いろんなことを体験・経験したら良いのか?

どーでもいいし。と思う方は飛ばしてください。

夏風邪ひいたよ

あんたの日々の出来事はいいから、さっさと本題に入ってほしいという皆様の願いを叶えず申し訳ありません。今日も私の本当にどーでもいいつぶやきを最初に書きます。実は夏風邪を何年振りがわからないほど久しぶりにひきました。自宅では寝ても覚めても扇風機ガン回し、外では蒸発しそうに暑くて非常な疲労感を感じ、はたまた寒いほどクーラーが聞いている建物にいるというような今書いていても、そりゃあ体調不良になるわな。という当然の結果を招く生活を送っておりましたら見事に夏風邪みたくなりました。

我が家には飲み薬がないのですが、最初喉の痛みの段階で我が家にあった蜂蜜を舐めたら あら!ラッキー やっぱり蜂蜜って良いのね! と思ったほど喉の痛みが引きました。すっかり気をよくして、回復するつもり100%で(薬を買うことを思えば同じかも!)と奮発してお高めのマヌカハニーを購入して食しておりました。

お陰様で完全回復手前です

風邪の諸症状は他で書いたので省きますが、あんなに調子が悪かったのに、PCに向かってブログを書くほど元気になっております。強制断食みたいなことになったので、体もなんだか透明感っぽい。元気いっぱい!という力強さとは違いますが、体も頭も軽いです。

この風邪の山場が超えたあとの鼻水が止まれば終了ですが、無理してぶり返したら元も子もないのでこの後もしばし養生します。

体の声

風邪のウイルスが胃腸に影響しただけと言えばそうなんですが、私の体も正直でして、

喉の調子が一旦良くなって油断したときに「よし! 栄養を取ろう!」とご飯(肉のおかず)をしっかり食べたんですがコレが裏目に出ました。そのあと非常に具合が悪くなったんです。体は(ナニも食べないで!なんでそんなに食べ物を胃に流し込んでくるんだよ!受け付けないよ!)と主張しておりましたわ。

体の主張の強さが怖くて、体の主張に従って強制断食状態になりましたが、その間は張り切って購入したマヌカハニーと普通の蜂蜜は体はOKでしたので舐めてましたし、おそるおそる様子を見ながらスープを飲んだり、バナナを食べたりし始めました。買い物に行ける元気が出た時に「ゆし豆腐」も買ってきました。

日頃胃腸が強いという自負がありましたので食べるものをキネシオロジーテストすることはないのですが、今回の回復期はキネシオロジーテストしました。食べる時も買う時も。

今夕はコーヒーも飲みましたが、まだ前ほど美味しく感じないです。

美味しーと思ったのは今回はスープでしたね。(あと、ゼリー状の軽いものはまだ大丈夫だった。)

沖縄に「カチュー湯」と呼ばれるものがあるのですが、私はだし汁に梅干しを入れたものを飲んだんです。これがマジ良かった。体も喜んだ。(作る前にキネシオロジーテストしましたが、飲んだ時に体がこれを受け入れやすい状態だったのも感じた)

よし!タンパク質を取ろう!とゆで卵を作ったものの、体が(それはまだ早いよ)と反応しましたので食べるのを半日遅らせたこともありました。米や麺やもちろんパン類という主食系は一切食べておりません。おかゆもOFF、うどんもOFF、パンは元々食べなくなってきてるから論外。

 

夏風邪が流行っているのかいないのかわかりませんが、どうぞ皆様もご自愛くださいませね。

ここ数年?体調が不安定になりかけた時にプチ断食した方が治りが早いような気がしてる。だから今回みたいに「栄養取らなきゃ!」と食べるのは意味ないなということをすっかり忘れていたけど、再体験して再確認したような気持になりました。

本題はここから。

高次について今日も書いてみよう

高次ってそーゆーこと?

スピリチュアル界好きの方はこの先読み進めるのはご注意ください。

が、人生観や価値観、趣味嗜好は様々なのであなたの信念、思想、価値観と合わなければただスルーしていただければ良いだけです。

 

という前置きを皆様に踏まえていただいて(強制か?)、相互確認したていで先に進めます。

 

上にリンクを貼った記事から引き続いて

”人間皆高次” ニンゲンミナコウジ

という東洋思想ベースで話をすると、

あなたと私は違う?

「(あなたは違うが)私は高次と繋がっているので云々」という発言をされている方は本当にはそれを感じたことがないのかもしれない。もし本当に(と書くと微妙ですね。感じ方の深さなのか? う~む、わからん)感じたら、その点においては人間皆同じということも感じるはずだから。

という視点も現れてくる。(あくまで1つの説です。個人的な)

高次と切れてる? 繋がれない?

高次との繋がりが切れてる。とかいう仮説も、

生きてて、細胞がある限りは切れようがない。という視点からすると 切れるってどーゆーこと??? ということになる。

自分と繋がってない? 自分を生きてない?

「自分」を生きてないから繋がりを忘れてる。というお説があったとしても、覚えてる忘れてるというところに執着する必要ないよね? 生まれてからこの方忘れてることって山ほどあるのに、なぜそこだけ覚えていないことを「劣性だ」と刷り込み(売り込み)ますか? だって覚えていようが忘れていようが「そう(高次)」なんだから。

いや、それよりも、生きている奇跡みたいなことを忘れていることの方が悩みを生みませんかね?

という視点も持てるかもしれない。

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 

なんか すみません

もうね、書きながら、スピリチュアル界大好きな方にはホント腹立たしいことを書いているのかもしれないし、書き方も可愛げがないことが腹が立つのかも知れないと想像しています。

 

私も不思議系なこととか全否定してないんですが、私の脳内なりの整合性というか、なんというか、自分なりに考えちゃったりするんです。というあくまでも個人的なことを書いています。

 

そう、私はこういったことを内部対話しております。内部対話しようと思うと視点は2つ以上必要なんですよ。こんなことを内部対話(自己対話)したからって社会的になんの得にもならないし、自己研究しても自己満足でしかないんですが、習性なんですよね。

その昔ホームページのコラムに書いたような

今他人が目の前で話していたことを聞いて「ひらめいた」と脳内変換する(自分がひらめいたと信じこめる)ような脳のタイプとはやっぱり異なって、そういう意味では(ある一面では)もう少し「自分」「自己(と感じる脳の特性)」があるのかもしれない。

良いも悪いもなく、それぞれの脳の特性だし、私もいろんな情報で私の脳内が構成されている。

考えていることもあるけれど、そのモノを考える土台には誕生してから後の他者からの情報がないことには言葉すらも発せないわけです。

Cheryl HoltによるPixabayからの画像

自分を大切にする

そうですね、私は「自己」と感じるナニカを大切にしたいと思い続けてきたのかもしれない。

自分を大切にする。という言葉にはいろんな要素が含まれているんだろうけど、自分で考えることや自分の言葉にしていくこと(別にブログやコラムを書かなくても、対話でも)、ひらめくこともまぁあるんですが、それは自分で考えて、考えて、自己対話して、他者とコミュニケーションして、静かに脳内を見て、聴いて、というような習慣を大切にすることもそれに含みたい。

John HainによるPixabayからの画像

 

情報や感性、感情を刺激されたものの表層をササっとMIXすることも必要ならするけど、それをヒラメキだと変換したり、自分の考えだと信じるのは、なんだか大切なものを軽んじてしまう気がしてしまう。という好みが私にはあるという自覚があります。というより、そういうことが気になってしまう脳の傾向があるというだけなので、読んでくださっている方はお好きにしていただいたら良いだけです。

本当に人間の脳の働き方は面白いですね。感じ方も千差万別です。

 

タイトルに「カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い」というのは、こういった意味です。脳の特性って100人いたら100通りあるんだろうと思うんです。

私は脳科学を突き詰めたいわけではないのですが、いろんな特性があるな~ということを前提にしておくと う~~ん、腹が立たないというか、相手を従えたいとか、自分流儀に正したいという欲求が少なく済むような気がして、自分が楽かな?と思う機会が増えた。

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

 

過去記事を読んで(う~~~む)と思うとき

私は過去、やはり(それってどうなの?)という否定的なニュアンスで文章を書いたこともある。これからもあるかもしれない。実際今のこの記事にそんなニュアンスを受け取る方も居るでしょう。

 

が、私も変化していて、過去否定的なニュアンスで書いてしまった記事を(今読み返すと、あの書き方は良くなかった)と思うこともあるんです。考え方が変わっていることもある。当時その記事を書いたことでそののち今現在の考え方に変わったこともある。

ですが、当時の記事はそのままにしています。

記事をアップしている日付などに注目したら私個人の変遷もわかるから。

 

” 私も変化していて、過去否定的なニュアンスで書いてしまった記事を(今読み返すと、あの書き方は良くなかった)と思うこともあるんです。 ”

ということを今日現在は恥や失敗としないでそのまま残していますが、この先(記事を抹消することがベストだ。)と思うようなことがあれば消すこともあるかもしれないし、訂正、修正することが良いと思えばそうします。

 

最後に本題とはズレるけどちょっと書く

私は書きたい内容のメタファーのように下のイラストをよく使う。ハーメルンの笛吹き(男)と文字で例えることも多い。

 

WikiImagesによるPixabayからの画像

 

ヒトに影響を与えたい方は、ご本人自身もこんな構成(魅了されてついて行く側)になっていることが少ないないのかもしれない。

そこもやっぱりフラクタルって感じで。

 

ご本人はカリスマみたいになっちゃう(カリスマになりたい方もいるし、自分がカリスマだと思っている方もいるんだろうけど)ことも多いんだけど、やっぱりイラストの笛を吹く存在に付いていっており(他者から影響を受けやすくて)、自己が割と薄いことも珍しくないといういうか。

磁場は幾つもあるらしい 2

 

良いとか悪いとかじゃないし、需要と供給ということでもある。

 

そんなことを書くアンタはどうなの?と言われても、私も何一つ証明する術をもっておりませんが。

 

そう、

”人間皆高次” ニンゲンミナコウジ

ではあっても、こういったイラストのフラクタル形は形成されるわけです。

 

ナゼ???

 

問いかけ

これを読んでくださっているアナタは、その理由を考えたことはありますか?

 

私は今考えている最中です。1つの仮説はメモ済みですが、もっと考えてみます。

シェアするのがお好きな方はアナタの考えたことを教えてください。

Facebookファンページでこのブログをシェアしますので、Facebookファンページのコメント欄をあなたのお考えを発表する場、シェアする場として頂くことができます。

 

しかしですね、わたくしカリスマとは程遠く個人的に細々とコラムやブログを書いており、見事にFacebook(ファンページ含む)も静かな感じです。

根っから好かれる方や、カリスマ炸裂してる方はやんやと書き込みや いいね! があって盛り上がっておられますが、ウチはもう真逆。そんな静かなところに書き込むのは恥ずかしい!という方もいるでしょうし、そもそも(なんでアナタに考えたことを教えんとあかんの?)と思う方もいるでしょうから絶対に絶対に無理しないでOKです(笑)

 

私も無理しません。

今のところ病み上がりなんで。

 

そこのところヨロシク。今日はここまで。