だから それがナニカ? と言われましても

昨日の記事に補足します。

磁場は幾つもあるらしい 2

 

それがナニ?と言われましても

「泡宇宙」再び

前回、細胞全てに宇宙があるような気がした。という話をお友達にしたと書きました。

記事を書いた後、ふと、またフラクタル、相似について気がついた(ような気がする)。

 

それは、泡宇宙と、細胞毎の宇宙の相似です。

TomによるPixabayからの画像

 

こういうことを感じたからと言って、それがどうなるのかもわからないし、そもそも合っているとか間違っているとかもわからない。

しかし、誰もこんなこと言ってない。少なくとも私は聞いたことが無い。

 

がしかし、細胞って泡みたいに重なってるよな~って思った。

 

ヒトは変わる

こういった気づきなのか?気のせいなのか?こじつけなのか? なんともハッキリ書けない内容も、今、生命があると感じている私個人の感覚でしかありませんし、特に他に転用したり流用したりすることでもないのかも知れない。できるのかも知れない。なにもわかりません。

 

私の感性は色々な変容を遂げているような気持になりますが、人生を送っている現実は同じ。

ナニカを知って、ナニカがわかって、人生から脱するような、ゲームで言われる「あがり」は無いと思ってる。

 

間違えた。

私個人は、人生から脱するような、ゲームで言われる「あがり」が無くても全然構わない。

ハナから期待してない。

楽にはなりたいと思ってきたけど、別に人生から脱したいわけじゃない。

いやいや、私は貝になりたいと強烈に願った時があったのを思い出した。www

 

私も色々揺れて、今はそういうことを思わないだけであった。(なんでも忘れちゃうもんですね。)

命の灯が消えたら強制的に今回終わるし。

 

シンプルをおすすめ

バランス調整方法っていろいろありますよね。

それそれの個性や感性にあうものが有ると思いますが、個人的にはシンプル化をお薦めしています。

 

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

こちらにも既に書いていますが、「願いを入れるよりもストレスを抜く」というような引き算方法がシンプル化に近いんじゃないかと今の私は感じている。

 

以前は違ったけれど、いろいろ揺れて、試してみて、現在は「願いを入れるよりもストレスを抜く」というアプローチが結果多くなった。足すより引く。

もちろん相談者さんの相談内容にもよりますが。

 

願いを入れるのは割と簡単かもしれないけれど、ストレスを抜くとなると人間に興味を持っている方の方がカウンセラー、セラピスト、ケアする側として適しているような気もする。しかし、そういうモノサシを私が決める必要なんてない。

組み合わせは無限大だから。

 

キネシオロジーテストについて、ルールを沢山作る方や、カリスマになろうとする方は多いけど、私がお会いしたことのないジョン・シー氏は生前

「腕押しができたら皆キネシオロジストだ」とおっしゃっていたという逸話を聞いたことがある。

 

習った側があとからあとから山ほどルールを創って、キネシオロジストとはこうあるべき。と複雑さを優秀さと何故か変換して厳しく厳しくしていく、習った側が習った側を「認めない」ということもあるようですが、これも揺れの最中の一つの段階なのだろうと思うようになった。

それに、こういった事自体が人間の特性であるという事実を見たら良い。感情はいろんな反応をするかもしれないが、もちろん感情があるのが人間だし。

反応し合って人間社会が成り立っている。

TomによるPixabayからの画像

 

これこそ、泡泡がくっ付いているこの画像のように、人間社会も泡宇宙のごとくだと思えてきた。

これも相似なのだろうか?

 

とまぁ、わかったようなことを書いている私も、いろいろ揺れた結果の「シンプル推奨」なので。

そして、ジョン・シー氏のおっしゃっていることもシンプルだった。多分内容もシンプルだったのだろうと(勝手に)思っている。そして私は、そのシンプルな内容を非常に好んでいます。

 

それがアイテムを使わないストレスケアを好む理由です。

セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

 

 

今回の内容を「磁場が幾つもあるらしい」というブログの補足とします。

 

 

また次回、違う内容でお目にかかります。

磁場は幾つもあるらしい 2

本日はこちらの続きです。

磁場は幾つもあるらしい

私がストレスを感じる出来事に「パソコンの動きが遅い」というものが有ります。動きの遅いPCを使うという事はある種我慢を強いられる。残念な事に私のMyPCが前はあんなにサクサク動いていたのに今では旧時代のPC感がすごいです。買い替え検討の1位はマイカーでしたが、PCも同列1位です。随分前に検討していた、PC作業をipadに移行してみようかな。試しに。

 

磁場は幾つもあるらしい

という説

磁場は幾つもある。という説を聞いた。どういうことかと言いますと、脳の磁場と心臓の磁場は違うというようなお話だった。

それぞれに核(?)のようなものが有るから、超簡単に書くと、身体には2大磁場があるというようなイメージなのかな。

別の説

先程の話も、この話も、「説」なのか実際に証明済みなのか不明ですが、以前もブログやホームページのコラムに書いたように、感情にも磁場がある(らしい)。

そして、人間関係、環境も磁場が影響する。

 

磁場だらけである。

その中で、何からも影響を受けずに確固たる「個」を貫く事があるのか?ないのか?出来るのか?できないのか?となると、やはり私たちは揺れているなぁと思った方が辻褄が合いやすいような気がしている。

揺れている、動いていると感じるものは他にもある

髄液

前回、私が施術を行っている最中に「揺れ」(振動という細かいもの)を感じると書きましたが、それは自分の拍動、または施術を受けている方の拍動ではないのか?と思う方もいるかもしれないな~と思ったので、もう少し書いてみます。

そんなこと誰も思っていないかもしれないけど書く。

 

拍動とはまったく振動のリズムも細かさも違うんです。そうだなぁ・・静電気ってどんな感じ?ということを知らないけど、静電気っぽいと書きたくなりました。バチっとくるアレじゃなくて、本当の「静かな電気」って感じ。

 

私が最初にキネシオロジーを学んだ本間先生はLA近辺でナンバーワンの評価を受けているカイロプラクティックのDr.で、とにかく治療する件数が多い。早朝からずっと予約でいっぱい。LA近辺の日本人だけが来院されるのではなくて、人種関係なくそれこそ人間の身体に触れて診てらっしゃる。

10年以上前に本間先生から頭部の回復点に触れてバランス調整をするというスキルを習った時に、「波がある」「拍動とは違うリズム」「ドーン、ドーンという感じ」と解説されたのを今でも鮮明に覚えています。

脳と脊髄が硬膜という袋の中に入っていて、髄液で満たされている。当時は、この髄液の動きを感じているのだろうと勝手にイメージしました。(先生がはっきりとそう解説をしてくださったのかもしれませんが、そこは忘れている。)しかし、本間先生が人間に触れて何を感じられるのか?を当時の(今も)私がそのまんま想像できているとも思えない。髄液以外のナニカを感じていても全然不思議じゃない。

 

そもそも論

そう、私達の心体はいろんなリズムで揺れまくっている。(生きている間は)

 

本当に生きているって奇跡だと思うし、壮大なシステムが働いている。

 

その奇跡と壮大さを忘れたり、気づけなかったりすると、まことしやかな情報や常識というレッテル、比較をしてあれやこれやで悩む。苦しむ。喜ぶ。

私も散々やったし、これからもやるだろう。

そして、それも人生。それが人間。

 

しかし、今回書いているような視点に立つとこれらを「素晴らしい不確実性」とも呼びたい。「人生はギャンブルだ」と人類で最初に言ったのか誰か知らないが、きっとその方はナニカを見通した一瞬があったんじゃないかな。

 

また、「この世は幻」という名言の作者もこの「不確実性」というようなニュアンスを肌で感じたか、視覚で捉えたか、なにかあってもおかしくない。

 

安心したい、安定したい、と望むけれど、そもそもが揺れているし、不確実性の上に成り立っている。と思うと、狭い意味の柔軟性ではなくて、そもそもの意識の持ち方や生き方の設定が180度変わった時に「楽になれる」というケースもあるような気がする。

法則も変わる

前回の記事で、苦労の前払いシステムは全人類に適応されるのか?ということを書いたけれど、そう言えば故・水木しげる氏は「努力は自分を裏切る」ということをおっしゃっていた。「努力は叶う」という金言を肯定されてはいなかった。それは漫画家界で志半ばで去っていく多く(ほとんど)の方を実際に見たからだそうです。(これについても過去数回ブログに書いています)

 

そして、いろいろな法則や教えのようなものを発表されていた故・小林正観さんも他界される前に「私が言っていたことは違っていた」とおっしゃったという情報をどこかで目にした。世の中を牽引したカリスマでしたが。具体的にどの部分を指して「違っていた」とおっしゃったのかまではわかりませんが、私個人は、生前氏の主張されていた「法則」というものに非常に違和感や ??? という考えになったことがあったので、過去、世の中(あるいはスピリチュアル界)を牽引した方々が前言を撤回されても全然ショックは受けない。

カリスマだって揺れるという事ですよね。

長い年月という時間単位の揺れ。その長い年月の揺れを生む「今この瞬間の揺れ」と、その連続によって。

環境が変わって視点が変わるってこともある。過去に3大カリスマについて書いたことがありましたが、その時に既に4大カリスマと書いても良かった。

思考と想念と感覚と実際

 

それを、カリスマたちの間違いとレッテルを貼ることも出来るけれど、ただ単に「揺れ」とすることも出来る。私は個人的に「揺れ」と捉えることにしている。

人生にはいろんな時期があって、いろんなことを信じている時期があって、いろんなことを否定している時期があって、というように。

 

軸足

前回も書いたし、度々書きますが、揺れているのがデフォルトとしても「軸足」みたいなことまで揺れているよりは、大まかにザックリと、ぼんやりと自分の人生の過ごし方をうイメージしていると良いんじゃないか?などと思ったりしている。それは、私個人的には目標設定とは違う。その意味合いは、人生=目標達成というわけじゃないから。

 

しかし、ここがどうやら難しいらしい。

それは「条件」と「自分の軸足」がこちゃまぜになってしまうからのようだ。

ごちゃ混ぜにしてしまう多くのシチュエーションのうちの1つに、「法則」というものも一役買っているケースがあるよね? どう? そういう法則って、唱えている方のハロー効果まで含まれていたりするから厄介をこじらすことがあったりして、こんがらがった紐が益々こんがらがったりして。

 

どうであれ揺れているんだろうけど、そのアレモコレモの揺れ具合が美しい旋律を奏でている時ってあると思うんですよ。今日現在の私の勝手なイメージでは、その美しい旋律を奏でる土台として、その旋律を時々妨害してしまう世の中やそれぞれの脳内の「条件」「条件付け」がなるべく少ない「シンプルな自分」という状態が良いような気がする。

 

時として「愛」という言葉も、シンプルな自分から湧き出る愛ではなくて、なにかしらの条件(や条件付け)として使われているケースもあるような気がする。

 

こういったことも、長い年月かけて揺れて揺れて揺れて、わかってくる場合もあるし、わからない場合もあるだろうけど、それも個々の人生の「軸足」にかかってくるのかもしれない。

私自身もこの先のことは不確実でしかないけれど、今日現在は生きていて嬉しいし、生まれてきて幸せ。

ようやく「お友達との会話」について書きます

腰を抜かすほどではないが、ここからが本題で今までは助走であったことに驚く方がいるだろうか? 毎度すみません。

 

これも科学?

歪んでいるのは次元? 空間?

上のブログで「お腹の宇宙」について書きました。

 

そしてそれが「泡宇宙」にひょっとして繋がった(発想が。という意味)??? となりました。

こんな話をアレグリアの開場を待っていた時にお友達に話をしていたんですが、実はお友達に会う前にブログに書いた感覚に加わったイメージがあったのでそれも話したんですよ、お友達の彼女に。

 

いやもう、こんなこと書いたら、益々(ヤバイ! このヒト いっちゃんてんな~)と思われるであろうことを覚悟して書きますが、言い訳としては ただの脳内に沸いたイメージなんで そこんとこヨロシク です。

 

細胞の1つ1つに銀河がある

私の場合はお腹にも脳内にも、他にも宇宙というか銀河みたいなものがイメージできるのですが、(ということはどこにでもあるってことだな~)って思ったら、ふと

あ! 細胞1つ1つにも宇宙ってあるじゃん

と思ったんだよね。 という話をしたんです。(2大磁場とはまた毛色の違う話になってますが。)

 

そう、これが当初の「今回のブログの結論は、お友達と会話したことです」という結論のはずでした。

 

が、今回の文章をここまで書いてきて、またまた ふと 思ったんです。

 

細胞の1つ1つに宇宙があって、それで構成されている人体は確かに「あってないようなモノ」なんだなって。

あらまぁ トンデモナイことに気がついちゃった。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

 

これまで、言葉では色んな表現で聞いてきたようなトンデモナイことが、自分の感覚と独自のルートでなんだか理解できるような気がしちゃった。

 

あらまぁ

 

私はとりたてて興味がないのですが、「真理」を知りたい方々はこういったことが興味の対象なのかしら? もっと他の何かなのかしら?

真理を知ったら(触れたら)世界が変わる(変わって見える)と信じて追及されたりするのかしら?

 

私が体験(と書いて良いのかわかりませんが)した限りでは、特に生活は変わらないっす。ザ・人間のままですし。ザ・人間で良いですし。

知識欲というか、研究者欲としては1つの新しい感覚体験として有り難いですし、この僥倖に感謝してもしきれませんが、今まで通り ザ・人間です。

 

私はそれで良い。今幸せ。

みんな一緒

これは以前も書いたように皆一緒というか、誰でもある。単なる、気がつくか?気がつかないか?の違いだけなはずですが、カリスマでもないから有難みは特にありませんが、こんな風に文章に起こしてシェアするという一個人としてできることをしています。

 

この記事を書きあげた今日は、天気が良く、湿度も低めで風が爽やかで、とっても心地よくて気分が良い。生きていて嬉しい。

真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をする前も生きていて嬉しかった。真理なのか違うのかよくわからない体験、感覚をした(?)今も生まれてきた喜びは変わらない。

ただ、ありがたいです。

 

みなさまにも、喜びがありますように(^^)

自然に笑顔になってしまうような出会いがありますように(^^)

磁場は幾つもあるらしい

同じタイトルで結構な量を書いた下書きが他にあるのですが、どうも横道のそれ具合がよろしく無くて、まとまらなくなりました。折角書いたけど、まとまらない文章を眺めていると筆がますます乗らないので新しく書き直します。

 

先日上京し、シルクドソレイユの「アレグリア」を鑑賞し、自分のメンテナンス目的に治療、施術を受けていますが、お友達と食事をとったり、お茶したり、待ち時間を利用してユンタクした際に話したこと。二人の会話の一部が本日の結論になります。

しばしお付き合い下さい。

 

磁場は幾つもあるらしい

磁場の捉え方

波動ではなくて、「揺れ」と言いたい感覚について

言葉は1つでもそれに紐づいている印象やイメージは個々により多岐にわたります。

波動という言葉がしっくりくる方もいるし、私のように波動という言葉がどうもしっくりこないタイプもおりますが、とどのつまり、言いたい事や捉え方はほぼほぼ似ていたりすることもある。

本当に言葉って難しい。面白いけど難しい。

私も以前、

” 感情も細胞も、私達人間はいろいろ揺れている ”

と書きました。

この揺れているモノの中には、来るべき未来というようなことも含まれているし、過ぎたる過去なども含まれている。生きているとは揺れているような意味合いがあると書いたことがありますが、これは =(イコール)「波動」では無いんですね。私の中では。

施術中に「揺れ」「振動」を感じるから

1つは、施術中に(この揺れは相談者の細胞が揺れているのか? 私の細胞の揺れなのか? 電気信号を揺れと感じているのか? それとも全く違うナニカなのか?)と思う感覚があって、実際に「人間は揺れている」(理由は特定しないけど)と思っている私がいる。

昔のブログでもご紹介しましたが、施術を受けておられる最中のご本人も「細胞の揺れ」と感じる方もいらっしゃった。

体感覚とは別の「揺れ」

またこれとは別に私が意味したいところは、生命に伴っている「不確実性」というようなニュアンスなんですよ。

揺れている = それは波でしょ? 波動でしょ?  という事では無くて。

揺れている ということをすぐさま「波」とは脳内変換するつもりがない。というニュアンスです。

 

そしてあくまでも個人的な好みとして、「波動」という表現をほぼ使わない。が、そこに電気信号が加わった「生体電気の反応(揺れ)」「磁場」というようなことは非常に私の感性や皮膚感覚にフィットするという個人のこだわりみたいなことってあるんですよね。

 

と、ここまで書いて、ふと気がついたのは、なぜ「電気」を帯びている状況を表す言葉がフィットするのか? 感性や皮膚感覚にフィットするのか? の1つの原因について。

私が「生きている」から?

ただの気のせい。とか、ただのこだわり。ということも十分理由になるし、原因だったりすることも踏まえたうえですが、この辺りの「感覚」「感じ方」というものの私なりの探求心に潜っていくと、その電気を帯びているとしっくりくるという理由のようなモノは、私が今生きているからかな?などと考えてみた。

生きているこの私が電気を帯びているから。

その私の感性には、同じようなものがエッセンスとして抽出されてくることもあるし、違和感をかんじるものとして抽出されてくることもあるというようなイメージです。

プラス、マイナス、中性があるように。(中性という言葉を使うのなら、電気ではなくてイオンと書くのが正しいのかどうかもあやふやです。(T_T) )

同じ波動のモノ(だけ)を引き寄せるというような論理展開とはこの辺りがちょっと異なるのかもしれません。引き寄せるというよりも、「感じる」「反応する」「反応しない」ということを主に置いていると書くと良いのかな?

・・・難しいですね。上手く書けませんので、今後の私の成長に期待しましょう。

 

とんでもない、ブラックボックス案件になりませんように

と、ここまで書いてきて、以前のブログに書いた「潜在意識界の常識 パンドラの箱オープン案件か?」というようなことも本日やらかしちゃうような予感がしてきた。

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

治療体験記 後日編-3 顕在意識について

 

気が小さいので最初にお詫び

私はこの文字を何百回書いただろうか? そして今日も書く。

私は世の中のいろいろな現象や常識や刷り込みについて、一人でコツコツと考えている癖がある。

そして私には私の過程があり、違うと思ってみたり、いや間違ってもいないんだな。と思ってみたりと、それこそ揺れながらなんとなく自分の落としどころに諸事を納めていっているような気もするし、納める必要などなかったと気がつくこともあったりと様々です。

 

これから書くことは、そんな私の思考の過程の話です。

結果では無いし、結果など出す気もそもそもない。

そうですね、「常識」だと思われていることの、「その枠の外」について可能性を考えるのが好きな人が書いている個人の意見ですから、そこのところ宜しくお願いいたします。

 

人間と機械の違い

当初、磁場に関するブログを書こうと思っていて、助走を書いていたら、いきなり曲がり角から想定外のものが登場した。

なぜ、私個人が「そもそも波動(という表現)に興味が無い。」と感じるのか? を改めて考えてみた。

好き嫌いはあっても、その理由は考えてなかったけれども、そう言えばなんで? と自分に問うてみた。

  1. 機械で測定&数値化に興味が無い
  2. 波動という言葉が、引き寄せもそうなんだけど、幸福になるための条件みたいに使われているように感じるから

1.数値化

「パワーか、フォースか」という書籍がある。キネシオロジーテストというスキルを知ったのちその存在を知り読んだ。今も手元にあると思うが、もう随分読んでない。手元に無くて処分してしまっていても不思議じゃない。

数値化とは、人間が理解しやすい有効な手段という事は知っている。それが使われて文明の利器は発達して、私の生活もお陰様で便利だし。

数値が良くなりました。ということが人間の回復を後押しする作用も知っているつもりだ。機械で数値化せずとも、キネシオロジーテストによって人間が数値を計るってことだって当たり前に行われている。

 

ただ、人生は数値だけじゃない。数値に支配されるものでも無い。数値の扱い方や適用部所にもいろんな意味があるよね?って思ったりすると、初めて「パワーか、フォースか」を読んだ時の心情と今現在の心情は少々違っている。

私自身も変化したせいで、感性も変化したみたい。

 

  • 機械で測定する数値って 結局ナニ?
  • いろんな電気状態の測定者がいるであろう、その測定者が計る数値って 結局ナニ?

みたいな、まぁ簡単に言うと、中二病と言われるような視点なのかもしれないですね。

 

ですから、あくまでも私の生きながら考えている「2023年6月19日現在」の過程の話なんですよ。

しかし、なんとなく、そもそもの設定説明や刷り込みの枠からヒョイっと出ると、こういった疑問はブラックボックス案件っぽいような気もするし、パンドラの箱案件のような気もする。

 

が、しかし、私も私の信じているような道があるように、皆様は皆様の信じている道をこれまで通りお進み頂きたい。

私は決して「考えを変えて!」と言いたいわけじゃなくて、自分がふと感じていることを呟きたいだけなんです。

 

キネシオロジーテストのON、OFFにだって同じような視点を持つこともできる。ということを頭の片隅に入れておくことも大切だと私個人は思っている。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

2.目的が変わっちゃって

間違った事は言ってないんだろうと思っていますが、引き寄せと波動の関係というか、含み方のようなものになにか違和感を感じるんだよな~ と自分の違和感を深堀してみた。

多分、幸せになるために修行思想。みたいなものと似たニュアンスを感じているんだろうな。

人生の過ごし方や、幸せの価値観はヒトそれぞれですから、修行がお好きならしたら良いんだけど(っていうか、わざわざ修行の現実を自ら創りださなくてもただ生きているだけで好むと好まざると修行みたいな出来事ってあるような気がします)、私が言いたいのは、「修行しないと幸せになれない」というような無意識の刷り込みのことです。

なかなか気がつけない「条件付け」ってありますよ。

 

苦労の前払いみたいな感覚? 前払いシステムは万人のどのような状況にも公平に適用されますか?

 

どんな生き方が正しいとか、良いとか、わかりませんが、「どう生きたいのか?」という軸足みたいなことが、修行という言葉や、波動といういような言葉で煙に巻かれてしまうようなことがないですか? ということが書きたいのですが、どうでしょうか?書けてますか?

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

結局、当初書こうとしていたことは次回以降へ

冒頭に書いた、まとまらなくなった下書きよりはなんとか形になったものの、書きたいことへ到達する前に今回は一旦〆ます。

 

友達との会話にあったという書く予定だった結論にも今回の記事は触れずに終わりました。

 

違う事ばかり書いていて、当初の予定の着地点を忘れてしまわないか心配になりますわ。w

 

ではまた次回 お目にかかります。

現実に、目視できる体の変化

体表だから思いっきり目視できる変化

傍からは目視出来ない変化については既に書きました

私がどんなにその感覚を書こうとも、傍からは確認できない変化って多岐にわたりますが、その内の1つについて書いた記事が ↓ です。

ひょっとして!? ついに? 祝?

 

本日は明らかな変化について書きます

その前にいきなり得意な横道へ入る

上の症例(というのか)については、東京で治療を受けたことと関係が有るとも無いとも言い切れないのですが、「言いきれない=証明できない」のは確かなのですが、でも関係がないとも言い切れない。

本題に入る前に私の治療や施術についての私見の理解について書きたい。

 

全ては連結・関係している。というようなモノの見方しています。

 

どういうことかと言いますと、治療や施術をする側も、受ける側も自分が好ましい関連付けもしますでしょ? Aさんが気に入ったなら「良くなったのはAさんが原因だ」と思うのが人情だろうし、Bさんがどんな理由があるにせよ気に入らないのなら「良くなったことにBさんは関係ない」と思いたくなるのも人情。(認めて欲しい側の話としても文章を変えてみてください)

それはAさんは認めても良いけど、Bさんは認めないぞ!と頑張っちゃったりするのもヒトの心だったりするからだ。Aさんに影響をうけたことは受け入れやすいけど、Bさんに恩恵を被ったと思うのはプライドが許さないとか。まぁヒトっていろいろ考えるわけですよ。

Bさんへの「認めないぞ」心は、そういったことが自分にはあると自覚できた方が客観力はあるでしょうが、たいていはその「認めないぞ!」ということが格好悪い(そこもプライドが許さないという二重奏、三重奏だったりする)と思ったりして、本心を隠蔽したり、感じないようにしたりするのもヒトたるゆえんだろう。

愛すべき「ヒトの特徴」って沢山ある。

 

しかし、私の心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアを仕事にする前の会社員時代、「嫌という程先輩Cさんの不満を耳にして、うつりたくない口癖が自分の脳に染みわたった」独特の違和感が(たぶん)ようやく解消されたのは、AもBも関係している。それは違和感の解消にも違和感の発生にも結局Cさんが関係しているようなことと似ている。

そうか、こんな時に最適な諺がありましたね、「風が吹けば桶屋が儲かる」という。

大きな話だと、「輪廻転生」みたいな考え方にもなりますか?

 

生命が続いている限り、全ては関連している。と書くとわかりづらいが、生きている限りなにかしらが関わり合って連続している。AもBもCもその連続性の中に含まれている。言葉を変えると、AもBもCも私の人生に含まれている。

イヤだろうが、認めたくなかろうが、嫌いだろうが、悲しかろうが、腹が立とうが、強烈に愛していようが。

 

だから、「ナニカ=ナニカ」「原因を1つに特定=結果を1つに特定」ということはできないと思っています。良いことも悪いことも。

 

このように、私は結構この辺りが厳しめというか、研究者みたいな気分になるとそう簡単に「原因を1つに特定=結果を1つに特定」とはしない傾向にあります。

 

話を少しずつ戻すと、それは治療や施術を受けることだけじゃなくて、心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアをする側としても。今は「治癒は本人のタイミングで治癒する」ということをしみじみと感じているので、「治癒には私にチカラが云々」みたいな顕示欲やそれこそ承認欲求もなりを潜めている。

私などは、他人様の人生劇場に一瞬通りかかるだけだったりする。時には他人様の人生劇場にしばらく登場人物として名前まで頂戴して関わることもあるが、それでもいつかは出番が終わって退場する。他人様の人生劇場に足跡を残したいという欲求とは、記憶に残りたいという欲求と似ているのかも知れないが、今は別にその辺りにたいした情熱は無い。だって決めるのは他人様だから。

 

ただ、しかし、治療や施術を受けている最中の体感、感覚が在るものに関してのそれらは、ちゃんと認識したいと思っている。好きだろうが嫌いだろうが、それはそれ。

私の脳の傾向として感情で感覚を抑え込むような事が難しいだけなんだけど。イメージは、感情はちゃんと強くあるんだけど、感覚がそれと同等、もしくはそれ以上に強いのかもなどと今書いていて思った。そのせめぎ合いがあったとしても、それをまた感じるという結構面倒な時もある。

 

こう思いながらも、目に見えている「これは治療を受けた後に変わったのでは?」箇所

という、原因と結果というような答えを、自分で「そう言う事にしておこう」以外には、そう簡単には言い切れないながらも、これらは治療を受けた影響ではなかろうか?と思った事を書きます。

沖縄に戻ってから、試験的にマグネシウムの吸収を増加させるようなことをやり始めましたので、単純に東京へ行く前と帰った後の比較する事ができませんが、それらを含めたうえで書いていきます。

Esi GrünhagenによるPixabayからの画像

1つ目

これも「1つの原因に1つの結果」にはならないのですが、しかし治療の影響かな?と思ったのは踵です(踵は足にしかありません)。踵がカサついていたんですね。

冬が終わって、暖かくなるにつれ自然にそのカサつきは変化したのかもしれないけれど、が、しかし、今はツルっととは言わないまでも、(カサついてる)というように気になることが無くなりました。

その変化に オッ! と思いまして、ブログに書いて記録したくなりました。

2つ目

それは、ある日 アレ??!! と気がついたのですが、右足の薬指の爪、この1枚の爪だけが色がどんよりしていた。この指に重いものでも落として、爪が変色したの? と思ったくらいです。

重いものを落としても気がつかないほど夢中でナニカをしていたのかな?って。

 

でも爪って伸びるし、剥がれそうなわけでもないし まぁいいか。と放置していた。

 

それが、東京から戻ってふと見たら、健康的な他の指と同じ色の爪が根元から生えており、変色した爪は爪を切るタイミングでどんどん減っている最中です。

 

原因を推測するといろいろ考えられるでしょうが、それはしないでおきます。(ナンデ?)

 

足?!

他にも自覚できない心体内外の変化はあるのかもしれませんが、今回気がついた2つに関しては「足」ですね。

 

なんにせよ有り難い変化でしたし、有り難い変化の中には「最近治療を受けた」という事実が含まれていることは確かですものね。

 

今日も、ありがたい、ありがたい。と思いながら過ごした時間がありました。

ありがたいです。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

 

あなたにも、皆様にも、朗らかな時間がありますように。

ありがたく感じる時間がありますように!

ひょっとして!? ついに? 祝?

気になる「原始反射もどき」がついに?!

ついにその時が来たか?

何度も書きますが、私はあきらめの早いことが多い(みたい)。

しかし、自分のストレスを減らしたい探求心のようなものは非常にしつこい。ある意味情熱的である。

だから、人生はいろいろだと思い、人生の時間の使い方や進み方はヒトそれぞれだと思いながらも、でもやっぱり自分の価値感にこだわっていた時は、「癒し」とか、それらしく聞こえるスピ系解説とか、(ひねくれた私には妙に感じてしまう)儀式系をして、でもストレスケアは進んでいないように感じる風景をみると、そんなの本当にヒトの好き好きなのに(本当にラクになりたいのかな? 真剣に取り組んだらもっと早く楽になるのに。人生変わるのに。)などと本当に余計なお世話に思う事もあった。(本当に。って書き過ぎ)

要するに私はバカだった。今もそうだけど。

 

私は人生も楽になると良いなぁと思って、研究者のようにストレスケアをやったが、それはこういったストレスケアに非常に適性があっただけの話だと理解できるようになった。

誰しもができるわけじゃない。それは執着のありどころが違うから。

私はたまたま、自分の執着発動ポイントをフル活用していたら人生楽になっただけだった。(笑)

興味の持つところが、たまたま自分に恩恵として大きくてラッキーとして働いた。

 

そして、それは、相も変わらず興味深い研究として引き続き作用している。

だから、もう、今日を境に、ストレスケアは仕事にしていようがいまいが、私の天職というか、飽きずに興味を持てる時点で才能だと認識する事にした。たまたまこの才能を心体カウンセリング™ ・セラピー・ケアで相談者さんや受講生さんにシェアというか、ご提供できるのならとても嬉しいと思っています。

 

そういう意味では、ある意味独自路線も自然に探求しているということに繋がっている。習う、教えに従うというスタイルと、研究していくというスタイルだと向き合い方が違ったりするんだろうか?

 

だから、私はキネシオロジーに出会って、それしかしない時期も経て、今ではキネシオロジーテクニックを使わないストレスケアも増え、というか、キネシオロジーテクニックを使わないストレスケアが今では多いのかもしれないが、今日現在は非常に良い感じに仕上がっている。

有り難い限りです。

いつも素直に「ありがたい」って思ってる。

 

振り返ってみると、好きだからやっているので、頑張った感はないが距離は稼いだ感じがして、追い風に恵まれた帆船な気分だ。

Manfred ReinertによるPixabayからの画像

 

そして、前書きが長くなったが、過去のブログで経過をご報告していた「絶対にうつりたくない口癖」がついに我が身から消えたような気がするので、私のMyストレスケアアプローチについてご報告したい。

そう! 舌とか、口の辺りによぎっていた 磁場?磁力?みたいなものについて

肉体の記憶

 

” 神経だけを取り上げて、神経に(細胞の)記憶のようなものがあると仮定すると、神経は「通り道」の役割だけじゃないなぁと思えた。神経細胞自体の「記憶」みたいなこととも感じたし、「舌」という部位がストレスケアでのバランス調整から若干取り残されていたような体感も興味深かった。

それ自体(部位と表現して合っていますか?)が記憶に反応していて、脳側だけをストレスケア(バランス調整)するだけでは届かない分野があると頭の中に置いておくだけで、また一歩ストレスケア(バランス調整・セラピー・ケア)が進むかもしれませんね。 ”

 

肉体の記憶 その後の変化について

上の記事には、

” 私の頭に浮かんだのは、「磁場?」というもの。

 

肉体の神経だけが反応しているのなら、「舌」から離れたらもう感じないという可能性が考えられるのに、身体から離れてると感じるこの感覚がオモロイ。

 

よく「オーラ」とかって言うじゃないです。

エーテル体とか、アストラル体という定義もありますし。 ”

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

 

と書いた後の話を今日は書きたい。

 

何かが作用したのか? 総合作用か?

特定はできないけど

上でシェアした記事を書いた後に治療を受けました。が、これについては気になるトピックに取り上げなかった。治療を受ける前にすでにストレスも全くもって薄くなってきたから まぁ そのうち消えるかも? どうかな? という経過観察中でしたし、そもそも忘れていたけれども、もし思い出しても、これをトピックにして限られた治療時間が減るのは勿体ないとすら強欲な私は思っていた気がする。

で、東京から沖縄に戻っても、まだ「ヤツ」の気配がフワッと漂った時があって、(あぁ まだ消えてないな)と思った。

 

である日、家で、「くいしばりのケア」をする解説をされている動画を見た時に、私の「もう脳というより口周辺、舌、口腔の肉体の電気?神経?磁場?の残留ストレス(記憶)だろう」と感じるストレスに使えるかも!と早速やってみた。

 

なぜこれが「使えるかも!」と思ったのかというと、私が共振して「絶対にうつりたくない口癖」を身に着けてしまったその方の顔を思い出すと、「顎」辺りが印象に残っていたんですよ。

多分当時、(いろいろ我慢してるんだな~。不満が多いんだな~)という雰囲気をあの方の顎の「あの感じ」からも感じていたのを思い出したというか、再確認したんですよね。

 

動画では解説されていないことも、欲が深い私は、じゃあ、顔の下半身(と言ったりしますよね。(笑))の記憶ってことなら、具体的に口腔に接している辺りをくまなくケアしてみるか! あれこれ(こんなことも)やっておこっと♪ と勝手にバリエーションを増やしてやってみた。

Sayaka PhotosによるPixabayからの画像

 

そのため(ストレスケア。または、その興味深い研究のためなら!)と、絶対にうつりたくない口癖を何度も脳内で呟いて、肉体にその記憶をよみがえらせて、動画の中の先生はそんなことやれって一言も行ってない事も、

  • あ! これはどうかな?
  • そうだ! これも加えておこう!

と、執着研究心丸出しで、すっかりイケイケな感じで試してみた。

 

2~3回やりました。1回は多分3分以内だったと思う。

しつこいことが良かった

いつまでこの、「絶対にうつりたくない口癖」のストレスケアをやっとんねん。

しつこい!(笑)

 

そう! こういったことはあきらめない。

というより、身体が感知してしまうので忘れられない。だからやる。

 

その結果・・・ ヤツは消えた!? 多分。

散々ストレスケアを行って、どんどん薄らいでいって、ついに最後のダメ押しが出来たか?!

 

 

また1つ、人生が楽になった。祝

NickによるPixabayからの画像

 

なにも使わない

私の個人的な主流として、ストレスケアにアイテムを使わないです。

  • アロマも使わない。
  • 音叉も使わない。
  • レメディも使わない。
  • カードも使わない。
  • 道具じゃないけど、アファメーションも使わない。

ほかにもいろいろあるでしょうが、それらは使わない。もう数年ずっとこんな感じ。

 

今回記事に書いたストレスケアについては、キネシオロジーテクニックを使わないストレスケアなので、ONとかOFFとかもとらない。

 

使ったのは自分の手。

ストレスケアの完了度合いというか、残穢感というか、残渣感というか、違和感というか、そういったものはONとかOFFで確認するのではなくて、感覚や肉体をジッ----------と自己観察して確認しました。

John HainによるPixabayからの画像

 

多分・・・多分ですがヤツは消えた(と思う)。

 

もしまたひょっこり出てきたら、また今回行ったセルフストレスケアをやってみます。

あなたも一緒にいかがですか?

私のように、人生楽になるのをしつこく追及したい方におススメしているセルフケアの1つの方法です。簡単です。

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セルフケア講座 自分で怒りや不安をストレスケア! アイテム不要! 

前回の記事の補足 お好みの人生について

私が天才なら書きたいことを一発、一回で書ききれるのでしょうが、今日現在は天才からは程遠い為今回のように補足記事をせっせと書く事になりました。いつも通りと言わざる負えませんが。

 

こちらの記事の内容について補足します。

これも科学?

 

お好みの宇宙

何を創り出したってお好みだ

 

” これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。 ”

 

と書いたのですが、これは書き方が違っていた。

 

それぞれの人生は、お好み。

 

得意な方は意識をちょっとイジッてホログラムのような映像を創り出すことなんて朝飯前。これが出来るから意識でチョチョチョイッと現実化するぜ! ということがお好みなら、他の誰が何を言おうと「そうしたい」からする。

ramazan balayevによるPixabayからの画像

 

身体に悪いとか、メンタルに悪いとか、そういう情報を見聞きしていてもそうしたければする。

私だってそうだ。今は(あれは間違ってたな)という考え方や行動も当時は「良し」と思っていたであろう、いや、信じていたであろうし、それが「流された、流れちゃった」と思うようなことも、その時はその選択しかできなかった。

 

私個人的には、それらも時々見直したりして行動修正や行動変容することもあるし、身体やメンタルが自然発生的に従来の習慣から離れて行くこともある。

若い頃吸っていたタバコも、すぅーーーーっと苦しまずに離れられたし(ラッキー)、成長期に水のようにガブガブ飲んでいた牛乳も、今となってはカフェオレに少し入れるだけになり、昔は買う気にもならなかった小さな牛乳をたまに買えば事足りている。牛乳だけを飲むなんてことはもう何年もない。この変化に自分が驚いている。

 

今は今。

未来はわからないってことです。

 

悲しいお知らせかもしれませんが

お腹の宇宙の話を書きましたが、今から書くことは読む方によっては非常に悲しいお知らせになる可能性があるので、不快な事からは遠ざかりたい方はもう読まないでいただきたい。と念を押します。

日常生活は続く

それは、お腹に宇宙があっても、お腹に宇宙が観えても、独特の安心感を得ても、

社会に生きているのなら、それはそれなりのストレスもあるし、嫌な人や嫌いな人や不本意だと感じる出来事はあるし、お腹に宇宙があっても、別に世俗から抜けられるわけじゃない。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

 

お腹に宇宙があるということは、シュレーディンガーの猫のごとく意識したときに「現れる」というような感じだし、以前も書いたのですが、悟りって「一瞬」「その瞬間」の出来事であって永続的な事じゃないような気がするというのと同じです。

 

目的じゃない。

これらは私の人生の目的にするものではない。じゃあ手段か?と問われるとそれも違うような気がするから、言葉を探してみたところ、ピッタリきたのは「ただの事象」でした。

意味づけに価値を重く置かなければ、こんな言葉が頭に浮かんだ。

 

少なくとも私にはお腹の宇宙が観たいという意図などなかったし、それにむけて努力したとか行動したとかないんで、偶然現れるモノ(コト)であろうと分類しています。

それを知ろうとやけに調べたり、修行?するという執着があればあるほど遠ざかる類の「偶然現れるモノ(コト)」。そうですね、陰陽論的な「平」、ゼロポイントみたいな状態で「偶然現れるモノ(コト)」「感じるような事」かも知れない。

 

こんなことも過去のコラムに書きましたっけね。

コラム集

 

振り子みたいなイメージ?

私達は固定の状態で生きておらず、揺れている。

感情も揺らげば、ホルモンも揺らげば、内臓も揺らいでいる。

生きていれば生きているという(生体)電気を帯びている。電気を帯びているから揺れている?

 

数えきれないそれらが共振しあうのか何なのか理由は分かりませんが、揺れみたいなものが一瞬「平」「ゼロ」みたいになった時に、

あの白い世界(過去のコラムにも書いた、相談者さんや受講生さんが脳内で見た独特の風景があり、人は違うのに風景はたぶん同じな、「これは悟りなの?(正解は不明)」という感覚があるのですが、それがそうです。映画「マトリックス」にも白い世界が出てきますよね。白い世界に自分で全て(まずはソファーでしたか?)を生み出していくという世界が。あれと一緒なのかどうかも不明。映画を創った方と話さない限り確認できないから)へ瞬間移動みたいなことをする。

私はリアルマスターヨーダの大竹お父さんに、次にお会いした時に「あの白い世界は一体なんですか?」と質問したいと思いつつもう3年?経ちました。多分リアルマスターヨーダはご存じのはずで、今思えばそれっぽい発言をされていたような覚えがあるんですが、肝心の私がぼんやりしているもんだから未だにハッキリしないままフワッと脳内に滞在しております。

 

相談者さんも受講生さんも私も、誰もこんなことを予定していないし、願っていないし、想定していないから、なにか条件が揃うと(かどうかも全てが不明ですが)「偶然現れるモノ(コト)」「感じるような事」なんですよね。

しかし、その後も皆普通に生活している。

色んなことがあって、体験して、考えて、いろいろやってる。

だから別に、少々のことがあったって「抜けない」。

こじらす(これも好きずき。お好みです)ことはあっても、抜けちゃって俗世を離脱した方はいない。

 

一瞬の体験・感覚でしかない。

 

ただ、それらが、人生に影響を与えることはあると思う。それがご本人の生きやすい人生の追い風や支えになったらそれはそれでステキなだぁと思っています。

私も滑ったり転んだり笑ったりしながら生活しておりますが、いつもお腹に宇宙があるということは何とも言えない有り難い感覚です。生きている間にこんなことがあるなんて!という体験はお陰様で多いのですが、このお腹の宇宙もホント有り難い。感謝×1000000乗です。

運が良かったと感謝しています。

 

それとはまた別に、日常生活の「イライラすること」はあるわけです。

しかし、もう本当に生き易くなったし、イライラすることも今日現在はとっても少ない。無い訳じゃない。が、これまでの人生の中で、この状態でイライラするなんて言うのもちゃんちゃらおかしい程度ではありますが、自分に素直になった時に、やっぱり「イヤダ」「嫌い」「イライラする」時間はある。それで良いと思っています。

 

私は「人生生き易くなるといいな」「楽になりたい」と長年思ってきましたが、すっかりその状態になっておりますので大満足です。完璧になろうなどと思っておりませんし、「イヤダ」「嫌い」「イライラする」時間があることで、その他の幸せtimeがより一層輝いて、有り難くて、幸せ感に浸っております。

このささやかな「イヤダ」「嫌い」「イライラする」が無い時間の有り難いことったら! なんて快適なんでしょう! と昨日も満喫して感動していました。

 

スイカに塩をかけて甘味を増す。みたく、幸せ感が増す。どんどん増す。

嫌なことなどゼロになればいいのに。と思うものの、幸せに有り難いと思う気持ちはほんのちょっとの「イヤダ」「嫌い」「イライラする」によって深みが増すということを今この文章を書いていて過去一理解できた気がする。

知識では無くて。

知識で、無理にそう感じようとしている時と、腑に落ちる、体感する事の驚愕の違い。

だったら、ほんのちょっとの「イヤダ」「嫌い」「イライラする」がどんどん我が身に起こったって、それによって私の「幸せ!」「マジ サイコー」みたいな感覚がどんどん増幅されていくんだから嫌がる理由もないし、かえって「ラッキー!」みたいなことになりますね。

幸せ感増幅time

そう、いつからか、それまでの感覚が切り替わって、幸せ感増幅timeに入ったんですよね。

陰極まれば陽みたいに。

自分のストレスケアはずーーーーっとやってきたから、それは土台にはあるものの、それに加わった要素としていろいろあるのでしょうが、自分で印象に残っているのは「恐怖をブレイクスルーする」とやり方もわからないけどちょっとやってみるか。と思ったというか、トライアルを決めたというか。(試験的にやってみたよな~)

 

これもコラムにも書いたのですが、じゃあ具体的になにをやったのか?は覚えてないんですよ。

なんでもノートに書いているから、その当時のなんでも帳を読み返したらなにをやったのか書いてあるだろうけど、なんでも帳って処分してもまだたくさん残っているので探す気力がない。

それは私の本当に性分なんですけど「過去のことだから」熱量がわかない類のことです。

 

執着が・・・薄くて・・・モノによっては執着もあるのですが・・・

まだこれらのノートを残している(見返さないけど)ということが私の執着の表れでしょうね。(^^)

コンマリさんなら瞬殺でゴミ箱案件です。

 

最後に

言いたいことが上手に書けているのかわかりませんが、補足。訂正は早めにした方が良いと思って記事をアップします。

 

好きな人生を生きていきましょう。

自分が選んでいるんだ。ということも人生多いです。

 

失敗したって、後々幸せ感を感じられたら良い思い出、体験です。

後悔したって、それが禍を転じて福と為したら話のネタになる。

 

自分の人生を創造する。

私の好きな考え方です。

 

歪んでいるのは次元? 空間?

前回のブログの続きです。

内容はほんのちょっぴりです。

これも科学?

 

歪まないと成り立たない

それはどこ?

前回、

” ただ、もし私個人が「ウエ」と繋がろうとしたら、それは自分のお腹の中だということになるわけで、フワフワしようがない。だってどこまで行っても自分の中だから。みたいな感じ。 ”

と書きました。

 

私の知識不足で申し訳ないのですが、仮に話題にしたい空間を「宇宙」として話を進めます。

私はお腹の中の宇宙作用?で、陰陽が立体だという言葉が腑に落ちる体験をした。

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

このヒト いっちゃんてんな~ という憐みの目を覚悟で書くと、

この立体の陰陽図の中を移動したような感覚(脳内映像)があったんですね。

 

というか、正確に書くと、私が体感したことを世田谷・三千堂治療院の院長こと、私が勝手にリアルマスターヨーダと書かせていただいている大竹お父さんに話したら、「それは陰陽の理に叶ってる。それは(立体の陰陽図で解説してくださったのですが)この中を移動したようなことになるね」と教えて頂いたことなのです。

 

私はこういった寸尺が全く合わないことを、いとも簡単に受け入れることも得意でして、

  • お腹の中の宇宙
  • 平面図形での立体陰陽図の解説 はたまたその空間の中の移動
  • はたまた脳内の泡宇宙(と暫定的に仮定してみます)

が、笑えるほどに寸尺どころか、次元も時空も見事にゆがんどんな~ と思いながら脳内にはなんら支障なく収まっています。

 

しかし、お腹の宇宙が見事に(仮定ではあるものの)脳内の泡宇宙に繋がったわけで、こんなの次元だか時空だか、宇宙だかに規則が無い(フリースタイルじゃないと)と成り立たない。(笑)

 

Alexander AntropovによるPixabayからの画像

 

私は別にこれに法則も要らないし、理論もさして必要としていませんが、理由が欲しくなるのが人間の特性なんだという過去に私も書いた説を他人が解説しているのを見た。

 

理由がある。と習ってきたから

  • 因果律
  • 規則性(フラクタルももちろん含めて)
  • 法則

をヒトは信じたかるそうだ。そうだろう。私もそう思ったからブログに書いたし。

 

これらは良い悪いとかの話ではなくて、人間が生まれて育つ過程で身に着けてくる。

いわゆる「常識」みたいなことにこういったものを含んで解説されていた。だから常識を捨てられると今は見えないものが見えてくるそうだ。

 

という話を聞いた時に、私が既に書いた「入れるんじゃなくて抜く」という話と一緒の話をしているな~と思った。

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

 

視点のありか

今日はもうこれ以上長く書かずに、あっさりと〆ますが、この話を要約すると、以前のブログでも書いたけれど、視点のありかの話だろうと思った。

 

私が無限大入れ子の箱方式とかマトリョーシカ方式とか、世の中にあるフラクタル立体図形(事象)と感じるものは、意識して探してない。そうじゃなくて、相似事象が風景の中から浮き上がって見えてくる感じ。

というとなんだかカッコいいけど、そんなにドラマチックというわけでも無くて結構地味で、似たものがシナプスみたく手を繋ぐからエッセンスを抽出できる感じ。

 

どうやらこれを量子の特性で解説できるようだけど、今の私には書けません。

 

というところでハッキリした結論とか無いんだけど、補足記事を書きました。

 

またね(^^)

 

 

 

これも科学?

お腹の宇宙

有り難いことの1つでもシェアしておこう

松下幸之助氏

” 3月6日
「カンと科学は車の両輪」

カンというと、非科学的であいまいのようだが、修練の積み重ねから生まれるカンは不思議な力を持っている。多くの発明・発見が、カンの働きを原理づけ、実用化する努力の中から生まれてきた。つまり、カンと科学は反発するものではなく、いわば同根、この二つを車の両輪として、ともに大事にしつつ、発展、向上をめざしたい。 ”

―『松下幸之助 成功 日めくり』より

 

人にはいろいろな「両輪」感があるものですね。私が同じことを書いても心には響かないかもしれないけれど、あの松下氏の言葉となると皆様「そうだ!」と同意しやすいのではないでしょうか?(笑)

 

ちなみに私は過去の記事に、潜在意識と顕在意識が両輪と書いていますし、別のとあるDr.は、「不思議に感じることも確かにあるし、それについては否定はしないが、ただ意識だけのスピリチュアル(思想・意識だけでなんとかしようとする思想)については全く受け入れたいという気持ちはない」とおっしゃっていました。

このDr.のおっしゃっていることと(科学的に解明されれていたり、仮説のある不思議系な事の解説など)、私が記事に書いていることが似ているところがあるので、(感性が似ていそうだなぁ)と感じた次第です。

 

お腹の宇宙

前回の続きになります

前回の「体内に観えた(ように脳内映像が浮かんだ)惑星」あたりからの続きです。

治療体験記 後日編-4 泡宇宙

 

私はこれらを「お腹の宇宙」と呼んでいます。

そして、今日はこちらについてちょっと書きます。

beate bachmannによるPixabayからの画像

 

脳内で観えようが観えまいが誰にでもある(はず)

こういった話をすると、こういった脳内映像が観えると立派というか、能力が高いみたいなレッテルを貼る方がいます。他人にも自分にも。

多分そういったことじゃない。と私個人は感じています。

 

それは、今までも例に書いてきたように、走るのが速かったり、持久走が得意だったりという体感センスみたいなことだと思う。

私は子どもの頃は瞬発力で好成績がでるものはクラスの上位だったけれど、持久走からは逃げたかった。ランナーズハイなどなるわけがないし、経験したこともない。習字は好みではないが、硬筆は好きとか。その延長線上に「脳内映像化」がある。

小説などを山ほど読んだ大抵の方は脳内映像化が得意だと思う。

その程度のこと。

 

だから、施術をしたり、会話をしている時に、共振率が高い方や脳内映像化が得意な方、運動などをして体感覚が鋭い方などは、「お腹に宇宙はありますか?」と質問すると

「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」みたいな感じで、脳内ではありますが、観えた。観えるようになった。(脳内でも実際でも視覚野にはあまり影響がない。以前もコラムに書きました。とある幻視は見ているご本人にとっては幻視ではなく本当の映像だということを。映画の1シーンをもとにして書きました。)

 

シュレーディンガーの猫のごとく、その瞬間を境に脳内視覚ではありますが、「観えた」「現れた」わけです。

これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。

 

「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」という、混じりっけなしの「キョトン」なのか、とっさの無意識的と言いつつ意図的な「同調」との違いって、ご本人よりも案外他人にはわかるもんですよ。

 

空間感覚の共有、共振とも言えるのかも知れない。その空間がじつは枠のない無限大「宇宙」みたいな感じだというところがまたシュールである。

 

大丈夫です。伝授とかいって講座開いてませんから(笑)

伝授ではなくて、ただの「気づく人は気づく」だけですから。

見ようとして躍起になって厄介になるような瞑想とかお気をつけくださいませね。(それも人生のお好みですが)

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

足腰の違いが現れるケースが多い?

不思議と言えば不思議な体験をしたその後に割と2極化するようなことが多いみたい。

  1. エゴが刺激されて一気にあちらへ傾倒していく方と、
  2. それはそれ、これはこれ、みたいに足腰が強いと感じるほどブレない方。

 

1. のケースは、簡単に言うと「わかったちゃった。抜けちゃう予備軍」みたくなってくる。ウエ(ってどこ?)と繋がったと思うみたい。だから益々傾倒する。要するに、人間社会にそれまで以上に(それまではこっそり隠していた?)上下やランク付け感覚が育つみたい。エゴ肥大化の無限列車に乗ったか? そして、他の乗客を勧誘しがち。そして、乗り遅れたくない乗客予備軍も多いため勧誘達成率は高い。

例:一時期の「次元上昇に乗り遅れるな」の煽りは凄かった。煽られて焦っている方も結構多かったみたいだし、妄想で「私は流れに乗った」とした方も多かったのかも知れない。あの最中も「ナンダコレ」と思っていたが、今はどの位の方が(結果煽られただけだった)と逆に安心しているのだろうか? みなさん良かったですね。一緒に居ますもんね(^^)

 

2. のケースは、最初は ナニコレ? とただ自分の体内を傍観している感じでも、おそらく時間経過と共に独特の安心感を得るのではないかと推測している。

私達はいろいろな体験により胸やお腹に空虚な穴が空く(空いていると感じる)事がある。その穴も虚空と言えば虚空だし、お腹の宇宙も虚空と言えば虚空なんだけど全然体感覚が違う。宇宙的虚空は虚空のくせに安心感がある。究極の安心感とは言わないが、とある安心感にはなる。

それは人間が本当は嫌っていると言われている「自由」感なのかもなぁ とこのブログのメモ書きをしていた時に感じた。自分のお腹に、何にも囚われない「自由」がある。

 

これらを踏まえてちょっと振り返る

1. をもう少し書く。 お腹に宇宙があるのに、繋がりたい「ウエ」ってなに?どこ? と思った時に、やっぱり自由になるのは怖い、枠組みの中に居たいとそれこそ潜在意識、身体の核でそう思って居るのなら

ウエとかシタとか、そういった設定がある方が生きやすいのかも知れない。枠の中で行きていると安心するというように。

 

想念で(意識で)いろいろ知識を得ても、興味はあるけど本当は怖いってことってありますよね。生命維持のための危機管理的に。本能的な反射、反応として。

だから、足腰がしっかりしていないなどと失礼な表現をしましたが、こういったことが露見するっていいチャンスではないかと思う。

多分、情報に翻弄されたり、体験では無くて刷り込まれた情報優位なんだと思う。

 

潜在意識って集合無意識ということになるんだとしても、そのコンタクト具合って個体差があってもおかしくないですよね? なんだか皆均一みたいな錯覚を起こしている可能性ってありませんか? 個体の脳、肉体、精神の許容量によって扉の大きさが違うような意味合いです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

現代絵画のようなイメージで

非常に抽象的な現代絵画を見て、「凄い!」と思う方も「ナニコレ?」と思う方も「これが良いって言うんなら良いんだろうね。うん、だんだん良い気がしてきた!」というような様々な反応があって然るべきでも「好き好きですから」とか「それぞれの感性ですから」とあまり自己否定に繋がらないけれども、こと、こういったスピっぽいことになると途端に能力の優劣みたいなモノサシを持ち出されることも不思議ではあるんですが、

それもこれも好き好きで、正解はないんだろうという事ですね。

 

A. こういったことのエビデンスもなくてもOK、あってもOK

B. 証明もなくてもOK、あってもOK

C. 真実、真理・教え・法則もあってもOK、なくてもOK

 

ただ、もし私個人が「ウエ」と繋がろうとしたら、それは自分のお腹の中だということになるわけで、フワフワしようがない。だってどこまで行っても自分の中だから。みたいな感じ。

他のことでフワフワすることがあっても、宇宙云々では外へ外へと彷徨い出ちゃうようなことはあんまりないんですよね。

そもそも「ウエ」と繋がろうとかしないし。だってもう「在る」し、そもそも「ウエ」じゃないし。

John HainによるPixabayからの画像

 

 

今気がついたのですが、こうなってくると、

またまた究極的な表現になりかけますが、 A. B. C. のどれもが自分の中にあると言えるのかもしれないですね。自分の中に、ナニカを証明する後ろ盾、承認される理由、存在理由がある(またはそれらが必要ない)。

だとしたら、アラマア タイヘン! な話になってきましたが、わたくし個人的には非常に地味な生活をしておりまして(飛行機はエコノミークラス)、生活に概ね満足しておりますが、なんでも叶えてあげるよ!と言われればメキメキと欲の皮が突っ張ってきます。(いつもファーストクラスに乗れたらいいのに!)

 

一粒で最大限の利益を享受したいと思えば、めっちゃ素直になったりします。利益を得る準備として「我」を消すというような本末転倒な感じです。(笑)

我を消すのと、染まる(洗脳される)のはちょっと違うんです。素直って幾つも種類があるんですよね。

 

これが今日現在の私の脳内と、思考と、現実のバランスでございます。

凡夫極まれり。

あんなに抵抗していたのに、もうすっかり、「人間だから。」って開き直ってきました。

なんだか素直になれてきました。祝

 

RalphによるPixabayからの画像

治療体験記 後日編-6 入れるより、抜く

これを書いている本日、まるまるOFF day。

なんにも考えず、ポケ――――っとしていましたが、そろそろ治療体験記 後日編を書こうかとをPCを立ち上げました。後日編として書くことはもう少なくなりましたので今日がシリーズラストかな。

入れるより抜く 足すより引く

禁止より、耐性アップ

実は、本間先生ともペチャクチャとお喋りしたことってないです。多分、治療を受けた際にマンツーマンになったことはあるけど、それでも大量には会話しないし、ましてやそれ以外に二人でお話したことって記憶にないです。

どう思う?というようなナニカについて質問をされた時には、私なりの答えをお伝えしたりしたこともありますが、それはお喋りではないんですよね。

あっても、すぐ思い出せないほどちょっとしたことだと思う。

そして、松原先生は初対面でしたし、松原先生はもともと沢山お喋りになる先生ではないとのことなので、いろいろ書いていますが、先生との会話自体は少量。

 

ですから、他人様の考えて居ることは分からないという意味もあり、先生方の本心や信念、嗜好については詳しく存じ上げません。が、その瞬間のご意見についてはその時の私の理解や推測はしているようなつもりにはなっています。ヒトは時が経つと変わることがありますから、あれこれと決めつけないようにもしたいと思っています。

 

で、松原先生とちょっと好みが似ているのかな?と感じた事を書いてみたい。

違っていたらすみません。

 

それは「禁止より、耐性アップ」ということなのです。

 

私の場合

他のサイトに書いた過去のブログや、ホーム―ページのコラムにも書いているのですが、私に基本「禁止」というような事は強く書いていないつもりです。というのも、私自身が「ダメ!」「禁止」と言える立場にいない。例えば、牛乳も砂糖も、お菓子も減ることはあっても止めてない。

疾患で禁止されていなくても、自ら栄養や食べるものに厳しく制限できる方っていらっしゃいますよね。行き過ぎると強迫症みたくなる時もあるようだけど、でも厳しく制限できるって凄い。私にはできない。

この辺りが非常に大雑把なので、気にしたらキリがない。と直ぐにラクな方に流れちゃう。

禁止を増やしていくことが非常にストレスなんですよね。ルールをどんどん増やしていって、それを守ることが「良し」とする傾向や、どんどん複雑にしていって、その複雑を守れる方・やりこなす方が優秀というような不思議な思い込みというか、意味合い変換習慣みたいなことって思いのほか多いような気がしています。

 

それが本当かどうかは今は脇に置いておいてください。

あくまでも私個人の意見なので。

 

そして、私はそれらが苦手なので、

噛む力!

何を食べても大丈夫な胃!

消化力!

排泄力!

こちらが活発でいて欲しいと思い続けてきた。

そのためには特に何もしていないのでDNAに感謝しています。

 

しかし、思い込みではカバーできないこともあって、噛む力が強いんだ!と勝手に思い込んで堅いものをじゃんじゃん食べてました。堅いものを食べて歯と顎を丈夫にするんだという勘違いもしていた。ところが、遺伝的に歯が薄くて、長年の勘違いによって摩耗してしまって、私の勘違いに耐えて頑張り続けてきた歯のダメージがついに表出してきました。

申し訳なかった。

今はまだ修正しながら自分の歯で生活していますが、その内「差し歯」というもののお世話になる日が来るかもしれない。思い込みが逆の結果を出しそうで、ホント頑張ってきてくれていた歯に感謝しています。

 

と、まぁ こんな勘違い(歯が強いからいくらでも堅いもの食べてOK)をしつつも、

身体元気! なら、心も元気!

みたいな感じで、あまり繊細に考えずにサッパリと生きていけたら良いなぁって思っています。

 

経年による身体の変化もそれなりにいろいろありますが、ストレスケアをして、いろんなことの耐性を持っていたいなと思っています。

我慢強くじゃなくて、免疫部門に丁度いい感じに活き活きと働いていて欲しい。

禁止を増やすんじゃなくて、免疫部門に丁度いい感じに活き活きと働いていて欲しい。

 

そして、どうやら松原先生も「禁止よりも、免疫アップ!」傾向をお好みだと認識しました。

 

余談

歯医者さんが、「コロナ」のストレスなのか、酸性のものを飲食(酸っぱいものや酸味でスッキリ感を味わいたい? ビタミンを取らなくちゃと酸性を急に摂取した?)する方が一気に増えて、歯が溶けている人が増えたっておっしゃっていた。

リンゴ酢を飲もう!とかフルーツ酢を飲んでクエン酸摂取!とか流行りましたよね。

歯医者さんもモロに世相を診るんだな~って思いました。

 

入れるより抜く 足すより引く

というような流れを基本として、書き進めます。

 

私が煩悩トラップと表現するようなことは多くて、

  • 占い
  • カード類
  • メッセージ云々
  • スピリチュアル系のあれこれ
  • パワー〇〇
  • 修行思想 他書ききれない

等があるんですね。私もこれらを体験済みだし、あくまでも私の感覚でしかありませんのでお好きな方は機嫌よく利用したりやったりして欲しいのですが、部屋の断捨離はしても、想念のルールがどんどん増えていることもある。

 

だから、という言葉もおかしいけど、個人的に気付ける範囲、出来ることから「煩悩トラップ」を一掃してみた。

なにかをしないと不安。何かを持っていないと不安。身に着けていないと不安。なにかを(例:スピリチュアル系のルール)守っていないと不安。不安だから「〇〇すると良いよ!」というものを増やしていく。

なにかをして、自分の疑似安心(これも煩悩トラップとカウントしています)を対価として得るというそのルールを一度やめる。

という無限ループから一旦抜けてみた。

(でもストレスケアはしていますから、この「ストレスケアをする」というループにはまだ居る。)

 

潜在意識に願い事を入れていくのではなくて、潜在意識が反応しているとされている「ストレス」をケアをして「抜いていく」。

musikingによるPixabayからの画像

 

ルールも増やすんじゃなくて、減らしていく。

脳に入れるよりも、脳から抜く。ストレスケアをする。

 

あくまでも私個人は、こちらのシンプル化方式にシフトチェンジしたら楽になった。軽くなったし、あぁ幸せ!と思う時間が増えた。個人的に非常に相性が良い行動変容だった。

 

生まれて、今に至る間に、いろんな雑念も思念も知識も情報も概念もアレヤコレヤと脳内・心に増やしてきた。

そして、もし今日現在の結果生きづらいならば、やり方を変えて、それらを減らしてみるのも一考でしょう。

狂気かぁ

私が、これは非常に的を得た言葉だな~と思うものの、この言葉の意味を各々が自分のこととして当てはめることは非常にハードルが高いと思うアインシュタインの言葉。(伝聞)

 

” 同じことを繰り返しながら違う結果を望むこと。それを狂気という。 ”

 

囚われですよね。それがMyルールかも知れないし、概念かも知れないけど。

私は煩悩という言葉の正しい定義や意味を理解していませんが、私のニュアンス理解では、囚われとは「煩悩」でもあるんでしょうね。

 

私がシフトチェンジしたということが気のせいじゃないのなら、狂気から覚めて正気を得たともいえるのかなぁ。

しかし、狂気からまた別の狂気へと横スライドすることって多いんですよね。多分、その狂気と言われるような、煩悩と言われるような状態に何とも言えないお馴染み感があって心地よいと感じるんだろうと思う。

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やり方が悪い? やり続けていることが悪い?

度々引き寄せの法則を持ち出して、引き寄せの法則業界の方には申し訳ないのですが、伝わりやすいので今日もご登壇頂く。

 

引き寄せられない。思い通りに行かないのは(引き寄せの法則を)ちゃんとできていないからだとか、上手く出来ていないからだと言われたら、「何が正解?」「どうすればいいの?」と身をグッと乗り出すのが人情。とこちら ↓ に書いた。

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

 

で、結果、引き寄せの法則沼に数年入る。

 

悪いと書いていないです。人生はお好みで、そんな「沼期」って誰にでもありませんか?

アインシュタインによると、(どうも上手くいかないな~)と思って、引き寄せの法則沼にどんどん入っていくことが狂気ということになるようだ。ビギナーズラックみたいにちょっと成功感を味わうともっとのめりこんだりしません? 全部は叶わないけど、ちょっと叶っても、次こそは!とのめりこんだりしません? 引き寄せの法則じゃなくても生きていたら普通に起こるラッキーでも引き寄せの法則を信じたいとそのせいにしたくなったり。

 

沼期も様々なので、あまりに上手くいかなかったら一度離れて、その行動をやめてみるということも一考かと思います。ヒトには様々なタイプと相性があるので、引き寄せの法則と相性が悪いってこともあるかもしれないから。

 

そして、引き寄せの法則にあまりに傾倒していって、いまいちならば、それは「ギャンプル」にちょっと似てきちゃう気もする。引き寄せの法則依存みたいな。

法則って名前がついちゃうと、それがギャンプルに似ているなんてこと気づきにくくなっちゃうけどね。

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がしかし、「人生がギャンブル」って考え方もあるから、これもまた入れ子の箱みたくなっちゃうし、そう表現したい気持ちもわからないでもないから、この辺りは難しいんだけど。

 

ようするに 主体をどこに置くか? ってこと?

なにが書きたいのかわかりづらかったですか?

申し訳ありません。

 

書きたかったことは、主体をどこに置くかってことかな。

人間なのか。

ルールなのか。

 

人間を主軸において物事を組み立てるのか?

枠の中、ルールのなかの人間として、それらに人間を合わせていくのか?

 

ってことかな? と考えてきたつもりです。

確かにどっちもあって、バランス問題かと思うんだけど、大切に思うところが「主」というか「軸足の置き方」というか。

 

私はいろいろな変遷を経て、目の前の人間に意識を向けたいと思うようになりました。

好きな方もいる。

好きじゃない方もいるかもしれない。

キライかも知れない。

相手も同じく。

 

しかし、人間はさまざまなので、なにかに当てはめるのが「主」ではなくて。

 

よく言われている、病名に当てはめるのではなくて、状態を見るというような意味合いのつもりです。この病名のところが、「法則」でも良いし「教え」でもいいんだけど、こういった事も本人の隠れた信念と相似形を成しているとも言えるのかな? フラクタルって言ってOK?

 

そうするには、そもそも私自身も「主」とか「個」という感覚を大切にしていた方が良いみたい。理由は先ほども書いた、「こういった事も本人の隠れた信念と相似形を成しているとも言えるのかな?」とうっすら感じているから。

 

乱暴な表現かもしれないけど、どのみち頑張らなくても元々いろんな物事と融合しているし、共有しているんだから、人間として生まれたんなら「主」とか「個」という感覚とそれらのバランス感覚ということをレッスンしてみるのも良いかなって思ったりします。

 

教えに従う良い子。それが優秀だ。も価値観だし、「主」とか「個」という感覚とそれらのバランス感覚をレッスンしてみるのも価値観。

 

そのバランス感覚のなかに、「主」とか「個」の「免疫力、機能が健康的に働く」も含んでいるつもりなんです。

そういう意味での、「免疫力、機能が健康的に働く」ための「抜く」「引く」「シンプル」という感覚なんだけど、伝わるように書けているかな?

どうかな?

 

何度も書きますが、今は以前の自分よりシンプルなだけで、もう散々煩悩トラップに見事にハマって、抜けて、ハマって、ハマって、抜けて、またハマって・・・みたいなことをやったからこそ自分の内面が分かったことって多い。

ここも禍福は糾える縄の如しなんですよね。

 

生きている間はもうこれの繰り返しだろうと思うんですね。あの手この手でトラップ(失礼、出来事と訂正します)が現れるかもしれないし、もう現れないかもしれない。なにがどうであれ、生きていくってことです。

その時に、免疫力、機能が健康的に働いてくれると嬉しいです。

 

禁止。型に入る。に注意を向ける大切さも確かにあるけれど、活き活き! 活性!みたいな感覚や感性も大切にしたいなって思ってます。

 

そういう意味で、違う例を書くなら

陰謀説に傾倒するより、今生きてる素晴らしさを感じたい。気持ちのいい方とのコミュニケーションに感謝したい。

善意や朗らかさに注目したい。

 

こんな感じです。

 

引き寄せの法則が本当に機能しているのなら、これらが引き寄ってくるはずですしね(^^)

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念押し

あれこれ書きましたが、私の得意な「話題の枝葉が大きく広がった」結果となりました。

誤解の無いように念押しに書きますが、松原先生との共通点のように感じたのは「禁止よりも、元気(東洋医学の「正気」)を大切に」ということじゃないかな?

というところです。

 

治療体験記 後日編も今回で一旦書き終えた気がします。

いろんな気づきがありました。自分なりにまたいろいろ考えました。文章にしました。

松原先生ありがとうございました。

また次回お目にかかれるのを楽しみにしています。

 

今後もまた日々の生活の中で書きたいことがあったら記事にしますね(^^)

お付き合いありがとうございます。

 

 

 

 

治療体験記 後日編-5 執着しないと健康に?

パンドラの箱 オープン案件について

やはりここもフラクタル?

助走

通常運行です。

見た夢が楽しかったり、日常のコミュニケーションが楽しかったり、またまた花束のおすそ分けを頂いたり、自覚するストレスがあったりと、ありがたい事に日常生活を通常運行で送っています。

自分でも、ふわっとしないなぁ~と不思議になる時があります。多分それは、社会に参加したい、ヒト様とコミュニケーションしたいという好みが影響しているのかもしれない。

趣味に変化がおきてた

先日、松原治療室で初診問診票を書く際に、自分で驚いたことがありました。

それは趣味を書く欄に、(趣味は・・・っと)と向き合った時に、従来でしたら、読書、映画鑑賞、ウォーキング。ともうずっとずっと書いてきた。そして、これを書こうとした時に、最近本を読んでないし、映画も見てないな~と思ったので、「散歩」とだけはいち早く書いた。(他にナニカあるかな?)と考えて、なんと、「コミュニケーション」と書いた自分にビックリした。

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遥か昔、私は貝になりたい!お願い!と、マジで誰とも会いたくない、話したくない、考えたくない、社会という動きも刺激も一切感じたくない! だから深海の貝になりたい! と映画ばりに閉じて閉じて閉じていきたいというような時期があったのに!

今は楽しいコミュニケーションの時間が増えてる! (◎_◎)

それを趣味の欄に書きたくなる様な親しみぶり。 このラッキー感。

ほんと、書いた自分が一番驚きましたよ。(笑) あんまり驚いたから友人に話した。友人も昔からの私を知っているので(へぇ~!?)と言っていた。

ヒトは変化しますね。今のような心持が今しばらくのことかもしれない。将来は分からない。しかしそれはこれまでずっと同じでしたよね。

深海の貝になりたい心持が、20年?もっと?経ったら、趣味がコミュニケーションと書いているぐらいだから。

 

私がやったことは2つ。

1 自分に徹底的に向き合った事。

2 自分にあったストレスケアを超やったこと。

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邪気

邪気って書くと、他人様から云々とか、浄化云々とだけ連想する方もいらっしゃるのかも知れないが、それではなくて自分のこととして捉えて頂きたい。

そして、私は、他人様の邪気を気にするあなたにも邪気はありますよ。有って当たり前ですから級の捉え方をしています。煩悩のない人います? 人口の何%?という位に煩悩も邪気もとりたてて特別扱いしていません。

正気 と 邪気

”東洋医学では邪気の原因を取り除く術として、「何事にも執着せず心静かであれば、気は自ら巡り、病は自然と癒えていくだろう」と教えています。” - サイト「神戸東洋医療学院付属治療院」より引用

 

免疫力(正気)を高めよう

 

松原先生がチェックしてくださったのですが、「邪気がない」ということでした。「邪気が無いってあります?」と思わず質問しちゃいました。私の「邪気」の認識と、松原先生がチェックされた「邪気」の意味が違う。この項の冒頭に書いたように。

松原先生のおっしゃったのは「免疫力が発動している状態、邪気がない」というリンク先の解説の「正気」が高いという意味合いでした。

まずは良かったなぁと思っています。これもあくまでも「治療、施術を受けたあの時は。」という過去の状態です。日々刻々と人体は変わるので、「あの時は良かった」とそれこそ執着せずに「今」の状態をより良く保って行けたら嬉しいです。

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執着がないんだね と言われて

今回上京したのは、友人のお祝いが最初の理由なのですが、この友人と何かを話していた時に、いきなり「タケちゃん(私、タケダです)は執着がないんだね」と言われました。なんていうことのない話題の最中だったので(急に? 今なにか執着に関わる話してたっけ?)と思ったのは覚えています。

私の答えは「あるよ。執着がわくものとわかないものはハッキリしている。執着のわく案件が多いか?少ないか?と言えば少ないかもしれない。」と答えました。

以前もコラムかブログに書いたように、すでに高校生のときに担任の先生に「あんたは諦めが早すぎる」って言われましたし、それを言われた時にムカッとせずに、(なるほど!)と妙に納得した。当たっていることを言われるとムカッとするという反応もありますが、私は当たっていると(まさに!)と思う事も多い。そうだよ!と思う事も多い。それに、若い頃は、諦め=逃げ みたいな反応をしていた。今はそういった誤魔化し方は余りせず、逃げたいなら(逃げたい!)と自覚するし、(もう、しょーがない)と思えば諦めている。

 

これも後になって、大人になって分かったのは、自分が学校とか社会とかの「良かれルール」と自分の興味が運良く合致すると社会的には高パフォーマーになるけど、興味がわかないとそこそこどまり。営業職経験でも、良い成績が残せた営業時代もあれば、おちこぼれ営業時代もあった。

だから身をもって、精神論ではなんともならないことがあるということを知っている気がしてる。

 

これも何度も書いていますが、競争社会というのは私にはモチベーションにならなくて、興味があれば勝手にほっといても一生懸命やるし、楽しいから頑張る、頑張っているという意識もないし、特に褒められなくても(承認されなくても)自己満足しているからOK。

評価は勝手に他人様がすることだから、基本自分がやりたい事、好きな事をしていたら人生大成功、大幸運と思える。

だから、評価査定に準ずる結果主義では無いと思う。受験戦争に完敗しても全然気にしていない。かえって、自分の不向きに向き合った期間を禍福は糾える縄の如し風に感じられるし、それを一応経過したからこそ自分が興味のあることを勉強する楽しさが嬉しいし。

 

こういうところに、うっすらと?結構?自閉傾向を自覚しています。

自分の世界に集中しているような気もするけど、感受性としては社会や他人様のアレヤコレヤに反応はしていますよね。境界線もある意味しっかりしているけれど、でも感受性は割と大きなアンテナで情報をひろっているような反応はしている。

感受性は働いているけど、ブレないって感じなのかな?

 

そして治療、施術を受けた時点では、結果免疫力は発動していた。

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嘘でしょ。ここから本題

という前置きが伏線で、それを回収できる算段も立っておりませんが本題を書きます。

 

潜在意識 当たり前に煩悩含む説

パンドラの箱案件かと、前回、前々回、こういったことを書く前に一瞬 大丈夫かな? と頭によぎりましたが、ひょっとしたらそれが当たり前で、今まで信じられてきた事は人間が創った定義なだけで、いろいろ時代が変わると常識が変わるようなことの1つかな?と全然普通の仮定だった。

ひょっとしたら、潜在意識に対する期待は、そもそも人間の理想というか、そうであって欲しい!というような願いなのかもしれない。

それは「人間には純粋な箇所がある。」と信じたいというような。

 

それは、煩悩がある人間をそもそも否定する事から発しているのか?

煩悩撲滅運動って、なんだかある種聞こえがいい。

人間の質を良くするには、煩悩を無くさなければならない!という感じでしょうか? 確かに昔の私はこのように考えていた。

 

しかし、上の考え方を元にするとシュールな視点にはなるんだけど、

丸ごとの、そのままの人間を愛そう。というような思想もある。

これはこれで非常に「良い」とされている考え方だと広まっていませんか?

 

これにちょっと加えるのなら

煩悩まみれが当たり前。だから、顕在意識をつかって純粋さを育てていこうというような視点もあっても全然困らないけど。

純粋というものは、すでにあるものだという固定観念もあるのかもしれないです。純粋という類のモノは創り出せない。というような。

私は屁理屈を言おうと思えば言えるので、ここで屁理屈なのか、一応定義にはあっているのかわかりませんが書いてみたいと思った事は、陰陽論的に「陰極まれば陽」のような「煩悩極まれば純粋」みたいなことってあっても良いような気がしますが。

フラクタルという定義にこの案件も含んでみた。

違う例で「ワンネス」

例題は少しずれますが

ワンネス!と言いながら、他者の邪気はイヤダ。ワンネス!と言いながら、自分の煩悩は無くしたい。ワンネス!と思うけど、煩悩のある人間は劣っている????

 

もうちょっと視点を変えて、

あるよ!

煩悩たっぷりだよ!

自分にも他人にも、潜在意識にも顕在意識にも!

だったらどうするの? という仮定で一度考えてみてはどうだろう?

 

すると、やはり絶対に純粋な場所がないと困ると感じる方は多いのかも知れない。そうすると、また違う部位や定義を「ここだけは純粋だ」と死守したくなるような思考展開もあると思う。

 

正解不正解は私は知らないが、そういった「なくちゃ困る」「死守したい」と思うのも人間だと思うんですよ。代替案が欲しいというイメージかな? そしてそれも一種の執着。

だから、気がつけない執着や煩悩って山盛りある。

多分、これらの答えだと感じる(感じたい)ようなことをハッキリ言ってくれるから、信仰や思想が尊重される。答えが無いとか、正解不正解もないというようなことでは安心できない方が多いんだと思う。

「考える」ということと「答えが欲しいから探す」ということは少々違うんだろうか。

わからない。という頭の中の ? になにかは当てはめたい。手っ取り早く当てはめちゃうことがある。それが正解かもしれないから、それが悪いと書いているわけではありません。

 

誤解の無いように書きますが、正解不正解や真実云々を書いているわけではないし、信仰や宗教、思想でお好きな決まり・ルールを選択されたら良いし、それの良し悪しを書いているわけでも無くて、人間の物事の考え方について個人的に思った事を書いているだけです。

John HainによるPixabayからの画像

で、結局のところ 大丈夫

でも大丈夫です。

どうであれ、あなたが何を好むのか?

どういった価値観で人生を過ごしたいのか? には、本当は余り関係ありません。

並行世界にはそれらはあるけど、あなたの人生の土台には実はあまり関係ないことだったりしますよ。だって、私の仮説がどうであれ、あなたは信じたい物を信じて、そして成り立っている。

あなたの人生の枝葉には影響があって、風が吹いて葉っぱがサラサラと音を立てるかもしれない。しかし、土台にはほぼ関係ない。

そして、貴方の周りのことは、何とかなってきたし、なんとかなっていく。

概念ってそういうものなのかな?

 

概念が信念と一致している場合は信念が揺らぐ。私は昔、こういったことで揺らいだことがあります。揺らいでも大丈夫。一時はキツイけど、また少しずつ再構築していけばいい。

 

私が書いているようなことがお嫌いな方も多いと思います。

でも全然大丈夫。

「信ずれば通ず」という言葉がありますでしょ? あなたがあなたの人生をどう捉えていくかが大切なだけじゃないかと思っています。

ということは、私の記事を読む前も、読んだ後も、とくに変化はありませんでしょ?

 

これもフラクタル? 相似?

今日私がこの記事を書こうと思ったのは、顕在意識に適応されて、潜在意識に適応されないという特別扱いがないとしたら? とふと思った事に端を発しています。

顕在意識も思考、感情、欲、煩悩?のグラデーションがあるように、潜在意識にこれらのグラデーションがあると考えても全然しっくりくる。

 

バカみたいな例ですが、神様もいろんな神様が定義されていてグラデーションがある。貧乏神という神様もいる。

 

潜在意識だけが、〇〇だけが、純粋ってことは無いのかも知れない。と仮定するのは自由だなって思いました。ただ、途中にも書いたように、「〇〇だけは純粋」というものを人間だけが欲するような気がした。もっと近い表現だと、「〇〇だけは純粋」と定義したがるというか、欲しがるというか。

そういう欲求を持つのが人間だということは、欲しがるものが純粋だろうが、悪だろうが、煩悩には違いがない。欲しがるものが綺麗なモノ(という価値観)ならそれは煩悩ではないってことは無いと思う。

 

だから大丈夫

私は性格がひねくれているか正直なのか、いろんなものを見て、(煩悩トラップだなぁ)とは思うが、それらによってご本人が心の平和を得たり、機嫌よく過ごしていたり、生きてるって良いなぁと感じたり、生きていることを純粋に楽しいと感じるのなら、「陰極まれば陽」的に「煩悩転じて純粋」で良いよね? と思うようになった。昔は違った。しかし今、今日現在はこんな感じ。

 

私も、「楽なりたい!」という切なる欲求から、様々な煩悩トラップを経由して、次にはそれらを除いていく期間がきて、みたいなことを繰り返してきて、今が一番生きていて嬉しいと感じている。執着や煩悩も使いようである。

 

この状態を別に純粋とは言わないが、シンプルではあるな。とは感じている。

そして、私はシンプルであることが自分の脳の傾向的に非常に快適であり、軽やかさと連動している。

 

人生は様々。

みなさまの人生に「快適さ」があると良いな。