悲しく感じる時も多いが
何度も経験あり。だからある意味事実。
個々の解釈、自分の好みに沿った「エビデンス」の活用、自己の思考を真実へと昇格させる脳内転換、体験の有無の錯覚、自己都合と他者都合の混同などなど
100人いたら100通りの解釈や選択や出来事があったりしますよね。
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私は人を見抜く。それホント?
- 感受性が豊かな場合や
- 無意識的にも意識的にも自分が他者より賢い、優れていると自認していたり
- スピ能力的なものが自分は高いと感じていたり
と例を挙げてみましたがなんとなくイメージできるでしょうか?
だから私はヒトを見抜けるんだと思ったり、言ったり。
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本当に見抜けているのなら起きないこと
では、それが本当なら、そういった方はヒト(他者)が自分の思った通りじゃなかったと怒ることもなければ、悲しむこともないはずですよね?
自分の思うとおりにならないとイライラすることもないし、傷つけられることもないし、傷ついたと思うこともないし、足元をすくわれることもないし、冷たくされたと思うこともない。
私のこと馬鹿にしてる! 私のことを大切にしない! と思うこともないはず。
だって、見抜けているんだから。
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見抜けていて、先刻ご承知なら、人間不信にもならない。
依存される前に手が打てるはずだし、自分が思うように相手に依存できないからと腹を立てることもない。親であれ、他人であれ。
他者、身内を見抜けていないから感情が揺れ、傷つき、怒り、悲しみ、そして喜ぶこともあると思うんですよ。
でも、私はヒトを見抜けるんだと思ったり、言ったりする方のほとんどは人間関係で沢山傷ついて、キツイ体験をしている方が多い。何かともめてることもあるし、許せない人がいたりする。

対処方法、自分の在り方がわからない。
「在り方」と書くと説教くさいような、だれかの教えの刷り直しのような感じが漂いますが、自分の感受性と、外からの刺激、影響への対処方法は全くの別の話で、精神論だけではなんともならないのなら対処方法を変えてみる必要があるのかもしれないという次なる展開を検討するという選択肢がある。
教えている(つもり)の側が知っている、わかっているとも限らない
いろんな説法があるけれど
【何事でもそうですが、先に言った方が勝ちで、反対するには反証を挙げなければなりません。それが死に関してはできません。】という言葉を目にしました。
どこで目にしたのかを忘れてしまいました。申し訳ありません。
死後の世界の話を解説している側の方について、【 】のように意見を述べた方がいたんです。
これはありとあらゆる方向性で似たようなことが言えると思っていて、知識や情報の受け止め方、吸収の仕方についての「自分の癖」を知っておくことはとても良いことではないかと思ったりしています。
先に自分に入ってきた外界からの情報にどれほど影響を受けるのか?も認識しておくも良いと思う。素直な人は情報や噂や、「先に言ったもん勝ち」みたいなことになることが多いみたいだし、ある意味プライドが高かったり、頑固と表現されるような脳の癖がある場合は自分の判断ミスや間違いを認知修正するのを嫌がるし、受け入れられない。
それは、「私は見抜けていなかった」ということを認められないう意味を含むこともある。知らなかったということを認められないとも言えようか?
「先に言うもの」がコントロール欲の高い人の場合もあるが、正しいことを言っている場合もある。が、しかし、正しい物事がその姿のままの意味が通じる、日の目を浴びるのに数年とか、数十年とかかかる場合も珍しくない。
ちょっとズルい知恵が働いたり、本能的に(先に言ったらそれがまかり通る。真実と受け取られる。)という人間の心理、習慣を利用するというか、逆手に取る場合もある。
こういうことからも、真実だと感じることは100人いたら100通りある。みたいなことを感じることが今までもあった。
価値観、モノサシは様々だということを知らない、感じないということも個々の個性による。
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実は見抜けていない。
一部は見抜けていてもそれはほんの一部?
自分のことをわかってもらえない!と嘆く気持ちもお察しするが、あなたも相手をわかっていないことは棚に上げたりする。あなたが相手を見抜くのなら、相手があなたを理解できないことも見抜けたであろうし、あなたの期待通りの行動をしないことも見抜けたはずだ。見抜けていたのなら裏切られたと思うこともない。
自分のことをわかってもらえない!という嘆きは、「私のことを1年365日 特別扱いして!」という別の意味が根底にあるケースもある。それはあなたの親でもあなたにそれを与え続けることが難しい時もあるよね。他者なら何をか言わんや。
わかってほしいのと、特別扱いしてほしいのとでは問題が異なっている。が、そんな風に考えられなくて一緒だと思うんだよね。もういろんなものがひと塊になって、ただただ感情が動いていることだって多そうだし。
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あなたが見抜いているつもりの相手は、相手のほんの一部でしかないということになりませんか?
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知らない。わかっていない。ということを認める
「〇〇さんは××よ。」も含め、先に言ったもん勝ちだったりするケースは多いが、世の中の多くはそれで構成されている。
私はこういった場面に遭遇すると(またか)と思う。そして、(真実というか、それが嘘だということがわかるのにどのくらいかかるのだろうか? 永遠にわからない? 数日? 数年? 数十年?)と頭によぎる。
私がそれをやる側に回っていることだってあるだろう。それも認めたい。
ヒトは聞きたいことを聞いて、見たいものを見るというパターンにのっとって考えると、誰かの「先に言ったこと」に対抗しようとしても、聞きたくなければ聞かないし、見ない。ヒトは自分が信じたことが間違っていたと思わされることも嫌うし、まんまと騙されたのでは?!と恥をかいたと思わされるのも怖いし。
逆に、自分の正当性を死守するために、ますますムキになってそこに固執することもあるし、無理に善意に変換したり、過剰に擁護することもある。その理由は、否定というか、自分と異なる意見に屈したら「自分が」負けだとまた別の問題になっていることもあるし、「見抜けていなかった自分」を認めたくないから。失敗は恥。
他者に「失敗はない、経験だ」と言えても、自分はこれらを経験とは捉えず恥ずかしい失敗だと反応する。
ただの認知の問題なのに、優秀とか劣等とか、良いとか悪いとか、法則とか、引き寄せとか、損得とか、必要以上に原因と結果みたいなことに風呂敷を広げ過ぎていることも考えられる。
あるがまま。というのは難しいものなのでしょうね。
それが難しいと、「自分のあるがまま」も難しくなるでしょうし、「あり方」も難しいということにもなりそうです。
良いとか悪いとかじゃない話
いろいろ書きましたが、ヒトは聞きたいことを聞いて、見たいものを見ることでしか生きていけない。何を見たいか?何を聞きたいか?ということは複雑な選別がされていることでしょうし、環境によっても違うし、経験によっても違う。ヒトは変わることがある。
今日現在のところまでのあらゆる経験は私にとってはありがたかった。
非常に傷ついても、悲しんでも、絶望しても、今日現在はケロッとしていて元気だ。他者に先に言われて、ある意味「無理が通れば道理が引っ込む」ように感じた出来事もあったが、(それはそれ)と過去のこととして処理できているような気分でいるし、昔からモヤモヤすることがあると(神様は見ている)と無理やり自分を慰めていたが(やっぱり神様は見ている)と思えたこともあった。
神様は無関係で、行動と選択のあみだくじにより現れる現実もあるだろう。
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人生をコントロールしているつもりでも、それはありがたい偶然と奇跡の産物であったという気持ちになることがある。強固で確定された生活かと思っていても割と簡単に変化がやってくることもある。
私にできることは今を生き続けるだけなのかな?と思ったりします。1秒1秒のありがたい奇跡の連続に感謝しながら。
正解はしらない。
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