カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い

いろんなことを体験・経験したら良いのか?

どーでもいいし。と思う方は飛ばしてください。

夏風邪ひいたよ

あんたの日々の出来事はいいから、さっさと本題に入ってほしいという皆様の願いを叶えず申し訳ありません。今日も私の本当にどーでもいいつぶやきを最初に書きます。実は夏風邪を何年振りがわからないほど久しぶりにひきました。自宅では寝ても覚めても扇風機ガン回し、外では蒸発しそうに暑くて非常な疲労感を感じ、はたまた寒いほどクーラーが聞いている建物にいるというような今書いていても、そりゃあ体調不良になるわな。という当然の結果を招く生活を送っておりましたら見事に夏風邪みたくなりました。

我が家には飲み薬がないのですが、最初喉の痛みの段階で我が家にあった蜂蜜を舐めたら あら!ラッキー やっぱり蜂蜜って良いのね! と思ったほど喉の痛みが引きました。すっかり気をよくして、回復するつもり100%で(薬を買うことを思えば同じかも!)と奮発してお高めのマヌカハニーを購入して食しておりました。

お陰様で完全回復手前です

風邪の諸症状は他で書いたので省きますが、あんなに調子が悪かったのに、PCに向かってブログを書くほど元気になっております。強制断食みたいなことになったので、体もなんだか透明感っぽい。元気いっぱい!という力強さとは違いますが、体も頭も軽いです。

この風邪の山場が超えたあとの鼻水が止まれば終了ですが、無理してぶり返したら元も子もないのでこの後もしばし養生します。

体の声

風邪のウイルスが胃腸に影響しただけと言えばそうなんですが、私の体も正直でして、

喉の調子が一旦良くなって油断したときに「よし! 栄養を取ろう!」とご飯(肉のおかず)をしっかり食べたんですがコレが裏目に出ました。そのあと非常に具合が悪くなったんです。体は(ナニも食べないで!なんでそんなに食べ物を胃に流し込んでくるんだよ!受け付けないよ!)と主張しておりましたわ。

体の主張の強さが怖くて、体の主張に従って強制断食状態になりましたが、その間は張り切って購入したマヌカハニーと普通の蜂蜜は体はOKでしたので舐めてましたし、おそるおそる様子を見ながらスープを飲んだり、バナナを食べたりし始めました。買い物に行ける元気が出た時に「ゆし豆腐」も買ってきました。

日頃胃腸が強いという自負がありましたので食べるものをキネシオロジーテストすることはないのですが、今回の回復期はキネシオロジーテストしました。食べる時も買う時も。

今夕はコーヒーも飲みましたが、まだ前ほど美味しく感じないです。

美味しーと思ったのは今回はスープでしたね。(あと、ゼリー状の軽いものはまだ大丈夫だった。)

沖縄に「カチュー湯」と呼ばれるものがあるのですが、私はだし汁に梅干しを入れたものを飲んだんです。これがマジ良かった。体も喜んだ。(作る前にキネシオロジーテストしましたが、飲んだ時に体がこれを受け入れやすい状態だったのも感じた)

よし!タンパク質を取ろう!とゆで卵を作ったものの、体が(それはまだ早いよ)と反応しましたので食べるのを半日遅らせたこともありました。米や麺やもちろんパン類という主食系は一切食べておりません。おかゆもOFF、うどんもOFF、パンは元々食べなくなってきてるから論外。

 

夏風邪が流行っているのかいないのかわかりませんが、どうぞ皆様もご自愛くださいませね。

ここ数年?体調が不安定になりかけた時にプチ断食した方が治りが早いような気がしてる。だから今回みたいに「栄養取らなきゃ!」と食べるのは意味ないなということをすっかり忘れていたけど、再体験して再確認したような気持になりました。

本題はここから。

高次について今日も書いてみよう

高次ってそーゆーこと?

スピリチュアル界好きの方はこの先読み進めるのはご注意ください。

が、人生観や価値観、趣味嗜好は様々なのであなたの信念、思想、価値観と合わなければただスルーしていただければ良いだけです。

 

という前置きを皆様に踏まえていただいて(強制か?)、相互確認したていで先に進めます。

 

上にリンクを貼った記事から引き続いて

”人間皆高次” ニンゲンミナコウジ

という東洋思想ベースで話をすると、

あなたと私は違う?

「(あなたは違うが)私は高次と繋がっているので云々」という発言をされている方は本当にはそれを感じたことがないのかもしれない。もし本当に(と書くと微妙ですね。感じ方の深さなのか? う~む、わからん)感じたら、その点においては人間皆同じということも感じるはずだから。

という視点も現れてくる。(あくまで1つの説です。個人的な)

高次と切れてる? 繋がれない?

高次との繋がりが切れてる。とかいう仮説も、

生きてて、細胞がある限りは切れようがない。という視点からすると 切れるってどーゆーこと??? ということになる。

自分と繋がってない? 自分を生きてない?

「自分」を生きてないから繋がりを忘れてる。というお説があったとしても、覚えてる忘れてるというところに執着する必要ないよね? 生まれてからこの方忘れてることって山ほどあるのに、なぜそこだけ覚えていないことを「劣性だ」と刷り込み(売り込み)ますか? だって覚えていようが忘れていようが「そう(高次)」なんだから。

いや、それよりも、生きている奇跡みたいなことを忘れていることの方が悩みを生みませんかね?

という視点も持てるかもしれない。

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 

なんか すみません

もうね、書きながら、スピリチュアル界大好きな方にはホント腹立たしいことを書いているのかもしれないし、書き方も可愛げがないことが腹が立つのかも知れないと想像しています。

 

私も不思議系なこととか全否定してないんですが、私の脳内なりの整合性というか、なんというか、自分なりに考えちゃったりするんです。というあくまでも個人的なことを書いています。

 

そう、私はこういったことを内部対話しております。内部対話しようと思うと視点は2つ以上必要なんですよ。こんなことを内部対話(自己対話)したからって社会的になんの得にもならないし、自己研究しても自己満足でしかないんですが、習性なんですよね。

その昔ホームページのコラムに書いたような

今他人が目の前で話していたことを聞いて「ひらめいた」と脳内変換する(自分がひらめいたと信じこめる)ような脳のタイプとはやっぱり異なって、そういう意味では(ある一面では)もう少し「自分」「自己(と感じる脳の特性)」があるのかもしれない。

良いも悪いもなく、それぞれの脳の特性だし、私もいろんな情報で私の脳内が構成されている。

考えていることもあるけれど、そのモノを考える土台には誕生してから後の他者からの情報がないことには言葉すらも発せないわけです。

Cheryl HoltによるPixabayからの画像

自分を大切にする

そうですね、私は「自己」と感じるナニカを大切にしたいと思い続けてきたのかもしれない。

自分を大切にする。という言葉にはいろんな要素が含まれているんだろうけど、自分で考えることや自分の言葉にしていくこと(別にブログやコラムを書かなくても、対話でも)、ひらめくこともまぁあるんですが、それは自分で考えて、考えて、自己対話して、他者とコミュニケーションして、静かに脳内を見て、聴いて、というような習慣を大切にすることもそれに含みたい。

John HainによるPixabayからの画像

 

情報や感性、感情を刺激されたものの表層をササっとMIXすることも必要ならするけど、それをヒラメキだと変換したり、自分の考えだと信じるのは、なんだか大切なものを軽んじてしまう気がしてしまう。という好みが私にはあるという自覚があります。というより、そういうことが気になってしまう脳の傾向があるというだけなので、読んでくださっている方はお好きにしていただいたら良いだけです。

本当に人間の脳の働き方は面白いですね。感じ方も千差万別です。

 

タイトルに「カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い」というのは、こういった意味です。脳の特性って100人いたら100通りあるんだろうと思うんです。

私は脳科学を突き詰めたいわけではないのですが、いろんな特性があるな~ということを前提にしておくと う~~ん、腹が立たないというか、相手を従えたいとか、自分流儀に正したいという欲求が少なく済むような気がして、自分が楽かな?と思う機会が増えた。

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

 

過去記事を読んで(う~~~む)と思うとき

私は過去、やはり(それってどうなの?)という否定的なニュアンスで文章を書いたこともある。これからもあるかもしれない。実際今のこの記事にそんなニュアンスを受け取る方も居るでしょう。

 

が、私も変化していて、過去否定的なニュアンスで書いてしまった記事を(今読み返すと、あの書き方は良くなかった)と思うこともあるんです。考え方が変わっていることもある。当時その記事を書いたことでそののち今現在の考え方に変わったこともある。

ですが、当時の記事はそのままにしています。

記事をアップしている日付などに注目したら私個人の変遷もわかるから。

 

” 私も変化していて、過去否定的なニュアンスで書いてしまった記事を(今読み返すと、あの書き方は良くなかった)と思うこともあるんです。 ”

ということを今日現在は恥や失敗としないでそのまま残していますが、この先(記事を抹消することがベストだ。)と思うようなことがあれば消すこともあるかもしれないし、訂正、修正することが良いと思えばそうします。

 

最後に本題とはズレるけどちょっと書く

私は書きたい内容のメタファーのように下のイラストをよく使う。ハーメルンの笛吹き(男)と文字で例えることも多い。

 

WikiImagesによるPixabayからの画像

 

ヒトに影響を与えたい方は、ご本人自身もこんな構成(魅了されてついて行く側)になっていることが少ないないのかもしれない。

そこもやっぱりフラクタルって感じで。

 

ご本人はカリスマみたいになっちゃう(カリスマになりたい方もいるし、自分がカリスマだと思っている方もいるんだろうけど)ことも多いんだけど、やっぱりイラストの笛を吹く存在に付いていっており(他者から影響を受けやすくて)、自己が割と薄いことも珍しくないといういうか。

磁場は幾つもあるらしい 2

 

良いとか悪いとかじゃないし、需要と供給ということでもある。

 

そんなことを書くアンタはどうなの?と言われても、私も何一つ証明する術をもっておりませんが。

 

そう、

”人間皆高次” ニンゲンミナコウジ

ではあっても、こういったイラストのフラクタル形は形成されるわけです。

 

ナゼ???

 

問いかけ

これを読んでくださっているアナタは、その理由を考えたことはありますか?

 

私は今考えている最中です。1つの仮説はメモ済みですが、もっと考えてみます。

シェアするのがお好きな方はアナタの考えたことを教えてください。

Facebookファンページでこのブログをシェアしますので、Facebookファンページのコメント欄をあなたのお考えを発表する場、シェアする場として頂くことができます。

 

しかしですね、わたくしカリスマとは程遠く個人的に細々とコラムやブログを書いており、見事にFacebook(ファンページ含む)も静かな感じです。

根っから好かれる方や、カリスマ炸裂してる方はやんやと書き込みや いいね! があって盛り上がっておられますが、ウチはもう真逆。そんな静かなところに書き込むのは恥ずかしい!という方もいるでしょうし、そもそも(なんでアナタに考えたことを教えんとあかんの?)と思う方もいるでしょうから絶対に絶対に無理しないでOKです(笑)

 

私も無理しません。

今のところ病み上がりなんで。

 

そこのところヨロシク。今日はここまで。

高次ってそーゆーこと?

沖縄の台風6号(名前:カーヌン(Khanun))の影響で停電し、それに伴いネットも使えませんでした。モバイル通信でもネットが使えなかった。

その間の台風体験記も書くつもりですが、その前から下書きに入っていたこちらの記事を先に仕上げます。

本日は高次について

高次って、そんなりすんなり常識に入ってきます?

高次、高次とスピリチュアル界?で使われる言葉がある。

 

私はこれまで、(それって何かな?)と思いながら話を見聞きしていた。

わからなくてもなんとかなってきたし、高次ってナニ?とネットの民に質問したこともない。検索はもちろん。

 

いつものお得意なニュアンス理解風味のまま今に至った。

 

突き詰めたところでねぇ・・・と少し冷めてたし、ネットの中の答えも、誰かがそれっぽく創作した話が多そうね。と相変わらずひねくれ気味だった。

「高次」ビジネス

私は高次についても、(それは高次ビジネスですか?)と感じてしまうことがあり、そんな自分がひねくれてるとも思うことがあるし、冷静に世界を見ているとも思うこともある。

しかし、それはビジネスですね?と思うような高次案件であっても、需要があるから供給もなりたつわけだから良いも悪いもない。人間が「高次」という言葉や思想、ビジネスであったとしてもその取扱い方について魅せられる傾向がある。はるか昔から。

最近では、(それによって安心したいんだよね)と寄り添うことが増えた。

 

「魅せられる」「心が持ってかれる」というようなことを自分が過去、ホームページのコラムでは「酔っぱらう」と表現したことがある。

魅せられるのも、心が持っていかれるのもそれぞれに理由や原因があるんだろうけど、(安心を得たいんだよね)と思うと、ちょっと物悲しく感じる時もある。

別に私が物悲しく思う必要なんてないんだけど、(世の中っていろいろあるよね。)ってちょっと思う。

 

ありがたいことに、基本楽しく幸せに過ごしており、しばらく遠ざかっていた読書をしたら1つの視点から解説があった。

スティーブン・キング先生の物語の中で

スティーブン・キングの「アウトサイダー」という小説を読んでいたら、

高次=宇宙

と解説されていた。

 

 

”大宇宙こそ偉大な「高次の世界」よ。そして、現世という「低次の世界」にあっても、一握りの砂には砂粒の数を超える宇宙が存在していると信じている。”-書籍「アウトサイダー」より抜粋

 

 

私もほぼ同じようなことを感じたし、この小説の中の人物も似たような感性のようです。

 

磁場は幾つもあるらしい 2

 

そして、私が散々書いてきたことをコレに当てはめると、人間みな高次の存在である。

 

人間みな高次の存在と書く理由

なんかもう、世の中にはそれらしい理屈や、妙な(と私が感じる)ルールをわんさかと創ってデコレーションされた解説があるけれども、当人が感じようが感じまいが私たちの細胞の1つ1つが宇宙、細胞の1つ1つに宇宙があるという東洋思想にのっとるならば。という仮定というか、前提とした場合ではあるんですが。

 

 

多分、よく聞くパターンは、「外」に高次というものを設定しているようだったけど

灯台下暗し、それは個々にすでにある。

同居済みである。生まれた瞬間から今までずっと。

 

なんという素敵な話だろうか。

これらを尊びたい皆様は、もうそれを探す必要も、ナニカと繋がりたいと色んなオプションみたいなことをしなくて良いんだから。

 

コレをすんなり受け止めることができると、シンプル化が一気に進むし。

 

そう、松原先生がFacebookでシェアされていた「太極図は立体球」という記事のリンクをはりましたが、こちらの最後に書かれている東洋思想にのっとるならば、やはり細胞は宇宙。

https://sinsindoo.com/archives/ball.html?fbclid=IwAR1aakTPdMh1RMYrrIzIGQsf4pG8zEloiYj3AMWChrocwx8S92FfBISSWj

 

私たちが生を受けた瞬間から宇宙を内包というか、根本が宇宙ということになり、「高次」を求めたり、つながりを求めてあくせくする必要など一切ない。

 

自分探しと一緒。

 

自分探し

私も自分探しという考えにハマったことがあります。それをやった経験から書くならば、探し始めると見えなくなるという不思議な関係性があるように思う。

それは、自分探しと言いながら、理想通りの自分じゃないことは気に入らない、認めたくないという固い決意が心の奥底にあるという心理的矛盾や心理的逆転が影響していることがあるような気がする。

 

これは受け入れがたい方もいるかもしれませんが、今のあなたが本当のあなた。

過去のあなたも本当のあなた。

未来のあなたも本当のあなた。

人は変わるし、多面的なので、多くの特徴を持っている。

 

こんなのは本当の私じゃない!と思うのならいつでも変われる。

 

高次もそう、自分もそう、探したり求めたりすると見えなくなる。それらは「もう在る」「もう有る」という視点もあるということを頭の片隅に入れておくのもあながち悪くない考えだと思っています。

 

blogを書くネタはたくさんあるので、順に書いていきます。

今日はここまで。

 

おそまつ。

だから それがナニカ? と言われましても

昨日の記事に補足します。

磁場は幾つもあるらしい 2

 

それがナニ?と言われましても

「泡宇宙」再び

前回、細胞全てに宇宙があるような気がした。という話をお友達にしたと書きました。

記事を書いた後、ふと、またフラクタル、相似について気がついた(ような気がする)。

 

それは、泡宇宙と、細胞毎の宇宙の相似です。

TomによるPixabayからの画像

 

こういうことを感じたからと言って、それがどうなるのかもわからないし、そもそも合っているとか間違っているとかもわからない。

しかし、誰もこんなこと言ってない。少なくとも私は聞いたことが無い。

 

がしかし、細胞って泡みたいに重なってるよな~って思った。

 

ヒトは変わる

こういった気づきなのか?気のせいなのか?こじつけなのか? なんともハッキリ書けない内容も、今、生命があると感じている私個人の感覚でしかありませんし、特に他に転用したり流用したりすることでもないのかも知れない。できるのかも知れない。なにもわかりません。

 

私の感性は色々な変容を遂げているような気持になりますが、人生を送っている現実は同じ。

ナニカを知って、ナニカがわかって、人生から脱するような、ゲームで言われる「あがり」は無いと思ってる。

 

間違えた。

私個人は、人生から脱するような、ゲームで言われる「あがり」が無くても全然構わない。

ハナから期待してない。

楽にはなりたいと思ってきたけど、別に人生から脱したいわけじゃない。

いやいや、私は貝になりたいと強烈に願った時があったのを思い出した。www

 

私も色々揺れて、今はそういうことを思わないだけであった。(なんでも忘れちゃうもんですね。)

命の灯が消えたら強制的に今回終わるし。

 

シンプルをおすすめ

バランス調整方法っていろいろありますよね。

それそれの個性や感性にあうものが有ると思いますが、個人的にはシンプル化をお薦めしています。

 

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

こちらにも既に書いていますが、「願いを入れるよりもストレスを抜く」というような引き算方法がシンプル化に近いんじゃないかと今の私は感じている。

 

以前は違ったけれど、いろいろ揺れて、試してみて、現在は「願いを入れるよりもストレスを抜く」というアプローチが結果多くなった。足すより引く。

もちろん相談者さんの相談内容にもよりますが。

 

願いを入れるのは割と簡単かもしれないけれど、ストレスを抜くとなると人間に興味を持っている方の方がカウンセラー、セラピスト、ケアする側として適しているような気もする。しかし、そういうモノサシを私が決める必要なんてない。

組み合わせは無限大だから。

 

キネシオロジーテストについて、ルールを沢山作る方や、カリスマになろうとする方は多いけど、私がお会いしたことのないジョン・シー氏は生前

「腕押しができたら皆キネシオロジストだ」とおっしゃっていたという逸話を聞いたことがある。

 

習った側があとからあとから山ほどルールを創って、キネシオロジストとはこうあるべき。と複雑さを優秀さと何故か変換して厳しく厳しくしていく、習った側が習った側を「認めない」ということもあるようですが、これも揺れの最中の一つの段階なのだろうと思うようになった。

それに、こういった事自体が人間の特性であるという事実を見たら良い。感情はいろんな反応をするかもしれないが、もちろん感情があるのが人間だし。

反応し合って人間社会が成り立っている。

TomによるPixabayからの画像

 

これこそ、泡泡がくっ付いているこの画像のように、人間社会も泡宇宙のごとくだと思えてきた。

これも相似なのだろうか?

 

とまぁ、わかったようなことを書いている私も、いろいろ揺れた結果の「シンプル推奨」なので。

そして、ジョン・シー氏のおっしゃっていることもシンプルだった。多分内容もシンプルだったのだろうと(勝手に)思っている。そして私は、そのシンプルな内容を非常に好んでいます。

 

それがアイテムを使わないストレスケアを好む理由です。

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

 

 

今回の内容を「磁場が幾つもあるらしい」というブログの補足とします。

 

 

また次回、違う内容でお目にかかります。

磁場は幾つもあるらしい 2

本日はこちらの続きです。

磁場は幾つもあるらしい

私がストレスを感じる出来事に「パソコンの動きが遅い」というものが有ります。動きの遅いPCを使うという事はある種我慢を強いられる。残念な事に私のMyPCが前はあんなにサクサク動いていたのに今では旧時代のPC感がすごいです。買い替え検討の1位はマイカーでしたが、PCも同列1位です。随分前に検討していた、PC作業をipadに移行してみようかな。試しに。

 

磁場は幾つもあるらしい

という説

磁場は幾つもある。という説を聞いた。どういうことかと言いますと、脳の磁場と心臓の磁場は違うというようなお話だった。

それぞれに核(?)のようなものが有るから、超簡単に書くと、身体には2大磁場があるというようなイメージなのかな。

別の説

先程の話も、この話も、「説」なのか実際に証明済みなのか不明ですが、以前もブログやホームページのコラムに書いたように、感情にも磁場がある(らしい)。

そして、人間関係、環境も磁場が影響する。

 

磁場だらけである。

その中で、何からも影響を受けずに確固たる「個」を貫く事があるのか?ないのか?出来るのか?できないのか?となると、やはり私たちは揺れているなぁと思った方が辻褄が合いやすいような気がしている。

揺れている、動いていると感じるものは他にもある

髄液

前回、私が施術を行っている最中に「揺れ」(振動という細かいもの)を感じると書きましたが、それは自分の拍動、または施術を受けている方の拍動ではないのか?と思う方もいるかもしれないな~と思ったので、もう少し書いてみます。

そんなこと誰も思っていないかもしれないけど書く。

 

拍動とはまったく振動のリズムも細かさも違うんです。そうだなぁ・・静電気ってどんな感じ?ということを知らないけど、静電気っぽいと書きたくなりました。バチっとくるアレじゃなくて、本当の「静かな電気」って感じ。

 

私が最初にキネシオロジーを学んだ本間先生はLA近辺でナンバーワンの評価を受けているカイロプラクティックのDr.で、とにかく治療する件数が多い。早朝からずっと予約でいっぱい。LA近辺の日本人だけが来院されるのではなくて、人種関係なくそれこそ人間の身体に触れて診てらっしゃる。

10年以上前に本間先生から頭部の回復点に触れてバランス調整をするというスキルを習った時に、「波がある」「拍動とは違うリズム」「ドーン、ドーンという感じ」と解説されたのを今でも鮮明に覚えています。

脳と脊髄が硬膜という袋の中に入っていて、髄液で満たされている。当時は、この髄液の動きを感じているのだろうと勝手にイメージしました。(先生がはっきりとそう解説をしてくださったのかもしれませんが、そこは忘れている。)しかし、本間先生が人間に触れて何を感じられるのか?を当時の(今も)私がそのまんま想像できているとも思えない。髄液以外のナニカを感じていても全然不思議じゃない。

 

そもそも論

そう、私達の心体はいろんなリズムで揺れまくっている。(生きている間は)

 

本当に生きているって奇跡だと思うし、壮大なシステムが働いている。

 

その奇跡と壮大さを忘れたり、気づけなかったりすると、まことしやかな情報や常識というレッテル、比較をしてあれやこれやで悩む。苦しむ。喜ぶ。

私も散々やったし、これからもやるだろう。

そして、それも人生。それが人間。

 

しかし、今回書いているような視点に立つとこれらを「素晴らしい不確実性」とも呼びたい。「人生はギャンブルだ」と人類で最初に言ったのか誰か知らないが、きっとその方はナニカを見通した一瞬があったんじゃないかな。

 

また、「この世は幻」という名言の作者もこの「不確実性」というようなニュアンスを肌で感じたか、視覚で捉えたか、なにかあってもおかしくない。

 

安心したい、安定したい、と望むけれど、そもそもが揺れているし、不確実性の上に成り立っている。と思うと、狭い意味の柔軟性ではなくて、そもそもの意識の持ち方や生き方の設定が180度変わった時に「楽になれる」というケースもあるような気がする。

法則も変わる

前回の記事で、苦労の前払いシステムは全人類に適応されるのか?ということを書いたけれど、そう言えば故・水木しげる氏は「努力は自分を裏切る」ということをおっしゃっていた。「努力は叶う」という金言を肯定されてはいなかった。それは漫画家界で志半ばで去っていく多く(ほとんど)の方を実際に見たからだそうです。(これについても過去数回ブログに書いています)

 

そして、いろいろな法則や教えのようなものを発表されていた故・小林正観さんも他界される前に「私が言っていたことは違っていた」とおっしゃったという情報をどこかで目にした。世の中を牽引したカリスマでしたが。具体的にどの部分を指して「違っていた」とおっしゃったのかまではわかりませんが、私個人は、生前氏の主張されていた「法則」というものに非常に違和感や ??? という考えになったことがあったので、過去、世の中(あるいはスピリチュアル界)を牽引した方々が前言を撤回されても全然ショックは受けない。

カリスマだって揺れるという事ですよね。

長い年月という時間単位の揺れ。その長い年月の揺れを生む「今この瞬間の揺れ」と、その連続によって。

環境が変わって視点が変わるってこともある。過去に3大カリスマについて書いたことがありましたが、その時に既に4大カリスマと書いても良かった。

思考と想念と感覚と実際

 

それを、カリスマたちの間違いとレッテルを貼ることも出来るけれど、ただ単に「揺れ」とすることも出来る。私は個人的に「揺れ」と捉えることにしている。

人生にはいろんな時期があって、いろんなことを信じている時期があって、いろんなことを否定している時期があって、というように。

 

軸足

前回も書いたし、度々書きますが、揺れているのがデフォルトとしても「軸足」みたいなことまで揺れているよりは、大まかにザックリと、ぼんやりと自分の人生の過ごし方をうイメージしていると良いんじゃないか?などと思ったりしている。それは、私個人的には目標設定とは違う。その意味合いは、人生=目標達成というわけじゃないから。

 

しかし、ここがどうやら難しいらしい。

それは「条件」と「自分の軸足」がこちゃまぜになってしまうからのようだ。

ごちゃ混ぜにしてしまう多くのシチュエーションのうちの1つに、「法則」というものも一役買っているケースがあるよね? どう? そういう法則って、唱えている方のハロー効果まで含まれていたりするから厄介をこじらすことがあったりして、こんがらがった紐が益々こんがらがったりして。

 

どうであれ揺れているんだろうけど、そのアレモコレモの揺れ具合が美しい旋律を奏でている時ってあると思うんですよ。今日現在の私の勝手なイメージでは、その美しい旋律を奏でる土台として、その旋律を時々妨害してしまう世の中やそれぞれの脳内の「条件」「条件付け」がなるべく少ない「シンプルな自分」という状態が良いような気がする。

 

時として「愛」という言葉も、シンプルな自分から湧き出る愛ではなくて、なにかしらの条件(や条件付け)として使われているケースもあるような気がする。

 

こういったことも、長い年月かけて揺れて揺れて揺れて、わかってくる場合もあるし、わからない場合もあるだろうけど、それも個々の人生の「軸足」にかかってくるのかもしれない。

私自身もこの先のことは不確実でしかないけれど、今日現在は生きていて嬉しいし、生まれてきて幸せ。

ようやく「お友達との会話」について書きます

腰を抜かすほどではないが、ここからが本題で今までは助走であったことに驚く方がいるだろうか? 毎度すみません。

 

これも科学?

歪んでいるのは次元? 空間?

上のブログで「お腹の宇宙」について書きました。

 

そしてそれが「泡宇宙」にひょっとして繋がった(発想が。という意味)??? となりました。

こんな話をアレグリアの開場を待っていた時にお友達に話をしていたんですが、実はお友達に会う前にブログに書いた感覚に加わったイメージがあったのでそれも話したんですよ、お友達の彼女に。

 

いやもう、こんなこと書いたら、益々(ヤバイ! このヒト いっちゃんてんな~)と思われるであろうことを覚悟して書きますが、言い訳としては ただの脳内に沸いたイメージなんで そこんとこヨロシク です。

 

細胞の1つ1つに銀河がある

私の場合はお腹にも脳内にも、他にも宇宙というか銀河みたいなものがイメージできるのですが、(ということはどこにでもあるってことだな~)って思ったら、ふと

あ! 細胞1つ1つにも宇宙ってあるじゃん

と思ったんだよね。 という話をしたんです。(2大磁場とはまた毛色の違う話になってますが。)

 

そう、これが当初の「今回のブログの結論は、お友達と会話したことです」という結論のはずでした。

 

が、今回の文章をここまで書いてきて、またまた ふと 思ったんです。

 

細胞の1つ1つに宇宙があって、それで構成されている人体は確かに「あってないようなモノ」なんだなって。

あらまぁ トンデモナイことに気がついちゃった。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

 

これまで、言葉では色んな表現で聞いてきたようなトンデモナイことが、自分の感覚と独自のルートでなんだか理解できるような気がしちゃった。

 

あらまぁ

 

私はとりたてて興味がないのですが、「真理」を知りたい方々はこういったことが興味の対象なのかしら? もっと他の何かなのかしら?

真理を知ったら(触れたら)世界が変わる(変わって見える)と信じて追及されたりするのかしら?

 

私が体験(と書いて良いのかわかりませんが)した限りでは、特に生活は変わらないっす。ザ・人間のままですし。ザ・人間で良いですし。

知識欲というか、研究者欲としては1つの新しい感覚体験として有り難いですし、この僥倖に感謝してもしきれませんが、今まで通り ザ・人間です。

 

私はそれで良い。今幸せ。

みんな一緒

これは以前も書いたように皆一緒というか、誰でもある。単なる、気がつくか?気がつかないか?の違いだけなはずですが、カリスマでもないから有難みは特にありませんが、こんな風に文章に起こしてシェアするという一個人としてできることをしています。

 

この記事を書きあげた今日は、天気が良く、湿度も低めで風が爽やかで、とっても心地よくて気分が良い。生きていて嬉しい。

真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をする前も生きていて嬉しかった。真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をした(?)今も生まれてきた喜びは変わらない。

ただ、ありがたいです。

 

みなさまにも、喜びがありますように(^^)

自然に笑顔になってしまうような出会いがありますように(^^)

磁場は幾つもあるらしい

同じタイトルで結構な量を書いた下書きが他にあるのですが、どうも横道のそれ具合がよろしく無くて、まとまらなくなりました。折角書いたけど、まとまらない文章を眺めていると筆がますます乗らないので新しく書き直します。

 

先日上京し、シルクドソレイユの「アレグリア」を鑑賞し、自分のメンテナンス目的に治療、施術を受けていますが、お友達と食事をとったり、お茶したり、待ち時間を利用してユンタクした際に話したこと。二人の会話の一部が本日の結論になります。

しばしお付き合い下さい。

 

磁場は幾つもあるらしい

磁場の捉え方

波動ではなくて、「揺れ」と言いたい感覚について

言葉は1つでもそれに紐づいている印象やイメージは個々により多岐にわたります。

波動という言葉がしっくりくる方もいるし、私のように波動という言葉がどうもしっくりこないタイプもおりますが、とどのつまり、言いたい事や捉え方はほぼほぼ似ていたりすることもある。

本当に言葉って難しい。面白いけど難しい。

私も以前、

” 感情も細胞も、私達人間はいろいろ揺れている ”

と書きました。

この揺れているモノの中には、来るべき未来というようなことも含まれているし、過ぎたる過去なども含まれている。生きているとは揺れているような意味合いがあると書いたことがありますが、これは =(イコール)「波動」では無いんですね。私の中では。

施術中に「揺れ」「振動」を感じるから

1つは、施術中に(この揺れは相談者の細胞が揺れているのか? 私の細胞の揺れなのか? 電気信号を揺れと感じているのか? それとも全く違うナニカなのか?)と思う感覚があって、実際に「人間は揺れている」(理由は特定しないけど)と思っている私がいる。

昔のブログでもご紹介しましたが、施術を受けておられる最中のご本人も「細胞の揺れ」と感じる方もいらっしゃった。

体感覚とは別の「揺れ」

またこれとは別に私が意味したいところは、生命に伴っている「不確実性」というようなニュアンスなんですよ。

揺れている = それは波でしょ? 波動でしょ?  という事では無くて。

揺れている ということをすぐさま「波」とは脳内変換するつもりがない。というニュアンスです。

 

そしてあくまでも個人的な好みとして、「波動」という表現をほぼ使わない。が、そこに電気信号が加わった「生体電気の反応(揺れ)」「磁場」というようなことは非常に私の感性や皮膚感覚にフィットするという個人のこだわりみたいなことってあるんですよね。

 

と、ここまで書いて、ふと気がついたのは、なぜ「電気」を帯びている状況を表す言葉がフィットするのか? 感性や皮膚感覚にフィットするのか? の1つの原因について。

私が「生きている」から?

ただの気のせい。とか、ただのこだわり。ということも十分理由になるし、原因だったりすることも踏まえたうえですが、この辺りの「感覚」「感じ方」というものの私なりの探求心に潜っていくと、その電気を帯びているとしっくりくるという理由のようなモノは、私が今生きているからかな?などと考えてみた。

生きているこの私が電気を帯びているから。

その私の感性には、同じようなものがエッセンスとして抽出されてくることもあるし、違和感をかんじるものとして抽出されてくることもあるというようなイメージです。

プラス、マイナス、中性があるように。(中性という言葉を使うのなら、電気ではなくてイオンと書くのが正しいのかどうかもあやふやです。(T_T) )

同じ波動のモノ(だけ)を引き寄せるというような論理展開とはこの辺りがちょっと異なるのかもしれません。引き寄せるというよりも、「感じる」「反応する」「反応しない」ということを主に置いていると書くと良いのかな?

・・・難しいですね。上手く書けませんので、今後の私の成長に期待しましょう。

 

とんでもない、ブラックボックス案件になりませんように

と、ここまで書いてきて、以前のブログに書いた「潜在意識界の常識 パンドラの箱オープン案件か?」というようなことも本日やらかしちゃうような予感がしてきた。

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

治療体験記 後日編-3 顕在意識について

 

気が小さいので最初にお詫び

私はこの文字を何百回書いただろうか? そして今日も書く。

私は世の中のいろいろな現象や常識や刷り込みについて、一人でコツコツと考えている癖がある。

そして私には私の過程があり、違うと思ってみたり、いや間違ってもいないんだな。と思ってみたりと、それこそ揺れながらなんとなく自分の落としどころに諸事を納めていっているような気もするし、納める必要などなかったと気がつくこともあったりと様々です。

 

これから書くことは、そんな私の思考の過程の話です。

結果では無いし、結果など出す気もそもそもない。

そうですね、「常識」だと思われていることの、「その枠の外」について可能性を考えるのが好きな人が書いている個人の意見ですから、そこのところ宜しくお願いいたします。

 

人間と機械の違い

当初、磁場に関するブログを書こうと思っていて、助走を書いていたら、いきなり曲がり角から想定外のものが登場した。

なぜ、私個人が「そもそも波動(という表現)に興味が無い。」と感じるのか? を改めて考えてみた。

好き嫌いはあっても、その理由は考えてなかったけれども、そう言えばなんで? と自分に問うてみた。

  1. 機械で測定&数値化に興味が無い
  2. 波動という言葉が、引き寄せもそうなんだけど、幸福になるための条件みたいに使われているように感じるから

1.数値化

「パワーか、フォースか」という書籍がある。キネシオロジーテストというスキルを知ったのちその存在を知り読んだ。今も手元にあると思うが、もう随分読んでない。手元に無くて処分してしまっていても不思議じゃない。

数値化とは、人間が理解しやすい有効な手段という事は知っている。それが使われて文明の利器は発達して、私の生活もお陰様で便利だし。

数値が良くなりました。ということが人間の回復を後押しする作用も知っているつもりだ。機械で数値化せずとも、キネシオロジーテストによって人間が数値を計るってことだって当たり前に行われている。

 

ただ、人生は数値だけじゃない。数値に支配されるものでも無い。数値の扱い方や適用部所にもいろんな意味があるよね?って思ったりすると、初めて「パワーか、フォースか」を読んだ時の心情と今現在の心情は少々違っている。

私自身も変化したせいで、感性も変化したみたい。

 

  • 機械で測定する数値って 結局ナニ?
  • いろんな電気状態の測定者がいるであろう、その測定者が計る数値って 結局ナニ?

みたいな、まぁ簡単に言うと、中二病と言われるような視点なのかもしれないですね。

 

ですから、あくまでも私の生きながら考えている「2023年6月19日現在」の過程の話なんですよ。

しかし、なんとなく、そもそもの設定説明や刷り込みの枠からヒョイっと出ると、こういった疑問はブラックボックス案件っぽいような気もするし、パンドラの箱案件のような気もする。

 

が、しかし、私も私の信じているような道があるように、皆様は皆様の信じている道をこれまで通りお進み頂きたい。

私は決して「考えを変えて!」と言いたいわけじゃなくて、自分がふと感じていることを呟きたいだけなんです。

 

キネシオロジーテストのON、OFFにだって同じような視点を持つこともできる。ということを頭の片隅に入れておくことも大切だと私個人は思っている。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

2.目的が変わっちゃって

間違った事は言ってないんだろうと思っていますが、引き寄せと波動の関係というか、含み方のようなものになにか違和感を感じるんだよな~ と自分の違和感を深堀してみた。

多分、幸せになるために修行思想。みたいなものと似たニュアンスを感じているんだろうな。

人生の過ごし方や、幸せの価値観はヒトそれぞれですから、修行がお好きならしたら良いんだけど(っていうか、わざわざ修行の現実を自ら創りださなくてもただ生きているだけで好むと好まざると修行みたいな出来事ってあるような気がします)、私が言いたいのは、「修行しないと幸せになれない」というような無意識の刷り込みのことです。

なかなか気がつけない「条件付け」ってありますよ。

 

苦労の前払いみたいな感覚? 前払いシステムは万人のどのような状況にも公平に適用されますか?

 

どんな生き方が正しいとか、良いとか、わかりませんが、「どう生きたいのか?」という軸足みたいなことが、修行という言葉や、波動といういような言葉で煙に巻かれてしまうようなことがないですか? ということが書きたいのですが、どうでしょうか?書けてますか?

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

結局、当初書こうとしていたことは次回以降へ

冒頭に書いた、まとまらなくなった下書きよりはなんとか形になったものの、書きたいことへ到達する前に今回は一旦〆ます。

 

友達との会話にあったという書く予定だった結論にも今回の記事は触れずに終わりました。

 

違う事ばかり書いていて、当初の予定の着地点を忘れてしまわないか心配になりますわ。w

 

ではまた次回 お目にかかります。

現実に、目視できる体の変化

体表だから思いっきり目視できる変化

傍からは目視出来ない変化については既に書きました

私がどんなにその感覚を書こうとも、傍からは確認できない変化って多岐にわたりますが、その内の1つについて書いた記事が ↓ です。

ひょっとして!? ついに? 祝?

 

本日は明らかな変化について書きます

その前にいきなり得意な横道へ入る

上の症例(というのか)については、東京で治療を受けたことと関係が有るとも無いとも言い切れないのですが、「言いきれない=証明できない」のは確かなのですが、でも関係がないとも言い切れない。

本題に入る前に私の治療や施術についての私見の理解について書きたい。

 

全ては連結・関係している。というようなモノの見方しています。

 

どういうことかと言いますと、治療や施術をする側も、受ける側も自分が好ましい関連付けもしますでしょ? Aさんが気に入ったなら「良くなったのはAさんが原因だ」と思うのが人情だろうし、Bさんがどんな理由があるにせよ気に入らないのなら「良くなったことにBさんは関係ない」と思いたくなるのも人情。(認めて欲しい側の話としても文章を変えてみてください)

それはAさんは認めても良いけど、Bさんは認めないぞ!と頑張っちゃったりするのもヒトの心だったりするからだ。Aさんに影響をうけたことは受け入れやすいけど、Bさんに恩恵を被ったと思うのはプライドが許さないとか。まぁヒトっていろいろ考えるわけですよ。

Bさんへの「認めないぞ」心は、そういったことが自分にはあると自覚できた方が客観力はあるでしょうが、たいていはその「認めないぞ!」ということが格好悪い(そこもプライドが許さないという二重奏、三重奏だったりする)と思ったりして、本心を隠蔽したり、感じないようにしたりするのもヒトたるゆえんだろう。

愛すべき「ヒトの特徴」って沢山ある。

 

しかし、私の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアを仕事にする前の会社員時代、「嫌という程先輩Cさんの不満を耳にして、うつりたくない口癖が自分の脳に染みわたった」独特の違和感が(たぶん)ようやく解消されたのは、AもBも関係している。それは違和感の解消にも違和感の発生にも結局Cさんが関係しているようなことと似ている。

そうか、こんな時に最適な諺がありましたね、「風が吹けば桶屋が儲かる」という。

大きな話だと、「輪廻転生」みたいな考え方にもなりますか?

 

生命が続いている限り、全ては関連している。と書くとわかりづらいが、生きている限りなにかしらが関わり合って連続している。AもBもCもその連続性の中に含まれている。言葉を変えると、AもBもCも私の人生に含まれている。

イヤだろうが、認めたくなかろうが、嫌いだろうが、悲しかろうが、腹が立とうが、強烈に愛していようが。

 

だから、「ナニカ=ナニカ」「原因を1つに特定=結果を1つに特定」ということはできないと思っています。良いことも悪いことも。

 

このように、私は結構この辺りが厳しめというか、研究者みたいな気分になるとそう簡単に「原因を1つに特定=結果を1つに特定」とはしない傾向にあります。

 

話を少しずつ戻すと、それは治療や施術を受けることだけじゃなくて、心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアをする側としても。今は「治癒は本人のタイミングで治癒する」ということをしみじみと感じているので、「治癒には私にチカラが云々」みたいな顕示欲やそれこそ承認欲求もなりを潜めている。

私などは、他人様の人生劇場に一瞬通りかかるだけだったりする。時には他人様の人生劇場にしばらく登場人物として名前まで頂戴して関わることもあるが、それでもいつかは出番が終わって退場する。他人様の人生劇場に足跡を残したいという欲求とは、記憶に残りたいという欲求と似ているのかも知れないが、今は別にその辺りにたいした情熱は無い。だって決めるのは他人様だから。

 

ただ、しかし、治療や施術を受けている最中の体感、感覚が在るものに関してのそれらは、ちゃんと認識したいと思っている。好きだろうが嫌いだろうが、それはそれ。

私の脳の傾向として感情で感覚を抑え込むような事が難しいだけなんだけど。イメージは、感情はちゃんと強くあるんだけど、感覚がそれと同等、もしくはそれ以上に強いのかもなどと今書いていて思った。そのせめぎ合いがあったとしても、それをまた感じるという結構面倒な時もある。

 

こう思いながらも、目に見えている「これは治療を受けた後に変わったのでは?」箇所

という、原因と結果というような答えを、自分で「そう言う事にしておこう」以外には、そう簡単には言い切れないながらも、これらは治療を受けた影響ではなかろうか?と思った事を書きます。

沖縄に戻ってから、試験的にマグネシウムの吸収を増加させるようなことをやり始めましたので、単純に東京へ行く前と帰った後の比較する事ができませんが、それらを含めたうえで書いていきます。

Esi GrünhagenによるPixabayからの画像

1つ目

これも「1つの原因に1つの結果」にはならないのですが、しかし治療の影響かな?と思ったのは踵です(踵は足にしかありません)。踵がカサついていたんですね。

冬が終わって、暖かくなるにつれ自然にそのカサつきは変化したのかもしれないけれど、が、しかし、今はツルっととは言わないまでも、(カサついてる)というように気になることが無くなりました。

その変化に オッ! と思いまして、ブログに書いて記録したくなりました。

2つ目

それは、ある日 アレ??!! と気がついたのですが、右足の薬指の爪、この1枚の爪だけが色がどんよりしていた。この指に重いものでも落として、爪が変色したの? と思ったくらいです。

重いものを落としても気がつかないほど夢中でナニカをしていたのかな?って。

 

でも爪って伸びるし、剥がれそうなわけでもないし まぁいいか。と放置していた。

 

それが、東京から戻ってふと見たら、健康的な他の指と同じ色の爪が根元から生えており、変色した爪は爪を切るタイミングでどんどん減っている最中です。

 

原因を推測するといろいろ考えられるでしょうが、それはしないでおきます。(ナンデ?)

 

足?!

他にも自覚できない心体内外の変化はあるのかもしれませんが、今回気がついた2つに関しては「足」ですね。

 

なんにせよ有り難い変化でしたし、有り難い変化の中には「最近治療を受けた」という事実が含まれていることは確かですものね。

 

今日も、ありがたい、ありがたい。と思いながら過ごした時間がありました。

ありがたいです。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 

あなたにも、皆様にも、朗らかな時間がありますように。

ありがたく感じる時間がありますように!

ひょっとして!? ついに? 祝?

気になる「原始反射もどき」がついに?!

ついにその時が来たか?

何度も書きますが、私はあきらめの早いことが多い(みたい)。

しかし、自分のストレスを減らしたい探求心のようなものは非常にしつこい。ある意味情熱的である。

だから、人生はいろいろだと思い、人生の時間の使い方や進み方はヒトそれぞれだと思いながらも、でもやっぱり自分の価値感にこだわっていた時は、「癒し」とか、それらしく聞こえるスピ系解説とか、(ひねくれた私には妙に感じてしまう)儀式系をして、でもストレスケアは進んでいないように感じる風景をみると、そんなの本当にヒトの好き好きなのに(本当にラクになりたいのかな? 真剣に取り組んだらもっと早く楽になるのに。人生変わるのに。)などと本当に余計なお世話に思う事もあった。(本当に。って書き過ぎ)

要するに私はバカだった。今もそうだけど。

 

私は人生も楽になると良いなぁと思って、研究者のようにストレスケアをやったが、それはこういったストレスケアに非常に適性があっただけの話だと理解できるようになった。

誰しもができるわけじゃない。それは執着のありどころが違うから。

私はたまたま、自分の執着発動ポイントをフル活用していたら人生楽になっただけだった。(笑)

興味の持つところが、たまたま自分に恩恵として大きくてラッキーとして働いた。

 

そして、それは、相も変わらず興味深い研究として引き続き作用している。

だから、もう、今日を境に、ストレスケアは仕事にしていようがいまいが、私の天職というか、飽きずに興味を持てる時点で才能だと認識する事にした。たまたまこの才能を心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアで相談者さんや受講生さんにシェアというか、ご提供できるのならとても嬉しいと思っています。

 

そういう意味では、ある意味独自路線も自然に探求しているということに繋がっている。習う、教えに従うというスタイルと、研究していくというスタイルだと向き合い方が違ったりするんだろうか?

 

だから、私はキネシオロジーに出会って、それしかしない時期も経て、今ではキネシオロジーテクニックを使わないストレスケアも増え、というか、キネシオロジーテクニックを使わないストレスケアが今では多いのかもしれないが、今日現在は非常に良い感じに仕上がっている。

有り難い限りです。

いつも素直に「ありがたい」って思ってる。

 

振り返ってみると、好きだからやっているので、頑張った感はないが距離は稼いだ感じがして、追い風に恵まれた帆船な気分だ。

Manfred ReinertによるPixabayからの画像

 

そして、前書きが長くなったが、過去のブログで経過をご報告していた「絶対にうつりたくない口癖」がついに我が身から消えたような気がするので、私のMyストレスケアアプローチについてご報告したい。

そう! 舌とか、口の辺りによぎっていた 磁場?磁力?みたいなものについて

肉体の記憶

 

” 神経だけを取り上げて、神経に(細胞の)記憶のようなものがあると仮定すると、神経は「通り道」の役割だけじゃないなぁと思えた。神経細胞自体の「記憶」みたいなこととも感じたし、「舌」という部位がストレスケアでのバランス調整から若干取り残されていたような体感も興味深かった。

それ自体(部位と表現して合っていますか?)が記憶に反応していて、脳側だけをストレスケア(バランス調整)するだけでは届かない分野があると頭の中に置いておくだけで、また一歩ストレスケア(バランス調整・セラピー・ケア)が進むかもしれませんね。 ”

 

肉体の記憶 その後の変化について

上の記事には、

” 私の頭に浮かんだのは、「磁場?」というもの。

 

肉体の神経だけが反応しているのなら、「舌」から離れたらもう感じないという可能性が考えられるのに、身体から離れてると感じるこの感覚がオモロイ。

 

よく「オーラ」とかって言うじゃないです。

エーテル体とか、アストラル体という定義もありますし。 ”

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

 

と書いた後の話を今日は書きたい。

 

何かが作用したのか? 総合作用か?

特定はできないけど

上でシェアした記事を書いた後に治療を受けました。が、これについては気になるトピックに取り上げなかった。治療を受ける前にすでにストレスも全くもって薄くなってきたから まぁ そのうち消えるかも? どうかな? という経過観察中でしたし、そもそも忘れていたけれども、もし思い出しても、これをトピックにして限られた治療時間が減るのは勿体ないとすら強欲な私は思っていた気がする。

で、東京から沖縄に戻っても、まだ「ヤツ」の気配がフワッと漂った時があって、(あぁ まだ消えてないな)と思った。

 

である日、家で、「くいしばりのケア」をする解説をされている動画を見た時に、私の「もう脳というより口周辺、舌、口腔の肉体の電気?神経?磁場?の残留ストレス(記憶)だろう」と感じるストレスに使えるかも!と早速やってみた。

 

なぜこれが「使えるかも!」と思ったのかというと、私が共振して「絶対にうつりたくない口癖」を身に着けてしまったその方の顔を思い出すと、「顎」辺りが印象に残っていたんですよ。

多分当時、(いろいろ我慢してるんだな~。不満が多いんだな~)という雰囲気をあの方の顎の「あの感じ」からも感じていたのを思い出したというか、再確認したんですよね。

 

動画では解説されていないことも、欲が深い私は、じゃあ、顔の下半身(と言ったりしますよね。(笑))の記憶ってことなら、具体的に口腔に接している辺りをくまなくケアしてみるか! あれこれ(こんなことも)やっておこっと♪ と勝手にバリエーションを増やしてやってみた。

Sayaka PhotosによるPixabayからの画像

 

そのため(ストレスケア。または、その興味深い研究のためなら!)と、絶対にうつりたくない口癖を何度も脳内で呟いて、肉体にその記憶をよみがえらせて、動画の中の先生はそんなことやれって一言も行ってない事も、

  • あ! これはどうかな?
  • そうだ! これも加えておこう!

と、執着研究心丸出しで、すっかりイケイケな感じで試してみた。

 

2~3回やりました。1回は多分3分以内だったと思う。

しつこいことが良かった

いつまでこの、「絶対にうつりたくない口癖」のストレスケアをやっとんねん。

しつこい!(笑)

 

そう! こういったことはあきらめない。

というより、身体が感知してしまうので忘れられない。だからやる。

 

その結果・・・ ヤツは消えた!? 多分。

散々ストレスケアを行って、どんどん薄らいでいって、ついに最後のダメ押しが出来たか?!

 

 

また1つ、人生が楽になった。祝

NickによるPixabayからの画像

 

なにも使わない

私の個人的な主流として、ストレスケアにアイテムを使わないです。

  • アロマも使わない。
  • 音叉も使わない。
  • レメディも使わない。
  • カードも使わない。
  • 道具じゃないけど、アファメーションも使わない。

ほかにもいろいろあるでしょうが、それらは使わない。もう数年ずっとこんな感じ。

 

今回記事に書いたストレスケアについては、キネシオロジーテクニックを使わないストレスケアなので、ONとかOFFとかもとらない。

 

使ったのは自分の手。

ストレスケアの完了度合いというか、残穢感というか、残渣感というか、違和感というか、そういったものはONとかOFFで確認するのではなくて、感覚や肉体をジッ----------と自己観察して確認しました。

John HainによるPixabayからの画像

 

多分・・・多分ですがヤツは消えた(と思う)。

 

もしまたひょっこり出てきたら、また今回行ったセルフストレスケアをやってみます。

あなたも一緒にいかがですか?

私のように、人生楽になるのをしつこく追及したい方におススメしているセルフケアの1つの方法です。簡単です。

↓ ↓ ↓ ↓

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

前回の記事の補足 お好みの人生について

私が天才なら書きたいことを一発、一回で書ききれるのでしょうが、今日現在は天才からは程遠い為今回のように補足記事をせっせと書く事になりました。いつも通りと言わざる負えませんが。

 

こちらの記事の内容について補足します。

これも科学?

 

お好みの宇宙

何を創り出したってお好みだ

 

” これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。 ”

 

と書いたのですが、これは書き方が違っていた。

 

それぞれの人生は、お好み。

 

得意な方は意識をちょっとイジッてホログラムのような映像を創り出すことなんて朝飯前。これが出来るから意識でチョチョチョイッと現実化するぜ! ということがお好みなら、他の誰が何を言おうと「そうしたい」からする。

ramazan balayevによるPixabayからの画像

 

身体に悪いとか、メンタルに悪いとか、そういう情報を見聞きしていてもそうしたければする。

私だってそうだ。今は(あれは間違ってたな)という考え方や行動も当時は「良し」と思っていたであろう、いや、信じていたであろうし、それが「流された、流れちゃった」と思うようなことも、その時はその選択しかできなかった。

 

私個人的には、それらも時々見直したりして行動修正や行動変容することもあるし、身体やメンタルが自然発生的に従来の習慣から離れて行くこともある。

若い頃吸っていたタバコも、すぅーーーーっと苦しまずに離れられたし(ラッキー)、成長期に水のようにガブガブ飲んでいた牛乳も、今となってはカフェオレに少し入れるだけになり、昔は買う気にもならなかった小さな牛乳をたまに買えば事足りている。牛乳だけを飲むなんてことはもう何年もない。この変化に自分が驚いている。

 

今は今。

未来はわからないってことです。

 

悲しいお知らせかもしれませんが

お腹の宇宙の話を書きましたが、今から書くことは読む方によっては非常に悲しいお知らせになる可能性があるので、不快な事からは遠ざかりたい方はもう読まないでいただきたい。と念を押します。

日常生活は続く

それは、お腹に宇宙があっても、お腹に宇宙が観えても、独特の安心感を得ても、

社会に生きているのなら、それはそれなりのストレスもあるし、嫌な人や嫌いな人や不本意だと感じる出来事はあるし、お腹に宇宙があっても、別に世俗から抜けられるわけじゃない。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

 

お腹に宇宙があるということは、シュレーディンガーの猫のごとく意識したときに「現れる」というような感じだし、以前も書いたのですが、悟りって「一瞬」「その瞬間」の出来事であって永続的な事じゃないような気がするというのと同じです。

 

目的じゃない。

これらは私の人生の目的にするものではない。じゃあ手段か?と問われるとそれも違うような気がするから、言葉を探してみたところ、ピッタリきたのは「ただの事象」でした。

意味づけに価値を重く置かなければ、こんな言葉が頭に浮かんだ。

 

少なくとも私にはお腹の宇宙が観たいという意図などなかったし、それにむけて努力したとか行動したとかないんで、偶然現れるモノ(コト)であろうと分類しています。

それを知ろうとやけに調べたり、修行?するという執着があればあるほど遠ざかる類の「偶然現れるモノ(コト)」。そうですね、陰陽論的な「平」、ゼロポイントみたいな状態で「偶然現れるモノ(コト)」「感じるような事」かも知れない。

 

こんなことも過去のコラムに書きましたっけね。

コラム集

 

振り子みたいなイメージ?

私達は固定の状態で生きておらず、揺れている。

感情も揺らげば、ホルモンも揺らげば、内臓も揺らいでいる。

生きていれば生きているという(生体)電気を帯びている。電気を帯びているから揺れている?

 

数えきれないそれらが共振しあうのか何なのか理由は分かりませんが、揺れみたいなものが一瞬「平」「ゼロ」みたいになった時に、

あの白い世界(過去のコラムにも書いた、相談者さんや受講生さんが脳内で見た独特の風景があり、人は違うのに風景はたぶん同じな、「これは悟りなの?(正解は不明)」という感覚があるのですが、それがそうです。映画「マトリックス」にも白い世界が出てきますよね。白い世界に自分で全て(まずはソファーでしたか?)を生み出していくという世界が。あれと一緒なのかどうかも不明。映画を創った方と話さない限り確認できないから)へ瞬間移動みたいなことをする。

私はリアルマスターヨーダの大竹お父さんに、次にお会いした時に「あの白い世界は一体なんですか?」と質問したいと思いつつもう3年?経ちました。多分リアルマスターヨーダはご存じのはずで、今思えばそれっぽい発言をされていたような覚えがあるんですが、肝心の私がぼんやりしているもんだから未だにハッキリしないままフワッと脳内に滞在しております。

 

相談者さんも受講生さんも私も、誰もこんなことを予定していないし、願っていないし、想定していないから、なにか条件が揃うと(かどうかも全てが不明ですが)「偶然現れるモノ(コト)」「感じるような事」なんですよね。

しかし、その後も皆普通に生活している。

色んなことがあって、体験して、考えて、いろいろやってる。

だから別に、少々のことがあったって「抜けない」。

こじらす(これも好きずき。お好みです)ことはあっても、抜けちゃって俗世を離脱した方はいない。

 

一瞬の体験・感覚でしかない。

 

ただ、それらが、人生に影響を与えることはあると思う。それがご本人の生きやすい人生の追い風や支えになったらそれはそれでステキなだぁと思っています。

私も滑ったり転んだり笑ったりしながら生活しておりますが、いつもお腹に宇宙があるということは何とも言えない有り難い感覚です。生きている間にこんなことがあるなんて!という体験はお陰様で多いのですが、このお腹の宇宙もホント有り難い。感謝×1000000乗です。

運が良かったと感謝しています。

 

それとはまた別に、日常生活の「イライラすること」はあるわけです。

しかし、もう本当に生き易くなったし、イライラすることも今日現在はとっても少ない。無い訳じゃない。が、これまでの人生の中で、この状態でイライラするなんて言うのもちゃんちゃらおかしい程度ではありますが、自分に素直になった時に、やっぱり「イヤダ」「嫌い」「イライラする」時間はある。それで良いと思っています。

 

私は「人生生き易くなるといいな」「楽になりたい」と長年思ってきましたが、すっかりその状態になっておりますので大満足です。完璧になろうなどと思っておりませんし、「イヤダ」「嫌い」「イライラする」時間があることで、その他の幸せtimeがより一層輝いて、有り難くて、幸せ感に浸っております。

このささやかな「イヤダ」「嫌い」「イライラする」が無い時間の有り難いことったら! なんて快適なんでしょう! と昨日も満喫して感動していました。

 

スイカに塩をかけて甘味を増す。みたく、幸せ感が増す。どんどん増す。

嫌なことなどゼロになればいいのに。と思うものの、幸せに有り難いと思う気持ちはほんのちょっとの「イヤダ」「嫌い」「イライラする」によって深みが増すということを今この文章を書いていて過去一理解できた気がする。

知識では無くて。

知識で、無理にそう感じようとしている時と、腑に落ちる、体感する事の驚愕の違い。

だったら、ほんのちょっとの「イヤダ」「嫌い」「イライラする」がどんどん我が身に起こったって、それによって私の「幸せ!」「マジ サイコー」みたいな感覚がどんどん増幅されていくんだから嫌がる理由もないし、かえって「ラッキー!」みたいなことになりますね。

幸せ感増幅time

そう、いつからか、それまでの感覚が切り替わって、幸せ感増幅timeに入ったんですよね。

陰極まれば陽みたいに。

自分のストレスケアはずーーーーっとやってきたから、それは土台にはあるものの、それに加わった要素としていろいろあるのでしょうが、自分で印象に残っているのは「恐怖をブレイクスルーする」とやり方もわからないけどちょっとやってみるか。と思ったというか、トライアルを決めたというか。(試験的にやってみたよな~)

 

これもコラムにも書いたのですが、じゃあ具体的になにをやったのか?は覚えてないんですよ。

なんでもノートに書いているから、その当時のなんでも帳を読み返したらなにをやったのか書いてあるだろうけど、なんでも帳って処分してもまだたくさん残っているので探す気力がない。

それは私の本当に性分なんですけど「過去のことだから」熱量がわかない類のことです。

 

執着が・・・薄くて・・・モノによっては執着もあるのですが・・・

まだこれらのノートを残している(見返さないけど)ということが私の執着の表れでしょうね。(^^)

コンマリさんなら瞬殺でゴミ箱案件です。

 

最後に

言いたいことが上手に書けているのかわかりませんが、補足。訂正は早めにした方が良いと思って記事をアップします。

 

好きな人生を生きていきましょう。

自分が選んでいるんだ。ということも人生多いです。

 

失敗したって、後々幸せ感を感じられたら良い思い出、体験です。

後悔したって、それが禍を転じて福と為したら話のネタになる。

 

自分の人生を創造する。

私の好きな考え方です。

 

歪んでいるのは次元? 空間?

前回のブログの続きです。

内容はほんのちょっぴりです。

これも科学?

 

歪まないと成り立たない

それはどこ?

前回、

” ただ、もし私個人が「ウエ」と繋がろうとしたら、それは自分のお腹の中だということになるわけで、フワフワしようがない。だってどこまで行っても自分の中だから。みたいな感じ。 ”

と書きました。

 

私の知識不足で申し訳ないのですが、仮に話題にしたい空間を「宇宙」として話を進めます。

私はお腹の中の宇宙作用?で、陰陽が立体だという言葉が腑に落ちる体験をした。

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

このヒト いっちゃんてんな~ という憐みの目を覚悟で書くと、

この立体の陰陽図の中を移動したような感覚(脳内映像)があったんですね。

 

というか、正確に書くと、私が体感したことを世田谷・三千堂治療院の院長こと、私が勝手にリアルマスターヨーダと書かせていただいている大竹お父さんに話したら、「それは陰陽の理に叶ってる。それは(立体の陰陽図で解説してくださったのですが)この中を移動したようなことになるね」と教えて頂いたことなのです。

 

私はこういった寸尺が全く合わないことを、いとも簡単に受け入れることも得意でして、

  • お腹の中の宇宙
  • 平面図形での立体陰陽図の解説 はたまたその空間の中の移動
  • はたまた脳内の泡宇宙(と暫定的に仮定してみます)

が、笑えるほどに寸尺どころか、次元も時空も見事にゆがんどんな~ と思いながら脳内にはなんら支障なく収まっています。

 

しかし、お腹の宇宙が見事に(仮定ではあるものの)脳内の泡宇宙に繋がったわけで、こんなの次元だか時空だか、宇宙だかに規則が無い(フリースタイルじゃないと)と成り立たない。(笑)

 

Alexander AntropovによるPixabayからの画像

 

私は別にこれに法則も要らないし、理論もさして必要としていませんが、理由が欲しくなるのが人間の特性なんだという過去に私も書いた説を他人が解説しているのを見た。

 

理由がある。と習ってきたから

  • 因果律
  • 規則性(フラクタルももちろん含めて)
  • 法則

をヒトは信じたかるそうだ。そうだろう。私もそう思ったからブログに書いたし。

 

これらは良い悪いとかの話ではなくて、人間が生まれて育つ過程で身に着けてくる。

いわゆる「常識」みたいなことにこういったものを含んで解説されていた。だから常識を捨てられると今は見えないものが見えてくるそうだ。

 

という話を聞いた時に、私が既に書いた「入れるんじゃなくて抜く」という話と一緒の話をしているな~と思った。

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

 

視点のありか

今日はもうこれ以上長く書かずに、あっさりと〆ますが、この話を要約すると、以前のブログでも書いたけれど、視点のありかの話だろうと思った。

 

私が無限大入れ子の箱方式とかマトリョーシカ方式とか、世の中にあるフラクタル立体図形(事象)と感じるものは、意識して探してない。そうじゃなくて、相似事象が風景の中から浮き上がって見えてくる感じ。

というとなんだかカッコいいけど、そんなにドラマチックというわけでも無くて結構地味で、似たものがシナプスみたく手を繋ぐからエッセンスを抽出できる感じ。

 

どうやらこれを量子の特性で解説できるようだけど、今の私には書けません。

 

というところでハッキリした結論とか無いんだけど、補足記事を書きました。

 

またね(^^)

 

 

 

これも科学?

お腹の宇宙

有り難いことの1つでもシェアしておこう

松下幸之助氏

” 3月6日
「カンと科学は車の両輪」

カンというと、非科学的であいまいのようだが、修練の積み重ねから生まれるカンは不思議な力を持っている。多くの発明・発見が、カンの働きを原理づけ、実用化する努力の中から生まれてきた。つまり、カンと科学は反発するものではなく、いわば同根、この二つを車の両輪として、ともに大事にしつつ、発展、向上をめざしたい。 ”

―『松下幸之助 成功 日めくり』より

 

人にはいろいろな「両輪」感があるものですね。私が同じことを書いても心には響かないかもしれないけれど、あの松下氏の言葉となると皆様「そうだ!」と同意しやすいのではないでしょうか?(笑)

 

ちなみに私は過去の記事に、潜在意識と顕在意識が両輪と書いていますし、別のとあるDr.は、「不思議に感じることも確かにあるし、それについては否定はしないが、ただ意識だけのスピリチュアル(思想・意識だけでなんとかしようとする思想)については全く受け入れたいという気持ちはない」とおっしゃっていました。

このDr.のおっしゃっていることと(科学的に解明されれていたり、仮説のある不思議系な事の解説など)、私が記事に書いていることが似ているところがあるので、(感性が似ていそうだなぁ)と感じた次第です。

 

お腹の宇宙

前回の続きになります

前回の「体内に観えた(ように脳内映像が浮かんだ)惑星」あたりからの続きです。

治療体験記 後日編-4 泡宇宙

 

私はこれらを「お腹の宇宙」と呼んでいます。

そして、今日はこちらについてちょっと書きます。

beate bachmannによるPixabayからの画像

 

脳内で観えようが観えまいが誰にでもある(はず)

こういった話をすると、こういった脳内映像が観えると立派というか、能力が高いみたいなレッテルを貼る方がいます。他人にも自分にも。

多分そういったことじゃない。と私個人は感じています。

 

それは、今までも例に書いてきたように、走るのが速かったり、持久走が得意だったりという体感センスみたいなことだと思う。

私は子どもの頃は瞬発力で好成績がでるものはクラスの上位だったけれど、持久走からは逃げたかった。ランナーズハイなどなるわけがないし、経験したこともない。習字は好みではないが、硬筆は好きとか。その延長線上に「脳内映像化」がある。

小説などを山ほど読んだ大抵の方は脳内映像化が得意だと思う。

その程度のこと。

 

だから、施術をしたり、会話をしている時に、共振率が高い方や脳内映像化が得意な方、運動などをして体感覚が鋭い方などは、「お腹に宇宙はありますか?」と質問すると

「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」みたいな感じで、脳内ではありますが、観えた。観えるようになった。(脳内でも実際でも視覚野にはあまり影響がない。以前もコラムに書きました。とある幻視は見ているご本人にとっては幻視ではなく本当の映像だということを。映画の1シーンをもとにして書きました。)

 

シュレーディンガーの猫のごとく、その瞬間を境に脳内視覚ではありますが、「観えた」「現れた」わけです。

これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。

 

「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」という、混じりっけなしの「キョトン」なのか、とっさの無意識的と言いつつ意図的な「同調」との違いって、ご本人よりも案外他人にはわかるもんですよ。

 

空間感覚の共有、共振とも言えるのかも知れない。その空間がじつは枠のない無限大「宇宙」みたいな感じだというところがまたシュールである。

 

大丈夫です。伝授とかいって講座開いてませんから(笑)

伝授ではなくて、ただの「気づく人は気づく」だけですから。

見ようとして躍起になって厄介になるような瞑想とかお気をつけくださいませね。(それも人生のお好みですが)

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

足腰の違いが現れるケースが多い?

不思議と言えば不思議な体験をしたその後に割と2極化するようなことが多いみたい。

  1. エゴが刺激されて一気にあちらへ傾倒していく方と、
  2. それはそれ、これはこれ、みたいに足腰が強いと感じるほどブレない方。

 

1. のケースは、簡単に言うと「わかったちゃった。抜けちゃう予備軍」みたくなってくる。ウエ(ってどこ?)と繋がったと思うみたい。だから益々傾倒する。要するに、人間社会にそれまで以上に(それまではこっそり隠していた?)上下やランク付け感覚が育つみたい。エゴ肥大化の無限列車に乗ったか? そして、他の乗客を勧誘しがち。そして、乗り遅れたくない乗客予備軍も多いため勧誘達成率は高い。

例:一時期の「次元上昇に乗り遅れるな」の煽りは凄かった。煽られて焦っている方も結構多かったみたいだし、妄想で「私は流れに乗った」とした方も多かったのかも知れない。あの最中も「ナンダコレ」と思っていたが、今はどの位の方が(結果煽られただけだった)と逆に安心しているのだろうか? みなさん良かったですね。一緒に居ますもんね(^^)

 

2. のケースは、最初は ナニコレ? とただ自分の体内を傍観している感じでも、おそらく時間経過と共に独特の安心感を得るのではないかと推測している。

私達はいろいろな体験により胸やお腹に空虚な穴が空く(空いていると感じる)事がある。その穴も虚空と言えば虚空だし、お腹の宇宙も虚空と言えば虚空なんだけど全然体感覚が違う。宇宙的虚空は虚空のくせに安心感がある。究極の安心感とは言わないが、とある安心感にはなる。

それは人間が本当は嫌っていると言われている「自由」感なのかもなぁ とこのブログのメモ書きをしていた時に感じた。自分のお腹に、何にも囚われない「自由」がある。

 

これらを踏まえてちょっと振り返る

1. をもう少し書く。 お腹に宇宙があるのに、繋がりたい「ウエ」ってなに?どこ? と思った時に、やっぱり自由になるのは怖い、枠組みの中に居たいとそれこそ潜在意識、身体の核でそう思って居るのなら

ウエとかシタとか、そういった設定がある方が生きやすいのかも知れない。枠の中で行きていると安心するというように。

 

想念で(意識で)いろいろ知識を得ても、興味はあるけど本当は怖いってことってありますよね。生命維持のための危機管理的に。本能的な反射、反応として。

だから、足腰がしっかりしていないなどと失礼な表現をしましたが、こういったことが露見するっていいチャンスではないかと思う。

多分、情報に翻弄されたり、体験では無くて刷り込まれた情報優位なんだと思う。

 

潜在意識って集合無意識ということになるんだとしても、そのコンタクト具合って個体差があってもおかしくないですよね? なんだか皆均一みたいな錯覚を起こしている可能性ってありませんか? 個体の脳、肉体、精神の許容量によって扉の大きさが違うような意味合いです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

現代絵画のようなイメージで

非常に抽象的な現代絵画を見て、「凄い!」と思う方も「ナニコレ?」と思う方も「これが良いって言うんなら良いんだろうね。うん、だんだん良い気がしてきた!」というような様々な反応があって然るべきでも「好き好きですから」とか「それぞれの感性ですから」とあまり自己否定に繋がらないけれども、こと、こういったスピっぽいことになると途端に能力の優劣みたいなモノサシを持ち出されることも不思議ではあるんですが、

それもこれも好き好きで、正解はないんだろうという事ですね。

 

A. こういったことのエビデンスもなくてもOK、あってもOK

B. 証明もなくてもOK、あってもOK

C. 真実、真理・教え・法則もあってもOK、なくてもOK

 

ただ、もし私個人が「ウエ」と繋がろうとしたら、それは自分のお腹の中だということになるわけで、フワフワしようがない。だってどこまで行っても自分の中だから。みたいな感じ。

他のことでフワフワすることがあっても、宇宙云々では外へ外へと彷徨い出ちゃうようなことはあんまりないんですよね。

そもそも「ウエ」と繋がろうとかしないし。だってもう「在る」し、そもそも「ウエ」じゃないし。

John HainによるPixabayからの画像

 

 

今気がついたのですが、こうなってくると、

またまた究極的な表現になりかけますが、 A. B. C. のどれもが自分の中にあると言えるのかもしれないですね。自分の中に、ナニカを証明する後ろ盾、承認される理由、存在理由がある(またはそれらが必要ない)。

だとしたら、アラマア タイヘン! な話になってきましたが、わたくし個人的には非常に地味な生活をしておりまして(飛行機はエコノミークラス)、生活に概ね満足しておりますが、なんでも叶えてあげるよ!と言われればメキメキと欲の皮が突っ張ってきます。(いつもファーストクラスに乗れたらいいのに!)

 

一粒で最大限の利益を享受したいと思えば、めっちゃ素直になったりします。利益を得る準備として「我」を消すというような本末転倒な感じです。(笑)

我を消すのと、染まる(洗脳される)のはちょっと違うんです。素直って幾つも種類があるんですよね。

 

これが今日現在の私の脳内と、思考と、現実のバランスでございます。

凡夫極まれり。

あんなに抵抗していたのに、もうすっかり、「人間だから。」って開き直ってきました。

なんだか素直になれてきました。祝

 

RalphによるPixabayからの画像