これも科学?

お腹の宇宙

有り難いことの1つでもシェアしておこう

松下幸之助氏

” 3月6日
「カンと科学は車の両輪」

カンというと、非科学的であいまいのようだが、修練の積み重ねから生まれるカンは不思議な力を持っている。多くの発明・発見が、カンの働きを原理づけ、実用化する努力の中から生まれてきた。つまり、カンと科学は反発するものではなく、いわば同根、この二つを車の両輪として、ともに大事にしつつ、発展、向上をめざしたい。 ”

―『松下幸之助 成功 日めくり』より

 

人にはいろいろな「両輪」感があるものですね。私が同じことを書いても心には響かないかもしれないけれど、あの松下氏の言葉となると皆様「そうだ!」と同意しやすいのではないでしょうか?(笑)

 

ちなみに私は過去の記事に、潜在意識と顕在意識が両輪と書いていますし、別のとあるDr.は、「不思議に感じることも確かにあるし、それについては否定はしないが、ただ意識だけのスピリチュアル(思想・意識だけでなんとかしようとする思想)については全く受け入れたいという気持ちはない」とおっしゃっていました。

このDr.のおっしゃっていることと(科学的に解明されれていたり、仮説のある不思議系な事の解説など)、私が記事に書いていることが似ているところがあるので、(感性が似ていそうだなぁ)と感じた次第です。

 

お腹の宇宙

前回の続きになります

前回の「体内に観えた(ように脳内映像が浮かんだ)惑星」あたりからの続きです。

治療体験記 後日編-4 泡宇宙

 

私はこれらを「お腹の宇宙」と呼んでいます。

そして、今日はこちらについてちょっと書きます。

beate bachmannによるPixabayからの画像

 

脳内で観えようが観えまいが誰にでもある(はず)

こういった話をすると、こういった脳内映像が観えると立派というか、能力が高いみたいなレッテルを貼る方がいます。他人にも自分にも。

多分そういったことじゃない。と私個人は感じています。

 

それは、今までも例に書いてきたように、走るのが速かったり、持久走が得意だったりという体感センスみたいなことだと思う。

私は子どもの頃は瞬発力で好成績がでるものはクラスの上位だったけれど、持久走からは逃げたかった。ランナーズハイなどなるわけがないし、経験したこともない。習字は好みではないが、硬筆は好きとか。その延長線上に「脳内映像化」がある。

小説などを山ほど読んだ大抵の方は脳内映像化が得意だと思う。

その程度のこと。

 

だから、施術をしたり、会話をしている時に、共振率が高い方や脳内映像化が得意な方、運動などをして体感覚が鋭い方などは、「お腹に宇宙はありますか?」と質問すると

「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」みたいな感じで、脳内ではありますが、観えた。観えるようになった。(脳内でも実際でも視覚野にはあまり影響がない。以前もコラムに書きました。とある幻視は見ているご本人にとっては幻視ではなく本当の映像だということを。映画の1シーンをもとにして書きました。)

 

シュレーディンガーの猫のごとく、その瞬間を境に脳内視覚ではありますが、「観えた」「現れた」わけです。

これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。

 

「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」という、混じりっけなしの「キョトン」なのか、とっさの無意識的と言いつつ意図的な「同調」との違いって、ご本人よりも案外他人にはわかるもんですよ。

 

空間感覚の共有、共振とも言えるのかも知れない。その空間がじつは枠のない無限大「宇宙」みたいな感じだというところがまたシュールである。

 

大丈夫です。伝授とかいって講座開いてませんから(笑)

伝授ではなくて、ただの「気づく人は気づく」だけですから。

見ようとして躍起になって厄介になるような瞑想とかお気をつけくださいませね。(それも人生のお好みですが)

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

足腰の違いが現れるケースが多い?

不思議と言えば不思議な体験をしたその後に割と2極化するようなことが多いみたい。

  1. エゴが刺激されて一気にあちらへ傾倒していく方と、
  2. それはそれ、これはこれ、みたいに足腰が強いと感じるほどブレない方。

 

1. のケースは、簡単に言うと「わかったちゃった。抜けちゃう予備軍」みたくなってくる。ウエ(ってどこ?)と繋がったと思うみたい。だから益々傾倒する。要するに、人間社会にそれまで以上に(それまではこっそり隠していた?)上下やランク付け感覚が育つみたい。エゴ肥大化の無限列車に乗ったか? そして、他の乗客を勧誘しがち。そして、乗り遅れたくない乗客予備軍も多いため勧誘達成率は高い。

例:一時期の「次元上昇に乗り遅れるな」の煽りは凄かった。煽られて焦っている方も結構多かったみたいだし、妄想で「私は流れに乗った」とした方も多かったのかも知れない。あの最中も「ナンダコレ」と思っていたが、今はどの位の方が(結果煽られただけだった)と逆に安心しているのだろうか? みなさん良かったですね。一緒に居ますもんね(^^)

 

2. のケースは、最初は ナニコレ? とただ自分の体内を傍観している感じでも、おそらく時間経過と共に独特の安心感を得るのではないかと推測している。

私達はいろいろな体験により胸やお腹に空虚な穴が空く(空いていると感じる)事がある。その穴も虚空と言えば虚空だし、お腹の宇宙も虚空と言えば虚空なんだけど全然体感覚が違う。宇宙的虚空は虚空のくせに安心感がある。究極の安心感とは言わないが、とある安心感にはなる。

それは人間が本当は嫌っていると言われている「自由」感なのかもなぁ とこのブログのメモ書きをしていた時に感じた。自分のお腹に、何にも囚われない「自由」がある。

 

これらを踏まえてちょっと振り返る

1. をもう少し書く。 お腹に宇宙があるのに、繋がりたい「ウエ」ってなに?どこ? と思った時に、やっぱり自由になるのは怖い、枠組みの中に居たいとそれこそ潜在意識、身体の核でそう思って居るのなら

ウエとかシタとか、そういった設定がある方が生きやすいのかも知れない。枠の中で行きていると安心するというように。

 

想念で(意識で)いろいろ知識を得ても、興味はあるけど本当は怖いってことってありますよね。生命維持のための危機管理的に。本能的な反射、反応として。

だから、足腰がしっかりしていないなどと失礼な表現をしましたが、こういったことが露見するっていいチャンスではないかと思う。

多分、情報に翻弄されたり、体験では無くて刷り込まれた情報優位なんだと思う。

 

潜在意識って集合無意識ということになるんだとしても、そのコンタクト具合って個体差があってもおかしくないですよね? なんだか皆均一みたいな錯覚を起こしている可能性ってありませんか? 個体の脳、肉体、精神の許容量によって扉の大きさが違うような意味合いです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

現代絵画のようなイメージで

非常に抽象的な現代絵画を見て、「凄い!」と思う方も「ナニコレ?」と思う方も「これが良いって言うんなら良いんだろうね。うん、だんだん良い気がしてきた!」というような様々な反応があって然るべきでも「好き好きですから」とか「それぞれの感性ですから」とあまり自己否定に繋がらないけれども、こと、こういったスピっぽいことになると途端に能力の優劣みたいなモノサシを持ち出されることも不思議ではあるんですが、

それもこれも好き好きで、正解はないんだろうという事ですね。

 

A. こういったことのエビデンスもなくてもOK、あってもOK

B. 証明もなくてもOK、あってもOK

C. 真実、真理・教え・法則もあってもOK、なくてもOK

 

ただ、もし私個人が「ウエ」と繋がろうとしたら、それは自分のお腹の中だということになるわけで、フワフワしようがない。だってどこまで行っても自分の中だから。みたいな感じ。

他のことでフワフワすることがあっても、宇宙云々では外へ外へと彷徨い出ちゃうようなことはあんまりないんですよね。

そもそも「ウエ」と繋がろうとかしないし。だってもう「在る」し、そもそも「ウエ」じゃないし。

John HainによるPixabayからの画像

 

 

今気がついたのですが、こうなってくると、

またまた究極的な表現になりかけますが、 A. B. C. のどれもが自分の中にあると言えるのかもしれないですね。自分の中に、ナニカを証明する後ろ盾、承認される理由、存在理由がある(またはそれらが必要ない)。

だとしたら、アラマア タイヘン! な話になってきましたが、わたくし個人的には非常に地味な生活をしておりまして(飛行機はエコノミークラス)、生活に概ね満足しておりますが、なんでも叶えてあげるよ!と言われればメキメキと欲の皮が突っ張ってきます。(いつもファーストクラスに乗れたらいいのに!)

 

一粒で最大限の利益を享受したいと思えば、めっちゃ素直になったりします。利益を得る準備として「我」を消すというような本末転倒な感じです。(笑)

我を消すのと、染まる(洗脳される)のはちょっと違うんです。素直って幾つも種類があるんですよね。

 

これが今日現在の私の脳内と、思考と、現実のバランスでございます。

凡夫極まれり。

あんなに抵抗していたのに、もうすっかり、「人間だから。」って開き直ってきました。

なんだか素直になれてきました。祝

 

RalphによるPixabayからの画像

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

これを書いている本日、まるまるOFF day。

なんにも考えず、ポケ――――っとしていましたが、そろそろ治療体験記 後日編を書こうかとをPCを立ち上げました。後日編として書くことはもう少なくなりましたので今日がシリーズラストかな。

入れるより抜く 足すより引く

禁止より、耐性アップ

実は、本間先生ともペチャクチャとお喋りしたことってないです。多分、治療を受けた際にマンツーマンになったことはあるけど、それでも大量には会話しないし、ましてやそれ以外に二人でお話したことって記憶にないです。

どう思う?というようなナニカについて質問をされた時には、私なりの答えをお伝えしたりしたこともありますが、それはお喋りではないんですよね。

あっても、すぐ思い出せないほどちょっとしたことだと思う。

そして、松原先生は初対面でしたし、松原先生はもともと沢山お喋りになる先生ではないとのことなので、いろいろ書いていますが、先生との会話自体は少量。

 

ですから、他人様の考えて居ることは分からないという意味もあり、先生方の本心や信念、嗜好については詳しく存じ上げません。が、その瞬間のご意見についてはその時の私の理解や推測はしているようなつもりにはなっています。ヒトは時が経つと変わることがありますから、あれこれと決めつけないようにもしたいと思っています。

 

で、松原先生とちょっと好みが似ているのかな?と感じた事を書いてみたい。

違っていたらすみません。

 

それは「禁止より、耐性アップ」ということなのです。

 

私の場合

他のサイトに書いた過去のブログや、ホーム―ページのコラムにも書いているのですが、私に基本「禁止」というような事は強く書いていないつもりです。というのも、私自身が「ダメ!」「禁止」と言える立場にいない。例えば、牛乳も砂糖も、お菓子も減ることはあっても止めてない。

疾患で禁止されていなくても、自ら栄養や食べるものに厳しく制限できる方っていらっしゃいますよね。行き過ぎると強迫症みたくなる時もあるようだけど、でも厳しく制限できるって凄い。私にはできない。

この辺りが非常に大雑把なので、気にしたらキリがない。と直ぐにラクな方に流れちゃう。

禁止を増やしていくことが非常にストレスなんですよね。ルールをどんどん増やしていって、それを守ることが「良し」とする傾向や、どんどん複雑にしていって、その複雑を守れる方・やりこなす方が優秀というような不思議な思い込みというか、意味合い変換習慣みたいなことって思いのほか多いような気がしています。

 

それが本当かどうかは今は脇に置いておいてください。

あくまでも私個人の意見なので。

 

そして、私はそれらが苦手なので、

噛む力!

何を食べても大丈夫な胃!

消化力!

排泄力!

こちらが活発でいて欲しいと思い続けてきた。

そのためには特に何もしていないのでDNAに感謝しています。

 

しかし、思い込みではカバーできないこともあって、噛む力が強いんだ!と勝手に思い込んで堅いものをじゃんじゃん食べてました。堅いものを食べて歯と顎を丈夫にするんだという勘違いもしていた。ところが、遺伝的に歯が薄くて、長年の勘違いによって摩耗してしまって、私の勘違いに耐えて頑張り続けてきた歯のダメージがついに表出してきました。

申し訳なかった。

今はまだ修正しながら自分の歯で生活していますが、その内「差し歯」というもののお世話になる日が来るかもしれない。思い込みが逆の結果を出しそうで、ホント頑張ってきてくれていた歯に感謝しています。

 

と、まぁ こんな勘違い(歯が強いからいくらでも堅いもの食べてOK)をしつつも、

身体元気! なら、心も元気!

みたいな感じで、あまり繊細に考えずにサッパリと生きていけたら良いなぁって思っています。

 

経年による身体の変化もそれなりにいろいろありますが、ストレスケアをして、いろんなことの耐性を持っていたいなと思っています。

我慢強くじゃなくて、免疫部門に丁度いい感じに活き活きと働いていて欲しい。

禁止を増やすんじゃなくて、免疫部門に丁度いい感じに活き活きと働いていて欲しい。

 

そして、どうやら松原先生も「禁止よりも、免疫アップ!」傾向をお好みだと認識しました。

 

余談

歯医者さんが、「コロナ」のストレスなのか、酸性のものを飲食(酸っぱいものや酸味でスッキリ感を味わいたい? ビタミンを取らなくちゃと酸性を急に摂取した?)する方が一気に増えて、歯が溶けている人が増えたっておっしゃっていた。

リンゴ酢を飲もう!とかフルーツ酢を飲んでクエン酸摂取!とか流行りましたよね。

歯医者さんもモロに世相を診るんだな~って思いました。

 

入れるより抜く 足すより引く

というような流れを基本として、書き進めます。

 

私が煩悩トラップと表現するようなことは多くて、

  • 占い
  • カード類
  • メッセージ云々
  • スピリチュアル系のあれこれ
  • パワー〇〇
  • 修行思想 他書ききれない

等があるんですね。私もこれらを体験済みだし、あくまでも私の感覚でしかありませんのでお好きな方は機嫌よく利用したりやったりして欲しいのですが、部屋の断捨離はしても、想念のルールがどんどん増えていることもある。

 

だから、という言葉もおかしいけど、個人的に気付ける範囲、出来ることから「煩悩トラップ」を一掃してみた。

なにかをしないと不安。何かを持っていないと不安。身に着けていないと不安。なにかを(例:スピリチュアル系のルール)守っていないと不安。不安だから「〇〇すると良いよ!」というものを増やしていく。

なにかをして、自分の疑似安心(これも煩悩トラップとカウントしています)を対価として得るというそのルールを一度やめる。

という無限ループから一旦抜けてみた。

(でもストレスケアはしていますから、この「ストレスケアをする」というループにはまだ居る。)

 

潜在意識に願い事を入れていくのではなくて、潜在意識が反応しているとされている「ストレス」をケアをして「抜いていく」。

musikingによるPixabayからの画像

 

ルールも増やすんじゃなくて、減らしていく。

脳に入れるよりも、脳から抜く。ストレスケアをする。

 

あくまでも私個人は、こちらのシンプル化方式にシフトチェンジしたら楽になった。軽くなったし、あぁ幸せ!と思う時間が増えた。個人的に非常に相性が良い行動変容だった。

 

生まれて、今に至る間に、いろんな雑念も思念も知識も情報も概念もアレヤコレヤと脳内・心に増やしてきた。

そして、もし今日現在の結果生きづらいならば、やり方を変えて、それらを減らしてみるのも一考でしょう。

狂気かぁ

私が、これは非常に的を得た言葉だな~と思うものの、この言葉の意味を各々が自分のこととして当てはめることは非常にハードルが高いと思うアインシュタインの言葉。(伝聞)

 

” 同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと。それを狂気という。 ”

 

囚われですよね。それがMyルールかも知れないし、概念かも知れないけど。

私は煩悩という言葉の正しい定義や意味を理解していませんが、私のニュアンス理解では、囚われとは「煩悩」でもあるんでしょうね。

 

私がシフトチェンジしたということが気のせいじゃないのなら、狂気から覚めて正気を得たともいえるのかなぁ。

しかし、狂気からまた別の狂気へと横スライドすることって多いんですよね。多分、その狂気と言われるような、煩悩と言われるような状態に何とも言えないお馴染み感があって心地よいと感じるんだろうと思う。

John HainによるPixabayからの画像

 

やり方が悪い? やり続けていることが悪い?

度々引き寄せの法則を持ち出して、引き寄せの法則業界の方には申し訳ないのですが、伝わりやすいので今日もご登壇頂く。

 

引き寄せられない。思い通りに行かないのは(引き寄せの法則を)ちゃんとできていないからだとか、上手く出来ていないからだと言われたら、「何が正解?」「どうすればいいの?」と身をグッと乗り出すのが人情。とこちら ↓ に書いた。

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

 

で、結果、引き寄せの法則沼に数年入る。

 

悪いと書いていないです。人生はお好みで、そんな「沼期」って誰にでもありませんか?

アインシュタインによると、(どうも上手くいかないな~)と思って、引き寄せの法則沼にどんどん入っていくことが狂気ということになるようだ。ビギナーズラックみたいにちょっと成功感を味わうともっとのめりこんだりしません? 全部は叶わないけど、ちょっと叶っても、次こそは!とのめりこんだりしません? 引き寄せの法則じゃなくても生きていたら普通に起こるラッキーでも引き寄せの法則を信じたいとそのせいにしたくなったり。

 

沼期も様々なので、あまりに上手くいかなかったら一度離れて、その行動をやめてみるということも一考かと思います。ヒトには様々なタイプと相性があるので、引き寄せの法則と相性が悪いってこともあるかもしれないから。

 

そして、引き寄せの法則にあまりに傾倒していって、いまいちならば、それは「ギャンプル」にちょっと似てきちゃう気もする。引き寄せの法則依存みたいな。

法則って名前がついちゃうと、それがギャンプルに似ているなんてこと気づきにくくなっちゃうけどね。

PeggychoucairによるPixabayからの画像

 

がしかし、「人生がギャンブル」って考え方もあるから、これもまた入れ子の箱みたくなっちゃうし、そう表現したい気持ちもわからないでもないから、この辺りは難しいんだけど。

 

ようするに 主体をどこに置くか? ってこと?

なにが書きたいのかわかりづらかったですか?

申し訳ありません。

 

書きたかったことは、主体をどこに置くかってことかな。

人間なのか。

ルールなのか。

 

人間を主軸において物事を組み立てるのか?

枠の中、ルールのなかの人間として、それらに人間を合わせていくのか?

 

ってことかな? と考えてきたつもりです。

確かにどっちもあって、バランス問題かと思うんだけど、大切に思うところが「主」というか「軸足の置き方」というか。

 

私はいろいろな変遷を経て、目の前の人間に意識を向けたいと思うようになりました。

好きな方もいる。

好きじゃない方もいるかもしれない。

キライかも知れない。

相手も同じく。

 

しかし、人間はさまざまなので、なにかに当てはめるのが「主」ではなくて。

 

よく言われている、病名に当てはめるのではなくて、状態を見るというような意味合いのつもりです。この病名のところが、「法則」でも良いし「教え」でもいいんだけど、こういった事も本人の隠れた信念と相似形を成しているとも言えるのかな? フラクタルって言ってOK?

 

そうするには、そもそも私自身も「主」とか「個」という感覚を大切にしていた方が良いみたい。理由は先ほども書いた、「こういった事も本人の隠れた信念と相似形を成しているとも言えるのかな?」とうっすら感じているから。

 

乱暴な表現かもしれないけど、どのみち頑張らなくても元々いろんな物事と融合しているし、共有しているんだから、人間として生まれたんなら「主」とか「個」という感覚とそれらのバランス感覚ということをレッスンしてみるのも良いかなって思ったりします。

 

教えに従う良い子。それが優秀だ。も価値観だし、「主」とか「個」という感覚とそれらのバランス感覚をレッスンしてみるのも価値観。

 

そのバランス感覚のなかに、「主」とか「個」の「免疫力、機能が健康的に働く」も含んでいるつもりなんです。

そういう意味での、「免疫力、機能が健康的に働く」ための「抜く」「引く」「シンプル」という感覚なんだけど、伝わるように書けているかな?

どうかな?

 

何度も書きますが、今は以前の自分よりシンプルなだけで、もう散々煩悩トラップに見事にハマって、抜けて、ハマって、ハマって、抜けて、またハマって・・・みたいなことをやったからこそ自分の内面が分かったことって多い。

ここも禍福は糾える縄の如しなんですよね。

 

生きている間はもうこれの繰り返しだろうと思うんですね。あの手この手でトラップ(失礼、出来事と訂正します)が現れるかもしれないし、もう現れないかもしれない。なにがどうであれ、生きていくってことです。

その時に、免疫力、機能が健康的に働いてくれると嬉しいです。

 

禁止。型に入る。に注意を向ける大切さも確かにあるけれど、活き活き! 活性!みたいな感覚や感性も大切にしたいなって思ってます。

 

そういう意味で、違う例を書くなら

陰謀説に傾倒するより、今生きてる素晴らしさを感じたい。気持ちのいい方とのコミュニケーションに感謝したい。

善意や朗らかさに注目したい。

 

こんな感じです。

 

引き寄せの法則が本当に機能しているのなら、これらが引き寄ってくるはずですしね(^^)

Alisa DysonによるPixabayからの画像

 

念押し

あれこれ書きましたが、私の得意な「話題の枝葉が大きく広がった」結果となりました。

誤解の無いように念押しに書きますが、松原先生との共通点のように感じたのは「禁止よりも、元気(東洋医学の「正気」)を大切に」ということじゃないかな?

というところです。

 

治療体験記 後日編も今回で一旦書き終えた気がします。

いろんな気づきがありました。自分なりにまたいろいろ考えました。文章にしました。

松原先生ありがとうございました。

また次回お目にかかれるのを楽しみにしています。

 

今後もまた日々の生活の中で書きたいことがあったら記事にしますね(^^)

お付き合いありがとうございます。

 

 

 

 

治療体験記 後日編-5 執着しないと健康に?

パンドラの箱 オープン案件について

やはりここもフラクタル?

助走

通常運行です。

見た夢が楽しかったり、日常のコミュニケーションが楽しかったり、またまた花束のおすそ分けを頂いたり、自覚するストレスがあったりと、ありがたい事に日常生活を通常運行で送っています。

自分でも、ふわっとしないなぁ~と不思議になる時があります。多分それは、社会に参加したい、ヒト様とコミュニケーションしたいという好みが影響しているのかもしれない。

趣味に変化がおきてた

先日、松原治療室で初診問診票を書く際に、自分で驚いたことがありました。

それは趣味を書く欄に、(趣味は・・・っと)と向き合った時に、従来でしたら、読書、映画鑑賞、ウォーキング。ともうずっとずっと書いてきた。そして、これを書こうとした時に、最近本を読んでないし、映画も見てないな~と思ったので、「散歩」とだけはいち早く書いた。(他にナニカあるかな?)と考えて、なんと、「コミュニケーション」と書いた自分にビックリした。

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遥か昔、私は貝になりたい!お願い!と、マジで誰とも会いたくない、話したくない、考えたくない、社会という動きも刺激も一切感じたくない! だから深海の貝になりたい! と映画ばりに閉じて閉じて閉じていきたいというような時期があったのに!

今は楽しいコミュニケーションの時間が増えてる! (◎_◎)

それを趣味の欄に書きたくなる様な親しみぶり。 このラッキー感。

ほんと、書いた自分が一番驚きましたよ。(笑) あんまり驚いたから友人に話した。友人も昔からの私を知っているので(へぇ~!?)と言っていた。

ヒトは変化しますね。今のような心持が今しばらくのことかもしれない。将来は分からない。しかしそれはこれまでずっと同じでしたよね。

深海の貝になりたい心持が、20年?もっと?経ったら、趣味がコミュニケーションと書いているぐらいだから。

 

私がやったことは2つ。

1 自分に徹底的に向き合った事。

2 自分にあったストレスケアを超やったこと。

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邪気

邪気って書くと、他人様から云々とか、浄化云々とだけ連想する方もいらっしゃるのかも知れないが、それではなくて自分のこととして捉えて頂きたい。

そして、私は、他人様の邪気を気にするあなたにも邪気はありますよ。有って当たり前ですから級の捉え方をしています。煩悩のない人います? 人口の何%?という位に煩悩も邪気もとりたてて特別扱いしていません。

正気 と 邪気

”東洋医学では邪気の原因を取り除く術として、「何事にも執着せず心静かであれば、気は自ら巡り、病は自然と癒えていくだろう」と教えています。” - サイト「神戸東洋医療学院付属治療院」より引用

 

免疫力(正気)を高めよう

 

松原先生がチェックしてくださったのですが、「邪気がない」ということでした。「邪気が無いってあります?」と思わず質問しちゃいました。私の「邪気」の認識と、松原先生がチェックされた「邪気」の意味が違う。この項の冒頭に書いたように。

松原先生のおっしゃったのは「免疫力が発動している状態、邪気がない」というリンク先の解説の「正気」が高いという意味合いでした。

まずは良かったなぁと思っています。これもあくまでも「治療、施術を受けたあの時は。」という過去の状態です。日々刻々と人体は変わるので、「あの時は良かった」とそれこそ執着せずに「今」の状態をより良く保って行けたら嬉しいです。

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執着がないんだね と言われて

今回上京したのは、友人のお祝いが最初の理由なのですが、この友人と何かを話していた時に、いきなり「タケちゃん(私、タケダです)は執着がないんだね」と言われました。なんていうことのない話題の最中だったので(急に? 今なにか執着に関わる話してたっけ?)と思ったのは覚えています。

私の答えは「あるよ。執着がわくものとわかないものはハッキリしている。執着のわく案件が多いか?少ないか?と言えば少ないかもしれない。」と答えました。

以前もコラムかブログに書いたように、すでに高校生のときに担任の先生に「あんたは諦めが早すぎる」って言われましたし、それを言われた時にムカッとせずに、(なるほど!)と妙に納得した。当たっていることを言われるとムカッとするという反応もありますが、私は当たっていると(まさに!)と思う事も多い。そうだよ!と思う事も多い。それに、若い頃は、諦め=逃げ みたいな反応をしていた。今はそういった誤魔化し方は余りせず、逃げたいなら(逃げたい!)と自覚するし、(もう、しょーがない)と思えば諦めている。

 

これも後になって、大人になって分かったのは、自分が学校とか社会とかの「良かれルール」と自分の興味が運良く合致すると社会的には高パフォーマーになるけど、興味がわかないとそこそこどまり。営業職経験でも、良い成績が残せた営業時代もあれば、おちこぼれ営業時代もあった。

だから身をもって、精神論ではなんともならないことがあるということを知っている気がしてる。

 

これも何度も書いていますが、競争社会というのは私にはモチベーションにならなくて、興味があれば勝手にほっといても一生懸命やるし、楽しいから頑張る、頑張っているという意識もないし、特に褒められなくても(承認されなくても)自己満足しているからOK。

評価は勝手に他人様がすることだから、基本自分がやりたい事、好きな事をしていたら人生大成功、大幸運と思える。

だから、評価査定に準ずる結果主義では無いと思う。受験戦争に完敗しても全然気にしていない。かえって、自分の不向きに向き合った期間を禍福は糾える縄の如し風に感じられるし、それを一応経過したからこそ自分が興味のあることを勉強する楽しさが嬉しいし。

 

こういうところに、うっすらと?結構?自閉傾向を自覚しています。

自分の世界に集中しているような気もするけど、感受性としては社会や他人様のアレヤコレヤに反応はしていますよね。境界線もある意味しっかりしているけれど、でも感受性は割と大きなアンテナで情報をひろっているような反応はしている。

感受性は働いているけど、ブレないって感じなのかな?

 

そして治療、施術を受けた時点では、結果免疫力は発動していた。

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嘘でしょ。ここから本題

という前置きが伏線で、それを回収できる算段も立っておりませんが本題を書きます。

 

潜在意識 当たり前に煩悩含む説

パンドラの箱案件かと、前回、前々回、こういったことを書く前に一瞬 大丈夫かな? と頭によぎりましたが、ひょっとしたらそれが当たり前で、今まで信じられてきた事は人間が創った定義なだけで、いろいろ時代が変わると常識が変わるようなことの1つかな?と全然普通の仮定だった。

ひょっとしたら、潜在意識に対する期待は、そもそも人間の理想というか、そうであって欲しい!というような願いなのかもしれない。

それは「人間には純粋な箇所がある。」と信じたいというような。

 

それは、煩悩がある人間をそもそも否定する事から発しているのか?

煩悩撲滅運動って、なんだかある種聞こえがいい。

人間の質を良くするには、煩悩を無くさなければならない!という感じでしょうか? 確かに昔の私はこのように考えていた。

 

しかし、上の考え方を元にするとシュールな視点にはなるんだけど、

丸ごとの、そのままの人間を愛そう。というような思想もある。

これはこれで非常に「良い」とされている考え方だと広まっていませんか?

 

これにちょっと加えるのなら

煩悩まみれが当たり前。だから、顕在意識をつかって純粋さを育てていこうというような視点もあっても全然困らないけど。

純粋というものは、すでにあるものだという固定観念もあるのかもしれないです。純粋という類のモノは創り出せない。というような。

私は屁理屈を言おうと思えば言えるので、ここで屁理屈なのか、一応定義にはあっているのかわかりませんが書いてみたいと思った事は、陰陽論的に「陰極まれば陽」のような「煩悩極まれば純粋」みたいなことってあっても良いような気がしますが。

フラクタルという定義にこの案件も含んでみた。

違う例で「ワンネス」

例題は少しずれますが

ワンネス!と言いながら、他者の邪気はイヤダ。ワンネス!と言いながら、自分の煩悩は無くしたい。ワンネス!と思うけど、煩悩のある人間は劣っている????

 

もうちょっと視点を変えて、

あるよ!

煩悩たっぷりだよ!

自分にも他人にも、潜在意識にも顕在意識にも!

だったらどうするの? という仮定で一度考えてみてはどうだろう?

 

すると、やはり絶対に純粋な場所がないと困ると感じる方は多いのかも知れない。そうすると、また違う部位や定義を「ここだけは純粋だ」と死守したくなるような思考展開もあると思う。

 

正解不正解は私は知らないが、そういった「なくちゃ困る」「死守したい」と思うのも人間だと思うんですよ。代替案が欲しいというイメージかな? そしてそれも一種の執着。

だから、気がつけない執着や煩悩って山盛りある。

多分、これらの答えだと感じる(感じたい)ようなことをハッキリ言ってくれるから、信仰や思想が尊重される。答えが無いとか、正解不正解もないというようなことでは安心できない方が多いんだと思う。

「考える」ということと「答えが欲しいから探す」ということは少々違うんだろうか。

わからない。という頭の中の ? になにかは当てはめたい。手っ取り早く当てはめちゃうことがある。それが正解かもしれないから、それが悪いと書いているわけではありません。

 

誤解の無いように書きますが、正解不正解や真実云々を書いているわけではないし、信仰や宗教、思想でお好きな決まり・ルールを選択されたら良いし、それの良し悪しを書いているわけでも無くて、人間の物事の考え方について個人的に思った事を書いているだけです。

John HainによるPixabayからの画像

で、結局のところ 大丈夫

でも大丈夫です。

どうであれ、あなたが何を好むのか?

どういった価値観で人生を過ごしたいのか? には、本当は余り関係ありません。

並行世界にはそれらはあるけど、あなたの人生の土台には実はあまり関係ないことだったりしますよ。だって、私の仮説がどうであれ、あなたは信じたい物を信じて、そして成り立っている。

あなたの人生の枝葉には影響があって、風が吹いて葉っぱがサラサラと音を立てるかもしれない。しかし、土台にはほぼ関係ない。

そして、貴方の周りのことは、何とかなってきたし、なんとかなっていく。

概念ってそういうものなのかな?

 

概念が信念と一致している場合は信念が揺らぐ。私は昔、こういったことで揺らいだことがあります。揺らいでも大丈夫。一時はキツイけど、また少しずつ再構築していけばいい。

 

私が書いているようなことがお嫌いな方も多いと思います。

でも全然大丈夫。

「信ずれば通ず」という言葉がありますでしょ? あなたがあなたの人生をどう捉えていくかが大切なだけじゃないかと思っています。

ということは、私の記事を読む前も、読んだ後も、とくに変化はありませんでしょ?

 

これもフラクタル? 相似?

今日私がこの記事を書こうと思ったのは、顕在意識に適応されて、潜在意識に適応されないという特別扱いがないとしたら? とふと思った事に端を発しています。

顕在意識も思考、感情、欲、煩悩?のグラデーションがあるように、潜在意識にこれらのグラデーションがあると考えても全然しっくりくる。

 

バカみたいな例ですが、神様もいろんな神様が定義されていてグラデーションがある。貧乏神という神様もいる。

 

潜在意識だけが、〇〇だけが、純粋ってことは無いのかも知れない。と仮定するのは自由だなって思いました。ただ、途中にも書いたように、「〇〇だけは純粋」というものを人間だけが欲するような気がした。もっと近い表現だと、「〇〇だけは純粋」と定義したがるというか、欲しがるというか。

そういう欲求を持つのが人間だということは、欲しがるものが純粋だろうが、悪だろうが、煩悩には違いがない。欲しがるものが綺麗なモノ(という価値観)ならそれは煩悩ではないってことは無いと思う。

 

だから大丈夫

私は性格がひねくれているか正直なのか、いろんなものを見て、(煩悩トラップだなぁ)とは思うが、それらによってご本人が心の平和を得たり、機嫌よく過ごしていたり、生きてるって良いなぁと感じたり、生きていることを純粋に楽しいと感じるのなら、「陰極まれば陽」的に「煩悩転じて純粋」で良いよね? と思うようになった。昔は違った。しかし今、今日現在はこんな感じ。

 

私も、「楽なりたい!」という切なる欲求から、様々な煩悩トラップを経由して、次にはそれらを除いていく期間がきて、みたいなことを繰り返してきて、今が一番生きていて嬉しいと感じている。執着や煩悩も使いようである。

 

この状態を別に純粋とは言わないが、シンプルではあるな。とは感じている。

そして、私はシンプルであることが自分の脳の傾向的に非常に快適であり、軽やかさと連動している。

 

人生は様々。

みなさまの人生に「快適さ」があると良いな。

 

 

治療体験記 後日編-4 泡宇宙

今日の内容に期待されては困ります。

内容はちょっぴりです。

泡宇宙とはなんだ?

だれか見たことはあるのか?

やけくそのような小見出しで申し訳ありません。

今日はこちらの記事の続編です。

無限大 ∞ という枠

 

というのも、またどなたからか、念が送られてきたような気がしました。

実在する方の念なのか、集合意識的なものからの声なのか、わかりませんが。

 

確かに、「泡宇宙」という言葉は知っていますが、当然私はそれを見た事もないし、実はパラレルワールドを自分勝手にイメージするようには想像したことすらほぼ無い。

 

泡って、ブクブクしてるアレ? いっぱいあるって感じ? と通り一遍な脳内状態でしたし。

 

お分かりになる方を選びますが、往年のドリフターズの番組の中で「志村! うしろうしろ!」と客席のチビッ子たちが舞台上の志村けんさんに背後に忍び寄るドロボウ? 幽霊?を教えるがごとく「ミキさん! 泡宇宙、泡宇宙!」と耳に聴こえた感じがして、泡宇宙について検索せずにはいられない感じになりました(笑)

 

参考

”宇宙は無数の小さな「時空の泡」でできているのかもしれない” -リンク先「Gigazine」

 

TomによるPixabayからの画像

と、言われましても

確かに

銀河のようなものが幾つあるかわからない広大な宇宙 ⊂(含む) マルチバース

というようなイメージ、視点は脳内に湧きましたが、それを即座に「泡宇宙?」と連想するほど親しくない。

 

しかし、あの一瞬脳内映像に浮かんだアレが、=(イコール)「泡宇宙」でも全然構わない。

この違いが分からないですが、泡宇宙ともとれる脳内映像でしたが。

重なってる???

私の中ではこの 無限大入れ子の箱方式宇宙版マルチバース =(イコール) 泡宇宙 だろうというような知識はないのですが、ネットで幾つかの記事を読んだ限りでは、(やっぱり =(イコール) なのかな?)という感じ。

 

特に、Wikipediaの中の「泡宇宙」のページの一文、” 幾重にも積み重なった ”というところはかなり近くて、実は施術を受けている最中に、松原先生に、「銀河が重なっているのが脳内で観えましたが、こんなことあります?」と独り言のような質問のような事を発言しました。

松原先生は特に何もおっしゃらずに、治療を続けた(治療を終えた)という事実は確かにありました。

 

広がるんだよね~

そう、私の脳内の宇宙については、最初は規模が小さかった。一番最初はもう10年以上前になるだろうか? 身体の中に惑星が1つ見えた(脳内映像)ことからスタートした。1つが複数個、複数個が広い宇宙、広い宇宙が・・と広がっていったのですが、私は最初に惑星が1つ脳内というか体内に見えた時に、(昔からある東洋医学論的に「人体は宇宙」「人体には宇宙がある」と言われてきたのは、昔も私が観たような脳内映像を見た方がいたんだろうな~っ)て理解できた。

 

どんどん広がって、脳内に浮かぶ映像が銀河になり、銀河を幾つか含んだ大銀河になりというような広がりは経年の時の流れに伴って変化していったので、それらの大銀河が治療・施術を受けている最中に脳内映像として浮かんでも驚くことはないのですが、でもこの時は「こんなことありますか?」と思わず口に出したくなった。

 

先程も書きましたが、大銀河を含んだ大銀河のようなものが重なっていたから。

重なるってどういう感じ? とちょっと驚いた。

 

 

この部分を、

銀河のようなものが幾つあるかわからない広大な宇宙 ⊂(含む) マルチバース

という表現の マルチバース と捉えたわけですが、

あれを

泡のようなモノ

と言われても、私の中では(そうですか)としか言えない、思えない。

 

正解知らないし。

 

まとめ

いつも通り、正解もわからないし、あくまでも脳内映像の話です。

ただ、今までと違う視点を得たことは確かです。

 

今後も私の中の脳内宇宙が広がっていくのかどうかはわかりません。

もう私のニュアンス理解の域を出そうです。

Wikipediaの「多元宇宙論」のページに、「われわれの宇宙の地平面の向こう」という言葉があったんですが、私のニュアンス理解の向こうに行きかけています。(笑)

 

やっぱり、人間って面白いですね。

 

解禁?

ここまでの話は今まで書かなかった。ずっとボカシてきていました。理由は、変な追い風になるのもイヤだったから。でももう書いたところでたいした影響力もなさそうだし、どんな方が読んで下さっているのかSEO分析もしていないのでわかりませんが、もし、読んで下さっている方も個人研究をしていて、良きにつけ悪しきにつけ何かの参考になることもあるのかな? と思う事にしました。

 

どうやら、私が勝手にリアルマスターヨーダとお呼びしている大竹先生や、仙人みたいと感じた松原先生はこれらがどういうことか?というのをご存知なようなのですが、これらを話題にしてお話したことがないのでご意見は伺っていません。

またお会いするチャンスがあって、お話しする時間がありましたら質問してみたいと今は思って居ます。未来にこれ以上インパクトがある出来事があったらそれに押されて忘れちゃう可能性が有るのが心配ですが。(-_-)

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

治療体験記 後日編-3 顕在意識について

予定を変更して、顕在意識について書きます

泡宇宙について書くと予告したんですが、1つ記事を書くと思考が展開してしまって、予定を変更してこちらの記事を先にアップします。

最初に感謝の気持ちを書きたい

松原先生

そして、私がとっても気にしていることは、治療体験記の「後日編」なので、要するに私が個人的に勝手に感じたり考えている通常モードのスタンスなのですが、タイトルに「後日編」とは書いているものの、「治療体験記」という頭をつけてしまったために松原先生にご迷惑がかかってしまってはイヤだな。と心配している最中です。

私は松原先生の治療で頭蓋骨の中全部透明感、中でも生まれて初めて感じた「目の後ろ解放感」を体験させていただきましたが、CBSの理念とか、治療方法については何も存じ上げないので、(もう治療・施術自体は終わったでしょ? ブログにあんなこと書かれたら困るわ~)とご迷惑でしたら記事を削除しますとはお伝えしているのですが・・・。

本間先生

それは私がキネシオロジーを学んだ本間先生も同じで、基本本間先生は受講生や弟子(HSKは師弟制度はないのですが)のような立場のような方達に圧をかけて叱ることも無ければ、大勢が要る中で「だからあなたはダメなんだ」というような面罵もしない。誰かを馬鹿にするようなことをおっしゃっているのを私は聞いたことが無い。

本間先生のお考えはいろいろあるでしょうが、私がキネシオロジー体験講座を自分でコンテンツを考えて開催していた時も、HSKで習った事を他の施術と融合させたりすることも自由にさせてくれている私にとっては本当に有り難い先生です。 もしこれが、枠に入れ枠に入れ、俺の言う事を聞け、俺がルールブックだというような先生とは私は本当に合わない。いやもう、本当に相性が悪いわけです。本間先生も先生自身のご意見はおっしゃいますが、でも、本間先生だからこそ、私が自由に推考し、もし先生と違う意見をコラムやブログに書いていても(オレ、そんなこと言ってないよな? しょーがねえな。まっいっか)と泳がしておいてくださっている感があって、実際にはほぼお会いしない(先生はLA在住なので)のですが、私が勝手に都合よく解釈して「自由に泳がしていただいている」と感じています。

 

私はいろんな面で恵まれているとしばしば感じます。 色んな方が私に対して、コラ! と言いたい時もあるだろうとは思うんですよ。そこをあえて自由にさせて下さって、私の個人研究を見守ってくださる先生方に恵まれているということにただただ感謝しております。

ありがとうございます。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 

心配する事なかれ

潜在意識が仮に煩悩たっぷりだとしても心配する事なかれ

理由その1 ただの一個人の仮定

潜在意識が仮に煩悩たっぷりだとしたら? というのは私のただの仮定の話だからです。

貴方が(そんなのは違う!)と思われるのなら、それを信じればいい。

もし、え!? 今まで信じていたことは何だったの? とグラグラするのでしたら、自分なりの考え方を再構築してまとめたら良いだけですよね(^^)

理由その2 ずっとそれでやってきてる

前回の記事を仮定として展開していくと

潜在意識が本当の自分。というのは逆に正しいというまたまたシュールな気づきがあった。

 

それをおっしゃっている趣旨とは違ってきますが

ヒトには煩悩デフォルトとなると、

潜在意識に煩悩があるのもデフォルト案とピッタリ一致してしまう。そして、どうやら顕在意識ウソ説を唱えている方は、煩悩(欲?)=嘘 という立ち位置なのかな?と気がついた。

 

すると、この考え方では

顕在意識も嘘をつき、潜在意識も嘘をつくというトンデモナイ パンドラの箱オープン案件となる。

 

しかし、なんだかんだこれでやってきてる。これで「うまくいった!」「願いが叶った!」と感じている方も多い。

顕在意識も嘘をつき、潜在意識も嘘をつこうが

顕在意識が本当で、潜在意識も本当でも、

これらの組み合わせが様々でも、

仮定がどうであろうと、結局のところこれでやってきている。なんだかんだおさまっているってことですよね?

 

ただ、自分が受け取りやすい(受け取りたい)考え方をチョイスしているだけで。

多分、これこそ各々が顕在意識や潜在意識でチョイスしているんだと思いますよ。信じたいものを信じるってそういう一面を指していると感じます。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

理由その3 逃げ道もある

しかし、従来からお伝えしている

一応私がしっくりきている

潜在意識と顕在意識は両輪の輪

ということでは、別に全然パンドラの箱案件にはならない。

 

なぜなら、私の場合はストレスケアがメインでして

ストレスを感じやすいのが顕在意識と潜在意識のアンバランスによるとするならば、この2つのバランスを整えるという趣旨だからです。

 

どちらも煩悩まみれだとしても、2つがバランスが整っていたら

生きづらさ

みたいな感覚は少し楽になる。

なんなら、その煩悩を逆にバネ板みたいに利用してジャンプできる。

 

修行思想風味の煩悩撲滅運動には今現在興味がないので、私はこれで良い。

 

運良く与えられた生命を、自分なりに生きていける。周りに流されるのもそれが自分なりかもしれないし、損するほど頑固でもそれも自分なりの人生。幸運のヒロインも悲劇のヒロインも自分なりの感性で創造していける。

教えや法則ありきで、その枠の中に生きるのも人生。その枠の中で優秀と褒め称えられたい渇望があるのも人生。

 

ただ、こう言ったことを考えるのは顕在意識だとは思う。

上野和人先生がFacebookに、「思考は人生です」と書かれているのを拝見して、なるほど!と思った。

そうか、顕在意識って、それを「人生」と変換できるもんだなぁって。

 

自分なりに理解した教えや法則という枠に従った人生もあるし、そう言ったものを自分なりに考えて構築していく人生もある。

 

しかし、顕在意識ウソ説では、人生がウソになってしまう。

これは悲しい。

私は潜在意識が煩悩まみれだと考えても特に悲しくはないが、自分で考えている人生がウソだと言われる方が悲しい。もしそれが不本意だと感じていたとしても、大切な人生には変わりない。不本意ななりに精一杯やってることもある。

 

考えは出会いや時期によって変化していく。

私も変わってきた。

ものすごく考えたりしたけど、今が人生で一番しっくりきてる。

独特の生きづらさ感も今はない。

 

それは1つに、

自分が囚われてる枠(思想や価値観)などについて、顕在意識で考えて、気づいて、顕在意識でストレスケアする箇所を考えて、顕在意識、潜在意識のストレスケアを行なってきたことも大きい。

そして、今の私は、今の私がウソだという寄る辺なさは感じていない。

多分これが潜在意識と顕在意識のバランスがおおむね整っている状態ではないかと思っている。

 

だから、煩悩の有無は気にならなくて、機嫌良く過ごしてる。

 

あってもいいし(有るだろうし)、なくてもいい。という事は、「煩悩」という思想に興味がないという状態なのかもしれません。 (違う意味で煩悩から解き放たれたか?(笑))

 

今書いて気がついたのは、

これは、この状態は、はるか昔の私が渇望して、顕在意識総動員でめちゃくちゃ考えた結果でもあることを。

認知して、考えて、行動修正や考え方を修正していったチリツモ(地理も積もれば)でもあります。その時感じていたストレスをケアしてきたことが、気がつけば花が咲いて実をつけていた感じ。

 

Lucky!

NickによるPixabayからの画像

 

最後に

冒頭で先生方に感謝の気持ちを表したので、今回の最後は自分に感謝したい。

過去の自分よありがとう。

今の自分ありがとう。

未来の自分ありがとう。

 

こんなことが素直に思えるときが来たことが本当に嬉しい。

皆様、ありがとうございます。

 

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

実は、今回は「泡宇宙」ということについて書くつもりでしたが、前回のブログを書いて、寝て、起きて、昨日のブログに関連することなどをなんとなく思い巡らしていたら、頭に文章が浮かんだんですね。それキッカケで変なスイッチが入っちゃったので、予定を変更して忘れないうちに書きます。

煩悩で煩悩を制す?

シュールな気づき

煩悩トラップという仮定をした時に

昨日の記事はこちら

治療体験記 後日編-1 煩悩トラップ

 

煩悩という定義を正しく理解していない、ニュアンス理解の私が書いた記事です。

という私が今日も書いています。

 

昨日も書いたように、ドリーン・バーチュー氏がおっしゃったという、「サタンの声」というキーワードを私はなんとなくずっと考えて居る様なんですね。

会った事もないドリーン・バーチュー氏の思考・感性について興味を持ったんだということです。

で、「引き寄せの法則もサタンの声か~」と思った私も、この情報を目にした時に既に「引き寄せたい」「引き寄せよう」と考えること・意図をもったことはやめていたからこそ、あら?同じ意見の別の方もいらっしゃったのね。というように感じて、はっきり書けないけど「わかるような気がする」という感覚だけがあった。そこを昨日ちょっと紐解けた気がしてスッキリしたんです。

 

これらの考え方が正解か不正解かはわかりませんが、今日はこの考え方をした場合に展開したその他のことを書きたい。

やり方が悪いから引き寄せられないんだ。というさらなるトラップ

これに気がついた時に、あ! と思いましたよ。

「やり方が悪いから引き寄せられない」って言ってる方って多いような気がする。

すると、「何が正解?」「どうすればいいの?」と身をグッと乗り出すのが人情。

ここで一層ガッチリと足首を掴まれるようなシステムというか、仕組みに結果なっちゃっているんだな~って思った。

 

「〇〇」を使うと、「〇〇」に行くと、「〇〇」に会うと、「〇〇」すると、上手く引き寄せられるよ。という新しいルールを創る方もいる。そのルールも煩悩が創っている。

と仮定すると、なんというか・・・・入れ子の箱がまた頭に浮かんだ。

 

朝ご飯食べよ~と台所に立っていた時に。(笑)

 

あくまで、引き寄せの法則を煩悩トラップと仮定した時の話ですが、私にはこれらが

「煩悩を煩悩で制している」ようなとってもシュールな図に見えてしまった。

WikiImagesによるPixabayからの画像

 

が、自分の違和感や疑問が解けた気がしてスッキリはした。

 

潜在意識を見直してみたら

そうなると、私も以前は信じて行っていた「潜在意識に引き寄せたいことを落とし込む」というようなことはどうなるんだろう? とここは開けてはいけないパンドラの箱感がとってもするんだけど考えてみた。

 

そして、自分でも驚きの簡単な答えが頭に浮かんだ。

 

潜在意識が煩悩では? という言葉が浮かんだ時は非常にしっくり来た。今は。

 

そういえば、潜在意識=純粋(煩悩の対比語としてご理解ください)って誰が決めたんだっけ?

私は、潜在意識って身体の反応の1つであるということは非常に納得しています。

それはですね、著作権があるでしょうから図を貼らずにリンクをはりますが、私の好きな自律神経系統図(https://www.zeniryoki.co.jp/?p=2923)を見ると私にはなんだか素直に納得できるんですね。

 

が、潜在意識の理解って、集合意識とか、ミラーニューロンとかも加わっていますでしょ?

そこに煩悩が無い訳ない。みたいに考えると、潜在意識には煩悩が入っててデフォルトでは?みたいな気づきがありました。

 

何度も書きますが、これは私が勝手に「仮定」に基づいて書いているものです。

 

情報を分断して考える? 統合して考える?

と、ここまで書いてきたことが頭に浮かんじゃったもんですから、変なスイッチが入って朝ごはんを食べる前からPCに向かっちゃいました。

 

私自身、前回書いたような脳の傾向があるので、

  • 煩悩は煩悩の話
  • 引き寄せは引き寄せの話
  • 潜在意識は潜在意識の話

みたいに分断してあまり考えない。

 

大袈裟に例えるのなら、

これは、ゴミ問題を町内の話題とするのか?、地球規模の話題にするのか?というようなことかな?違うかな?

 

私のちっぽけな脳の中にアレモコレモなんとなくおさまっていく際に、融合させたり統合させたりしながらコンパクト?に収めていくような行為をしているのかも知れない。しっくりくるとか、腑に落ちないというような違和感が出てくると「見直す」ようなことを勝手にしているみたい。これこそ自動思考だと思う。

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 

だから時間がかかる。

牛の反芻時間は6~10時間らしいが、私はそれこそ無意識下でこれ以上やってるはずだ。

 

 

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

 

心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアについて

そんなこんなもあって、私はシンプルな心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアに現在行きついております。セルフケアもアイテムなどは使わないシンプルなやり方を好んでいますし、お伝えしています。

メッセージ云々という「思想」もお好きなら取り入れたら良いが、私が行うセッションには使わない。セルフケアにも私は使わないし、受講生さんにはメッセージやカード類などを使わない方法をお伝えしています。

 

煩悩で煩悩はバランス調整できるのか?

私がどんどんシンプルになっていったのは、今日のようにクッキリと意識に登る前から

煩悩で煩悩はバランス調整できるのか?

と疑問に思って居たような気がしてきた。(後付けか?)

 

私のキネシオロジー仲間はもう5年?もっと前?から、「心理は心理でバランス調整できない。」と言っていた。何年も前に聞いた時も彼女が言わんとしていることが分かったつもりにはなったものの、がしかし、その意味が今日ようやく最大限に理解できた気がする。表現が違うけど、「心理は思想ではバランス調整できない」と意味合いは似ているんじゃないかな。

 

セッションで対話はしますが、煩悩VS煩悩みたくならないように、身体の反応をどんどん整えていくという方法を選択しています。

 

しかし、対話や傾聴で随分とヒトは変わることもやっぱりある。楽になる時もある。だからこれも大切にしています。

人間対人間ということでシンプルにやりたいと思っています。

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

 

最後に

毎回書きます。

本当に本当に、人生でどんな思想、嗜好をチョイスするのかは様々です。

機嫌よく過ごして頂いたら嬉しいです。

 

私の書く内容で気分を害したり、ガッカリするような事があれば、もう読まないでください。

気分を害するものを読むために時間を使うのは勿体ない。

 

皆様の人生が朗らかでありますように。(^^)

 

次回は予定通り「泡宇宙」について書くつもりですが、内容はほとんどなくて超短いブログの予定です。

治療体験記 後日編-1 煩悩トラップ

混同しがちなところ

本日時間があるので、どんどん書いていきます!

まずはこちら ↓ の記事の補足からスタートです。

治療体験記 首から下編

 

精神性ではなくて、ただの脳の傾向

私の書き方が悪かった

自分でも、ふわっとしない感じが不思議だなぁと思ったのですが、きっと、1回目の通過儀礼は通過したのかな?程度に受け止めました。多分生涯こういった通過儀礼はやってくるでしょうからあと何回有るのか不明ですが、只今のところは根がはれているいるのかな? 第1チャクラが健康な状態なのかな?と受け止める事にしました。

一応、日頃セルフケアしてるんで(^^)

と書きました。

トラップ云々も書きました。

 

が、自分の書いた文章を読み返して、(違うな)と思ったところを補足したいです。

 

というのも、私のような表現をすると、ふわっとするのは精神性や「誘惑」みたいなことに弱いというようなニュアンスに受け取れる。

そういった一面も影響するケースもあるが、私の場合はこういった事への耐性として「強さ」があるということではないことに気がついた。

 

何かしらの鍛錬をした結果、強くなり耐性がついたということではない。

ただの脳の傾向

じゃあ、私の場合は、こういった方面について割とどっぷり浸かったとしても、スッと離れることができたりすることがあるその理由は? (とは言っても、お菓子も食べれば、物欲もある)

簡単です。単なる脳の傾向です。

 

ふわっとする感覚が分からない訳じゃないし、推察する共感性のようなものもあるのでしょうが、多分、私なりに、その事象や知識について脳内の整合性を問う。というような癖があるんだと思う。

 

正解とか不正解ではなくて、「納まり具合」というような感触を内観して確認するような脳の癖があるんだろうと仮定しています。

そして、自分なりに納まるまで、脳内で静かに反芻し続けるようだ。だから、この反芻中に(アレ?)というおかしな部分と感じるところが出てきて、アレ? ナンダカシックリコナイ。ナンダカフニオチナイ。と進行すると、脳内吸収のベルトコンベヤーから外されていくという感じ。

 

それらを信念みたいなところに組み入れるとか、組み入れないとかがその先にあるんだと思う。

jaymethuntによるPixabayからの画像

 

全ての事象や知識の整合性を問うというようなことは当然私の場合はしていませんし、どだいそんなことは私には不可能だと思って居ますが、どこをどの程度組み入れているのかなどはそれこそ無意識下に行っているのでしょう。

 

トラップ?と思われる方も居るかもしれないですが、まぁ分かった風に書くと、煩悩ですかね。選民意識的な事も含んでいるし、虚栄心や承認欲求、優越感みたいなあたりでしょうか。そもそもの第1チャクラ辺りを試されるというような捉えかたもしようと思えばできるというようなジャンルのお話です。(あくまでも、わかった風に書くと)

 

特にこの部分、トラップとか書いたのは良くなかったな~と思って居たところに、ふと別のことに気がつきました。

煩悩トラップ

この煩悩トラップという言葉の語呂があまりに良すぎて、気に入ってしまいました。

 

私は宗教家ではないので、煩悩の正しい定義は存じ上げませんので違っていたら申し訳ありません。と最初に断ります。

もう1つ最初に断っておきたいのは、私は引き寄せの法則というものは好きでも嫌いでもありません。お好きな方はその法則が本当にあるのなら(私は正解を知りません)利用したらいいだろうし、研究されたら良いと思う。

私が興味があるのは、引き寄せの法則という定義?思想?に対する人間の心の動き、精神性、感情への影響ということに興味がある。

 

引き寄せって、まんま煩悩ってことよね?

今の私は、煩悩というものは有って当たり前だし、無くしたり抑えたりできるの?とそもそも懐疑的だし、煩悩との付き合い方次第というか、煩悩も使いよう(怒りという感情も目的達成の原動力に使ったりするように)という受け止め方をしています。または、別に煩悩を使わなくてもいいし。

人間ってそういうものよね。と。

 

だから、ストレスケアについては興味がありますが、とある反応や状態を仏教風味を加えて煩悩と表現するそれ自体については、先ほど引き寄せの法則に対する受け止め方と同じく熱量が湧かないというか、もう枯れたというか。

 

しかし、多種多様な信仰について信心がある方も、引き寄せの法則は使いたいというダブルバインド。

私はこんなところに非常に興味がある。

そして、こんな単純なことがスコトーマみたくなってて、自分の違和感は感じるけど、その理由がわからないという気持ち悪さから本日解放されました。違和感の正体がわかって、また1mm楽になった。

 

ダブルバインドなどは世の中にあふれているし、これについても良いも悪いもないんですが、小さいけど妙に気になる探し物が見つかった感じでちょっと嬉しい(笑)

 

私の引き寄せの法則の解釈に感情は関係ない

下の記事の中に「引き寄せの法則」って磁場のこと? みたいなことを書いた。

もちろん正解は知らない。

少量のメモ書き

ただ、私が あっ! こーゆーこと?? となんとなく腑に落ちた感覚には、よく言われている「わくわく」とかは一切ない。感情関係ない。

 

仕組みというか、チカラの使い方(って拡大解釈しないでね)、働き方にしか意識を向けていない。

これは煩悩トラップを避けた方法なのだろうか? って、引き寄せが完成・完了していないのでただの思考のもて遊びにすぎませんが。

Engin AkyurtによるPixabayからの画像

何回登場すんねん。ドリーン・バーチュー氏

サタンの声の意味

なんどもご登壇いただくドリーン・バーチュー氏。

ご自分が創られたオラクルカードのみならず、引き寄せの法則についても「サタンの声」というか、信じてはいけません!と現在おっしゃっていると伝聞で知りましたが、それを知った時に(自分で作ったオラクルカードについて意見が変わるのはそれとして、引き寄せの法則もか。思考展開もなんとなくしかわからないけどスピリチュアル系大否定なんだな)と受け止めていた。

しかし、本日私がスターバックスの駐車場で口にした「煩悩トラップ」という視点に立つと、

(なるほど、信仰心のスジを通すと、確かにサタンの声ってことになるんだな~)とドリーン・バーチュー氏の発言(したらしい)の展開が理解できた気がした。

 

キリスト教にも煩悩を意味する言葉か、考え方があって、「サタンの声」というのはその表現の1つなのかな?と。

 

これも(あ! そういうこと?!)とスッキリ感を増した理由だ。

 

〆の言葉はいつも同じ

今回は治療体験記を書くことで、ナンダカフニオチナイ。と思って居たことがクッキリしたことをご報告しました。

ちょっと書き方が悪かったな~ということに端を発しました。

 

煩悩も引き寄せの法則もそれぞれの人生のお好みです。

これだけはいつも書いておきたくなります。

 

 

今はこの写真の頃とは眼鏡も髪形も変わっています。

 

治療体験記 首から上編

頭部に感じたこと

頭部の解説にこちらのイラストを使わせて頂きます

治療体験記 首から下編

こちらの記事の続きです。

本日は首から上、頭部編です。

 

イラストを描いて解説したいが、イラストを描いていないというジレンマはフリー素材屋さんが解消してくれました。

イラストに「大泉門」「小泉門」と書いてあったのですが、私が頭部に感じた変化がこの部位というか名称の指す部分と関係しているから採用したわけではありません。日頃「大泉門」「小泉門」ということを意識していないから、そういう感じ方はしていません。しかし、このイラストは使いやすいため使わせて頂いてます。

 

大泉門と小泉門のイラスト(横から)

 

↓の頭部を上から見たイラストも非常に今回お伝えしたい感覚に使いやすい。

目の後ろもスッキリ♪

最初

前回身体に感じた軽さを最初は後頭部に感じ始めました。

確か、身体が先に「軽いな~」と感じて、その次に頭部に軽さを感じたと記憶しています。

そしてこの時の後頭部感は上から見るとAの部分を指しているわけですが、前回膝から上までが軽いと感じた時と同様(後頭部だけじゃなくて顔、前面まで軽くなったらいいな~)と思うのが人情。

しかし、自分でどうにかできるものではないのでそのまま後頭部Aの軽さと、前面Bの重さを感じていました。

徐々に

あ!軽さがおでこ辺りまで広がってきたぞ!と感覚が変化しました。

で、この時、一番感じた事は周りが軽くなっただけに一層(目の後ろが重いな~。ここがスッキリしたらさぞかし心地よいだろうな~)というものでした。

 

もういっちょう 軽さ広がれ! と思う感じ。

しかし実際の私は黙ったまま施術ベッドに仰向けになって横になっていました。

目の後ろが軽い! そして首から上全部軽い!

軽くなった瞬間があったというより、気がついたら軽かった。

数秒? 数十秒? 数分? の間の変化です。

ついにBの前面、全てが軽くなった(祝) これはとっても気持ちの良い感覚でした。

身体も軽い! 頭も軽い!

 

外側は皮膚だけで、中身は空気みたいな軽さ。

これを書いている今は、この時から数日たっていますが、あの「軽い!」という嬉しさは覚えていますが、あの感覚はもう少し遠ざかってる。

相変わらず軽いのかどうかが分からなくなってる感じ。軽いのが当たり前になってしまったのか、また日々の生活で重さを取り戻しているのか判断がつきません。

 

しかし、あの時の目の後ろの軽さが「嬉しい! 気持ちいい! スッキリの10乗!」というのは脳に刻まれた。多分、生まれて初めての感覚だったんだと思う。強度の近視だし、割と早めに近視が出始めたので、近視独特の目の奥の重さみたいなものってあると思うんですよ。

それは、目が疲れるとか、目の奥が重いとかいう日頃の生活で感じる体感覚の重さの根底にいつもあり続けてきたものだから、表層の目の疲れとか、目の重さがスッキリする事はあっても、その根底の重さみたいなものが軽くなった感覚を得た事がこれまで無かったことに気がつきました。

その位、根こそぎ軽くなった感じがした。

 

ついさっき

” 相変わらず軽いのかどうかが分からなくなってる感じ。軽いのが当たり前になってしまったのか、また日々の生活で重さを取り戻しているのか判断がつきません。 ”

と書きましたが、目の軽さについて書いている今、やっぱりまだ頭の中や目の後ろが軽いと感じます。それに気がつくとまだ身体も軽いことにも気がついた。

 

ありがたや、ありがたや。

松原先生、ありがとうございました。

また治療、施術を受けに伺います。

 

まだ続くよ

感覚については今回で書き終えました。

  • 治療、施術を受けた後考えた事や、
  • 松原先生とほんの少しお話したことで私が勝手に感じたような気がしたこと、
  • 今回の記事を書くことで気がついたことがあるので

また続編を書きます。

 

治療体験記 首から下編

体内感覚について書くよ

またまた長い前置き

治療中の体感覚をブログに書こうと思って居たのですが、前回は脳内映像について備忘録を書きました。

無限大 ∞ という枠

 

今回は、最初から予定していた体感覚について書きます。

治療、施術を受けている最中には、少しだけ言葉にして松原先生に伝えましたが、今回(あぁ これは書いておこう)と思う事に関しては後に出てくる左右差感以外はお伝えしませんでした。

 

私も、心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアを始めたからこそ感じることがあり、それまでの生活での感性とはまた少し違う扉が開いたので、自分の頭の整理目的もあってまた違うブログに不思議体験を書いている時期もありました。が、なんでも慣れるもので、慣れるとまた感性が変わったりするようで、そういった不思議体験の受容体が次なる脳内統合へと進化したのか、また感性が変わってきました。自分では、(ある程度体験したのでそれ以上のものが現れたらまた反応するかもね)という感じなので、きっとあれらの不思議体験は通過儀礼のような意味だったんだろうと今は捉えています。なんらかの脳内シナプスの開通の儀に含まれているというような。

そこを通過したくない方はずっとそこに居て、不思議体験のようなものに執着しなければ通過していくという感じではないだろうか? そう思うと、考えようによってはこれら不思議体験も1つのトラップのようなものかもしれませんね。

トラップ?と思われる方も居るかもしれないですが、まぁ分かった風に書くと、煩悩ですかね。選民意識的な事も含んでいるし、虚栄心や承認欲求、優越感みたいなあたりでしょうか。そもそもの第1チャクラ辺りを試されるというような捉えかたもしようと思えばできるというようなジャンルのお話です。(あくまでも、わかった風に書くと)

そう、何周も回ってきての第1チャクラみたいな感じ。無限大入れ子の箱方式なんで。(笑)

 

本当にお陰様で、

幾つもの銀河を含んだ広大な宇宙全体 ⊂(含む) マルチバース

などという見たことも聞いたこともない視点を得ても(正解とは書いていませんよ。あくまで「視点」です)、既に通過儀礼を通過したせいなのか、生活も思考も通常運行です。

特に何も変わりません。

機嫌よく散歩して、ヒト様とのコミュニケーションを楽しいと感じています。

食事が豪華になることも質素になることもない。

東洋医学的に「平」な感覚です。

自分でも、ふわっとしない感じが不思議だなぁと思ったのですが、きっと、1回目の通過儀礼は通過したのかな?程度に受け止めました。多分生涯こういった通過儀礼はやってくるでしょうからあと何回有るのか不明ですが、只今のところは根がはれているいるのかな? 第1チャクラが健康な状態なのかな?と受け止める事にしました。

一応、日頃セルフケアしてるんで(^^)

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

 

ここからが本題

身体について

イラストが描けてないから記事をアップするのに時間がかかると報告していましたが、医療系の素材を提供されているサイトを思い出しましたので、そのイラストに上から説明を加筆します。

 

そもそも、沖縄から東京に移動して、土地勘のない場所のホテルに泊まり、そしてまた土地勘のない松原先生の治療室へ移動。そして初めて松原先生にお会いしたわけです。

疲れるんですよね。移動って。

 

今回は、友人のお祝いがそもそもの上京理由で、そこに数年前から「松原先生にご挨拶に伺います」と勝手に宣言していたことが治療の予約が取れることで叶いましたので、前日も疲れが増さないように早めに寝ました。

全体的な調整

私はあまりアレコレ聞かないタイプで、お任せするんですよ。

「今はこれは何をしているんですか?」とかまず聞かない。まな板の上の鯉。施術ベッドの上の武田。

元々私はCBSという団体の門下生ではないので、聞いても上辺の方しかわからないし、それは他で治療や施術を受けたとしても、先生が何をしているのか?には神経を注がず、自分がどう感じるのか?(感じなくてもOK)にしか意識を基本向けていません。

しかし、

先生が何をしているのか?に意識を向けて居なくても、なんとなく伝わってくることや感じる事ってちょっとはありそうなものなのですが、松原先生は透明感がハンパなくて、「感じない」という感じ。

昔気功の先生をしていた友人が「気が細かい」という表現をしているのを聞いたことがあるのですが、あのような透明感というのは「気が細かい」という現れなのだろうか?と後から思いつきました。

ということもあり、全てお任せでしたが、最後に松原先生がおっしゃったのは、「今回は初診でしたので、何かに特化して治療というよりは全体的な調整を行いました」ということでした。

その全体的な調整中に感じた事を書くつもりで今文章をかいていますが、また違う前置きがながくなってますよね!?

これらもすべて含めて私が治療を通して感じた事なのでお付き合い宜しくお願いいたします。

 

首から下の身体で実際に感じた事

治療室で準備して頂いている衣類に着替えて、こんな状態(時にはうつぶせ)で施術ベッドの上に横になりまして治療、施術を受けたのですが、

左右について

ちょっと前後しているかもしれませんけれど、

途中、左が伸び伸びして、右が委縮している感じがしていました。だから身体がねじれているように感じるアノ感覚がありましたが、松原先生が何かされた後に左右がそろって、左右ともノビノビしました。祝

なにをどのようにバランス調整されたのかお聞きしていませんが、それによってリンパが調整されたのかもしれませんが、実際のところはわかりません。

中心から末端へ

最初に、ふと、あ!体の中心みたいなところが軽いな~と気がつきました。

 

少ししたら、軽い部分が広がっていた。太もも(膝上)辺りまで軽い。

 

こうなると、膝下まで軽くなった感覚を得たくなるのですが、妄想でその感覚を創り出してまで得たいものではないのでそのままにしておいた。

 

そして、ふと気がついたら先ほど書いた左右もそろってノビノビしているし、身体の中心から広がった軽さは足の指先1本1本まで行き届いていました。

ラッキー!

 

というところまでが治療体験記 首から下編でした。

 

私が心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアの施術者となっているときに、今回私に起きた変化と似たようなことがクライアントさんに起きた時に、その変化に共鳴して、その感覚を脳内で疑似体験しているような気持になるときがあるのですが、あの疑似体験感もあながち遠くないなとも感じました。

断り書き

今回、私が感じた事を書いていますが、別に何にも感じないのもデフォルトです。

感じることが優れているわけでは無くて、感じやすい脳の傾向があるというだけの話。

私は元から内観みたいなことが習慣になっているようなので、その一環です。

 

感じた方が良いのか?と勘違いされて、妄想や憑依みたいなことに進まれることは全力で止めたいけれども、選択は個人の手中にあります。

 

こういったことを書くのも良し悪しだと理解した上で、でも書いているのは、

治療や施術について、受けている側が ??? と思っても、身体は変化しているということをお伝え出来たら良いなぁと思って居ます。

 

理解していない。理解できない。ということは怖いことでもないし、劣っていることでも無いし、「我」みたいなことが薄まった方が良い時もあるし、堅固なときが良い時もある。

そんなこんなもひっくるめて、バランス調整というストレスケアを生活に取り入れて貰えたら生き易くなってくると思っています。

 

次回は「首から上編」です。

大泉門と小泉門のイラスト(横から)

サイトをお知らせします

こちらが松原先生の営まれている松原治療室のサイトのリンクです。予約制です。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~CBA/

 

 

余談

「堅固」と書きたくて、キーボードに「けんこ」と入力して変換したら漢字が出てこない! Windowsはバカだなぁ 日本語には弱いんだな~と思っていたら・・・なんと!

「けんご」だって。本当は。

バカは私でした。(笑)

 

他にも驚きの発見があったので、一応リンク貼っておきます。

https://cancam.jp/archives/683641

 

無限大 ∞ という枠

あらたな気づき

当たり前のことに気がついた

その1つは「宇宙」という概念

先日、松原先生の施術を受けている最中に沸き起こった脳内映像により、また1つ気づきがありました。

 

端折り過ぎかもしれませんが、少々時間がないので(詳細はまた書くかもしれませんが)簡単に書きます。

 

今まで、当たり前のように

マルチバース ⊂(含む) 宇宙全体

だと考えて居た。

 

その理由は、自分を基準に思考していたからです。

私は今、地球で生活しているという情報と、空に見えている空のその先の果てしないらしい「宇宙」という概念。そして、映画や書籍での解説。などなどにより、私に形成された宇宙という概念があった。

不思議体験があったような気がする事も多いし、それらは「考えたことも無かった」数々の出来事ではあるものの、なんとなく

マルチバース ⊂(含む) 宇宙全体

という概念の中におさまっていた。

beate bachmannによるPixabayからの画像

いや、逆説的でもあるんだけど、ふわっと系スピリチュアルとか宇宙云々とかに全然興味のなかった私が心体カウンセリング™ に含まれている施術などで得た感覚があったからこそ

マルチバース ⊂(含む) 宇宙全体

というような従来からある説に同感したわけでもあるんですが。

 

もう1つは無限大 ∞ という概念

いろいろなことを感じて、考えるようになったからこそ

相似形、フラクタル

のその先の無限大∞入れ子の箱方式と書いたり、無限大マトリョーシカ方式とイメージする

無限大

という言葉も使うようになった。

 

だって、私が普通だと感じる生活をしていたら無限大なんて概念はそんなに必要ない。

スピリチュアル系で無限大という概念を重視する貴兄もいらっしゃるようだが、それについて「別に(興味ない)」というスタンスであれば無限大自体を意識することなどなかった。

 

言葉では「脳力は無限大」と話しますし、確かに才能に限りは無いと思って居ますから比喩的に使いますが、実際の無限大ということは無い訳で。(個人の生命の灯が消える時点で無限大じゃないという意味です)

StockSnapによるPixabayからの画像

ところがどっこい

だから、マルチバースが無限大入れ子の箱方式になっている。という予感を得ても、

マルチバース ⊂(含む) 宇宙全体

という土台の上に立っていた自分に気がついた。

 

そう! 私が気がついたことは、無限大と言いながら、ニュアンスでは「無限大感」は得たつもりになっていたけれども、結局のところは銀河というか、広大な宇宙の中の出来事だと、自分では気がつけないほど信じ込んでいた。

 

もう一度、ますます ところがどっこい

ところが、

こんな思い込みの中で人生を送っていた私が(とは言っても、99%のヒトは同じよね? だって今から書くような事を話しているヒト知らないもの)

 

銀河、果てしない宇宙全体 ⊂(含む) マルチバース

 

という視点を得た。

 

無限大入れ子の箱方式のもう一回り大きな入れ子の箱があった

(◎_◎)

マルチバース ⊂(含む) 銀河、果てしない宇宙全体

かつ

銀河、果てしない宇宙全体 ⊂(含む) マルチバース

という、どこまでが入れ子の箱? という広がりを得た。

 

そう、もういっちょう上というか、大きな仕組みがある???!!! という視点に立った時に、

マルチバース ⊂(含む) 銀河、果てしない宇宙全体

という視点では、無限大と言いながら やっぱり枠があった。

だけど気がつけなかった。

 

しかし、

銀河、果てしない宇宙全体 ⊂(含む) マルチバース

となると 無限大に一歩近づいた感じがしたのです。

 

これはびっくりした。

 

目からウロコが1,000枚落ちた(笑)

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

もう一度 書きますが

冒頭に、

” 松原先生の施術を受けている最中に沸き起こった脳内映像により、また1つ気づきがありました。 ”

と書きました。

 

施術を受けている最中に、一瞬、脳内で観えた映像については、その時は

(こんなことある???)

とだけ思った。

 

だって、それまで考えたこともないし、自分の視点に気がついてない訳だから。

 

今回記事に書いたような事は、

(アレって・・・・)

と脳内映像を私のちっぽけな脳で変換して文章化したに過ぎません。

 

生きていると興味深いことが多いのですが、今回のこの体験も非常に興味深い感覚として心のノートと、このブログに書きました。(笑)

 

元々書きたかった治療・施術の体験記については、まだ1つもイラストが描けていないので、しばらく先になります。お待ちくださいませませ。

 

サイトをお知らせします

こちらが松原先生の営まれている松原治療室のサイトのリンクです。予約制です。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~CBA/