なーーーるほど
数ミリ進んだ自己理解
今日は前回の記事の続きです。
時代が追い付いてきたか? 違うか(笑)
私は1つのことをしつこく考える時があります。
いつもではないんですが、なんか気になるフックが脳に引っかかる案件が時折現れます。
ありがたいことに、なんとなく収まってくる展開になることが多くて、ひとまず、今のところはこれで。と沈静化する。
沈静化して暫く経つと、 オヤ?そういえばあれってさ。 とまたちょっと腑に落ちる思考展開があったりしてスッキリ化がすすんだりします。
そんなこんなで人生ここまで来てます。相変わらずやってます。
今日もそれ。
「法則から漏れる」と書いたそのニュアンスについて自分のつたない言葉で準備したんです。いったん。ところが、神様が(あなたの言葉だけよりも、こちらを添えることで他人様にもっと理解しやすくなるのでは?)と配剤してくださいましかね?
たびたび感じる、あまりにも絶妙なタイミング、シンクロニシティ、セレンディピティがありました。
そうそう! 再現性!
前置きも注文も多くて申し訳ありませんが、ご紹介しているリンク先の記事を読んでみてほしいです。
TED登場「パワーポージング効果」をまだ信じてはいませんか? あなたが知らない科学の真実
https://diamond.jp/articles/amp/337926
「傾向」と「再現性」は違うものですもんね。
書き進める前にお決まりの前提共有
そう!本当にあくまでも個人的な話なのですが、私の中での「法則」という言葉の理解に引っかかる事例というか、解説、紹介がある程度蓄積してきたような気もしますが、私の個人的な「法則」感との違和感を自己探求するような展開となりました。
いやいや、私だって、鬼でもないのに「鬼ヤバイ」とか、超でもないのに「超眠い」とか言いますから、本当に個人的な独り言を書いているに過ぎません。
どうぞ皆様は皆様の世界観、価値観、信念で人生を満喫してください。
以前も書きましたが、ブログというのは、所詮は独り言なんで。偉そうに書いても、したり顔で書いても、独り言は独り言。独り言を世界に向けて発信するという厚かましいことをしているわけですけれども、これはこれでなかなか自己理解が進んだりする良いツールとなる時があるんですね~。
万有引力の法則感との違い
本題に戻ります。
そもそも私は自分の言葉で何を書く予定にしていたのかと言うと、既に書いた
黄色が気になると世の中の黄色に気が付くようになったり、やたら黄色が目に飛び込んできたりってありますよね。好きも嫌いも両方向にこういった関心を向けたものが脳の感知能力を刺激しやすくするというか、認知しやすくするというか。
そういう基からあったものへの「理由付け」とか「意味づけ」とか「深読み」ということを人間の脳ってやりがちというか、好きなんでしょうね。物語性とか。
(今日はこの辺はサラッと通ります。)
また、確かに傾向として感じるものがあったとして、それを100%に近いような再現性のイメージのある「法則」に安易に昇華しすぎるような まぁニュアンスですね。
そうなっていないものも目の前にあるのに、それはちょっと脇へ置いておいて、起きたことだけを(「虚」「実」「平」という視点を持った時に)「平」ではなくてどちらかに大きく傾けて取り上げてる感というか。
例えばそれは私が冒頭で書いた、”あまりにも絶妙なタイミング、シンクロニシティ、セレンディピティ” というようなことも含めて。こういう抽出の仕方を「コールドリーディング風味」と感じることがあります。
信念や価値観をより強固にさせてくれること以外はスルー。
でも、捉えようによっては全てのことを”あまりにも絶妙なタイミング、シンクロニシティ、セレンディピティ”と言えますよね。毎分、毎秒。
起きていること全てに言おうと思えば言える。
しかし、分け隔てなくそういうニュアンスで「〇〇の法則」という言葉の使い方をされているのなら私個人は納得できる。私がもう本当に個人的に引っかかるのは、「それを利用しよう」「成功しよう」みたいな思想的なことを法則と言い換えてるような捉え方を私がした時に反応するみたい。
それは「〇〇思想」ですよね? 法則じゃなくて。
ということを書こうとしていました。
だから、自分のためにも今後「〇〇の法則」と見聞きして、違和感を感じたら、超個人的に瞬時に「〇〇論」と脳内変換したら済むだけの話なんですよね。(笑)
簡単に言えば、他の方の思想に私の思想が反応しているんですね。通常の世の中の出来事と同じで。
因果関係もあるとは思いますよ。だから因果「論」というのは脳に収まりやすい。が、「因果の法則」という表現になって、人間が紐づけた関連性が100%というような論調や、テクニックとか使いこなし方とかって話になっちゃうと
- 良し悪しという判断が入ってる
- 都合よく良し悪しの因果関係を区切る
- 因果という解釈自体近代の人間の基準ですかね? どうなんですかね?
という、もう本当に面倒くさい、タチの悪い、重箱の隅を楊枝でほじくる的のような、でもしかし全体の話をしているようなことになっておりましたがご安心下さい。
ある意味、ここがポイントなんでしょうね。万有引力の法則との感覚の違いって。
【波動云々があるという観測とか数値に現れるものがある】
のと、
【それを個人的に思想風味に感じる「法則」という観念】
が必ず関連しているというあたりの根拠?にただただ私が むむむ??? っと反応しただけです。
そして、私は自分のためにもわかりやすい落としどころを準備できました。
「論」が良いみたい
それが今回のタイトルにもなっている「論」であり、少し前に書いた「論」です。
もう少し丁寧に書きます。
陰陽「論」とも言いますよね。
私がこの表現を好むのは、「あそび」があるから。この「論」から漏れることがあったって全然ありかもしれませんよ~という余裕と言うか、優しさと言うか、決めつけない成熟性みたいなイメージですかね。
美輪さんも「正負の法則」とおっしゃっておられますが、美輪さんは美輪さんの経験と世界観があおりでしょうから、信念が確立されたんでしょうね。そして、美輪さんが「法則」とおっしゃっる際にその言葉をどういうニュアンスで使用されているのは今の私にはわかりません。
ただ、あなたの行いが子孫に影響しますよ。正負の法則がありますからね。みたいな考え方ってありますでしょ? 私もいろんな因果関係が無いとは言わないけれども(バタフライエフェクト的に)、自分が検証・証明・確認できないことが多いですから。それを「漏れることも確認できない」「漏れないことも確認できない」と言う意味全般を「漏れが多すぎる」と捉えていることが整理出来ました。
解釈次第。というような意味もある。
陰陽を「陰陽は法則」という前提で話をするのか、「陰陽論という説」という考え方を好むのか?ということなんだな。と書いている自分が一番理解出来ました。(笑)
それでいいんだけど
こんな私の個人的な違和感・独り言を書いてきて、〆の言葉はいつも同じ。
法則と言う言葉の使い方も、捉え方も、解釈の仕方も、因果関係の結び付け方も個々が裁量・選択していくことですよね。という確認です。
私は時々、他の何かに隠れた「思想」に(え?)とか(ハ?)とか反応する癖があるんですよ。
厄介ですね~。
厄介ではあるんですけど、結局その後自己理解が進むと、反応したのは自分なんだって再確認できますし、なんらかの思考訓練というか、感情訓練にはなっていそうです。
反応や反応したその後が以前よりも変化してきた気がするから。
ホームページのコラムにも書いたんですが、そういった思想の混ざりぶり(『他者の脳内リミックス』と以前は書きましたが)って、自分で脳内リミックスする自由がありますでしょ?
でも法則という仮面に昇華させた(と、勝手に感じる)『他者の脳内リミックス』を正義だと言われたような気持に私個人が勝手になってしまったりする時があるんです。
「心の治療の真実はどこにあるのか?」について お1人の意見
救いを求める時。救われたいと切に願う時。
しかししかし、正義だと言われたような気持に私個人が勝手になってしまったりする時があろうが、どうだろうが、
- そういったことも私の生きている世界には「有るもの」、
- いろんな考え方が有って共存している、
そして、マルチバース、パラレルワールド、泡宇宙というような概念とフラクタルが形成されているという説を採用すると収まりが良くなってきたのでこの辺りで終わります。
もっと身近な言葉ですと「多様性」ですかね。
数日前、友達が発した言葉です。言葉だけわかった気になりますが、多様性を体感、実感、納得?すればするほど世界は広がるんでしょうね(笑)
おそまつ