今日は選挙に行ってきました。沖縄も寒くて、風が強いからこそ体感温度3℃だと表示されていました。1日がゆっくり流れている素晴らしい日です。
選択の種類
積極的選択と消極的選択
断捨離が一般的になって随分経ちました。一旦身辺を整理することで身軽になる。
身軽になることを目的に積極的に整理整頓するわけですが、これを人生の選択をする際のモノサシにもできますよね。
やらなくて良いことや、本当はやりたくないこと、やめようと思えばやめられることを「やめる」という消極的な選択をするような意味合いでしょうか。
私の場合ですと、アイテムを使うケアをもう数年やめてみています。
なんだか引っ掛かかりを感じる自分を無視せず、自分に正直になってみる。やってみてわかることってありますでしょ?引っ掛かりを感じるようになったらやめてみる。消極的な選択とも感じるニュアンスですが、これらをやめることで誰に迷惑をかけるわけでもないし、自分を大切にしている感覚もあります。
全然別の話だけど、寂しさを埋めるためや誰かに好かれるために、体面を気にして、自分がやりたいとかやりたくないとか、違和感を感じようともせず、または違和感をなぎ倒して、自分に「これが良いんだ」と言い聞かせて選択することもありますでしょ?
私もありました。
でもね、そんなこんながチリも積もりますと、幸せ感から遠のくんですよ。
自分にウソをつき続けてしまうことに結果なってしまい、自分から遠ざかるようなことになっちゃうこともあるんでしょうね。
そうなると、選択のモノサシがもうブレブレでして、少々の微調整、軌道修正ではどこにどう軌道を戻したらいいのかわからなくなっちゃうようです。
もともと、「軌道」なんて乗ってなかった。と後から気が付きましたけれども。

アイテムについて
セラピーなどに各種アイテムを利用するメソッドがありますし、それがご自身にマッチしたらそれがBestだということはそうなんですが、私個人が違和感を感じるようになった経緯について書いてみます。多分初めてじゃないし、過去も同じようなことを書いた記憶がありますが、何度書いたって良いことにしています。
私がアイテムを省くようになったのは、世の中を見まわした際にそれらを使い続けたあとの変化に何度か感じた共通したフラクタル性、相似性があるように感じたからなんです。

ですから、ある意味セラピーなどの効果というか、変化をジャンルの垣根を越えて研究視点で見ているとも言えるでしょうか?持ち上げすぎかもしれないけど(笑)
具体例を挙げると、アイテムが主役になったり、アイテムの意味理解、それらにまつわるメッセージ云々のようなものが主役になり、自分が二の次になってしまう。自分のケアをする本来の目的を忘れてしまう。焦点をそこに移さず、自分に集中したままなら、もう一歩、もう2歩踏み込めるような気がするが、アイテムを使って、「アイテムを使った自分」に満足して、その場所から進まない。アイテムを使った満足を自分のケアの結果の変化と勘違いしてしまう。こんなふうに何かを加えれば加えるほど自分を見つめる大切な機会を阻害してしまうことがあるようだと感じることがあったからです。
気が散ることをわざわざ選択する。なんて書くとヒドイかな。
自分に集中したまま、もう一歩、もう2歩踏み込むことを望むなら。という前提ありきですし、実は多くの場合そこまでのことを望んでいないのかもしれないと思うこともありました。自己理解の求める深さがそもそも違うとか。好みの話だと思います。
いろんなセラピーや、施術についても、テクニックにどんどんルールを作ることがメインで、ご本人は自分に向き合わないってこともありますでしょ?
行う側も習う側も、ケアに利用する側もいろんな組み合わせと相性があるなぁと思うばかりです。

組み合わせ
組み合わせの例として適しているか自信がありませんが、
私がスピ系などについて「不賛成」みたいな発言をした際に、腹が立つ方もいたり、なんにもわかっちゃいないなぁと思う方がいます。まぁそりゃそうでしょう。
しかし、さんざん世の中にオーラだ前世だと広報した江原氏が「オーラも前世もどうでもいい」とおっしゃると耳を傾ける方がそれなりにいると思うんです。
結果、私が何年、何度「それってどうなの?」と言っても一切耳を貸さないどころか反感を持つ方も、誰がそれを言うかで耳を貸しますでしょ?そんなもんです。
そうやって人は話の内容ではなくて、発言者の立場や有名さやそれらしく聞こえることに影響を受けますね。ジャッジするってそういうことだし、有名じゃないと信用しないみたいな価値観があるんですよね。
じゃあ有名なら、ハロー効果がある方が山盛り間違ったことを言っていた過去、実績があることも考慮してもおかしくないのにそれはしない。
ジャッジをせずにあるがままを見るって本当に難しいんだろうと思います。先入観の塊の脳の無条件反射というか、それこそ潜在意識の自動運転などを妄信していると「考える」ということができなくなるし、考える練習をそもそもしないことになりかねないなぁと思ったりします。

ですから、玉石混交の世の中で、それなりの影響力がある方は、できればヒトが幸せになるような方向への発言をしていただけたら助かります。ヒトが幸せになるような方向への発言をしているつもりの方が幸せとは異なる方向へ影響力を発揮する方もいますから、やはり個々のリテラシー、思考力を鍛えるしかないのかもしれないですね。
先述したように、私は影響力はありませんけれども、できれば考える頭脳を持っていたいと願っているのと、それらしく聞こえることも冷静に聞けたらいいなぁと願っていますし、(それってどうなの?)みたいなことを感じる感受性も大切にできたらいいなぁと願っています。
江原さんウォッチャーではありませんが、「オーラも前世もどうでもいい」とおっしゃっていたけれども「霊が云々」とは相変らずおっしゃっているようで、ヒトって基本変わらないなぁと思いますし、江原氏の影響を受けて「今はもうオーラとか前世とか言うのは主流じゃないみたい。それを言う方が恰好悪いみたい。」と感じる方たちがもしいたら、次は「霊が」と言い出して、そちらへ流れていくのかもしれないですね。
そのようなジャンルが好きで、濃く関わっていく人生を選択されるというただそれだけとも受け止めています。
それらと関わる人生でいたい。なんなら他者へ伝えたい。という人生を送ることが「やりたいこと」だという言い換えもできるでしょうか? やりたいなら江原氏が意見を変えておっしゃることを過去の私の意見と同じく無視してやり続けたら良いだけの話ですし。
それはメッセージカード、オラクルカードを世の中に生んだドリーン・バーチュー氏が「メッセージカード類は悪魔の声。私は間違っていた。」とおっしゃっていても変わらず流行っていることと同じです。
強制執行?
ですから、人生の断捨離というか、変化を起こすときはズバッと価値観がかわるような選択をしたほうが良い場合もある。
強制修正?と思いたくなるような痛みを伴う変化が起きることがありますが、その痛みがないともうどうにも選択の基準が変わらないようなセルフ強制執行みたいな体験もお陰様でしました。天の配剤かと思うような出来事ってありますが、人生の一瞬一瞬の全てが天の配剤と言えばそうですけどね。
これらの際に感じる痛みには、ヒトに対する思い込みが崩壊するようなものもあれば、信じていたものがただの幻だったと感じる絶望感もあるし、自分の審美眼がまるきり的外れだったがっかり感もあったりします。賢いつもりでいた自分とか、色々わかったと勘違いしていたとか、そのあたり、自分についても見積もり間違いしていたと気が付くのは痛みが伴いますが、それを受け入れるとグンっと成長すると思える。受け入れずに逃げ続ける道もあるけれど、それは個々の覚悟によるのだろう。
その時は痛みを伴う体験でも、そうやって自分を知っていく、自分の外郭や内面がわかるチャンスになるんですよね。素直に出来事を受け止めれば。
しかし、見ないふりを続けたら当然なにも見えてこないし、自己理解も進まない。

世の中の「良い(善い)話」
スピのアレコレも、世の中の良い話、善い話も、自分を煙に巻く側のサポートとして働いちゃう場合もある。
それらを知れば知るほど先入観やフィルターができてしまって、目の前で起きていることが見えなくなり、起きていないことが自分に都合よく見えるようになる。
印象操作されちゃう。他人にもされちゃうし、自分にもしてる。
あとから、自分の理解が間違っていたともうっすら気が付いても、それらを認めるのが怖いと思えば思考は停止し、気づきは進まない。自分の見積もりが違っていたと認めることこそがヒトによってはとてもとても難しいのだと理解するに至った。
胆力か、精神力か、人間の器的なものの話なのか。
そして、こういったことに善いも悪いもなく、もうしょうがないことなんだと理解するようになった。
それがそれぞれの人生なんだと理解できるようになったから。
変わらないことを選択する。
気が付かないことを消極的に選択する生き方もあるから。

自分を知るって、積極的選択しかない
実際は理想の自分とほど遠いし、とんでも無いものが入っているブラックボックスを開ける覚悟を持たないと自分を知ることって難しい。
だから、「ストレスケアやセラピー、カウンセリング、コーチングに何の意味があるの?」とそこに意味を感じない方がいらしても、それはご本人の自由でしかない。
自分を知ったからってどうなるの?とそれらに意味も価値も見出さない方もいらっしゃる。
正解なんてなくて、ご本人が幸せならそれでいいし、別に幸せを求めないならそれでもいいし、幸せってどんな感じなの?とさほど興味を持たなくてもそれはそれ。
幸せ求め病になってもしんどい時あるしね。
でも、気が乗らないことをやめてみたり、控えてみたりすると心や体がノビノビすることは多いと思う。やりたいことがわからないというのも悩みだけど、やりたくないことがわからないというのもなかなかだ。やりたくないこともやりたいことも特にない方もいるかもしれないが、それを知っているのも良いような気がする。

影響力が無く、あがめ立てられないことの良さ
この人には価値がある。関わっていると自分に得がある。先生に好かれたい。主催者と懇意になりたい。団体の奥に入ると得しそう。先生側に近いポジションにいるとプライドが満足するし、他者へ自己顕示として有効だ。などなど世の中にはごまんとある人間模様ですが
私になにか幻想をみて「寄らば大樹の陰」みたく接して来られる方も過去いたことがありますが、割とはっきり「私は大樹ではありませんので、陰はありませんよ。」とお伝えしたことがありました。メリットを期待されてもリターンなど見込めないことを後々知るより、最初からお伝えした方がもめない。
また、どうやら「甘えさせてくれる人」と思われるケースもあって、それはそれでエスカレートしていきますので距離をおくことも多かった。アイデアや何をどうやっているのかを率直に質問してくださる方には私も気持ちよくそのままお返事しますが、知らん顔して観察するという陰湿な感じがするケースは関係性を保持しないことを決めました。記憶も随分違うようだと思える出来事があったしおそらく話をしても嚙み合わなさそうだと思えたから。
かたや幻想を観ないケースとして「ガン無視」されることもありました。
ガン無視もあったし、社交辞令もない軽い扱われ方も体験しておりますが、これらの何が良いって、その方のありのままの姿を知ることができる点です。
私に良い恰好を見せない、見せる気もないというその姿を知ることができるし、ヒト対ヒトではなくて損得ありきの方なんだなぁとその度合いなども普通に知ることができる。
私の知らないところで何かしらの噂話のようなものが先行して、それを聞いて、実際の確認をせずそれらに反応しているケースもあったかもしれないが、そうだとしてもそのようなジャッジをする方だということではありますし。
で、権威者でないということは、世の中をあるがままを見やすいということでもあり、ヒトの成り立ちや関係性を学びやすい。チヤホヤしてもらわないとショックを受ける方がいたとしたら、その方よりは心平和に生きていられるような気もします。
お金や権力、外見ではなくて、私(俺)を見て愛して欲しい。というようなセリフがありますが、たいていはチヤホヤして欲しいからお金や権力、外見でヒトが寄ってきても「自分の魅力」だと思いたいんですよね。私(俺)を見て愛して欲しいと思うけれども、チヤホヤして欲しいという執着が染みついている。自己矛盾だし、自己葛藤ですが、自分が損得で人付き合いしているのでそりゃそうなんだよね。
ですから、その点、私にそのようなハロー効果がありませんので、ヒト対ヒトでお付き合いする方しか残らない。だって私と付き合って取り立てて得しないから。(笑)
おしゃべりして楽しいとか、一緒にいて気楽だとか、お互いにその意見は面白いね なんてまぁそんな感じ。

今はセルフケア講座しかやっておりませんが
キネシオロジーなども好きだからいろいろお伝えしていましたが、先生になりたくてキネシオロジーを利用していたわけじゃないので、先生などと呼ばれなくても当たり前なんでなんとも思わないっす。
かえって、先生と呼んでくださってそれが寄らば大樹の陰な意味がある方のご期待には沿えませんので、大樹の陰をお求めの方にはどなたか他の方とご縁がある方が目的達成になるかと存じます。
自分で自分を承認していたら、他者への過剰な承認欲求は必要ないよね。
こういったことがセルフケア、ストレスケアで得られる貴重な体感だと思う。




























