パンドラの箱 オープン案件について

やはりここもフラクタル?

助走

通常運行です。

見た夢が楽しかったり、日常のコミュニケーションが楽しかったり、またまた花束のおすそ分けを頂いたり、自覚するストレスがあったりと、ありがたい事に日常生活を通常運行で送っています。

自分でも、ふわっとしないなぁ~と不思議になる時があります。多分それは、社会に参加したい、ヒト様とコミュニケーションしたいという好みが影響しているのかもしれない。

趣味に変化がおきてた

先日、松原治療室で初診問診票を書く際に、自分で驚いたことがありました。

それは趣味を書く欄に、(趣味は・・・っと)と向き合った時に、従来でしたら、読書、映画鑑賞、ウォーキング。ともうずっとずっと書いてきた。そして、これを書こうとした時に、最近本を読んでないし、映画も見てないな~と思ったので、「散歩」とだけはいち早く書いた。(他にナニカあるかな?)と考えて、なんと、「コミュニケーション」と書いた自分にビックリした。

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遥か昔、私は貝になりたい!お願い!と、マジで誰とも会いたくない、話したくない、考えたくない、社会という動きも刺激も一切感じたくない! だから深海の貝になりたい! と映画ばりに閉じて閉じて閉じていきたいというような時期があったのに!

今は楽しいコミュニケーションの時間が増えてる! (◎_◎)

それを趣味の欄に書きたくなる様な親しみぶり。 このラッキー感。

ほんと、書いた自分が一番驚きましたよ。(笑) あんまり驚いたから友人に話した。友人も昔からの私を知っているので(へぇ~!?)と言っていた。

ヒトは変化しますね。今のような心持が今しばらくのことかもしれない。将来は分からない。しかしそれはこれまでずっと同じでしたよね。

深海の貝になりたい心持が、20年?もっと?経ったら、趣味がコミュニケーションと書いているぐらいだから。

 

私がやったことは2つ。

1 自分に徹底的に向き合った事。

2 自分にあったストレスケアを超やったこと。

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邪気

邪気って書くと、他人様から云々とか、浄化云々とだけ連想する方もいらっしゃるのかも知れないが、それではなくて自分のこととして捉えて頂きたい。

そして、私は、他人様の邪気を気にするあなたにも邪気はありますよ。有って当たり前ですから級の捉え方をしています。煩悩のない人います? 人口の何%?という位に煩悩も邪気もとりたてて特別扱いしていません。

正気 と 邪気

”東洋医学では邪気の原因を取り除く術として、「何事にも執着せず心静かであれば、気は自ら巡り、病は自然と癒えていくだろう」と教えています。” - サイト「神戸東洋医療学院付属治療院」より引用

 

免疫力(正気)を高めよう

 

松原先生がチェックしてくださったのですが、「邪気がない」ということでした。「邪気が無いってあります?」と思わず質問しちゃいました。私の「邪気」の認識と、松原先生がチェックされた「邪気」の意味が違う。この項の冒頭に書いたように。

松原先生のおっしゃったのは「免疫力が発動している状態、邪気がない」というリンク先の解説の「正気」が高いという意味合いでした。

まずは良かったなぁと思っています。これもあくまでも「治療、施術を受けたあの時は。」という過去の状態です。日々刻々と人体は変わるので、「あの時は良かった」とそれこそ執着せずに「今」の状態をより良く保って行けたら嬉しいです。

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執着がないんだね と言われて

今回上京したのは、友人のお祝いが最初の理由なのですが、この友人と何かを話していた時に、いきなり「タケちゃん(私、タケダです)は執着がないんだね」と言われました。なんていうことのない話題の最中だったので(急に? 今なにか執着に関わる話してたっけ?)と思ったのは覚えています。

私の答えは「あるよ。執着がわくものとわかないものはハッキリしている。執着のわく案件が多いか?少ないか?と言えば少ないかもしれない。」と答えました。

以前もコラムかブログに書いたように、すでに高校生のときに担任の先生に「あんたは諦めが早すぎる」って言われましたし、それを言われた時にムカッとせずに、(なるほど!)と妙に納得した。当たっていることを言われるとムカッとするという反応もありますが、私は当たっていると(まさに!)と思う事も多い。そうだよ!と思う事も多い。それに、若い頃は、諦め=逃げ みたいな反応をしていた。今はそういった誤魔化し方は余りせず、逃げたいなら(逃げたい!)と自覚するし、(もう、しょーがない)と思えば諦めている。

 

これも後になって、大人になって分かったのは、自分が学校とか社会とかの「良かれルール」と自分の興味が運良く合致すると社会的には高パフォーマーになるけど、興味がわかないとそこそこどまり。営業職経験でも、良い成績が残せた営業時代もあれば、おちこぼれ営業時代もあった。

だから身をもって、精神論ではなんともならないことがあるということを知っている気がしてる。

 

これも何度も書いていますが、競争社会というのは私にはモチベーションにならなくて、興味があれば勝手にほっといても一生懸命やるし、楽しいから頑張る、頑張っているという意識もないし、特に褒められなくても(承認されなくても)自己満足しているからOK。

評価は勝手に他人様がすることだから、基本自分がやりたい事、好きな事をしていたら人生大成功、大幸運と思える。

だから、評価査定に準ずる結果主義では無いと思う。受験戦争に完敗しても全然気にしていない。かえって、自分の不向きに向き合った期間を禍福は糾える縄の如し風に感じられるし、それを一応経過したからこそ自分が興味のあることを勉強する楽しさが嬉しいし。

 

こういうところに、うっすらと?結構?自閉傾向を自覚しています。

自分の世界に集中しているような気もするけど、感受性としては社会や他人様のアレヤコレヤに反応はしていますよね。境界線もある意味しっかりしているけれど、でも感受性は割と大きなアンテナで情報をひろっているような反応はしている。

感受性は働いているけど、ブレないって感じなのかな?

 

そして治療、施術を受けた時点では、結果免疫力は発動していた。

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嘘でしょ。ここから本題

という前置きが伏線で、それを回収できる算段も立っておりませんが本題を書きます。

 

潜在意識 当たり前に煩悩含む説

パンドラの箱案件かと、前回、前々回、こういったことを書く前に一瞬 大丈夫かな? と頭によぎりましたが、ひょっとしたらそれが当たり前で、今まで信じられてきた事は人間が創った定義なだけで、いろいろ時代が変わると常識が変わるようなことの1つかな?と全然普通の仮定だった。

ひょっとしたら、潜在意識に対する期待は、そもそも人間の理想というか、そうであって欲しい!というような願いなのかもしれない。

それは「人間には純粋な箇所がある。」と信じたいというような。

 

それは、煩悩がある人間をそもそも否定する事から発しているのか?

煩悩撲滅運動って、なんだかある種聞こえがいい。

人間の質を良くするには、煩悩を無くさなければならない!という感じでしょうか? 確かに昔の私はこのように考えていた。

 

しかし、上の考え方を元にするとシュールな視点にはなるんだけど、

丸ごとの、そのままの人間を愛そう。というような思想もある。

これはこれで非常に「良い」とされている考え方だと広まっていませんか?

 

これにちょっと加えるのなら

煩悩まみれが当たり前。だから、顕在意識をつかって純粋さを育てていこうというような視点もあっても全然困らないけど。

純粋というものは、すでにあるものだという固定観念もあるのかもしれないです。純粋という類のモノは創り出せない。というような。

私は屁理屈を言おうと思えば言えるので、ここで屁理屈なのか、一応定義にはあっているのかわかりませんが書いてみたいと思った事は、陰陽論的に「陰極まれば陽」のような「煩悩極まれば純粋」みたいなことってあっても良いような気がしますが。

フラクタルという定義にこの案件も含んでみた。

違う例で「ワンネス」

例題は少しずれますが

ワンネス!と言いながら、他者の邪気はイヤダ。ワンネス!と言いながら、自分の煩悩は無くしたい。ワンネス!と思うけど、煩悩のある人間は劣っている????

 

もうちょっと視点を変えて、

あるよ!

煩悩たっぷりだよ!

自分にも他人にも、潜在意識にも顕在意識にも!

だったらどうするの? という仮定で一度考えてみてはどうだろう?

 

すると、やはり絶対に純粋な場所がないと困ると感じる方は多いのかも知れない。そうすると、また違う部位や定義を「ここだけは純粋だ」と死守したくなるような思考展開もあると思う。

 

正解不正解は私は知らないが、そういった「なくちゃ困る」「死守したい」と思うのも人間だと思うんですよ。代替案が欲しいというイメージかな? そしてそれも一種の執着。

だから、気がつけない執着や煩悩って山盛りある。

多分、これらの答えだと感じる(感じたい)ようなことをハッキリ言ってくれるから、信仰や思想が尊重される。答えが無いとか、正解不正解もないというようなことでは安心できない方が多いんだと思う。

「考える」ということと「答えが欲しいから探す」ということは少々違うんだろうか。

わからない。という頭の中の ? になにかは当てはめたい。手っ取り早く当てはめちゃうことがある。それが正解かもしれないから、それが悪いと書いているわけではありません。

 

誤解の無いように書きますが、正解不正解や真実云々を書いているわけではないし、信仰や宗教、思想でお好きな決まり・ルールを選択されたら良いし、それの良し悪しを書いているわけでも無くて、人間の物事の考え方について個人的に思った事を書いているだけです。

John HainによるPixabayからの画像

で、結局のところ 大丈夫

でも大丈夫です。

どうであれ、あなたが何を好むのか?

どういった価値観で人生を過ごしたいのか? には、本当は余り関係ありません。

並行世界にはそれらはあるけど、あなたの人生の土台には実はあまり関係ないことだったりしますよ。だって、私の仮説がどうであれ、あなたは信じたい物を信じて、そして成り立っている。

あなたの人生の枝葉には影響があって、風が吹いて葉っぱがサラサラと音を立てるかもしれない。しかし、土台にはほぼ関係ない。

そして、貴方の周りのことは、何とかなってきたし、なんとかなっていく。

概念ってそういうものなのかな?

 

概念が信念と一致している場合は信念が揺らぐ。私は昔、こういったことで揺らいだことがあります。揺らいでも大丈夫。一時はキツイけど、また少しずつ再構築していけばいい。

 

私が書いているようなことがお嫌いな方も多いと思います。

でも全然大丈夫。

「信ずれば通ず」という言葉がありますでしょ? あなたがあなたの人生をどう捉えていくかが大切なだけじゃないかと思っています。

ということは、私の記事を読む前も、読んだ後も、とくに変化はありませんでしょ?

 

これもフラクタル? 相似?

今日私がこの記事を書こうと思ったのは、顕在意識に適応されて、潜在意識に適応されないという特別扱いがないとしたら? とふと思った事に端を発しています。

顕在意識も思考、感情、欲、煩悩?のグラデーションがあるように、潜在意識にこれらのグラデーションがあると考えても全然しっくりくる。

 

バカみたいな例ですが、神様もいろんな神様が定義されていてグラデーションがある。貧乏神という神様もいる。

 

潜在意識だけが、〇〇だけが、純粋ってことは無いのかも知れない。と仮定するのは自由だなって思いました。ただ、途中にも書いたように、「〇〇だけは純粋」というものを人間だけが欲するような気がした。もっと近い表現だと、「〇〇だけは純粋」と定義したがるというか、欲しがるというか。

そういう欲求を持つのが人間だということは、欲しがるものが純粋だろうが、悪だろうが、煩悩には違いがない。欲しがるものが綺麗なモノ(という価値観)ならそれは煩悩ではないってことは無いと思う。

 

だから大丈夫

私は性格がひねくれているか正直なのか、いろんなものを見て、(煩悩トラップだなぁ)とは思うが、それらによってご本人が心の平和を得たり、機嫌よく過ごしていたり、生きてるって良いなぁと感じたり、生きていることを純粋に楽しいと感じるのなら、「陰極まれば陽」的に「煩悩転じて純粋」で良いよね? と思うようになった。昔は違った。しかし今、今日現在はこんな感じ。

 

私も、「楽なりたい!」という切なる欲求から、様々な煩悩トラップを経由して、次にはそれらを除いていく期間がきて、みたいなことを繰り返してきて、今が一番生きていて嬉しいと感じている。執着や煩悩も使いようである。

 

この状態を別に純粋とは言わないが、シンプルではあるな。とは感じている。

そして、私はシンプルであることが自分の脳の傾向的に非常に快適であり、軽やかさと連動している。

 

人生は様々。

みなさまの人生に「快適さ」があると良いな。