりませんが、払いや不浄という際に、感情的には、映画などで悪魔やドラキュラに十字架をかざして遠ざけるというようなイメージ、感覚なのかな?という印象が散見されるような気がした。

すると、他者(環境)から不浄はくるとか、他者(環境)が穢れているとか、多分それは人間の本能であろうとは思うんですよ。人間の本能どころか、それがこの世の理説があることも踏まえていますが、「健康的な思考か?」とか「朗らかか?」というような物差しを用いたときに、この「気力」という言葉の深みが浮き彫りになってくるような気がします。

 

そう、ご自身の「気力」。

他者をケガレていると忌み嫌う、排斥する、祓うことばかりに注力している最中のご自身の「気力」といいますか、「気の質」と言いますか、それは多分、あなたの内側の反応だと思いますが。

それは清らかさ、朗らかさというような気の質なのでしょうか?

 

笑いがケガレを払う

浄化だ穢れだ、そしてそれを祓うんだと、まぁ音叉でもいいし、アロマでもいいし、レメディでもいいし、何か文言を唱える方、お札やお塩やお酒も活用するケースもありますでしょう。何かしらの「型」のようなものを採用することもあるでしょう。

 

ところが小説の中のセルフには「笑いがケガレを払う」とあるではありませんか。

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素敵なセリフですね。素敵な考え方だと思いました。

 

私の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアのポリシーというか、モットーを「健康で笑い声のある生活をサポート」としていまして、この小説の中のセリフには非常に共感いたしました。

 

 

浄化やケガレというようなことに詳しくなって、知識をいっぱい得て、で、朗らかさや明るさやフレンドリーというようなことから遠ざかり、気が付いたらせっせと不浄を祓っているつもりでその思考に憑りつかれてしまい、忌み嫌っていた対象と気が付けばどこかが似てきていて足元をすくわれてた。

というようなことにならないようにしたいと思い、思っている次第です。

難しいですよね。書くのは簡単だけど、自分の状態を維持、把握するのって難しい。他責ではなく、自責でもなく、一旦フラットに物事をとらえるって難しい。

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テクニックと知識に足元をすくわれる

小説の中にはこんなセリフもありました。(あったような気がする)

 

「自分が賢いと思っていると悪魔にやられる」

 

知らない奴は馬鹿だ。といって他者を馬鹿にすることってありますよね。

そういうあなた、私も知らないことがあるはずですけどね。お互い様だったり、ヒトって双方たいして変わらなったりすることも多いでしょ?

 

悪魔にやられるってどういう意味だと思いますか?

 

浄化、邪気が気になる いや夢中だ

浄化が気になりますか?

最初におことわり

浄化が気になりますか?と問いかけました。諸説あることは知ったうえで非常に荒々しく「浄化教」と書いたら・・・きっとダメですね。浄化という概念の「おしえ」だとは思うので表現としてはそう遠くないとは思いますが、私が書くと皮肉感が混じってますかね?

 

という前置きからうっすら予感ができるかと思いますが、浄化や邪気という概念や行為に一家言ある方や、これらの理のマスターだと自負されている方はこの先を読んでいただいても意味が無いと思いますし、ただ腹が立つとかイライラするという事態になりかねませんのでこの段階で読むのをやめていただいくことをお勧めします。

と前もってお知らせしました。この先を読んでいただいての不満を私に向けないでくださいね。そういったことも自己責任でお願いいたします。

浄化のためのアイテムあれこれ

浄化の教え、自己流アレンジも含めて「浄化教」としたときに、流派もお作法もいろいろあるようです。

音叉

私が音叉を使わないのに、音叉の話を書くことがそもそも失礼なのですが、少しお待ち下さい。ウンチクを語るのではなくて、体験談を書くだけです。

音叉を鳴らせばいいってもんじゃない説

私は音叉も持っていないし、一家言もなく、ヒト様のおっしゃってることをただ聞きますが、その中で「音叉をならせばいいってもんじゃない」とおっしゃっていた方がいました。複数名いました。

音叉を鳴らすというか、音が出るように叩くというか、それらを行う側のスキルというか、姿勢というか、状態が関わってくるよねとは思う。無知な私でも、数少ない回数音叉が鳴らされるのを聞いた際に、違和感や、不快感を感じたこともあったし、音叉ではなくて「鐘」でしたが、その音色に何も感じないのに、足から頭まで振動が骨を伝わってくるのを感じたこともあった。違和感も不快感もなし。心地よいというより、おーすごい!音の影響ってこういう風にあるんだね。と感動しました。あのような「上手な?」鳴らし手さんによりバランス調整が起こるんだと実感したことがありました。

ということは、鳴らし方によっては、バランスが崩れることもあるんだろうと思ったんですよね。

スキルというか、テクニックというか、もっと目に見えない分野の話なのか分かりませんが、音楽に携わる方なら当たり前にわかるお話だと思います。

そう、10年以上前に、叩く人によってはタンバリンの音色が楽しい音楽の一部になるのか、調和を壊す騒音になるのかの違いを体験して非常に驚いたことがありました。タンバリンという素人からしたら単純に感じる楽器なのに、全然違った。全然違い過ぎて素人の私が驚きました。

あの調和を乱すタンバリンの音を聞いていた時に、とても不快で、違和感を感じました。音叉もタンバリンも奏でる側の状態、スキルって関係するなぁという実感があります。

S KによるPixabayからの画像

音叉についてもそういうことなんだろうな。という体験からの個人的な意見です。

 

良かれと思って、相手にバランスの不調和を起こす可能性のある行為をするというのは、本当に音叉に限らないし、そもそも何もしなくても生きているといろんな環境のもとバランスの不調和を起こしますでしょ?

 

だから何かだけをやり玉にあげたいわけじゃないんです。今回は音叉と書きまして、申し訳ありませんが。

自分以外が不浄だと思いながら浄化をするパラドックス

邪気を嫌っているその気持ちは邪気では?

私はこーゆーことを書くから、嫌がられる。共感を持ってくださる方もいらっしゃいますが、楽しく浄化をしていたり、真剣に浄化をしていたり、それをやることで機嫌よくしている方には、自分を否定されているような気がしてイライラされそうです。

 

あなたのことを書いているわけではありません。イライラするくらいなら画面を閉じて忘れてください。(^^)

ただ、ストレスケアについてセッションを行っている私にはこういったことを考察することは大切だと思っています。

ddzphotoによるPixabayからの画像

そもそもの設定

  • 自分は特別、害は外からくる。
  • 不浄に影響される善き私。
  • 外部からの影響の遮断、跳ね返しに注力する。

というイメージもあるかもしれませんが、善悪とうか、そもそもの設定は誰かが決めてますでしょ?ご本人かもしれないし、浄化マスターみたいな方かもしれないし、動画や書籍の発信者の選別眼によるものだったり。

 

自分以外を「不浄」「ケガレ」とするそもそも設定は、他の誰かから見たら浄化対象かもしれませんね。

 

ふと、(こういうのってシュールだなぁ)と感じることがありました。

例題として書いています

誰も否定していません。現象というか、心理というか、そういったことに興味があるだけなんです。

ですから皆様におかれましては、機嫌よくお過ごしいただけましたらそれがベストです。

 

願いを叶えたいので、悪魔にお願いする

なに急に?! という小見出しですが、欲望を満たすために手段を択ばない的な意味合いでしょうか。小説にもよく出てくる考え方なのですが、悪魔は神様のふりをするという設定があります。

そして、「ここはパワースポットだよ」という噂を利用して人間の欲望を刺激して人を集め、良かれと思ってその場所に来た人たちの大切なもののバランスを崩すという設定になっていることもあるんですよ。

陰謀論には敏感だけど、こういったことは自分の利益に直接的にかかわってきますから疑わずに信じてしまうってことあるんですよね。双方根っこが非常に似ているという内容だったりする気がする。

というような心理の考察をする習慣があるものですから時々書いてしまいます。そして、もともとこの記事を書こうと思っていたところには内容が到達しておりませんので次回に続きます。