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そう! 私は世の中のすべてをわかったつもりにもなっていませんし、知っているとも思っていません。自分なりに考えたり、My統計をなんとなく意識していますが、いち人間というか、世の中のすべてを把握しているような存在でもないし、あんまりわかったつもりになっても怖いなと思ったりします。
悟りを目指してエゴ炸裂というようなことを昔ホームページのコラムに書いたと思いますが(ブログだったかな?)、自分の創造力やキャパシティ以上の領域っててんこ盛りあるというか、多分そっちの方が量的に圧倒的に多いだろうと思っているし、そういうスタイルでいた方が悪い意味での慢心をしない気がします。
ですから、小説、映画などからも知識を吸収しています。正解とか不正解とかではなくて、いろんな人の考え方を学んでいます。理由は門外漢だという自覚があるからです。でも私なりに考えたことと同じような考え方を見ると、そうそう! そういうこと! と納得したりします。
で、前置きがながくなりましたが、今回私が なるほど! と思った一文がこちら。
そう、そもそも前回のブログを書き始めたきっかけが上の小見出しのセリフです。
外的な何かの影響を払うとか、不浄なものを遠ざけるとか、そういう他責的なイメージではなくて、「自分の気力」という視点についてなんですよね。
私個人は、他からの影響で気力が枯れるということもあると思っていますが、でも、それに対して、栄養面でのケアや、自己の心体に具体的にアプローチするストレスケア、出来事に対する対処方法などなど自分で考えたり、思考力、行動(休憩する。ということも行動ですが)の選択、自分で期限はコントロールできないですが日にち薬も考慮に入れたり。
多分、穢れとか不浄とか自分も含むという言葉や教えは知っていても、行動や感情的には対象というか、標的は自分以外のナニカにすり替わっていることが多いような印象を受けることが多かったんですよね。
知識と感情の矛盾というか。
表現が適切かわかりませんが、払いや不浄という際に、感情的には、映画などで悪魔やドラキュラに十字架をかざして遠ざけるというようなイメージ、感覚なのかな?という印象が散見されるような気がした。
すると、他者(環境)から不浄はくるとか、他者(環境)が穢れているとか、多分それは人間の本能であろうとは思うんですよ。人間の本能どころか、それがこの世の理説があることも踏まえていますが、「健康的な思考か?」とか「朗らかか?」というような物差しを用いたときに、この「気力」という言葉の深みが浮き彫りになってくるような気がします。
そう、ご自身の「気力」。
他者をケガレていると忌み嫌う、排斥する、祓うことばかりに注力している最中のご自身の「気力」といいますか、「気の質」と言いますか、それは多分、あなたの内側の反応だと思いますが。
それは清らかさ、朗らかさというような気の質なのでしょうか?
浄化だ穢れだ、そしてそれを祓うんだと、まぁ音叉でもいいし、アロマでもいいし、レメディでもいいし、何か文言を唱える方、お札やお塩やお酒も活用するケースもありますでしょう。何かしらの「型」のようなものを採用することもあるでしょう。
ところが小説の中のセルフには「笑いがケガレを払う」とあるではありませんか。
素敵なセリフですね。素敵な考え方だと思いました。
私の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアのポリシーというか、モットーを「健康で笑い声のある生活をサポート」としていまして、この小説の中のセリフには非常に共感いたしました。
浄化やケガレというようなことに詳しくなって、知識をいっぱい得て、で、朗らかさや明るさやフレンドリーというようなことから遠ざかり、気が付いたらせっせと不浄を祓っているつもりでその思考に憑りつかれてしまい、忌み嫌っていた対象と気が付けばどこかが似てきていて足元をすくわれてた。
というようなことにならないようにしたいと思い、思っている次第です。
難しいですよね。書くのは簡単だけど、自分の状態を維持、把握するのって難しい。他責ではなく、自責でもなく、一旦フラットに物事をとらえるって難しい。
小説の中にはこんなセリフもありました。(あったような気がする)
「自分が賢いと思っていると悪魔にやられる」
知らない奴は馬鹿だ。といって他者を馬鹿にすることってありますよね。
そういうあなた、私も知らないことがあるはずですけどね。お互い様だったり、ヒトって双方たいして変わらなったりすることも多いでしょ?
悪魔にやられるってどういう意味だと思いますか?
浄化が気になりますか?と問いかけました。諸説あることは知ったうえで非常に荒々しく「浄化教」と書いたら・・・きっとダメですね。浄化という概念の「おしえ」だとは思うので表現としてはそう遠くないとは思いますが、私が書くと皮肉感が混じってますかね?
という前置きからうっすら予感ができるかと思いますが、浄化や邪気という概念や行為に一家言ある方や、これらの理のマスターだと自負されている方はこの先を読んでいただいても意味が無いと思いますし、ただ腹が立つとかイライラするという事態になりかねませんのでこの段階で読むのをやめていただいくことをお勧めします。
と前もってお知らせしました。この先を読んでいただいての不満を私に向けないでくださいね。そういったことも自己責任でお願いいたします。
浄化の教え、自己流アレンジも含めて「浄化教」としたときに、流派もお作法もいろいろあるようです。
私が音叉を使わないのに、音叉の話を書くことがそもそも失礼なのですが、少しお待ち下さい。ウンチクを語るのではなくて、体験談を書くだけです。
私は音叉も持っていないし、一家言もなく、ヒト様のおっしゃってることをただ聞きますが、その中で「音叉をならせばいいってもんじゃない」とおっしゃっていた方がいました。複数名いました。
音叉を鳴らすというか、音が出るように叩くというか、それらを行う側のスキルというか、姿勢というか、状態が関わってくるよねとは思う。無知な私でも、数少ない回数音叉が鳴らされるのを聞いた際に、違和感や、不快感を感じたこともあったし、音叉ではなくて「鐘」でしたが、その音色に何も感じないのに、足から頭まで振動が骨を伝わってくるのを感じたこともあった。違和感も不快感もなし。心地よいというより、おーすごい!音の影響ってこういう風にあるんだね。と感動しました。あのような「上手な?」鳴らし手さんによりバランス調整が起こるんだと実感したことがありました。
ということは、鳴らし方によっては、バランスが崩れることもあるんだろうと思ったんですよね。
スキルというか、テクニックというか、もっと目に見えない分野の話なのか分かりませんが、音楽に携わる方なら当たり前にわかるお話だと思います。
そう、10年以上前に、叩く人によってはタンバリンの音色が楽しい音楽の一部になるのか、調和を壊す騒音になるのかの違いを体験して非常に驚いたことがありました。タンバリンという素人からしたら単純に感じる楽器なのに、全然違った。全然違い過ぎて素人の私が驚きました。
あの調和を乱すタンバリンの音を聞いていた時に、とても不快で、違和感を感じました。音叉もタンバリンも奏でる側の状態、スキルって関係するなぁという実感があります。
音叉についてもそういうことなんだろうな。という体験からの個人的な意見です。
良かれと思って、相手にバランスの不調和を起こす可能性のある行為をするというのは、本当に音叉に限らないし、そもそも何もしなくても生きているといろんな環境のもとバランスの不調和を起こしますでしょ?
だから何かだけをやり玉にあげたいわけじゃないんです。今回は音叉と書きまして、申し訳ありませんが。
私はこーゆーことを書くから、嫌がられる。共感を持ってくださる方もいらっしゃいますが、楽しく浄化をしていたり、真剣に浄化をしていたり、それをやることで機嫌よくしている方には、自分を否定されているような気がしてイライラされそうです。
あなたのことを書いているわけではありません。イライラするくらいなら画面を閉じて忘れてください。(^^)
ただ、ストレスケアについてセッションを行っている私にはこういったことを考察することは大切だと思っています。
というイメージもあるかもしれませんが、善悪とうか、そもそもの設定は誰かが決めてますでしょ?ご本人かもしれないし、浄化マスターみたいな方かもしれないし、動画や書籍の発信者の選別眼によるものだったり。
自分以外を「不浄」「ケガレ」とするそもそも設定は、他の誰かから見たら浄化対象かもしれませんね。
ふと、(こういうのってシュールだなぁ)と感じることがありました。
誰も否定していません。現象というか、心理というか、そういったことに興味があるだけなんです。
ですから皆様におかれましては、機嫌よくお過ごしいただけましたらそれがベストです。
なに急に?! という小見出しですが、欲望を満たすために手段を択ばない的な意味合いでしょうか。小説にもよく出てくる考え方なのですが、悪魔は神様のふりをするという設定があります。
そして、「ここはパワースポットだよ」という噂を利用して人間の欲望を刺激して人を集め、良かれと思ってその場所に来た人たちの大切なもののバランスを崩すという設定になっていることもあるんですよ。
陰謀論には敏感だけど、こういったことは自分の利益に直接的にかかわってきますから疑わずに信じてしまうってことあるんですよね。双方根っこが非常に似ているという内容だったりする気がする。
というような心理の考察をする習慣があるものですから時々書いてしまいます。そして、もともとこの記事を書こうと思っていたところには内容が到達しておりませんので次回に続きます。
はるか昔で、なぜ自分がアレルギー検査を受けたのかすら何も覚えていない。
ただ、「ソバ」が一番反応していたことは覚えている。一番反応していただけで、その数値が危ないものなのか、その検査の項目の中で他と比較すると高い程度だったのかも覚えていない。
その時の検査結果の用紙も持っていないし、ただただ記憶の中の話です。
なんならハウスダスト系もちょっと反応していたような気がする。スギ花粉とか、そんなものも反応していたような気がするがはっきりとしない。
韓国冷麺が好きで、食べる機会があれば絶対にそのチャンスを逃さなかったある日、韓国冷麺の色を見て(あれ? これってソバの色に似てる!?)と気が付いて素材をみたらビンゴ!だったことは過去に何度も書いた。
あぶね~ アレルギー反応が出なかったから良かったものの、もうこの先一生ソバは避けなくては。とさんざん食べた後だったけれど食べるのをやめた。
そして、盛岡冷麺がそば粉を含んでいないというラッキーにより、私の中では 食べられる冷麺=盛岡冷麺となり、喜んで食べている。
しかし、久しく行っていない海外旅行にこの先行くかもしれず、食べられないものがあれば再度しっかり把握したくて病院でアレルギー検査を申し込んだ。
一応、今でもソバが反応するのか? 小児時にサバを食べてたった1度ですがじんましんが出たことがあったのでそれも申込用紙に書いた。
「結果が出ましたので病院へお越しください」とご連絡いただき、いそいそと病院へ行きました。
結果、なんもなし。(◎_◎)
医師に「全て-(マイナス)です。」と伝えられて、反応クラス数値がオール「0 ゼロ」な用紙をいただいて帰宅しました。
ラッキー(^^)
韓国冷麺食べられるじゃん。
東京へ行った際に、韓国食品のスーパーでそれはそれはおいしそうな各種冷麺があった時に泣く泣く見送ったあの日や、カルディで冷麺を発見しても見送った日々から、好きだから食べる!に復活である。
そう、細麺好きな私は、超細っそい冷麺が魅力的です。もちろん、ひやむぎより素麵派。
その昔アレルギー検査を受けたときは実家にいた。子供だったし。
その当時、実家の環境が割とひどくてですね、栄養失調で倒れたこともあったし、割といつも不健康でした。アトピーも重めで痒いので、毎日薬を塗っていた。時には包帯を巻いていた。
で、社会人になり、実家をでて、随分と経ち、実家で味わったようなストレスが減りました。
アトピーは身体の成長とともに体質が変わったかもしれない。とは思っているけれど、内臓は子供のころより今の方が強い気がする。
内臓が健康だと、アレルギーももちろん反応が変わるだろうし、バランス調整でもアレルギー調整もしたし、セルフケアでもせっせとストレスケアをしてきた。
感情ストレスって内臓にダメージを与えますでしょ?
多分いろんな合わせ技というか、積み重ねで心も体も変わった気がします。運も良かったはずです。
私がいくらソバアレルギーだといっても、実家で眠るときはそば殻の枕がでてきてたし、ソバのアレルギーが反応した当時も私にはそば殻の枕を与えられていた。親も知識がなかったんだろう。私もあとあとそれに気が付いたくらいなので一緒になって無知だった。
それを思いやりがないとか、私の話を聞いてくれないとか、そういう文句を言う「無いものねだり」「現実を認められない」とか「変わらない相手に向かって、相手が変わるのを待とうとする自分の思い通りにしたい執着心」はこの件に関しては発動しない。
いや、そんなところにこだわって疲れたりイライラする前に、そば殻の枕を使わない。遠ざける。という自衛手段をとるのが優先でしょ?
自衛ができたらそれで良いんです。
自分で安全を確保できるのならそれで快適です。
昔は(なんで?)と悲しみを感じていましたが、これがコントだと思えば笑えます。
今ここまで書いてきて、読み返して、私は子供のころにアレルギーテストを受けさせてもらえるという愛情は受けていたと認識できました。ありがたいことです。
今回のアレルギーテストでは、
オール クラス0(ゼロ)なんで。(笑)
ただただ有難いばかりです。
病院の先生もおっしゃっていたし、私も実感していますが、体調によってアレルギー反応が起きる時ってあります。子供のころにサバを食べてじんましんが出たのは、サバが痛んでいたか、自分が弱っていたような気がする。両方かもしれない。
最近は、身体が受け付けないものは吐気か下痢がおこる。滅多にないけど、どちらかはおきる。体外に出したい!という身体の主張をすごく感じる。
身体が教えてくれるのも、その時はシンドイけどありがたいです。私を大切に扱ってよ!という身体からの強いリクエストだとありがたく受け止めています。
栄枯盛衰という言葉があります。
時代の変化もいろいろですね。
意識や常識も変わりますし。
コロナ騒ぎのあと、日本人の渡航割合が減ったという情報を目にしますね。本当のところはわかりませんが、情報としてそう聞きました。
私も生活のリズムがかわったので、コロナ騒ぎ以降は海外へ行っていません。先日イタリアの友人に「ただ行くって決めるだけだよ」とごもっともな意見を頂戴しました。
そうね、せっかく海外に行くのならゆっくりしたいけれども、1週間程度で行って帰ってこれますよね。もっともっとゆっくりしたいけれど、行ける時に行ける所へ足を運んでみたいよね。ちょっと滞在期間が短くなっても まぁいいか。と思えるようになりました。
友人のあのごもっともな意見がストンと入ってきましたよ。ありがたいですわ。
海外の「ヤバい!」というような動画は多分たくさんある。
そういう情報も気を引き締めるためには大切だけど、そればっかり見ると気が滅入る。 まだ渡航するって決めてないからせっせと動画をみているわけではありませんがいくつかシェアします。
う~~ん、コロナ前に私が海外に行った際の印象とはちょっと変わりましたかね。こういった映像が「現実よりも悪いイメージを切り取って誇張する」ものであるかもしれない。しかし、やらせでエキストラを大勢雇っているわけではないので100%作り事ともちょっと違いますかね。
数年前LAで出会った方が、「将来はサンフランシスコに住みたい。とてもいい街だから」と言っていたのを思い出します。多分その時のサンフランシスコと今のサンフランシスコは違いそうです。
あの時の会話を思い出すと、ちょっと切ない。
日本もいろいろジワリジワリと変化しているし。
ジワリジワリ、シレっと変化していることもあるし、世界的ニュースで皆さんご存知な変化もある。
世界、日本が良い方向へ行くといいなぁって願ってます。
良いも悪いもない。とか、人間立場が変われば善悪も違うのかもしれないけれど、やはり世界も日本も平和で、安心して人々が暮らせるといいなって思っています。
スピ好きな方々の「つながる」ってありますでしょ?
繋がる対象は
他になにがあるかな?
多分もっとありそうですが、今回はそういう話ではありません。
いや、私も過去、上記のアレコレに「つながる」というようなことを書いているかもしれません。すぐに思い出せませんが、あったかもしれない。
しかし今回はそういう話ではありません。
著作権がありますので、部分引用とさせていただきますが、
とある書籍の中に
”ヒトとヒトを繋ぐのは信頼と敬意”
という一文がありました。
(ヒトとヒトを繋ぐのは信頼と敬意であり、)愛とか恋ではないという補足もあったように記憶しています。
この一文を耳にしたときに、
ということは、
書いたらキリがないあれやこれやによって
結果、そのご本人から人とのつながりを断つ。なんて考え方もできるし、そうやって人とのつながりを失うことで一層他者や何かいろんなものにすがりつくというマッチポンプが成立する。
確かに上に書いたような展開には、相手の方への敬意は感じられないかもね。
あらまぁ・・・ではあるが、全然珍しくないし、いや珍しくないどころかこういったことで社会は構成されているともいえる。
ここまで書いてきて、そうか、だからスピ的な「つながり」を得て安心したいのか。
ヒトとつながらないなら、ヒト以外とつながろう!と。
わかりますよね。
これは私にはわかる。わかるのは「ヒト以外とつながりたい」の部分ではなくて、「ヒトとはつながれない」と実感したときの虚無感の方です。
つらいこと、なにかと経験をする際に、人間不信になるのは珍しくないし、なかなかヒトに恵まれないような気分になる時ってある。
それはあなたが自分で引き寄せてますよとしたり顔で言われて腹が立つことだってあるし。自分でその状態を招いていたって、腹も立つし悲しかったりしますよ。
信頼と敬意って、その言葉と実際の行動や感覚ってニュアンス、イメージ先行だったりする。簡単に見える、感じるものって案外難しいんだよね。
誰もが通るようなコースはたいてい通った私ですし、なんならちょっと激しいコースだったかもしれない期間もありましたが、今は「つながり」への渇望はありません。やはり生きていると期待はしてしまうのですが、(おっと、凝りもせず 私ったらまた)と気が付くようにしているつもりです。
理由は、・・・う~~ん、そうですね・・・昔コラムやもう閉鎖した不思議な体験系を集めたサイトに書いたことがありますが、妙な、怪しげな思想を採用するのをやめたからかもしれない。それがスピ系ともいえる。至極もっともで有難い大切な話だという触れ込みでも採用するのをやめた。ありがたい方の話でも。
世の中にはいろんな意見がある。それを採用するかどうかは理屈や理論もゆっくり考えますし、違和感も大切にしています。
が、それらを断ったら今回生命がある間はずっとあるだろうと信じてしまうような独特な安心感や愛を得た。得たというか、そういう感覚を感じて、そのあとも今日現在までずっとあるという感じですし、この先もあるといいなって思ってる。
言い方を変えれば、「つながり」というようなものを失う不安や心配が無いということでしょうか。「つながり」というようなナニかを維持するために努力しなければならないとか、義務があるとか、そういった考えが無い。いや、無くなった。
今は無い。が正しいのかな。
「つながり」というしばりが無い。と書くと不思議な表現ですが。
ある日から、絶対的な愛を感じ続けていて、今回の生命の灯が消えるまでこれは続くと思っています。いや、こういった感覚はありがたい僥倖なので自分でコントロールできるかどうかもわかりませんので、「続くといいなぁ」と思っている。
ただただありがたいことだと思っています。
現実問題としてナニかあっても、それとこれは別。
だから無条件というか、しばりがないというか、因果関係とかの領域外というか。
というのもこの書籍の一文的には「ヒトとつながる」とは限らないようですね。
という価値観の方がいたら、相手がそれを信頼とも敬意とも受け取らず、ただその方のさみしさを埋めるために利用されているような気がするってこともありえます。甘えられている方が、自分に対する敬意や信頼を感じないってことでしょうか。甘えている側が相手に敬意や信頼を持っているのなら、別のコミュニケーション方法を試してみてもいいかもです。相手にそれが通じていないのならば、ですが。
こういったことにも相性があるといえるのでしょうか?
1年2年はそれでもいいだろうけど、長期間のつきあいとなると関係性に変化が訪れることもありそうです。
赤ちゃんには、甘えようという意図はなく、ただその存在に傍が愛を感じて愛してしまうということでしょうか。赤ちゃんには「甘えることが愛すること」というような価値観は無さそうです。
言葉って、言葉を知っているとその内容までわかったつもりになってしまいがちですが、そもそも「つながる」って抽象的ですよね。
だからというわけではありませんが、
ヒトやその他の何かと「つながれば安心できる」と思っているのなら、あなたの持つ不足感や寂しさ、不安についてしっかり考えた方がその状態から脱するのが早いかもしれません。
そしてストレスケアをする。(私はしつこく自分のストレスケアを行いました)
「つながる」ためのテクニックに没頭しますと、あちらこちらが結構こじれてくることもあるようにお見受けします。こじれたって人生経験の1つだから大したことじゃないとも言えますが。
自分の持つ不足感や寂しさ、不安についてしっかり考えてみる。こちらがよく「土台」と言われている分野だったりするようなので。
そしてこの土台を整える際に、ストレスケアってとても良いです。
何度も書いていますが、本を聴いています。
好きな本が残念ながら聞き続けられないナレーションの時もあるし、まるきり知らなかった本が素敵なナレーターさんとの出会いで内容が楽しめたりします。
ぼそぼそと小さい声の録音だと、いや、小さい声のナレーションならばそもそも録音のボリュームを大きくしてくれたら良くない?などと思って聴くのをやめたりする。
声の好みにも影響されるし、喋り方、語り方、話し方、イントネーションなど想像以上にしっくりくるものがないのに驚いている。内容が頭に入ってこない。興味をもって聞くことに集中できるものが少ない。
聴くコンテンツの探し方が下手なのか?、私の好みの幅が狭すぎるのか? この方の作品は外れがないというお気に入りのナレーターさんを見つけるのが先かもしれないが。
映像がないと、ものすごくクッキリと浮き上がってくるものがあるんですね。ラジオとは違う。会話でもない。ご本人の熱量云々がアジになる語りでもない。
朗読界にも、「本当は」とか、ルールとか、好み・こだわりがあるのも聞いたことがあるけれど、行う方のルールではなくて、聴いている側の嗜好と一致して「物語」が楽しめたらそれでいい。
(朗読がお得意なんだろうな。と感じるような方が読む「物語」がとても癖があって聞き続けられなかったこともあった。癖が耳について物語が頭に入ってこなかった。本の内容と読む側のスキルの不一致なだけだろう。)
朗読の常識に従わなくてもOK!みたいな感じがオーディブルの良さだと思っている。
自由さというか、創作というか。
朗読やナレーションではなくて、オーディブルというジャンルであるというような感じでしょうか?
でも、ベテランさんはどのジャンルに分類されようがお上手としみじみ感じるようなナレーターさんもいらっしゃる。
そんな方と出会うと、本当に本を聴くのがの楽しいし、どんどん聞きたくなるし、クセになる。
視覚を伴わない分、今までほとんど?あまり?使われなかった「脳のある場所」を使っている感覚がある。
脳の「とある一か所」ではなくて、バイパス具合、連携具合が新鮮な感じがする。
ただの気のせいかもしれないが。
私は過去講座を開催してきましたが、動く私、ワークを行いながら聞く環境、ホワイトボードなど、視覚情報や体感覚が伴っていたからなんとかなっただけで、声やしゃべり方などなどを仕事にはできないのは自分が一番よくわかっている。
ラジオも「正しい話し方」ではなくて、対話や語りだったし、滑舌も歯列矯正中でますます欠点が露出したからお休みを決めたし。
自分を基に考えると、ナレーションってすごいな~って心から尊敬しています。
セッションルームが当面来客対応に適していないため予約枠を閉じています。そして、ラジオ放送も一旦お休みしました。
ということで、生活がゆったりしています。
静かではありません。なんせ工事中なんで。
家の中の処分するものは選別して処分して、古いPCもついに初期化して処分します。念のためにとっておいたのですが、その念のため期間も終わりにします。
いろいろスッキリです。
あぁさっさと引っ越ししたい!と思うけれど。
同じ日は1日もない。という論法からすると変化は毎日していまして、環境も変わるんですよ。
仲の良かった友人が転居しました。国外に。
私の引っ越し願望を軽く飛び越えて、友人は段取り早く移動完了です。
冒頭にも書いているように、私の環境も変わり静かな時間が増えましたので、また文章を書く時間を増やせたらいいなぁと思っています。
年齢を経て、私が自分のために良いと思うことに、
己の嗜好がはっきりしてきて、
かつ、
場を和ませるというか、誰かの機嫌を取る時間を減らすことに罪悪感を持たなくなる
というものがあります。
自分の目的や希望にちゃんと焦点を当てられる。
誰かのために時間を使うことが幸せである場合もあるし、それが機嫌を取るのが主ならば幸せとは言い難いこともある。
自分の意見としてはっきりと好き嫌いを言えるし、それを基に行動に移せるし、必要なら本音を言える場面が増えた。
こういった意味での快適さが増えた。
ありがたいことである。
というか、どうやら「いまどき」の若い方たちは加齢云々とは無関係に自分の嗜好を大切にしていると耳にする。そして、海外の方と接するとそれが当たり前以外の何物でもないような雰囲気が伝わってくることが多いです。
ということで、ショート動画全盛の今、ブログをぼちぼちアップしていこうと思っています。
いろんな親子相談がされていますが、
私もたびたび、これを言っちゃあ身も蓋もないけれどという前置きを使って、「相性」という言葉を使うことがあります。「相性」という化学反応、生体反応、対人反応のようなものです。
今回ご紹介した2つ目のご相談について、「巡り合わせ」「環境」というような表現をされていたかと思いますが、言いたいことは同じです。
良いとか、悪いとか、原因がどうとか、そういったことは組み合わせの妙の上に成り立っているんだなぁと思うことが多々あります。
ヒトは変化していますでしょ? 天候によって気分が変わったり、ホルモンの影響を受けたり、その時の家庭環境に影響を受けたり、経験によって変わったりといろいろ変わるんですよね。
組み合わせの妙、相性の妙というようなことが世界を構成していますね。
そして、相談者さんが「ミキさん」だそうです。私ではありませんが、世の中の多くの「ミキさん」それぞれに人生がある。取り巻く環境がある。ほんと人生は奇跡の積み重ねですね。
子の呪縛を感じる親もいらっしゃるでしょうし、親の呪縛を感じる子もいらっしゃるでしょう。
私の体験談ですが、親と離れて沖縄に住んでいる私に「ご両親はさみしがっているでしょう?」とおっしゃる方がいました。よくある社交辞令な会話でしょうか。
その時に私が「私は今とても幸せです。私が幸せだということは親も幸せだと思っています。」と答えたんですよ。今この文章を読んでくださっているあなたが、これを可愛げのない返答ととるか、素敵な返答と感じるのかはわかりません。
ただ、質問した方は「すごい意見ね。」とおっしゃいました。好意的というよりも、(親元を離れて、親を悲しがらせて申し訳ない)という返答を求めていたんだなぁと感じるものでした。
この方は、罪悪感を相手に呼び起させたかった。義務感を肩からおろしてはいけませんよ。と多分無意識に私にボールをパスしたかったように思えました。
美談というか、正論というか、言う方は言いやすい、聞かされる方は反論しずらいようなジャンルの話です。
こんな経験談を今回シェアした相談を見て思い出しました。
あなたは何をどうお感じになるでしょうか? 子育て経験の有無や、ご自身の親子関係の体験、ご自身の罪悪感や義務感、あなたの親御さんの考えもいろいろあるでしょう。
無償の愛とは?
無償の愛についても、諸説あるというか、いろんな言葉で表現されてきました。
ただ、ちょうど今日、ネットの中の相談に対して読者が返信、書き込みしていたものの中に、「無償の愛を受けなかった者は、無償の愛を返しません」とありました。
なるほど。
この表現は美談ではなさそうですが、(なるほど)と一旦言葉を飲み込む時間は生み出しました。 正解はわかりません。しかし、やっぱりちょっと考えちゃった。
「良い子」像を手放せないのも、成長、自立へ大きな影響がありますね。
2025年3月 今月いっぱいでラジオ番組を一旦お休みしました。で、来週は放送が難しいかもしれないので、今日が最後になった可能性も高いです。
これまでも、これからも、一期一会的にも1年中出会いと別れを繰り返していますし、2023年、2024年もたくさん出会って、別れてきました。一生の別れをしたかと思ったら、あっさり再会したこともある。
出会いの妙、人生の奇跡ということです。
恨み節で生きても一生、朗らかに生きても一生。
他者が自分の思うとおりにならないと怒り続けても一生、自分を自分で幸せにするのも一生。
人生、自分で選べることも多いよ。
沖縄に住んでいると、金属疲労(酸化)も目に見えるスピードで進んでいることを実感する。時代も変わる。
愛は変化するだろうか? 変わらない愛はあるだろうか?
年々「刹那」という言葉を体感するような気になる。
出会って、別れがあって、別れに伴う様々な想い、感情があって、出会いの喜びも別れの悲しさもそれすらも刹那だったりする。
これらを刹那とするのも自分、永遠だとするのも自分。
前述したようなことを、
再度思った。
これまでも一期一会も含めて出会いと別れの連続だったし、今後も生きている限りは同じです。
依存と執着がご本人の苦しみに多大なる影響を引き起こしている場合、違う表現として「刹那嫌い」と書いたらめちゃんこ怒られるだろうか?
どうやら刹那という時間感覚こそ個々によるようなので私にとっての10年が、誰かの100年ということもあるようだ。その逆もある。
脳内や皮膚感の時間感覚ってヒトそれぞれ。時計の時間は共通として確認しやすいけれども、刹那とかになっちゃうと指標がない。
その時なりに一生懸命に文章を書いているんですが、読み返したときに(なんのことやらサッパリわからん)と残念に思ったことも少なからずあります。
申し訳ないです。(-_-)
人生の感じ方のクセ。 あなたの意識がある次元(空間・時間)とは? | 心体カウンセラー 武田美紀|沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談
アダルトチルドレンや共依存、〇〇障害で起きている脳内ループ、スリップ | 心体カウンセラー 武田美紀|沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談
「お値段以上ニトリ」というコマーシャルがあったが、別れの寂しさ以上に「出会いの喜び」「感謝の念」を持つこともある。
私はおそらくとても恵まれていて、この「出会いの喜び」「感謝の念」にも意識を向けることができる。感性なのか、脳内変換能力なのか、理性の力なのか、単純なのか、どこから由来しているのか断定できないけれども。
恨み節で一生を終えるのは嫌だ! と心底思わせてくれた大人達との出会いにだってそれこそ感謝だ。
沢山の深い話をしたわけではなく、他人様にはこれまで言わなかった私の体験談の1つと、まぁざっくりとした家族関係を簡単に話した相手から「あなたは強い人だ」というようなことを言われました。最近の話です。
私の中ではもうとっくに完了している過去の出来事だし、刹那タイム終了案件でした。とある質問にたいして、その答えの理由を伝えたにすぎません。
しかし、ここまで来たら一生誰にも話さないだろうと思っていた体験談だったので、それを相手に話したということは私が心をゆるしているのだろうと自分で気が付いたわけですが、そういう意味でも大変ありがたい出会いだったわけですよね。嘘を言わなくても、「本当のことを言わない」という選択肢もあったのでしょうが、どちらも頭に浮かばなかったし、正直に伝えた自分が楽だった。
私が強いのか、ただただ刹那タイムを自覚できやすい体質なのかはわかりませんが、苦しむという「駅」を通過したことは確かです。ですから、回復までのステップというものはやはり踏んできたんですね。
続けたくても続かないものもあれば、続けたくないけれども続ける以外選択できる気がしないものや、続けられるけれども潮時だと判断するものもあったりします。
人生にはいろんな種類の出来事がありますよね。