潜在意識を考えてみた その3

何度も書いて核心に近づく

自分を掘って、掘って中心へ

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フラクタル性

フラクタルとは、同じパターン、図形の連鎖もエッセンに含むと思っているが

影響、影響力と言って拡散するフラクタルもあるし

中心へ向かうフラクタルもある。

横へスライドすることもあし、過去や未来にも影響するので、フラクタルも全方位の立体なんだろうと思う。

 

今日書きたいのはコレ

何度も似たようなことを書いて、ちょっとずつ自分の違和感の核心へ近づいていくのですが、ようやくちょっといい境地にたどり着いた。踊り場か?

 

それはこの ↓ 記事と関係する。

法則の使い方が悪い? どーゆーこと? – 武田美紀のブログ

 

問題は潜在意識の使い方?

上のリンクの中では「引き寄せの法則」として「法則」とおっしゃるのなら、せめて万有引力の法則程度の確率は保持して欲しい。という個人的な好みを書いた。

 

まさに私の違和感はここだった。

潜在意識の使い方が悪いのではなく

潜在意識の使い方が悪いから引き寄せられないというような解説を聴くことがある。

叶わないのは、願う際の言葉の使い方が云々、潜在意識は「無い」が無いとか、否定がわからないとか、その時の感情が云々とか、いろんなルールをどこかの誰かが決めた。

正しいのかもしれないが、私はこれらを具体的に証明はできない。

 

で、ふと、そもそも、引き寄せという法則云々と、潜在意識を=(イコール)と設定したのは正しいのか?という疑問。

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潜在意識が願いを叶えるのではなくて、実は違うことが願いを叶えるのではないか?

そもそも、潜在意識がうまく使えなくて願いが叶わないといわれている人数と、それが叶うと言われている人数はそれぞれどの程度なのか?

一人当たりいくつ願い事があって、その一人の中でも叶う(叶わない)確立を知りたいものだし、それが100人いたとすると、それぞれの確率も知りたい。

そのルールは本当か?

そして、もっともっとそもそも論なんだけど、潜在意識が叶わないのは、願う際の言葉の使い方が云々、潜在意識は「無い」が無いとか、否定がわからないとか、その時の感情が云々というルールは無関係だという可能性はあるの? ないの?

 

私は、「願いが叶う」も「潜在意識」も「在る・有る」と思っている派ですが、「願いが叶う」と「潜在意識」を連結させる必要はないんじゃないか?という可能性も否定しない。

 

そもそもルータイスの「望めば、叶う。」という本をはるか昔に読んで、当時はこういう考え方好きだなぁと思った。今はもう内容を覚えていないが、今ふと、「願う」のと「望む」のはちょっと違うんじゃないか?などと思った。

願うから叶わないんじゃない? 望めば叶うかもね。なんて。

今思っただけだからこれについてこれ以上深堀できないが、私は「〇〇できたら楽しいだろうけど、まぁ無理だろうな」「これは生きているうちには叶わないな」と過去思った(他者に言った)ことがそののち割と現実になった。叶っている。

その無理だと思った理由は、昔のその時から想像する未来であって、滑って転んで一生懸命生きている間に環境も状況も変わっていって、昔の自分の想像外へ飛び出ちゃったからである。

あれ?そういえば昔無理だと思ったのに叶ってる!ラッキー!と何度も思った。

だから、体験として、言葉の使い方がそれほど神経質になるほど重要とは思っていない。しかし、本心では(叶うもんなら叶うといいな)と望んでいたとは言えるだろうね。

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皆が意識することは起きない。という説

皆が意識することは起きない。という説を7月5日の予言回避の術としておっしゃる方もいた。

集合意識的に、皆が「災害が来るんじゃないの?」と思えば思うほどそれは「起きない」という解説を聞いたことがある。

最初に聞いたときは、(なんじゃそれ? 根底からいろいろひっくりかえっちゃわない?)と思ったものの、なにが本当か私は知らないので1つの説として記憶した。

叶うの?叶わないの?

じゃあ、引き寄せが叶うんじゃないの?と皆が思えば思うほど引き寄せられないという説明にもなりますよね?

 

〇月〇日、願いが叶う。ぜひ拡散してください。みんなの集合意識が作用して叶うから。という話も山ほどあるけれど、こうなると、すでに集合無意識的には拡散されればされるほど叶う説と、叶わない説が両立することになりますわな。

で、どっちなん?

ってか、そもそもこの手の話は本当なの?

潜在意識とか、集合無意識とか、そうやって使うものなの?

「本当は違う意味、意図で存在しているのでは説」はそんなに不自然ですか?

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そしてここで最初に戻ります。

 

叶うヒトと叶わないヒトの割合はどうなっているんですか?

それらしく伝わっている「潜在意識」パワーとその解説。叶っても叶わなくても非常に都合よく解説できる魔法の言葉だと最近しみじみ思う。その都合よく使われる様が怪しいなぁと、ちょっと距離をおいても悪くないなぁと思わせる理由でもある。

一本筋が通っていないような感じ。

 

だから、使い方、伝え方、使う側によって、健康的にもなるし、思想コントロールにもなるし、情報に翻弄されることにもなるし、ハーメルンの笛吹き男のように多数をあらぬところに先導することにもなるかもしれない。

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と、こんなことを書きたかった。

たびたび、自分で読み返して、(意味が分からん。文章がわからない)と思うことがあるので、今回はそうならないといいなぁ と思っていますが、もし加筆の必要があれば続編書きます。

 

書けたら書きます。

潜在意識を考えてみた その2

引き続き潜在意識を考えてみた

無いとは言ってないです

前回の記事の続きを書きます。

潜在意識を考えてみた – 武田美紀のブログ

 

こちらのブログもいよいよ2026年の消滅の時期が近付いております。

最後まで走りぬきましょう。(笑)

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シンクロか?

「ミルクティー飲みたい」という名前のユーチューバーさんにこちら ↓ の記事で登場頂きましたが、ブログを書いたのち、ご自身のコンテンツで(世の中はどこへ進んでいくのか?)という内容を発信されていました。あら?このタイミングは良すぎるな。と思ったもののご本人がたとえエゴサーチされててもウチのブログは出てこないだろうから単なる偶然だろうという結果としました。

2025年7月5日の件について – 武田美紀のブログ

 

潜在意識が理由ならALL OK?

理由や答えを「潜在意識」だと説明したり、理論展開したりする方は星の数ほどいる。

潜在意識という言葉が世の中を席巻する前はそれらの理由を「運命」とか「宿命」と表現されることが多かったのではないだろうか?

 

それを言っちゃあお終いよ。とは言わないが、それから先の議論や説明をむりやり断ち切られてしまうパワーワードではある。真理なのかもしれないが、それが正しいのかどうかを私は知らない。

が、それが正答だと信じ込んでしまうケースは多い。

それを聴いて(そうか! 潜在意識か! それなら納得!)とあっさり納得してしまう。

 

その潜在意識の定義は正しいかどうかはわからない。いろんなシーンで潜在意識が登場し過ぎているし、根拠だと決めつけられ過ぎているように思う。それは、占いなどの(統計ですから)という鉄板の理由の根拠の過去何千年だか何百年だかの統計について言葉だけで実物・現物が無いように思えることとかとニュアンスが似ている。

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無意識という状態は日常生活を送っていても「ある」という実感がある。「潜在意識」も私個人はそう表現される状態はあるだろうと思ってはいるが、だがしかし、「世の中や人間、日本人を導く側ですから」と思っておられそうな方々の定義、というより、それが意味するところの使われ方や説明が本当に合っているのか?と思うことも多くなってきた。

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それは多分、「潜在意識」の説明のされ方というより、「世の中や人間、日本人を導く側ですから」という方への私個人が感じる疑問、疑惑だと気が付いた。

「潜在意識」というツールを使っている側の「使い方への疑問」ということです。

 

なんでもそうだけど、言葉も思想も使う側のニュアンスひとつであろうと思うが、「世の中や人間、日本人を導く側ですから」というようなスタンスを意識的にも無意識的にも取っている方の場合は、自分の知っていること、思いついたことを正解だとして疑わない。

そして、これは良否分かれると思っているのだけれど、「世の中や人間、日本人を導く側ですから」という皆さんがいろいろ味付け・加筆をするんである。その味付けを「私なりの説です」「私の味付けです」とは言わずに「これが真実だ」「はるか昔からあるマコトだ」とおっしゃる。(このように私が感じるというのが正しい)

自分が味付けしたことを世の中の理(ことわり)級に昇格させてしまうんである。

 

いや、本当に理(ことわり)級のケースもあるだろうと思うのですが、「世の中や人間、日本人を導く側ですから」というようなスタンスを意識的にも無意識的にも取っている方々にそういった深淵なる香りが漂っていることはあんまりないような気がする。(自社データ調べ)

 

何度も補足するが、正解なのかもしれないし、ただの思い込みなのかもしれないが、そのあたりについて私が真実を知っているわけじゃない。

ただ、例を挙げたい。

導く側。 言葉を変えたらグル(導師)

オウム真理教の元グル・故松本氏は最初は自称グル(導師)だったのかもしれないが、そののち団体の中で明確な他称・公称グルに昇格しましたよね。ハルマゲドンという世界規模の予言もしていたという報道でした。

 

影響力の大きい、小さいは問わずに「自称・私は導く側です」的なスタンスだったり、発信だったりをしている方って多分探せば(探さなくても)山ほどいる。

そういった方々を見るにつけ、(あぁ 似ているなぁ)(不思議なほど同じパターンを描くなぁ)(世の中に隠れているフラクタル図形がここにもあるなぁ)と個人的に思う。

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彼が創った物語

ハルマゲドンとはキリスト教の「ヨハネの黙示録」に登場するとネットが教えてくれたが、故麻原氏がヨガをしていたかと思えばキリスト教の予言を話し、それを信じた多くのヒトがいた。信じるあまり他者の存在を消したり、苦しめることを正当化した。

 

あれについては「彼が創った物語」に乗っかった一定数の人間がいたのです。

 

7月5日についても乗っかった一定数の人間がいた。乗っかり方も、実はもっと早くから知っていたという今となれば妙な優位を示す乗っかり方もあった。

 

ノストラダムスの大予言もそう、アセンションとかいうブームもそう、マヤ歴もそう。他にも枚挙にいとまがない。

 

2025年7月5日の件について

以前も書いたので前とは違うことを書きたい。

いろんな方が2025年7月について情報を伝播する側に回った。この時に、「私はもっと前からこの7月の件を知っていた?予言していた?」という方も現れた。

一層の優位性を主張ということでしょう。

 

「みんなで安全な場所?に」とイベントをした方、出演した側の方、イベントに集まった方は主催した「彼が創った物語」に乗っかったわけですね。作家さんはあくまで第一段階で、イベントやもっと早くから知っていたとそれぞれのYouTubeで発信したとなるとそれはもう「彼が創った物語」「また別の方の創った物語」だろうと感じます。

 

で、何もなかった。

 

しかし、存在や名前が有名になりビジネス面で良い影響のあった方もいた。

 

なにもなかったことや、2025年7月について予感を外したことなどにその後触れずにいたり、「いやぁ皆の集合意識が事態を回避して云々」みたくポジティブ解説することはお茶を濁されているかも?誤魔化しかも?とは考えないのだろうか? という面が、何もなくて良かった面と同じくらい目に見えてしまう。

 

他人事は自分事なので、このようなことを書く私もフラクタル図形の住人として同じことをしているだろうから糾弾しようもんなら即ブーメランが戻ってきますが、一応、自分が以前と考え方や価値観が変わった時は「以前とは違う」と書くようにはしているつもりです。

 

私が知らん顔しているとしたら、それは以前の自分の発言を忘れている可能性があります。

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小見出しをもう一度書くと、「潜在意識(集合意識)が理由ならALL OK?」なの?

正解なのか、ご都合主義なのかよくわかりませんわ。(笑)

 

ただ、とある「自称・私は導く側です」系はここに疑問を抱かない。

目や表情も似ている。

そして、そういった皆さんはヒトを信じさせるチカラのようなものを時として発揮する。と、自社データにはある。

多分、人間の恐怖や不安に スルッと入ることができる天賦の才なのかもしれない。悪魔的ともいえるかもしれないし、サタニストというようなカテゴリーに入るのかもしれない。

が、受け取った側は偽物の安心感を得られる。

偽物と書くのは、本物の安心感を得られるなら卒業していく可能性が高いのでは?と思うからです。次から次へ現れる「その方の物語」を知らないことが不安になり、翻弄され続ける。

良いも悪いもない

本物でも偽物でもその一瞬の安心感を得られるのならOKという歌の歌詞がありましたかね?

ウソの愛でも愛は愛。みたいな歌詞とかありましたっけ?

 

そうね、良いも悪いもないのよね。

はるか昔から続く物語のパターンではあると思うけれども。

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ツールではなくて、ツールを使う側の問題か?

これはどんなメソッドも一緒。

同じメソッドを伝えていたとしても、「自称・私は導く側です」にあっという間になる方と、そうはならない方もいる。

https://takedamiki.wpxblog.jp/20240129/
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違いは何?違いはどこ?

本当に理(ことわり)級のケースの場合、先述した「目や表情も似ている。」と感じる独特の類似性が感じられないのであろうと個人的には推測している。ただの個人的な思考です。

 

というか、本当の理(ことわり)級にはまた違う意味で似た雰囲気はあるのかもしれない。

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伝わるように書けているだろうか?

私はこのご時世になっても動画発信するつもりが無い。今のところは。

私というヒトをイメージできた方が安心するかな?と自己紹介動画をホームページに載せていたがそれも数か月前に削除した。講座の冒頭をイメージ映像として載せていたのも削除した。

2025年12月中旬の今は、動画完全撤退しています。ショート動画も無し。

そういえば例の音声だけのルームが一瞬流行りましたね。クラブハウスってコンテンツでしたか? 今調べたらいくつもあるみたいだけど、クラブハウスは私が一度も参加することなくオワコンしたみたい。

 

歯列矯正してるからラジオからも撤退しましたし。

 

そして、このブログもサイト側の運営都合により間もなく消滅します。代替のサイトには引っ越ししません。

 

書くことが好きなんですね。考えて、書いて、読み返して意味が分からなくて、また考えて、書いて、の繰り返し。飽きもせず。(笑)

 

今回、一旦アップします。

アップする前に読み返していますが、一度アップしたあとに変なところは訂正します。

そして、書きたいことが書けてなければこの続きをまた書きます。

——

と、一度締めてから、そうだ!肝心のことを書き漏らしている!

次回は「検証はしないのか?」について書きたい。

 

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潜在意識を考えてみた

潜在意識について

広まった定説

私が潜在意識という単語を知ったのはキネシオロジーに出会ったのちです。

そして、私が理解したその潜在意識に関する定説をキネシオロジー体験講座でご紹介したし、その「定説」を基本として私も取り入れた。潜在意識に「思想」が加味されたものもこの業界では定説となっていた。

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潜在意識という観念だけでオールOK???

潜在意識という言葉はかなりのパワーワードで、かつ、非常に便利に使われている。都合よく使われているとも言える。

 

引き寄せの法則などをはじめ、潜在意識といえば伝家の宝刀だ。それ以上の説明は伴わない。伝家の宝刀の一振り、これこそが理由になり、まるで結論のように扱われている。

 

私はここにここ数年疑問というか、例の(それってホント?)病が起きそうになっている。

鵜飼の鵜が、鵜呑みにしていた魚を オエッと戻すように、飲み込んでいた「潜在意識とは?」という大前提を オエッ と一旦体外に出した感じだ。

 

それまでの知識が100%間違っているという感じではなくて、(なんでもかんでもに説明を省きすぎたまま都合よく使われ過ぎじゃね?あてはめ過ぎじゃね?)という感じ。

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なんというか、「潜在意識」というだけでその先の思考停止になり、疑いすら抱かない独特な感じに疑問がわいてきている。スピ嫌いの方は「潜在意識?馬鹿じゃないの?そんなの信じて」という絶対に信じないのも自由だが、思考停止になり、疑いすら抱かない独特な感じも要するに同じですよね。

そうか、波動という言葉にも似た違和感があるんだった

そう! なんでも「波動」で説明されちゃうのと同じ違和感です。いや、ヒトによってはなんでも「波動」かもしれないし、本当にすべては波動なのかもしれないが、もっとあるでしょ?と思う私がいる。

波形を形成する要素って粒子や電子や磁気やもっと丁寧に説明する方法があるんじゃない?とか、シンプルと乱暴は違うよね?とか、減らず口魂が反応しちゃうんです(笑)

すんません。

考え方に余地はないのか?

中間地点って無いの?というようなそれまで無かった視点がわいてきたようなイメージでしょうか?

 

思想に傾きすぎるのもアレなので、初期の頃から、「潜在意識を利用しよう!」という書籍をご紹介するのと合わせて、自律神経系統図を割と意識的に、重点的にご紹介してきた。

私の好みは健康法としてのキネシオロジーであり、思想に傾きすぎるのは好きじゃない。ということを世間を見て、それについて色々感じる自分に気が付いて、多くの方とコミュニケーションをして、キネシオロジーに携わることで自己理解が進んだ。価値観が精査されてきた。

失敗から学ぶ

潜在意識を超能力みたいに勘違いして「〇〇という実験をやって当たるか見せてほしい」という受講生さんもいらして、10年以上前の当時は私も今ほど体験と思考が無かったのでそういったことに振り回されてしまったことがあったが、今となると良い経験です。

 

それらの質問と、その時の体験から私自身が多くを学んだ。そののち、「伝え方」も変わったので今ではそういった試すようなリクエストをされることもないが、リクエストされた時の私の対応姿勢も決まってきた。

 

それは私自身が軸足を潜在意識云々というよりも、ストレスケアに置くことが自分には非常にしっくりくるということがわかってきたからです。それは観念、思考だけじゃなくて私なりの経験、体験による。

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キネシオロジーはお金にならない

実は以前、キネシオロジーのとある集まりで「(その方のその時の仕事ほど)キネシオロジーはお金にならない」と半笑いされたことがある。今思えば半笑いの対象がその方曰く「お金にならないキネシオロジー」の講座をしたりして仕事にしている私に向けられたものかと長年の時を経てよくやく気が付いたが、その時は急にそんな話をされたので (?何の話?) と思った。

嫌味や侮蔑に気が付かない状態と似ていたのかもしれない。(笑)

おめでたいですわ、わたくし。(笑)

 

キネシオロジーに興味があったり、キネシオロジーを学んだ方が集まっていた会だったので、遅れて参加されたその方からお金の話が急に出てきて キョトン としてしまった。

その方以外は、「ただただキネシオロジーが好き」という集まりだったものですから。

 

私はキネシオロジーがお金にならなくても好きだし、キネシオロジーが好きな方達とキャッキャと楽しく話をしていたところに遅れて参加したその方からお金の話が急に出てきて キョトン としてしまった。キネシオロジーの話じゃなくて(いきなり最初からお金の話?)みたいな感じで。

キネシオロジーを学んだら必ずそれを仕事にしなきゃいけないルールなど無いし、キネシオロジーでお金を沢山生む、儲けるということが目的の方もいらっしゃるだろうし、仕事にするならプロとしてたくさんの利益を出さないとプロと言えないという価値観の方もいらっしゃる。

人生で何に出会って、何をどの割合で人生に組み込むのか、価値観と選択、信念も様々です。

 

キネシオロジーを学んだ。という共通点はあっても、選択や価値観は様々なのでこのケースでは誰も悪くないのですが、ただ、趣味嗜好が共通している方がお喋りしていても楽しいかもね。という事例にはなるかな。趣味嗜好が真逆でも楽しい相性もあるでしょうが。

 

潜在意識の話にむりやり繋げるのなら、あの方の潜在意識の中でのキネシオロジーの立ち位置はどのような状態だったのでしょうね。もう何年も前の話ですが。

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潜在意識に聴かなくも自分を冷静に見つめたらわかることだって多い

サタニストという言葉に喰い付いてblogを数回書いており、それらサタニストと少し似たところがあると感じていますが、そういった行為や潜在意識に聴く以外にも「自分の状態を冷静に見る」という行為で自己理解が進むことがある。

 

例えば、とある考え方では、スピ系や能力者だと特別視していることもサタニストというジャンルに分類されるケースがでてきますが、そういったことの根本に「不安」「恐れ」があったりしますでしょ?

「不安」「恐れ」って1つには何かを知らないと思うことを埋めたい衝動かと思うことが多いんですよ。いわゆる「空白を埋めたい衝動」というものです。

将来を知りたいというのも、将来がわからない不安を埋めたいわけだし。

将来は今の延長線上にあると仮定したら(点の連続なら決して延長線上とは言えないでしょ?)今の自分自身をわからないことが不安で、その先に未来の自分の不安があるとも言い換えられますでしょ?

ということは、今の自分を知る(感情や価値観や思想、信念etc)ことは、将来のむやみな不安を掻き立てるのを納める役に立つんじゃないかな。

 

例の、自分がやれることを知ること、自分じゃどうにもできないことをあきらめる勇気という例の話です。ここの判断ができるようになるとやみくもな不安は減らすことができそうですね。

 

机上の空論かもしれないし、綺麗ごとかもしれないけれど。

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話が横道に

書き出しの「潜在意識を考えてみる」という話から主旨がずれていますかね?

 

すんません。

 

また次回に続きを書くかもしれないです。

日本の音楽を聴く

邦楽久しぶり

これが無料で聴けてレジ袋が有料なの信じれんな

ファーストテイクというYouTubeのコンテンツに「これが無料で聴けてレジ袋が有料なの信じれんな」というコメントがありました。他にも多数才能が光りまくっているコメントがありますので、私は割とコメント欄にも目を通すタイプです。

特にこのような音楽に対するコメントには「思い」「記憶」が込められていて感動することも多い。

 

目にする機会があるたびに心に響くサンボマスター

日ごろ邦楽に触れていないので遭遇する機会はとても少ないのですが、サンボマスターがマイクの前にいる姿を見ると心に毎回響く。この方はヒトの感動の受信器を刺激する才能がある。

歌も知らず、リンクを貼ってご紹介した歌も私は初見ですが、早速やられました(笑)

 

「魂の叫び」という言葉がしっくりきます。

コメントを見ても、サンボマスターは世の中の多くの方を救っているようです。

 

 

心が躍りながら歌っているnobodynows+

こちらは、アーティスト名は聞いたことがありましたが、その姿も曲も初見です。

2004年の曲だとお話しされていました。このファーストテイクというコンテンツのおかげで私は21年!?という時を超えてハートを鷲掴みされました。

この曲を自分のテーマ曲にしたいくらい。

歌詞は把握できていませんがテンポ?リズム?メロディー?すっかり魅了されました。

わたくし絶叫、号泣が画面からあふれている韓国ドラマが見られないのですが、こういったファンキーというかPOPなものは大好きです。

 

リリース当時は陽キャの人たちが聴く曲なんだという感じだったけど、大人になった今、メンバーもしっかりおじさんになってて楽しそうに歌ってるのを観て泣けてきた。 エモすぎる。
——
どうしてこんなに楽しそうに歌っている方たちを見てこちらが泣けてくるのでしょうね?
ググっと胸の奥からこみあげてくるものがありますね。
これは幸せの一種だろうと感じております。
約10年前に、湘南の海の家でたった20人くらいの前で歌ってくれた時も、このFIRSTTAKEの時も、全然変わらず同じように楽しそうに歌ってるの。最高だよ。いまや3000万回以上の再生だよ。すごいよ。
——
なんと、2025年の中旬の今は 再生回数「7021万回」の再生でございます。
21年も前の曲だという気がしない。だって私が知ったのは昨日だし、古臭さが皆無だから。

@rd3nder さんのコメント

2 年前

愛知名古屋の某私立高校の学校祭でやまだひさし氏と一緒にシークレットライブに来てくれた事、今もしっかり覚えてます。生徒が行儀よく椅子に座ってる中、メンバーの方々の「先生!今日くらいはいいじゃない!みんな前に来いよ!」の一声で体育館内がライブハウスに一気に変化し皆大騒ぎ。ココロオドルのイントロが流れた時の感動を思い出しました。あの時はありがとうございました。最高のライブでした!

——

すごいね。いい話。

想像つくね。

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ファーストテイクって何となく皆さま気合が入ってるというか、絶対に音外してはいけない、音源レベルの物を出さねばみたいな気概を感じていたのですが、本当に心の底から歌うことを楽しんでいる感じ、のこの動画控えめに言って神。まじ神。
——
そうですね。本当にそう思います。
神。
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楽しい! の影響力

私が過去、キネシオロジー講座 入門編をはじめとしたいろんな講座を開催してきましたが、環境がどうであれ、ご参加の人数がどうであれ、多くても少なくてもとても楽しく講座をしていた記憶があります。

開催している側がイライラしたり、凹んでいたり、ピリピリしていたり、虚栄心に煽られていたりして、楽しさのない講座よりも、「楽しい」が伝わる講座が学んでいることの感性を脳も受容しやすい。筋肉も受容しやすい。内臓も受容しやすい。

キネシオロジー理論的にはそうだろうと思います。

 

違うご意見も世の中にあるでしょうが、それはその方の信念でキネシオロジー理論を使われたらいいと思う。

 

しかし、このココロオドルの歌う映像を見ていると、やはり人をワクワクさせたり、ウキウキさせたり、日々の活力を湧かせたりということには「楽しい」という影響力は大きいな~と実感します。

笑っている人を見るという見る側が受ける影響力もあるだろう。

 

邦楽を久しぶりにたくさん聞いて、新発見もあったりして、楽しい時間でした。

 

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好きに生きる

好みも変わるし

好きを突き詰めたら考え方が変わることもある

もう2025年12月になろうとしています。

早いねぇ

個人的には平和に過ごせていてありがたいばかりです。

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今日はここ最近のブログの続きを書きます。

 夢を壊さないで – 武田美紀のブログ

本は読むもの → 組み合わせ次第で本を聴くって没入できる

Amazonオーディブルで「海賊とよばれた男」を聴いている。

おそらく本だったらまず手に取らないジャンルと感じたし、こちらの著者ならまず手に取らない。食わず嫌いで。

しかし、以前も書きましたが、Amazonオーディブルでは好きな作品、好きな作家の作品に魅了されるとは限らない。全然違う。ですから重要なのはナレーターさんの力量、加えて自分とナレーターさんとの相性にかかってると感じる。

その点、このAmazonオーディブルで聴いている「海賊とよばれた男」はナレーターさんの井上和彦さんが素晴らしい。井上さんが素晴らしいから、初めて小説の素晴らしさが伝わる。

そして、私は映画や小説は好きだが、朗読系にはほとんど縁がなかったものだから、ここ数年親しくなった新しい世界を楽しんでいる。

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本を我慢して聴かない

朗読になんか違和感があるけれど我慢して聴く。ということは一切やめている。

あ!ダメだ!と思えば、即刻ダウンロードを削除して、別の相性の良い作品を探す旅にすぐ出ることにした。

我慢して読む。というより、我慢して聴く。ということの方が私には時間の無駄を強く感じるようだという自己理解が進んだ。

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なにを大切に生きるのか?

小説の中に、利害や損得、利権至上主義の登場人物もいるし、ヒトとして全うしたい信念を貫いて、ヒトを大切にする登場人物もいる。

私はここ最近、ふと目にした「サタニスト」という言葉から思考展開した文章を書いていますが、善だと思う悪もあり、悪だと思う善もあるという気はしている。

そもそも「サタニスト」という言葉を目にした際に紹介されていた書籍悪魔の大釜からの脱出」も読んでいないので、書籍に基づいて文章を書いているわけじゃない。

世の中は白も黒もなく、グレーの限りがないグラデーションが広がるばかりだという説もある。どういった思想を持つのか、信念を持つのかは個人による。

これらの判断は個々の体験やキャパシティにもよるだろうし、同じ人物が10年後?後年?命の灯が消える直前に?思想も信念も変わることだってある。

相談者さんの話ではなくて、私が過去世の中で見聞きしたケース

私の個人的な経験の中に、とある占いを基に人生を組み立てていた方が、もう全く信じなくなった方もいるし、映画の中などには信仰をやめた神父さんや牧師さんがいるし、引き寄せ広報リーダーが欲しい結果を引き寄せられず、「なぜ?引き寄せられるはずなのに?」と問い続けていた姿も見たことがある。

以前も書いたが、ウソのアガスティアの葉が多くあるが、自分は本物のアガスティアの葉に出会えた。理由は、家族名前を含め、絶対に相手が知らない過去が言い当てられていた。そして、今の仕事の将来が必ずうまくいくとアガスティアの葉に書いてあった。とおっしゃっていたその方のその仕事が予定通りにいかなかったこともあった。順風満帆に繁栄するはずのその仕事はそのあと超絶モメて終わった。

霊能方面でいえば、除霊といって他者の精神的健康を壊すというか、ある意味の洗脳をして他者を支配するケースもあった。除霊について自己流だとしても、修行しているという自己申告でもこういったトラブルってあるんですよね。サタニストに限らず世の中にトラブルってありますものね。

また、どんな占いでもうまくいくという結果が出ているという別の方の案件は1年持たなかった。

私の場合は、驚くほどうまくいくと聞かずとも告げられたことが、特に何もなかったことも何度もあった。肩透かし感があったけれども、穏やかな日々を過ごしたと言えばそう。逆に上手くいかないと占われたことがすっかり上手くいったこともあった。

考えることをやめて、(例:ペンジュラムを1つの例にあげてみるが)キネシオロジー理論を活用した占術のようなもの(潜在意識の答えとも説明する方もいるし、サムシンググレートの答え、神の答えという捉え方をする方もいる。真偽はわからないが、すべて、すべて、すべての「答え」をどこかからか得ようとする利用方法は健康法というより占術的な意味合いが濃いように感じるので私の健康への利用方法とは異なっていることだけは確かですが)を知って以降、なんでもon、offというような反応を確認しないと気が済まないとうケースも知っている。依存、中毒症状だろう。

こうなると、「信仰」か「深い依存」「忘我」の領域が近いような気がするが、自由です。

 

で、私が自由を選ばせていただけるのなら、

何度も何度もしつこく書いて申し訳ないのですが、こういった理論は健康法として活用していけたらいいなぁという嗜好があるんですよね。

正解を知りたいとか、答えが欲しい、間違えたくない、失敗が怖い、ということとは少々ニュアンスが違うつもりでいる。あくまでも個人的な「つもり」ですが。

できれば、占術的な要素は薄くあってほしい。そのように利用したい。というのが私の選択の自由のつもりです。

 

前世の話も、私も人並みに興味をもったことだってありますが、その時期に、(なるほど、前世が気になるってこういう感じか)みたく感覚があって、(健康的な感じとは距離をかんじるなぁ)とも感じた。

わたくし凡夫なので、頭で考えてわかったつもりになるよりも、自分も体験して体験から学ぶ方がその後世間を理解する際のMy統計として身に付きやすいのです。

すべて、すべて、すべての「答え」をどこかからか得ようとする手法は、自分の体験を学習に変えにくいのかもしれない。私の場合は。考えないわけだから学習として身につかないのは当たり前と言えば当たり前ですが。

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忘我 一例

他者が話題にしたり、他者が目の前でやったりしているような外からの刺激をすべて「ひらめいた」「私は直感人間」と脳内変換するケースにも出会ったことがあるが、自分の感覚が外からなのか、内からなのかのその感覚がとらえ切れないということだろうか?と思うこともあった。自分の境界線やある程度のアウトラインが感じられない場合は、自己認知は難しいだろうと思う。その瞬間瞬間、環境に左右される思考と発言。

がしかし、多少の差はあれど、誰しもそんなもんだとも言える。誰もが、その瞬間瞬間を生きることしかできないわけだから。

ただ、そういった性質だと周りが気が付くのか気が付かないのかでその先のつきあいに影響がでる。回りが、(この人には自分の発言、思考、作品、長所、アイデアをなんでもパクられる。)と感じれば、気が付けば離れていくヒトも多い。ただただ自分が相手に利用されるだけかのように感じるというのも理由にあるだろう。まぁ確かに傍からはそう見える。

が、気が付かなければもめずに付き合っていける。平和だ。

 

そう考えると、知らない、気が付かない、考えないというのは平和でいたいという願望由来なのかもしれない。なんだか切なさも感じ取ってしまいそうだ。

ヒトの精神のなせる業ですな。

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夢を壊さないで

夢を壊さないで欲しい

現実を認識することってそんなに大事?

前世の話

下にリンクが貼ってある記事で、前世の話に触れている。

 GiverとTakerを俯瞰 – 武田美紀のブログ

 

ブログの内容は、「前世はお姫様」というネットの中にも、世の中にも割と多くいらっしゃる皆様について書いた。

前世ブームを牽引し、最前線にいたという認識の江原氏曰く

江原さんは今は「オーラなどどうでもいい」とおっしゃっているそうだけど、なんと「前世などどうでもいい」とも実際動画の中でおっしゃっていた。

第何次かの前世ブーム・スピリチュアルブームの火付け役でいらしゃるが。

 

やはりそののち、いろいろ変わる方はいるなぁと思っています。

ヒトは変わらない。という言葉もあるけれど、変わる方もいる。

 

時々流行るlight(軽い)スピリチュアルブーム

時々流行るlight(軽い)スピリチュアルもブームで一気に広がることが多い。広がるということは、一瞬にしてそれを信じるというか、洗脳というか、ピンとくる方が多いということであろうけれども、私程度でもブームを知ることがある。

  • 子宮系メソッドというものも流行りました。今はどうでしょう? え!?というその後を小耳に挟みましたが。
  • 龍使いというのも流行りました。
  • カード、メッセージカード、メッセージ系は衰え知らずでしょうか? 大立役者の方が間違いだとおしゃいましたが。
  • YouTubeのおかげで霊感、霊能者系も勢いがあるようですし
  • 引き寄せの法則も多分この先の将来消えることはないだろう。

我こそはという感じで次から次へと登場しますしね。

 

正解、不正解、当たる、当たらない、本当、ウソなど私にはわかりませんので人生への取り入れ方もそれぞれだと思うんですよね。私も検証的なスタンスもあったり、信じていたり、若ければ若いほど浸っていた時期もある。

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ストレスケアをすればするほど必要としなくなった

私の場合は、若ければ若いほど浸っていた時期もあったわけですが、いい年になって心体双方向からのストレスケア(心体カウンセラー™・セラピー・ケアという名称を使っているのも自分の体感を込めています)という存在を知り、ようやく自分に適したストレスケア方法を手にして本当にラッキーだった。

 

そして、ストレスケアが進めば進むほど、アイテムを使わない、超絶シンプルなストレスケア方法が自分に一番合うし、自分には効果的だったと認知できたのもラッキーだった。

いろんなアイテムを使うセラピーもケアもあるし、それはそれの良さや、(へぇ~こんな体感があるんだ)という感触があるものも多いのですが、日常使いとなると「何かが無ければ出来ない」とか「そのためにまずは何かが必要」という制限の無いものが私には非常に向いていた。

 

そういう意味で、いろんなものがどんどん不要になっていって、その不要なものの中に、オーラや前世や霊能系のあれやこれやが入っている感じ。

 

霊能系の素養というか才能のようなものは、必要な時はチカラを発揮しているとは思うが、そこを仕事などにせず自分にだけ使えばいいかなぁと思っている。もしその方面の才能があるのならただ内包して世間様に向けて粒立てなくてもいいかなと。

昔はある種の予言(というより未来予測ですかね)のようなものが良く当たったけれども、当りもすれば外れもするのでただただ自分独りで検証するということにしている。他者に言わなくなった。

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私の夢を壊さないで

地球上に存在する何億もの人のうちの一人でしかない私の考え、書くことで自分を否定されているかのように受け止める方がいるかどうかわからないが、嫌ならとっくに私の文章を読むのをやめていただたいているとは思う。嫌な思いをしてまで読むものでもない。権威者でもないし。

が、うっかり私のブログを読んでしまった方が

  • 「ひどい! 私が信じているものをよりによって【サタニスト】と呼ぶなんでひどい!」
  • サタニストじゃない。私が感じているものは神様だ!
  • メッセージは高次元からしか来ない。私は高次元としかつながっていない。下級の次元とはつながらない。
  • 精霊が云々
  • 子宮系メソッドは真理だ。
  • カードは語る。

多分他にももっともっと皆様の主張、価値観、人生観、常識があると思うんですよね。

 

それらに触れている自分が好きとか、それらに才能を発揮できるとか。

それこそピンとくる。とか。

 

ですから、私になど夢を壊されないでください。

 

この言葉がどなたかをあらぬ方向へ背中を押すことになるかもしれないことを承知であえて書きます。私になど夢を壊されず、自分の道を進んでください。とことんやったらわかることがある。

あなたのとことんやった領域までの道のりを私が全く一緒の体験をすることはないわけで、それは私が歩かなかった道だ。

なのになぜ書くか?

理由は、私もそうやって自分の道を進んで、滑って転んでいろいろあって、自分がどうにかできることと、どうにもできないことを知ったり、できること、できないこと、向いていること、向かないこと、好きとか嫌いとか、好きでも嫌いでもないとか、続けたい、続けたくない、続いちゃう、続けられちゃう、などなど、自分で自分の人生を生きる。

 

見たくないもの、聞きたくないものはどうやっても自分に届かない時ってあるし、それが後日(後年)、(なるほど、こーゆーことか)と理解することもありました。

その時はキャパシティが無かった。後日、後年、ふと気が付けるようになったり。

 

そもそも私はメッセージ、メッセージカード類を持っておらず使用しないので熟練者ではないし、子宮系メソッドも取り入れたことがないし、高次とかそもそもの定義を知らないし、その思想が本当に正しいのかどうかもしらない。そう、外野である。外野が感じたことを書いているに過ぎない。

 

ただ、私が一個人として考える「健康」「健康的」ということと、これらが少々差異があり、フィット感がない。

心体カウンセラー™として、「皆様の健康と笑い声のある生活をサポート」を社訓としています。個人事業主で私しかいないわけですが、社訓です(笑)

 

食べ物屋さんを選ぶ際に、個々に好みがありますでしょ?

相談業を利用してみようかと思われた際や、お悩みの方や、モヤモヤを抱えている方が、私が考える「健康」「健康的」に共感されたり、フィット感がある方のお役に立てることができたらBestです。

 

全人類、全方位などとは考えていません。

一個人。一相談業者ですので。

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優柔不断とは?がわかりやすいお言葉

優柔不断とは

井川意高氏談

なぜ決められない? 迷う原因は?

  • 真剣に考えてない。深く考えない。
  • 表面しか見ない。
  • 軽い。
と端的に表現されていました。
なるほど。
私は
  • 損得を気にし過ぎる。
  • 将来の得られる利益の多さを気にし過ぎる。

という切り口を持っていましたが、上記はもっと大きなチャンクで表現しているような気がします。

優柔不断と決断に時間がかかるのは別。

優柔不断と決断に時間がかかるのは別。 だそうです。
以上のお話を井川意高氏がご自身のYouTubeチャンネルでおっしゃっていた。
私は割と優柔不断とは遠いようなつもりでいます。
迷わないわけじゃないし、決断に時間がかからないわけじゃない。
しかし、そこも織り込み済みにしていることが多いです。

織り込み済みってどういう意味か?

最初から「当面決めない」と決めている。

だから優柔不断とはちょっとだけニュアンスが違う。なぜなら、「当面決めない」と決めているから。

しっくりきて、納得できそうとか、ここで決めても良さそうだ。という瞬間が来るんですよ。数年引っ張るときもある。

ということは、数年引っ張っても支障が無い案件だったということでもある。と考えています。

振り子が触れて、どうしようかな~~~?とアレコレ選択肢が頭に浮かぶ時間があって、時間とともに振り子の揺れが収まってきて、自然に選択肢が絞られていく。

そんな意味。

 

決定の期日が決まって居たら、こんな方法は取れないからその時ちゃんと考えてその時考えられるBestか、betterを選択するしかない。

 

ただ、美味しそうなメニューを見て、「なににしよう♪」と優柔不断を楽しむこともありますよ。決められな~いとか言っても、注文までの時間が限られている中で優柔不断を楽しむ。

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あなたはどの程度優柔不断ですか?

ここでふと、占いやメッセージ類を欲する、ある種のスピリチュアルについて「サタニスト」という表現をご紹介したこちらを思い出した。
私が記憶している数々の名言のなかで、身内に「何故なんでも占いに頼るのか?なぜ(自分で)考えないのか?」と訊ねたときの返答も名言、真理をついていると納得したことがあった。
その時の答えは「自分で考えられないから占いをする」だった。
秀逸。
名言。
これを言われたら、それ以上何も言えなかった。
「自分で考えるとはどのようなことか?」というそもそも論というか、それがどういうことなのかわからない。という意味にも受け取れた。
この会話を交わした身内の行動もまさにサタニストという表現に含まれていたんだと思うとともに、「考えられない」「その手法を知らない」「わからない」ということが、結果サタニスト的手法、行動に吸引されていくという可能性。
または、自分で考えた結果に保証が欲しい。
霊能やスピリチュアル、占いの方を自分より信じているのか、自分を信じられない状態を補完したいのかはわからないけど。

身体の反応、キネシオロジーの仕組みを利用して決める

私個人的にはonとoffの反応について、基本的にストレス反応と定義しているので

A案とB案(C案があっても構わないが)、うまくいくのはどれですか?というような反応を「身体に聴く」という行為を行った際に

「うまくいく」という問いや定義は曖昧ですが、onやoffという結果は得られる。

ここで登場するのが「質問の仕方、問いの方法、言葉の使い方」というようなテクニック論。

これらにより一層何かを加えて複雑にして、「身体に聴く」という行為をすこぶる複雑化していくことがある。これは流派というか、教える側の価値観によるので、その価値観に賛同する方はその価値観で進んでいかれるのだろう。

 

ただ、うまくいくとか、いかないとか、損得論(あえて乱暴に表現しますが)ではなくて、やってみたい、やりたくない。という自分の中の情熱に焦点をあてて、「自分のこと(興味、情熱)を自分の身体に聴く・反応を確認する」ということがシンプルではないかと思っています。

 

社会的に上手く行くとか、金銭的に上手くいくとか、自分以外の要素があり過ぎる案件や、社会的なメンツ、評価に軸を置いた質問についてあなたの身体に聴いた時のonとoffについて一体全体これは何の反応を調べているんだ?ということをじっくり考えてみても良いと思っているし、私個人は考えている。

もちろん個々に意味合いが変わってきたり、要素の割合が変わったりするだろう。
なにに基づいて、何の答えを得て、何を選択の「答え」として決めているのか?
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なにに基づいて、何の答えを得て、何を選択の「答え」として決めているのか?

そういう意味で、すべてのことを何でもon、offを確認せずにはいられないとなると、依存とか自分で考えることを放棄するということに近づいていきませんか?
良い悪いは別です。人生観と価値観によるので。
ただ、私が書いたようなサタニスト的意味合いと限りなく近づいてくるなぁと思うと、これまたシュールだと思う。
理由の1つは、キネシオロジーは「健康法」だと私の場合は認識しているけれども、利用者によっては、または教える側によっては潜在意識というものの捉え方が様々だろうし、「健康法」に何がどこまで含まれるのか異なることがある。
ただ、健康法とサタニスト(悪魔崇拝)のマッチングをシュールと感じる。
自分で考えない、答えはすべて潜在意識(onとoffを潜在意識の答えだと限定していることになるが)に聴く。というスタンスの方も多いだろう。
自分の本心というものをキャッチする練習は放棄することになるかもしれないが。

話が流れ流れて

優柔不断とは?から始まって、こんな話になりましたが、個人的にいろんな思想を取り入れ、一時採用し、その際にいろいろ感じ、考え、振り子が収まってきている状態なのかもしれません。
今のところはシンプルに、
  • 健康法
  • ストレス反応
  • バランス調整
  • 自己認知、考えるという取り組み、行為 ←冒頭は、これがわからない。できない。という話でしたね。
なんて感じです。

考えるって「自己認知」「自分を知る」ということだろう

ここまで書いてきて

考えるって「自己認知」「自分を知る」ということだろう

というナイスな関連付けが浮かんだ。

 

”霊能やスピリチュアル、占いの方を自分より信じているのか、自分を信じられない状態を補完したいのかはわからないけど。”と前述したが、逆を言えばこれらを利用して自分を知りたいのであれば、もし、もし、もし、あなたが考えるって「自己認知」「自分を知る」ということ方針に転換してみたいのであれば、先にこれらを手放すことが肝要とは思う。

全てを潜在意識に聴く、すべてをon、offで決める(知りたい)ということも含めて。

 

全てを潜在意識に聴く、すべてをon、offで決める(知りたい)というのと、自己認知、思考力というのはおそらく別物だろうから。

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あなたの価値観はあなたのもの

なんだか沢山書いてしまった。

 

反論、違うご意見もあるはずです。

ただ、私は私の今日現在の思考を書いていますが、あなたの価値観はあなたのもの。

人生観も価値観も常識も違う者同士が一瞬遭遇しているだけなのでこれまでと同じくご自由に生きてください。

 

最後の最後になんですが、私も占いの本を読んだこともあるし、ある程度記憶していますが、徐々にそれから離れました。自分のonとoffを確認することはありますが、なんでもかんでもじゃなくて、決める時にはonやoffを確認する必要なほとんどない。

ストレスケアはする。とても良いと信じている。

 

onやoffを確認してもしなくても、結果は1つ。なるようになる。

覚悟1つかもしれない。

 

目標設定に身体の反応のバランス調整などは利用したらいい。するからどう、しないからどう。ということは将来のその時の現実は1つなので比較はできないが、私もいろいろやったうえで、将来はいかようにも展開していくという実感がある。

目標設定をして、それに向かおうとするときにストレスケアとしてoffをonにバランス調整するのはお勧めしたい。

潜在意識にどうのこうのということは脇へ置いたとしても、単純にストレスケアとして行うことはお勧めしたい。

onやoffの反応以上にいかようにも未来の展開は無限大だとも思うようになりました。

xxolaxxによるPixabayからの画像

依存先を多く持つ

依存先も分散投資か?

ということはアレコレ取り入れているサタニストは正解か?

前回の続きです。

 サタニストという観念 – 武田美紀のブログ

続きは特に予定していませんでした。

今日書く予定にしていたのは「優柔不断」についてでした。しかし、前回の記事をアップした後にこちらの動画が目に入ったのでシェアすることにした。

 

というのも、依存(共依存も含め)についてお話されていて、のめり込むのを防止するには依存先を多く持つという手法について触れていたからです。

 

愛が深まるほど支配したくなる

動画を見ていただいて、それぞれが受け取ることがあるでしょうが、あくまでも私が今まで生きてきて、病的な支配欲や病的ではないまでもかなり強い支配欲を感じた世の中で遭遇したケースについてですが、そこに「他者への愛」は感じにくかった。

感じたのは自己愛というか、自己保守感、自己のチカラの顕示欲(勝ち負けでの勝ち欲)、利己主義感でしたが皆様はどういったケースに遭遇されましたか?

 

https://takedamiki.wpxblog.jp/20240129/

支配される=私は愛されている

支配欲を自分への愛と感じる相性があることも知っています。

従いたい。命令してほしい。決めてほしい。寄らば大樹の陰と感じるような相手に寄り添いたい。そして、自分に従い、命令をよく聞き、自分の決定に意を唱えない、どのように扱っても離れない相手を「自分を愛している印」と受け取る相性もある。

 

その方は、こういった関係性が愛だと学んだ。ともいえるだろう。

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真実の愛はなんだ?という話ではなくて

ただ、こういった価値観は短期間ではなんともならないし、それが「業 ごう」級ならば今回の生では変わらないかもしれないし、その価値観は高齢化して初めて興味が薄れるようなケースもあるようだ。

ヒト・人格は変わらないけど、興味の対象が変わったり、それに対する情熱が薄れるというような意味で。

 

真実の愛がなにか?ということもいろんなご意見があるのでしょうが、もうご本人が幸せならばそれがBestではないか。

これに尽きてきた。(笑)

 

自分の幸せを他者に説得する必要もない。他者不在で何一つ評価が無くても感謝しかわかない幸せってある。

だけれど、いろいろあっての人生なので、各自の生を目一杯味わい尽くすことだけなのかと思う。

 

自分をそのまま観る

自分をそのままに見たから、気づいたからといって価値観・行動・選択が急に変わりづらいこともあると思うんですよ。

動画の中の中村うさぎ氏もおっしゃっていましたし、誰に聞かなくても私たちのほとんどがそういった体験の1つや2つや100個や1000個ありません?

 

わかっちゃいるけどやめられない。という言葉もありますでしょ?

 

となると、わかるだけでは人生を変えようとした際に少々パワー不足なんでしょうね。

 

ストレスケアは非常に有用だと信じていますが、ストレスケアだけでは価値観・行動・選択までは変わらないことが多い。

「決める」という胆力と、それを続けるという継続力・根気が大切なんだなぁってしみじみ思います。逆を言えば、これができるならストレスケアはあくまでも補足(身体がかなり軽くなる)だろうと思う。

 

ゴールじゃない

ストレスケアを知る、ストレスケアにたどり着くことがゴールじゃないと私はとらえていますが、これこそ人生観によるのでヒトそれぞれです。

これは通過駅でしかないと私は捉えているけれど、バランス調整しているから大丈夫だとしてここをゴールと捉える方もいる。それで良いならその方にとってはBestなんだと思う。

wal_172619によるPixabayからの画像

 

サタニスト的な要素を必要としないケース?

先ほど、「他者不在で何一つ評価が無くても感謝しかわかない幸せってある。」と書いたが、このような体験は普遍的ではないのかもしれない。ただ、こういった感覚を体験すると、占い、霊能、スピリチュアル、オカルト、何かからのメッセージ云々などを必要と思わなくなるような気がする。と書くのは乱暴だろうか?

こんな書き方は誰かを傷つけてしまう可能性もある。

 

ただ、慣れていく、練習するという点からみたら、それらから距離をとることは正攻法とはいえるのかもしれないが。

 

試行錯誤して自分の道を行くしかない。

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サタニストという観念

魔・魔物・鬼

こんな話題はヤバい?(笑)

本ブログはサイトの運営側の都合により来年消失します。ホームページの方は大丈夫なはずだけど私の勘違いでホームページも消失したら今より簡易なホームページを立ち上げます。

サイト側からは本ブログの引っ越し先を紹介されていますが、本ブログに関しては過去のものはもう引っ越ししません。消えるだけです。

ですから少々この話題に触れるとヤバい人だと思われそうなことも、どのみち消えるから書いておこうか。などという気持ちになりました。

 

私がサタニストについて書こうと思ったきっかけは、どこで見たのか忘れましたが次の投稿が目に入ったからです。

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falcoによるPixabayからの画像

私も過去に触れたけれど

船井総研の故船井幸雄氏、後年、エンジェルカード・オラクルカード・メッセージカードを「悪魔の仕業。悪魔に騙されていた」とその成り立ちを全否定された開発作成者で世界的に有名なドリーン・バーチューについて過去数回書いた。

一世を風靡した江原氏も「オーラの色なんてどうでもいいんだ」みたいなことをおっしゃっていたような気がする。

 

根底のニュアンスとしては先項の「占い、霊能、スピリチュアル、オカルトは悪魔への入り口。」ということだろうと思う。

悪魔への入り口ではなくても、自分を失う入り口になるケースはあると思える。失うというより、自分を明け渡すというイメージか。考えるのをやめて、これらから得られる結果に自分をゆだねてしまうというイメージかもしれない。

 

しかし、これらで生計を立てている方も多く、これらのとあるジャンルを扱う方を「ライトワーカー」と呼ぶ思想もあるようだし、そういった方は私のブログは非常に不愉快かと思うし、(なんにもわかってないな)と思われる方もいるだろうし、信じるものが違うのねと何一つ気にならない方もいるだろう。

そして、私は今現在の思考をアウトプットしているだけなので、イライラすることなく、傷つくことなく、何も気にしないでほしい。姿の見えない遠い国の人のたわごとだ。

ということも何度も書いた。

 

ただ今回は「サタニスト」というネーミングがやけにしっくりきちゃったので、気になっちゃうと書きたくなる。

サタニストとは?

ネットで調べたら深い沼が待ち受けていて、深い沼が深すぎて、「陰極まれば陽」的に世界規模に話が広がるような説もあるようですが、私の風呂敷はそれほど大きくなくて、それに魅了される理由のようなところをこれまでと同じように書きたいと思う。

理由は、私は相談業をしていて、相談者に限らず世の中を構成しているヒト様の多様な価値観や、感情、嗜好についてついつい思考してしまう癖があるからです。

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勝手に推測①

大いなるものと(サムシンググレートという方もいるが、実はそれがサタニストに分類される大いなるものという可能性だってある)つながっている、つながりがある、つながりが持てるということに安心感や優越感、特別感があり、そういった感覚に依存する、中毒化などが含まれている。

そこの自己価値が存在意義だと決めている方もいらっしゃる。

ライトワーカーのつもりのサタニストというもの非常にシュールだが、真偽を決めるのは私ではない。

 

流行ったスピリチュアルなんて、とてもそこが悪魔への入り口なんて感じないけれども、あまりに多くの人たちが瞬く間に魅了されていく様や、勝手に奥深さやルールを決めて知識、見識の優劣を競い始めるのもおかしなことと言えばそんな気がする。そして、損や罰を心配したり、恩恵を失うことを危惧してそれらからなかなか離れようとしないのもおかしな反応だと思えばそう思える。

勝手に推測②

このジャンルにかかわっていることで自己能力の優位性を感じる。

満足感がある。

勝手に推測③

信仰と「占い、霊能、スピリチュアル、オカルト」が同一。

勝手に推測④

占い、霊能、スピリチュアル、オカルトこそがこの世の真実だという価値観がある。

今はAIが仲間入り

占い、霊能、スピリチュアル、オカルトこそがこの世の真実だという価値観があると仮定したときに、

依存対象としてどんどん加わっているものに、YouTubeからの情報や、AI 特に受け答えしてくれるAIがこの世の真実だという価値観に参加して久しい。

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AIも魔物?サタニストを育成?

論を展開していくと、AIも魔物?サタニストを育成?という疑問がわいた。

 

ポイントが、自分を失う入り口にななったり、失なったり、自分を明け渡すということにつながるのならそういう一面もありそうですが。

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付き合い方次第。と言い切っていいのか?

私は全知全能でもありませんから、記述してきたモノ達と要は付き合い方次第。と言い切れるのかどうかは知りません。

 

占い、霊能、スピリチュアル、オカルト、YouTubeを含めたSNS、対話型AIなどとの接点が増えていくヒトは多いが、減っていくヒトは少ないような体感がある。

 

やめられない、とまらない。

かっぱえびせんの名コピー通り。

1つをやめても、他へスライドしているだけで、基本「占い、霊能、スピリチュアル、オカルト、YouTubeを含めたSNS、対話型AI」の利用の域を超えて依存してしまう。

 

世の中は変化して様変わりしていく。

 

人間の本質はどの程度変わっていくのでしょうか?

ローマ人の格言が今なお現役ということは、本質はそんなに変わらないものなのかもしれないですね。

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地獄への道は善意で舗装されている

歴史の無限大リピート?!

私もその中で生きている

数か月前になるでしょうか?「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉をFacebookに我那覇真子氏の言葉と紹介しましたが、なんとこれ、ローマ時代からある言葉だそうだ。

 

ローマ人天才。

今の世の中に伝わる、はるか昔の哲学者たちの言葉も、そのまま今も当てはまってる。

歴史の無限大リピートだと日々思います。

壊れたDVDの同じシーンがずっと続いているようなイメージです。

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善意で舗装という面からみると

仏教も含め、多くある宗教も私たちの混乱を招いたり、自我を崩壊させたりするときがあります。

 

これらは善き考えだと強く推されたりしますが、言い方を変えるとそれらは他人の物語である一面があり、それに無理に適応しようとしたり、自我を埋没させているのでは?というケースもあります。これらがそののち自我や精神の混乱の引き金になる場合もあるようです。

 

もちろん、信仰に救われることがありますが、自分の内側からの信仰と、善意というか、良いとされる教えに盲信的に無理に合わせていく、従うという外側からのそれは意味合いが変わってくるかと思えます。が、盲信から深い信仰へ変化していくことも多いことも確かです。

 

伝える側がいろんなものの良いとこどりをしてMIXして、ほらMIXしたらベーシックなものよりももっと良くなったよ!というときに、全然もっと良くなってなどいない時もあるんです。改良となることも、改悪となることもありそうです。

付加価値が良くも悪くも影響するというイメージです。おそらくこの「良かれ」は善意に分類される心理だろうと思うんですよね。その善意が相手の混乱を起こすこともあるし、成長や回復を阻害するようなことがあっても不思議ではない。

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感情がある人間にはハードルが高い「ありのままに観る」

事実を無理に曲げてでも良い事柄だと解釈するのが善人ではないだろうし、ただただ良い一面だけを取り上げて誤読するのが善なる生き方とも限らない。

これらと、「ありのままに観る」ということは異なる行為だと思います。

しかし、私たちには感情があり、期待や希望があり、先入観があり、プライドがあるので「ありのままに観る」というのは「何も加えずただシンプルに見るだけ」なのに非常にハードルが高いようです。

 

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辛い時には

先述した、”歴史の無限大リピートだと日々思います。”は私の人生では救いにもなりまして、

吉凶はあざなえる縄のごとし

と表現されることが人生では起こるという経験値です。

 

凶事は吉事。

凶事は吉事の前払い。みたく考えて、それからの囚われを終わりにすることがあります。

 

結果、最後にHappyなら、「私の人生は幸せだった」と思うだろうし、最後思うような状態じゃなくても「いろいろあった。人生楽しんだな。満喫したな。」と思いそうですが、その時にならないとわからないですね。(笑)

 

生きている毎秒が奇跡の集大成だと気づけるとまた人生のとらえ方、感じ方が変わるのかもしれません。

 

皆様の暮らしにもHappyが降り注ぎますように。

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