無条件に愛して欲しい

ありのまま、無条件に愛して欲しい

子どもでいたい。とはどういうイメージか?

私は過去のコラムでも、この

  • 子どもでいたい。という選択
  • 大人にならない。という選択

についていろいろ書きましたが、やはり加藤諦三先生はお話や解説がお上手で、似たようなことを書きたい私とは仕上がりの美しさが違います。

 

どうも私の書く文章は泥臭いというか、生身の人間感が漂いすぎるというか、そんな感じしませんか?

 

知らんがな。という声が聞こえてきそうですが幻聴でしょうか。(笑)

 

動画で加藤諦三先生にご登場いただきました

 

無条件にも条件がある

自分は相手を無条件では愛さないけれど、自分は周りから無条件で愛されたい。

 

わかる、わかるよ、わかるよね~

でも、それに応えてくれないからといって他者を非難するのもどうなんでしょうね。

 

これって、自分は正解だけど、相手は間違っている。と瞬時に思うのと似てますか?

似てませんか?

 

思うのは勝手だし、願うのも勝手、相手の反応までコントロールできないからと言って癇癪を起したり、悲劇に浸ったり、ますますコントロールしようと躍起になったりして、結果幸せになっている方を私個人は存じ上げません。

病的と感じるようなコントローラータイプの方はこういった渇望が強いんだろうな~って思うことは多いです。それはそれで大変だろうな~って思っています。

しかし、

人生っていろいろだものね。と思います。

「人生いろいろ」を和らげてくれるケア

心のストレスを緩和させていきたいのなら「ストレスケア」ってほんと大切だな~って思うし、病的なコントローラーさんたちが、その場がコントロールできて一見満足しても、もういつもいつも他者の動向が気になって、イライラしてっていうのも、長い目でみたら「その他者を思い通りにコントロールしたいという思いにとらわれたまま」っていうのはハッピーになっていくんですかね?

 

いや、ハッピーこそ様々なハッピーがあるので、ハッピーならそれでよかったです。

 

そのコントロール欲の中には、(私を見て!私を大切にして!)という渇望も見て取れるような気がするんですが、それをすると嫌がって離れていく人も多いような気がします。

でも実は相性の合う方もいて、依存症タイプの方や、子どもでいたいタイプの方、言いなりになりたい方は非常に相性がよろしい。

 

ですから、それぞれの個性や性質の相性の組み合わせで、付き合いやすい方としかお付き合いって続かないもんですね。

それはお互いに。

 

そう、最後にもう一度書くと、支配したいタイプの方もいらっしゃれば、支配されたいタイプの方もいらっしゃるわけです。この2つのタイプの方同士はなにかと長続きするようにお見受けしています。

だから、良いとか悪いとかじゃなくて、そういうことと「無意識的に何を幸せと感じるのか?」というのは別問題だなって思うことも多いです。

 

 

画像は昔飼っていた溺愛犬と色は異なりますが、全体は似ていたので選びました。

凄い甘えん坊でしたが、それでもやっぱり私(や家族)を守るときは守るよ!という行動もあったりして、お互い支え合っていました。

他界したあと、夢に出てきたこともあって、そんな時は私も嬉しかったですね(^^)

John WrightによるPixabayからの画像

囚われ

久しぶりにいろいろ書きます

何を書くのか? それは心理学的なことです

ネタが溜まってきていますが、一度「Blogを書く習慣」から離れたし、さて記事を書こうかと思ってもPCの立ち上がりが遅すぎる(古いので)こともあり、Blogの更新感覚がどんどん伸びております。

 

最近、以前よく著書を読んだ加藤諦三先生をYouTubeでお見掛けしました。

その昔、若かりし頃、加藤諦三先生の本をたくさん読んで、当時非常に重く感じて、読み進めるのがキツイと感じたことがあったように記憶しています。その当時できる範囲で自分を「とことん」深堀したんですよね。深堀がきつかったんかもしれませんが、どこがどうキツかったのかを今はもうはっきり覚えていません。

キツイキツイと思いつつも深堀をやめなかったんですが、結果将来の自分に非常な福をもたらしました。

今は読書ではなくてこういった動画から入る方が多いような感じですが、読書は読書の良さもあるのでお勧めです。

 

ですが今回は動画のシェアをします。

囚われについて

 

自分でいることとは?

 

なんちゃって心理学

なんちゃって心理学と感じるようなメソッドもあるし、時代に乗った短い命のカウンセラーさんもいるように感じることもありますが、それらで幸せになればそれでいいし、その時代にそのカウンセラーさんに救われた方も多いと思うんですよ。

巻き込まれたり、巻き込んだりするのも人生の経験ですものね。

 

しかし、この加藤諦三先生はずーーーーーっと同じ感じです。

いや、いろいろ変化されていらっしゃるのかもしれないけれども、ぶれないな~というイメージが非常に強い。信念なのか、そういった性質なのか、根が大きすぎるってある?とまで感じます(笑)

「とらわれ」という言葉でほとんどのことは言い換えられる?

本当は、違う「とらわれ」について事例を書いてみたくなっていたのですが、

(あら、これは素敵な表現ね。)

という動画をいくつか見てしまったので、次もそれらのご紹介をして、元々書きたかったことは先送りします。

 

いろいろ書きます。と宣言して、動画のリンクをご紹介したに過ぎなくなりました。

失礼いたしました。

次はPC? 

新しい相棒

納車

新しい相棒が到着しました。

ウソでしょ?と自分自身を笑うようなこともあったんですが、もう我が家にやってきましたので仲良くやっていきたいと思い、(ナニナニ??)と取説などを見ているところです。

知っていたよ オートクルーズ

オートクルーズという機能があるんです。

私が今まで乗ってきた車にはその機能が付いていませんでしたが、こういったオートクルーズみたいなものははるか昔からあったことも知っています。数十年前のハイクラスな車に既についていたのを知っています。ですが今ほど一般的じゃなかった。

が、気が付いたら私の新しい車にもついに登場しました。

 

自動車専用道路で使ってみたんですが、ま~~~楽ちん。

今時って前を走る車のスピードを感知して自動でスピードの調整をしてくれるんですね。

あらまぁ ビックリ。

そして、便利。

Melk HagelslagによるPixabayからの画像

久しぶり!

前の車は車内スピーカーが壊れまして、直すほどでもないのでスマホからミニスピーカーにBluetoothで飛ばして音楽を聴いていました。車専用のJBLの携帯スピーカーを積んでいたんです。

それも解消して、今は車内スピーカーにBluetoothで飛ばして音が聞こえるようになりました。

車内スピーカーから音が聞こえるこの感じ、久しぶり~と思いましたよ。

ラジオとか(何年ぶり?)と思う程でした。

 

とまぁ運転時のQOLはいろいろとかなり上がりました。

652234によるPixabayからの画像

いよいよ 次はPCか

ipadでPCの代わりにしようかと思うものの、画面もある程度の大きさが欲しいので、ipadのみではどうでしょう。

 

ホームページも今は以前のようにあれこれと手を加えていませんが、やっぱり私の場合はPCが使いやすくてストレスフリーです。今のところは。

で、モニターは使っていないのがあるので、ミニPCを買えば良いだけにはなっています。

前回のblogに、引越しは2024年内にしたいなぁと書きましたが、引っ越しした後に新居に合わせたPC環境をつくれたら尚良し。洗濯機も冷蔵庫もまとめて一新したい!

と今は思っています。

Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像

願い & 予定

新しい私の「巣」、素晴らしく気に入る快適なものに出会い、引っ越し出来ますように!

するとホームページの中のご案内も変わりますが、ご予約いただいてお越しいただく相談者さんにもとっても利便性がよくなることも願っています。

 

他にもちょっと書きたいこともあるので、また次の機会にします。

私に無かった価値観

伝説って!?

私に無かった価値観

予定通りに購入

 

上にリンクをはった前回の記事に

”例えば、伝説になりたい!と私が思うような場合は”

という文章を書きました。

 

実はこれ、10年近く前に知人が発した言葉です。

 

その方が言ったのは、「簡単にうまくいったら伝説にならないじゃん」というようなセリフでした。

(へぇ~)って思った

このセリフは私にとってとても新鮮でした。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

(へぇ~伝説になるっていう価値観なんだ!)と思ったし、わたくし普通に会社員などの経験もあるものですから「組織のコマ」みたいな感覚ってあって、これは全然無自覚でも何でもなくてしっかり自覚している分野のことです。

組織のコマ、社会のコマ、組織の一部、社会の一部という感覚です。たとえ私が活躍したとしてもそれで世に名前が出ることは無いだろうという認識だったり、

伝説ってどこで言い伝えられる伝説?という視点に立つと、1つの会社に10年超えで在籍したことがないので、私がいくら優秀な社員であっても、ヒトの記憶に残るのは長くてせいぜい数年。誰がやめても会社は回っていくし、ヒトは辞めた自分のことを忘れていくということも知っています。

 

ですから、「伝説になる」「伝説になりたい」という欲求が無かった。そういう観念がなかった。

「伝説とはどこかの誰かのお話」という距離感でした。

John HainによるPixabayからの画像

伝説

承認欲求はあっても、それを「伝説」級ほど欲していなかったと言えるのかもしれません。賛美されたら嬉しいし、心地よいでしょうが、伝説級ほどの賛美を求めていないという書き方が近いでしょうか? どうでしょう。

 

ですけれど、これらは自己卑下に起因するというよりも、冷静な状況判断によるものだと思っています。

 

ですから、こんな私に(へぇ~伝説!? そういう価値観!)ととっても新鮮だったのを10年経った今でも覚えていますから、今となっては(そうね、人生先のことはわからないから、なにか良い方面の伝説に加わったら楽しいかもね)などと思って(生きているうちに何があるかわからないもんね)類に分類しています。

ですから「伝説になるぞ! うぉー!」という感覚ではなくて、今日現在の人生の心地よさを過去想像していなかったけれども現実になったという、「人生にこういうミラクルって起きるのね~」という軽い感じ。軽いというか、受け身と言うか、自分にできることは積み重ねることだけで結果まではコントロールできないというか。

 

Life is a miracle.

自己顕示欲とか承認欲求というよりも、

Life is a miracle.

というような意味合いです。

 

Life is wonderful.

という感じ。

PexelsによるPixabayからの画像

ついつい忘れちゃうけどね

私たちってややもすると、気が付けば生きていることや毎日がミラクルなのにそれを忘れますでしょ? 悩みに夢中になると「身の回りに起きているありがたいこと」を軽んじますでしょ?

それにまた、伝説って他者が判定すると思うんですよ。他者の価値観の集大成的な意味もあるとするならば、先述していますが、伝説になるという価値観も自己顕示欲とか承認欲求もそれもやはり人間だなぁと。

寄る辺無さ

過去にもこの言葉を多く用いましたが、この言葉を発明した人は天才だと思う。

 

こういった「寄る辺ない」という感覚を自覚していてもいなくても、多くの争いや悩み、もめごと、ストレス、感情・精神の不安定、勘違いの土台になっておりますね。と言いたくなります。

 

皆様の人生に健康と笑い声がありますように。

Alisa DysonによるPixabayからの画像

 

 

 

予定通りに購入

計画を進行中

車を買い替えました

これを書いている今日はまだ納車されておりませんが、かねてより予定していた計画が無事進行しまして車を買い替えました。

今の車も、今までの車と同様非常によく働いてくれまして、お別れが間もなくですが変わらず安全に動いてくれています。

 

今年の6月までに買い替え計画は終了させると決めていたので、予定通りです。

 

ベンツを買ったわけではありませんw

652234によるPixabayからの画像

次は引っ越しだ

車の買い替えと引っ越しがダブルで計画進行中でしたが、車の件は完了したので次は引っ越しです。

そうですね~ 2024年内に新居が決まるといいな~って思っています。内覧とか何軒かしたんですが、今日現在決定に至っておりません。

引っ越しもここ数年ずっと頭にありましたが、いよいよ(もう先延ばしにするのはこの位にしておこう)という時期がきました。

ですので、家の中もじわじわと片付け進め始めました。日頃も断捨離というか、片付けはしていますが、もう少し本格的な整理を始めました。引っ越しの時にもっていかないものはどれ?という視点でものをみるとかなりスッパリと線引きできます。

OkaynowによるPixabayからの画像

ラジオ放送について

既に書いていますが、「沖縄カウンセリングラジオ」も以前はユーチューブで配信したり、アーカイブを残していましたが、ここしばらくは画像系は一切残さず、ラジオ放送のみにしています。

現在のところ私は特に後世に名前や存在を残したいというような願望が無くて、生きている間にやれることをやる、生きている間にやりたいことにトライするという感じなので、格好よく書けば過去にも未来にも執着していません。執着が薄いという感じでしょうか?自分の人生に満足しているというようなことなのでしょうか?

 

例えば、伝説になりたい!と私が思うような場合は、生きている間に(あぁ 貢献できたのかな?)と自覚できれば嬉しいです。有名になりたいという他者の価値観に影響を受けるものよりも、自分自身の満足感が優先されています。ありがたいことですよね。私自身は今日現在そう思えています。

どんな弔辞をいただきたいか?

昔、自分のお葬式になんと言われたいか? 何名の方が参列するか? というようなコーチング的質問があり、

彼女は〇〇だった。 とか

彼女との出会いによって〇〇だった。とか言われたら嬉しいな~とお題に沿って考えたこともありましたが、

今日現在は弔辞が無くてもOKだし、参列者が居なくてもOKだし、そもそも私が他界したことを誰も知らなくてもOKくらいの感じです。

もう私自身は意識がないんで後のことは知りようがない。

 

今日現在はこんな感じですが、私が家庭をもって家族と暮らしたらまた話は変わってくるでしょうね。しかし2024年5月1日は一人住まいなんで。

Taras LazerによるPixabayからの画像

日々が楽しい

実はここ数年、赤の他人の多くの皆様と出会いがありまして、会話はほぼしませんが親しみを感じています。彼や彼女の幸せ願っています。理由はわかりませんが勝手に愛情をたっぷりと感じています。こんな感じがするのは何かしらの相性が良いのかな?と思います。ちびっこもいれば、ファミリーもいれば、前途ある若者たちも居ます。人生の先輩もいます。

 

今を生きる方式ですとこういった生活でも十分幸せで、自分でもこんな幸福感が存在するのだと不思議ですしありがたい。

LeejoannによるPixabayからの画像

強いて言うのなら

どこで耳にしたのか忘れましたが、私のように多業種多職種道をあえて選んでいるような場合、「人生で、自分の能力を多面的に発揮したい」というような意味を持っていることもあるそうです。

私個人的には世の中、社会をいろいろ体験してみたいというような「興味」は自覚している気がする。まっさらな場に行くと、「過去はあーだった、こうだった」なんて通じないことが多いし、常識も変わることが多いし、プライドがこりこりに固まってる場合じゃないし、自分のやり方とか知識とか役立つとも限らないし、周りや相手が自分の思い通りにならないのが当たり前、なんなら経験や能力が目立って劣っている、なんてことがあると柔軟性みたいなものや視点に幅が持てるような気がする時がある。気のせいかもしれないし、同じことをしても人によって結果は違ってくるけれど。

 

しかし、柔軟性などかけらもなくてもご本人が幸せならそれが幸せ。良し悪しも価値観も様々だとますます思うようになったし、不平不満、後悔、恨みつらみを言っている方が幸せなら言えばいい。

私はそういった日々を送りたくないという価値観があるがゆえに機嫌よく過ごしていたい。

 

でもまぁ、私の「興味のあることをやってみたい」というようなことは小さなことや極小のことから、ちょっと大きめに感じる案件までそれなりにやったり、やれたりして満足してる部分が多い。

言葉を変えたら、後悔が少ないというような感じか? それが「執着が少なめ」という表現になったようなんだけども、他人のせいにしても、理不尽の被害者に浸っても、他者が人生の最初から最後まで責任をとってくれることはほぼ無いんで、自分でやれることをやるしかないんかな?と思えることもお陰様で幸せを感じられる理由なのかもしれない。

 

他人のせいにしても、理不尽の被害者に浸っても、他者が人生の最初から最後まで責任をとってくれることはほぼ無いんじゃないかな?と私は思うものの、他人のせいにして、理不尽の被害者に浸り続けたい方もいらっしゃると思う。自分の人生の責任を負いたくないんだろうかと思うこともあるんだけどそれもそれ。生き方はそれぞれ。

 

生命活動をしていて、意識がある時間は限られているから。

 

こんな風にいろんなことを「あるもの」と受容できるようになったことも、人生の中の変化になります。

その時、その時、良かれと思ってきたことが、2024年5月1日の今日は選択しない、良かれと思わないことだってあるけれどもそれだって成長に伴う変化だったりします。

幸せの感覚の変化

やたら「今を生きる」みたいなことを見聞きした時期や、自分も感じたこともあったんですが、もう「今を生きる」という金言を忘れるほど今を生きてる。

なんも考えてない。www

 

こんな幸せがあったんですね。

ありがたいことです。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 

 

動画配信、アーカイブお休みについて

いやいや お久しぶりで

パスワードを忘れるぶりでした

ログインパスワードを忘れるほどブログを書いていませんでしたが、私は元気です。

ということと、ラジオ番組の「沖縄カウンセリングラジオ」の変更点(タイトルに書きましたが)についてホームページにアップしました。

ラジオ番組について

ねぇ いったいナニやってたの?

rubyliaによるPixabayからの画像

 

いろいろ考えることや思うことはあり、感受性も発動しつつ生活しておりましたよ。

最近で言えば、美容院に行ってさっぱりしたし。

2024年の最初に、昨年から車を買い替える買い替えると言いながら先延ばしになっていることの期限を決めたんですね。6月末までには買う車を契約しているか、既に乗っているかという状態になる!と。

自分なりに、最低でもコレ、最高ならコレ。と想定している車があるのですが、そろそろまた活動を再開しますかね。いやもう今の車の劣化ぶりがこれ以上になる前に乗り換えたいものですから。

 

出会いと別れ

出会いと別れと、親しみと寂しさと、人生ならではの体験もてんこ盛りで、これまでもこの先も出会いも別れもあるんですが、ますます目の前にいる方を大切にしようと思うようになりました。

一期一会で本当に1回しか会わない方も居るし、ヒトとして素晴らしい方だなぁと親しみを感じていた方も転勤で沖縄を離れることが決まり、おそらくもう今回の人生で再会することは難しそうな方も居たりします。

別れを寂しく感じる関係性の方も多くいますが、彼、彼女のこの先の人生の幸せを願っています。なにを彼、彼女が幸せと感じるのかはわかりませんが、ご本人の人生を応援したい。

そして何より、別れが寂しいね。と思うような出会いがあったことが幸運だとも思っています。

出会えないと別れもないから。

 

1つだけ メモしていたことを書く

このメモが机の上にずっと乗っておりました。文章にされるまで最低でも2,3か月経ちました。

折角なのでこの機会に日の目を浴びさせます。

 

法則を利用するってどんな感じ?

都市伝説か、証明済みかは不明ですが、「法則」という名前が付けられている思想についてはこれまでも書いてきましたし、これから書くことは過去にも書いた。ちょっとだけ引用文を変えて文章にしてみます。

 

与えたら返ってくるという事象を「法則」と呼ぶ方もいる。そういうこともあるだろうし、そういう因果関係を創ろうと思えば際限なく作れる。創れる。観念として。

そういった思想に良いも悪いもないし、なんなら私も生きていて(これは(良いにつけ、悪いにつけ)やったことが返ってきたみたい)と感じることがあるし、思うこともある。

それを「法則」という言葉を具体的につかって他者に話すことは余り無いとしても。

 

というようなことはしつこいくらい書いてきた。

「論」が良いみたい

 

で、ならば「法則」を逆引き利用して、先に与えて、リターンを待つという意図をもって「与える」方もいる。

で、私はこの辺りに違和感を感じて、わかったようなことを過去にも書いた。

Blogだったか、ホームページのコラムだったかは忘れてしまいましたが。

 

で、数か月前に先述のメモにとったと書いたマザーテレサの言葉が私の違和感の解説に非常に良いのです。それはこちら。

 

” 大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛を込めたかです。 ”

 

「法則」として返ってくるものはナニ?

またまた先程書いた、

”「法則」を逆引き利用して、先に与えて、リターンを待つという意図をもって「与える」”

場合に、法則として返ってくるものは何だろう?

愛? ちょっと違う気がする。

欲? ひょっとしたらそうかも。

自分のリターンを想定して与えることは「愛」?

 

そう、私は考えてもしょーーーーが無いかもしれない? いやこういったことが大切? ということもそれぞれの好き好きなこんなことを考える癖があるんですよね。

 

どっちみち返ってくるから! というようなさっぱり感であって、リターンの想定ではなく気持ちよく与えているのなら「愛」?

 

これならマザーテレサの「どれだけの愛を込めたか?」というところに話のポイントはうつりますかね? どうなんでしょうね?

 

知識や情報を得れば得るほど、愛からは遠のくような事象が有るのかもしれないな。というような話になりましたかね?

 

愛もいろいろありますからね。

いつも通り答えのない話を書きました。

 

2024年 明日から4月です。

時が経つのは早いです。

大切に生きていきたいです。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

「論」が良いみたい

なーーーるほど

数ミリ進んだ自己理解

今日は前回の記事の続きです。

時代が追い付いてきたか? 違うか(笑)

私は1つのことをしつこく考える時があります。

いつもではないんですが、なんか気になるフックが脳に引っかかる案件が時折現れます。

ありがたいことに、なんとなく収まってくる展開になることが多くて、ひとまず、今のところはこれで。と沈静化する。

沈静化して暫く経つと、 オヤ?そういえばあれってさ。 とまたちょっと腑に落ちる思考展開があったりしてスッキリ化がすすんだりします。

そんなこんなで人生ここまで来てます。相変わらずやってます。

今日もそれ。

 

「法則から漏れる」と書いたそのニュアンスについて自分のつたない言葉で準備したんです。いったん。ところが、神様が(あなたの言葉だけよりも、こちらを添えることで他人様にもっと理解しやすくなるのでは?)と配剤してくださいましかね?

たびたび感じる、あまりにも絶妙なタイミング、シンクロニシティ、セレンディピティがありました。

David MarkによるPixabayからの画像

そうそう! 再現性!

前置きも注文も多くて申し訳ありませんが、ご紹介しているリンク先の記事を読んでみてほしいです。

 

TED登場「パワーポージング効果」をまだ信じてはいませんか? あなたが知らない科学の真実

https://diamond.jp/articles/amp/337926

 

「傾向」と「再現性」は違うものですもんね。

 

書き進める前にお決まりの前提共有

そう!本当にあくまでも個人的な話なのですが、私の中での「法則」という言葉の理解に引っかかる事例というか、解説、紹介がある程度蓄積してきたような気もしますが、私の個人的な「法則」感との違和感を自己探求するような展開となりました。

 

いやいや、私だって、鬼でもないのに「鬼ヤバイ」とか、超でもないのに「超眠い」とか言いますから、本当に個人的な独り言を書いているに過ぎません。

どうぞ皆様は皆様の世界観、価値観、信念で人生を満喫してください。

以前も書きましたが、ブログというのは、所詮は独り言なんで。偉そうに書いても、したり顔で書いても、独り言は独り言。独り言を世界に向けて発信するという厚かましいことをしているわけですけれども、これはこれでなかなか自己理解が進んだりする良いツールとなる時があるんですね~。

John HainによるPixabayからの画像

万有引力の法則感との違い

本題に戻ります。

そもそも私は自分の言葉で何を書く予定にしていたのかと言うと、既に書いた

黄色が気になると世の中の黄色に気が付くようになったり、やたら黄色が目に飛び込んできたりってありますよね。好きも嫌いも両方向にこういった関心を向けたものが脳の感知能力を刺激しやすくするというか、認知しやすくするというか。

そういう基からあったものへの「理由付け」とか「意味づけ」とか「深読み」ということを人間の脳ってやりがちというか、好きなんでしょうね。物語性とか。

(今日はこの辺はサラッと通ります。)

 

また、確かに傾向として感じるものがあったとして、それを100%に近いような再現性のイメージのある「法則」に安易に昇華しすぎるような まぁニュアンスですね。

 

そうなっていないものも目の前にあるのに、それはちょっと脇へ置いておいて、起きたことだけを(「虚」「実」「平」という視点を持った時に)「平」ではなくてどちらかに大きく傾けて取り上げてる感というか。

例えばそれは私が冒頭で書いた、”あまりにも絶妙なタイミング、シンクロニシティ、セレンディピティ” というようなことも含めて。こういう抽出の仕方を「コールドリーディング風味」と感じることがあります。

 

信念や価値観をより強固にさせてくれること以外はスルー。

 

でも、捉えようによっては全てのことを”あまりにも絶妙なタイミング、シンクロニシティ、セレンディピティ”と言えますよね。毎分、毎秒。

起きていること全てに言おうと思えば言える。

しかし、分け隔てなくそういうニュアンスで「〇〇の法則」という言葉の使い方をされているのなら私個人は納得できる。私がもう本当に個人的に引っかかるのは、「それを利用しよう」「成功しよう」みたいな思想的なことを法則と言い換えてるような捉え方を私がした時に反応するみたい。

 

それは「〇〇思想」ですよね? 法則じゃなくて。

ということを書こうとしていました。

 

だから、自分のためにも今後「〇〇の法則」と見聞きして、違和感を感じたら、超個人的に瞬時に「〇〇論」と脳内変換したら済むだけの話なんですよね。(笑)

簡単に言えば、他の方の思想に私の思想が反応しているんですね。通常の世の中の出来事と同じで。

 

因果関係もあるとは思いますよ。だから因果「論」というのは脳に収まりやすい。が、「因果の法則」という表現になって、人間が紐づけた関連性が100%というような論調や、テクニックとか使いこなし方とかって話になっちゃうと

  • 良し悪しという判断が入ってる
  • 都合よく良し悪しの因果関係を区切る
  • 因果という解釈自体近代の人間の基準ですかね? どうなんですかね?

という、もう本当に面倒くさい、タチの悪い、重箱の隅を楊枝でほじくる的のような、でもしかし全体の話をしているようなことになっておりましたがご安心下さい。

ある意味、ここがポイントなんでしょうね。万有引力の法則との感覚の違いって。

 

【波動云々があるという観測とか数値に現れるものがある】

のと、

【それを個人的に思想風味に感じる「法則」という観念】

が必ず関連しているというあたりの根拠?にただただ私が むむむ??? っと反応しただけです。

 

そして、私は自分のためにもわかりやすい落としどころを準備できました。

Arek SochaによるPixabayからの画像

「論」が良いみたい

それが今回のタイトルにもなっている「論」であり、少し前に書いた「論」です。

 

もう少し丁寧に書きます。

 

陰陽「論」とも言いますよね。

私がこの表現を好むのは、「あそび」があるから。この「論」から漏れることがあったって全然ありかもしれませんよ~という余裕と言うか、優しさと言うか、決めつけない成熟性みたいなイメージですかね。

 

美輪さんも「正負の法則」とおっしゃっておられますが、美輪さんは美輪さんの経験と世界観があおりでしょうから、信念が確立されたんでしょうね。そして、美輪さんが「法則」とおっしゃっる際にその言葉をどういうニュアンスで使用されているのは今の私にはわかりません。

ただ、あなたの行いが子孫に影響しますよ。正負の法則がありますからね。みたいな考え方ってありますでしょ? 私もいろんな因果関係が無いとは言わないけれども(バタフライエフェクト的に)、自分が検証・証明・確認できないことが多いですから。それを「漏れることも確認できない」「漏れないことも確認できない」と言う意味全般を「漏れが多すぎる」と捉えていることが整理出来ました。

 

解釈次第。というような意味もある。

陰陽を「陰陽は法則」という前提で話をするのか、「陰陽論という説」という考え方を好むのか?ということなんだな。と書いている自分が一番理解出来ました。(笑)

Peace,love,happinessによるPixabayからの画像

それでいいんだけど

こんな私の個人的な違和感・独り言を書いてきて、〆の言葉はいつも同じ。

法則と言う言葉の使い方も、捉え方も、解釈の仕方も、因果関係の結び付け方も個々が裁量・選択していくことですよね。という確認です。

 

私は時々、他の何かに隠れた「思想」に(え?)とか(ハ?)とか反応する癖があるんですよ。

厄介ですね~。

厄介ではあるんですけど、結局その後自己理解が進むと、反応したのは自分なんだって再確認できますし、なんらかの思考訓練というか、感情訓練にはなっていそうです。

反応や反応したその後が以前よりも変化してきた気がするから。

 

ホームページのコラムにも書いたんですが、そういった思想の混ざりぶり(『他者の脳内リミックス』と以前は書きましたが)って、自分で脳内リミックスする自由がありますでしょ?

でも法則という仮面に昇華させた(と、勝手に感じる)『他者の脳内リミックス』を正義だと言われたような気持に私個人が勝手になってしまったりする時があるんです。

「心の治療の真実はどこにあるのか?」について お1人の意見

 

救いを求める時。救われたいと切に願う時。

 

しかししかし、正義だと言われたような気持に私個人が勝手になってしまったりする時があろうが、どうだろうが、

  • そういったことも私の生きている世界には「有るもの」、
  • いろんな考え方が有って共存している、

そして、マルチバース、パラレルワールド、泡宇宙というような概念とフラクタルが形成されているという説を採用すると収まりが良くなってきたのでこの辺りで終わります。

 

もっと身近な言葉ですと「多様性」ですかね。

数日前、友達が発した言葉です。言葉だけわかった気になりますが、多様性を体感、実感、納得?すればするほど世界は広がるんでしょうね(笑)

 

TomによるPixabayからの画像

 

おそまつ

時代が追い付いてきたか? 違うか(笑)

  1. ついに時代が追い付いてきたか?

という勘違いも そりゃしそうになるわな(笑)

サイトに関するなにかAIだろうものが、私の目に見えるところに下記の動画を配置しました。

ひょっとして? いや、どうやら今アツイ方のようです。

書籍も出版したプロモーションもアレコレあるんでしょうね。

 

で、実は私、この記事を書いている今、リンクを貼った下記の動画しか見ておりませんので、この動画以外のこの先生の主張やお考えは一切知らないという段階でブログを書いています。

そこのところはしっかりご了承ください。

 

というのも、私がこの先生を特におススメしているわけじゃなくて(おススメするならもう少し情報を得たいです。今日現在は得ていないし、それらを率先して行う予定も今はありませんが)

この動画の中でお話されていることと、過去私がブログやホームページのコラムに書いたことが非常に非常に似ていたので動画のシェアをしています。

 

私がアレコレ書いても(何言ってんだか)と思うかもしれませんが、やはりハロー効果のある方の威力は強いだろうから。

この動画しか見ておりませんが、こちらの先生迫力ありますよね!

 

 

そうそう! それそれ! フラクタル!

動画も一度見たっきりなので細かくは書けないかもしれないけど、興味のある方は各自動画を見てください。

 

人間に宇宙がある云々は、昔からの東洋医学の考え方にもあるよね。というブログも過去に書いている。

「共鳴」と「時間」

治療体験記 後日編-4 泡宇宙

 

ホームページのコラムもある。

「宇宙の地平」と私達の認識の相似形について私風見解

 

どちらもこの周辺記事を読んで下さった方は(確かに書いてたよね)とお分かりいただけそうです。

 

この動画内ではフラクタルという言葉は使われていませんが、おそらく意味合いは「フラクタル」ということだと理解できます。

 

 

もっと砕けたタイトルの記事もありますが(このタイトル気に入ってます)、今確認したら過去に使っていたサイトを閉鎖したのでリンクが切れまくりでした。

読みづらいですが一応ご紹介しておきます。

遠くのものも、近くの出来事に含まれてる

socialtrendspr0によるPixabayからの画像

視点

視点についても、

自分を整えていると自分を客観視できるのか?

変わりたいのか? 変わりたくないのか?

ついつい自分を忘れちゃう。ついつい飲み込まれちゃう。それはメタ認知と関係が?

 

視点というのは、後天的に身に着けるものと、誰に習わずとも身に着けられるケースがあるんだろうけれど、誰に習わずとも、理解の際に言語を使っている時点で誰かには影響を受けていると思える節がある。もし私にメタ認知のブログを書ける程度の認知があるのなら、それは読書の習慣がそれを育てるのに一役買った気もするが、私より読書が好きな方がメタ認知風味が無いケースだってあるみたい。こういったことって感情も大きく影響しますしね。

性質というか、特性みたいなものもやっぱり関係しそうですよね。

経験値と視点ってリンクする部分もあるし。

なんてことを考えた。

 

受験勉強が得意、暗記が得意な方も居るし、習うことより考えることが好きな方も居る、受験勉強は苦手だけど興味のある1つの分野のことだけはするすると記憶できる方もいる。

ですから、自分の特性を知るって大切だなぁって思うようになりました。

ramazan balayevによるPixabayからの画像

日本人だから習うことは上手で、考えることが苦手なのか?

動画の中の先生が海外で「自分で考えないのは日本人だからか?」(正しくは動画でご確認ください)というようなことを言われて、カチンときた。人種差別か!? と思ったとおっしゃっていますが、国民性みたいなものってやっぱり関係する部分も多いと思うことがあります。

 

良い子が良い。

  • 上のヒトにはYESというのが良い人。
  • 自分の考えを持たない聞き分けの良い子が良い人。
  • 肩書大切! 肩書によって話は鵜のみ!

みたいなことってありますもんね。

多分海外にもこんなことがある国ってあるんだろうと勝手に推測していますが、まぁそんなことよりも、

・俺、私の話をありがたく聞け

みたいなことや

・相手を値踏みして、自分より下と思ったら話を聞こうとしない

なんてことがありますもんね。

子供の話を聞こうとする人もいるし、子供と決めつけて話を聞かない人もいる。みたいなこととか。

 

・自分より下と思えば叩く、下と思っていたら足もと救われて驚く

みたいなこともありますよ。日本も、多分世界も。

 

上に書いたような傾向が多い方たちは「対等」って難しいんでしょうね。

(その背景を深読み・推測することは今日はしません。)

https://takedamiki.wpxblog.jp/20240129/

小さな紳士

余談ですが、以前、ちっちゃいちっちゃい外国人の男の子がお父さんと小学高学年に思えるお姉さんとファストフード店に来たんですよね。もちろん注文や注文したものの受け取りはお父さんやお姉さんが行いました。

しばらくしたらファストフード店のカウンターより背が小さいその男の子が一人でカウンターに来ました。店員さんはかわいい男の子がただ遊びに来たとおもって、可愛いね~と言ってカウンターから離れたんです。よくある風景ですよね。確かに。食べることに興味が薄れたちびっこが店内を歩いて探検するって。

でも、自分の背より高いカウンター前からなかなか離れないので、その小さな男の子の背の高さに顔を近づけたんですよ。そしたら英語で「水用のカップを下さい」って言ってました。小さな声で。

大人は皆耳を傾けてくれない、話を聞こうともしれくれない、自分を見て可愛いとは言うけれど、自分の言いたいことは聞いてくれない。けれども彼は諦めなかった。

 

私はあの時にしみじみ相手を値踏みするのって怖いな。って思いました。そして、その呪縛のようなものをあの瞬間は破れて良かったなって。お水のカップを渡したら、なんと彼は英語で「ありがとう」と言ったんです。顔は笑ってました。私は泣けそうでした。あのちっちゃいちっちゃい外国人の男の子の方が紳士でした。

私はあのちっちゃいちっちゃい外国人の男の子のちっちゃい子どもらしい小さな声が耳にこびりつきました。本当にありがたいものが耳にこびりついて幸せです。あの笑顔も目に焼き付きました。眼福ありがとう!

 

そして、自分が良いことをしたな~って思ったのは、多分小さな彼の記憶には残らないだろうけど、「自分の正当な要求を子供だからといって無視されず欲しいものを手に入れた。大切にされた」というかすかな良い体験のお役に立てたかもしれないから。もし可能ならば彼の人生の成功体験みたいなものが発芽する1つの土粒のようなことになったらマジ嬉しいです。一期一会でもう会えないだろうし、万が一会ってももう背も伸びて顔も違うから私にはわからない。けれど、できる限り長く覚えていたい出来事でした。

 

年齢って関係ないですよ。国籍も関係ない。ありがとうを言わない人は言わない。ありがとうを言う人は言う。誰に対しても。

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ユニバースで生きているか? マルチバースで生きているか?

まだ進化してる?

以前書いた ↑ このブログに似た風なことも動画のなかでおっしゃっていたような気がします。

 

 

これはもう一度見返さないとわかんないけど ↓

節目の連続 これが人生?

私の法則と言う言葉への反応も、まぁこれはこれで有りだなって思えました。

 

疑うっていうか、体験済みのものからチェック☑をつけていくというか、実感のあまりないものはまだチェック☑しないというか。

 

で、私がこの上↑のBlog内で「法則から漏れる」と表現したことについてもう少し整理できたので、また次回その辺りを書きます。

 

え~~~最後にもう一度。

わたくしこの先生の動画を1度しか見ておりませんので、先生の発言が正しいとか何も言っておりませんし、書籍も読んでおりませんので書籍もオススメしておりません。

が、勝手に、(時代が追い付いてきたか?)と本当に勝手に悦に入っただけです。

 

いや、なんなら、人体宇宙論は東洋論だし! ということなんですが、体験と言うか、実感やら日常生活に落とし込んだ文章を書いてきて、なんとなく追い風が吹いたような気がしただけです。

 

この先生の説の全体像を知らないくせに。

と言うところもポイントです。

 

おそまつ。

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命の危機!? のその後

トラウマって言いたくなるような体の記憶

強いストレスとその記憶

当時私が乗っていたダイハツ車がどえらいことになって、マジで大騒ぎになりました。

が、私の車だけがその役目を終え、他の車にも、近隣の建物にも、そして他人様にも被害が及ばなかったことは本当に僥倖でした。

 

昨日書いたことの続きを今日書きます。

節目の連続 これが人生?

トラウマと言われるようなことは「無い」説もあるが

書籍にも「トラウマなど無い」というようなものがありましたね。

なんだっけ?と検索したらアドラー心理学では「トラウマ」という概念を否定している。というような記事を見ましたが、我が家に今その書籍がないのではっきりとした確信がありません。申し訳ありません。

書籍がお手元にある方はぜひご確認お願い致します。

 

で、私の場合は、どえらいことになった経緯とか、現場とか、沈静化していく様をずっとそばで見ておりましたので、出来事の始まりから終わりまでしっかり体験した。途中、(このどえらいことが、もっとどえらいことになったらどうしよう)と本当に心配した。

たいていのことはそれなりに立ち会えるタイプですが、この時は命の危機が来た時の独特のドキドキや、個人では沈静化できない無力感を味わった。で、手が震えるとか、足が震えるとか、腰が抜けるとかは無かったんですが、骨の芯みたいなところに恐怖が入り込んだ感じがした。

大事故の発端主になる可能性があるってなかなかです。結果大事故にならなかったから本当に助かりました!

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心体の記憶

東洋医学では風邪って「邪気」が入り込むと解説されていますでしょ? そんな感じで恐怖が入り込んだ感じがしたんですよね、体感的に。

 

で、この感覚が消えるまで、しつこくしつこくセルフケアしました。

今はもうストレス反応はおきていないと思う。(とりあえずここ1年以内に施術を受けた際に「邪気が無い」と言って頂いて、そのような「無い状態」が一瞬でもあったので、あのアクシデントの際に体に入り込んだような感覚があったものは少なくともその施術を受けた際はなかったんだろうとこれを書きながら解釈しました。)

 

あのアクシデントで味わった感覚を「トラウマ」と名付けられたら、(そうだろう)と思える。

あの感覚というのは「心体感覚」です。心体の記憶。なんだか自分の中心(または中心近く)に影響があったようなあの感覚。

 

ですが、別に名称にはこだわらなくてもいいので、「トラウマ」という作用?影響?は人間にはない。という学説があっても別にOK。ただ、心体が外的影響を受けた際のレベルによってはより深部に潜り込む感じを感じる人間が少なからずいるというイメージはある。

 

私はインナーチャイルドという言葉は使いませんが、子供時代の心体の記憶が成人になっても影響するとは思っているし。

PexelsによるPixabayからの画像

業界の方に話を聞いてもらって、その答えでスッキリ

車業界のことは素人ですが、(絶対アレっておかしいよね)と思った記憶はある。

知人に車業界の方がいて、事が終わった数年後?にお会いした際「業界の方にすみません、こんなことがあったんですがどう思います?」と話した。

お話しやすい方だったので正直に私の持つ疑問点を聞いていただいた。

 

で、業界の方から私の知らない常識などをお聞きして、自分の中ではALL完了した。小説「空飛ぶタイヤ」を読んでいただけに「車業界」と一括りに捉えていたけど、働いている皆様一人一人に顔があり、心があるということに救われたような気がする。

 

そんなこんなで、自己完了していたけれども、もう一段階完了した。

昨日の記事をアップする前に、(あぁ シルクドソレイユ 良かったよな~ あれが観られたものプレゼンツしてくださる企業ありきだもんな~)としみじみしたし。

 

という後日談でした。

 

皆様に健康と笑い声のある生活がありますように(^^)

節目の連続 これが人生?

節目感

節目の連続が人生なら、それは既に節目がないことになる(笑)

こちらの記事の下書きを書いたのは1か月ちょっと前だったような気がする。

ですが、また下書き庫から記事を明るみに出してみたいと思います。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

 

— ここから —

明日が本締めというか、色々切り替わる日なのですが、本日その前日(まえび)ですが良い日となりました。

なんか、

  • 日々のコツコツが何かしらの実をつけるのかしら❓どうなの❓
  • コツコツが身を結ぶとかっていうのは願望❓
  • 願望を信じるしかないというのはやせ我慢の自己満❓

と、思うことも過去ありましたが、そう思ってもコツコツやるしかなくて。

でも、ふと我が人生を俯瞰したつもりになった時に右肩上りっぽく感じることが増えると、その時、その一瞬は「融通の効かない自分」「もっと上手にやってる他人を横目に見て、でもコツコツしかできない」のような愚直さも(そう言えば他界した我が父も生前コツコツやってたなぁ)と思う時があって、(これは遺伝か?)とあきらめるような、嬉しいような気がしました。

 

— ここまで — この先は ↓ 今回書き進めた内容です。

 

以前は遺伝的なものを呪うような気持もあったのに、嬉しいような気がした自分に、(本当にすっかり色々と変わったな~)と感じましたよ。大激変です。ありがたい大激変。

これも節目にカウントしました。

NickによるPixabayからの画像

これも節目にカウントしました

あんなことは人生に1度でお願いしたいんですが、

以前ダイハツ車に乗っていた時に、とんでもないことが起きました。

リコールが起きていないなんて絶対におかしいと思ったし、そのあとのメーカーの対応もおざなりだった。

車業界ド素人の私は、会社ぐるみというか、ALL車メーカーつるんでの隠蔽体質か?とも思ったし、泣き寝入りしかないんだろうと思った。

泣き寝入りして、でももう終わったこととして終わらせて忘れていけたのは、被害が最小限で終わったし、私は健康でピンピンしているし、私以外の誰も被害者が出なかったし、事が起きた時に多くの方に助けてもらったし、(世の中良いことある)と思えたから。

自体がこれで終われてラッキーだったと思えたから。

 

で、数年後 コレ↓ 。

隠蔽体質って、記事になる前から知ってましたよ。

現場の消費者の立場でも十分わかりました。体験しましたから。

 

でもね、アレグリア、シルクドソレイユを日本に呼んでくださったのもダイハツさんなんですよね。

なんというか・・・なんか胸をよぎるものがありますね。

残念感かな。

 

そして思ったこと

先述の

  • 日々のコツコツが何かしらの実をつけるのかしら❓どうなの❓
  • コツコツが身を結ぶとかっていうのは願望❓
  • 願望を信じるしかないというのはやせ我慢の自己満❓

と関係してきますが、車メーカーの隠蔽に限らず、もう隠蔽しなくても誰にも気が付かれないこととか世の中に山ほどあると思うんですよ。知らぬが仏的なこともね。

車メーカーについてや、自分が体験したダイハツの対応なども、私が小説「空飛ぶタイヤ」を読んでいるので、(あぁ これね)という私個人の関連付けもあったし。

 

でも、そんな中から、もう隠蔽ボックスから飛び出ちゃう「蓄積ぶり」ってあるんでしょうね。

 

私たちの心体も我慢しすぎ、無理しすぎで調子を崩すように。遊びのある「幅」、猶予みたいなことを超えちゃう事が。

 

と思った時に、良い意味合いの「コツコツ」の効果って「時間」が関係して、以前ホームページのコラムに書いた複利曲線みたく「効いてくる」ってことってあるよね。と頭に浮かんだ。

今回のダイハツや、他の長年の隠蔽体質がどえらいことになる他の事例や、「終末時計」に反映されているアレコレもそういう意味での複利曲線かと思えてしまう。

名より実を取る。損して得取れ。

 

これを「法則」というのは、言うのは簡単だけど、どえらいことにならないケースや、関係者は知っているけれど、もう絶対に世間には漏れないことも知らないだけでありそうだから、それを法則と呼ぶには、そこから漏れるものが多すぎるという見解で私は法則とは呼ばない。

「そーゆーことが 有る時あるよね」という呼び方をします。

私個人が後追い検証できないものが多すぎるというイメージです。コールドリーディングみたいな抽出の仕方をしたら当てはまるものがあることはわかるんですけどね。

 

これは言葉の理解や解釈や使い方の好みの話で、真理の話をしているわけではありません。私たちは個々に嗜好、ルールがありますからね。

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

で、そんな体験をした私の現在

あんなことは人生に1度でお願いしたいし、その1回はもう完了していることにしてほしいのですが、

今の私は元気です。

 

そう、そして、結構などえらいことを体験した後、まだ胸の奥がザワザワしているときにも、頭のどこかで(こんなどえらいことがあったということは、この先大ラッキーがくるな)とも浮かんでた。 やせ我慢? 無理やりなポジティブ? という可能性ももちろん検討したんですよね。自分の思考について。

 

がしかし、本当にあった。

大ラッキーが。

あのどえらいことがあった数か月?1年?後に。

自分でクリエイトできない。ただそのラッキーを迎えるというか、受け取るだけしかできない類の大ラッキーが。

それによって私の「境地」がもう全く変わった。

 

ダイハツの車をこの先買うことは無いと思います。なんせ身の危険、命の危機を感じた瞬間もありましたから。そして今はトヨタ車に乗っています。そして、だいぶヨレヨレになってきたのでそろそろ車は変えます。が、今の車の車検は通しました。まだ乗れるし。

 

色々ありながらも、ここ最近も本当にお陰様で、機嫌よく生活しています。これには感謝の気持ちがあふれてきますので、なんと、寝る前と起きた時にお礼言ってます。

 

因果関係というのは、そのつもりになればどこからでも引っ張ってこられます。その因果関係中毒みたいな思考になる方もいる。とはいってもそれも悪くもないし、良くもなく、人生の生き方の好みの話だと思っています。今は。

 

と、そんなこんなで、引き続きコツコツやっていきますよ。

こんな生き方が向いてるみたいだし、コツコツやりながら、ありがたいことに楽しいことも多いし、ハハハ~~って笑うことも多いし、気持ちが良い方にご縁があることも多いし。

あぁ満足だな~って感じる日がこんなにくるなんて昔は想像できなかったことが現実に起きてるし。

 

焦る気持ちもお察ししますが、複利曲線は「時間」がKEYなんで、大切に今を生きていくことの連続が「時間」となりますからね。

そんなことを今現在は体験できているような気持になっている私からの発信Blogでした。

 

皆様に健康と笑い声のある生活がありますように。

 

あとがき

そして、あくまでも私の場合ですが、他人様が心の中で思ったり、実際にこのセリフを言われたこともあるんですが、なにかあった時に「なんか(あなた)不運よね」と言われるような体験の後に、それ(他人様が不運認定するようなこと)がきっかけになったかのようにラッキーの方へグググッと強制的に磁力で引っ張られるようなことが多かった。強い風が吹いて船の進路が変わるとか、方位磁石の捉えている磁場が急に変わるとか、こんな表現でも良いかも。

 

引っ張られるというか、「神の見えざる手に引っ張ってもらえるような」とでも書きたくなるような印象です。

 

振り返ると、こんなこと多かった。

こんなことに気が付いたら、他人さまに不運認定されてもへっちゃらだし、(もーーー嫌だなぁ)と凹む体験中にも(ってことはまたラッキーがあるかもね)と凹みつつ、浸りきらずどっか冷静でいる。

 

となると、先述の

”色々ありながらも、ここ最近も本当にお陰様で、機嫌よく生活しています。これには感謝の気持ちがあふれてきますので、なんと、寝る前と起きた時にお礼言ってます。”

になるわけです。

 

悩むことはしっかり悩んで、考えることはちゃんと考えて、考えてもしょうがないことはそこそこで思考を外して、やれるときはやれることをやって、コツコツしてるとひょっとして「神の見えざる手に引っ張ってもらえるような」ことが発動するのかもしれない。

 

こんな感じで今回は〆ます。