同じタイトルで結構な量を書いた下書きが他にあるのですが、どうも横道のそれ具合がよろしく無くて、まとまらなくなりました。折角書いたけど、まとまらない文章を眺めていると筆がますます乗らないので新しく書き直します。

 

先日上京し、シルクドソレイユの「アレグリア」を鑑賞し、自分のメンテナンス目的に治療、施術を受けていますが、お友達と食事をとったり、お茶したり、待ち時間を利用してユンタクした際に話したこと。二人の会話の一部が本日の結論になります。

しばしお付き合い下さい。

 

磁場は幾つもあるらしい

磁場の捉え方

波動ではなくて、「揺れ」と言いたい感覚について

言葉は1つでもそれに紐づいている印象やイメージは個々により多岐にわたります。

波動という言葉がしっくりくる方もいるし、私のように波動という言葉がどうもしっくりこないタイプもおりますが、とどのつまり、言いたい事や捉え方はほぼほぼ似ていたりすることもある。

本当に言葉って難しい。面白いけど難しい。

私も以前、

” 感情も細胞も、私達人間はいろいろ揺れている ”

と書きました。

この揺れているモノの中には、来るべき未来というようなことも含まれているし、過ぎたる過去なども含まれている。生きているとは揺れているような意味合いがあると書いたことがありますが、これは =(イコール)「波動」では無いんですね。私の中では。

施術中に「揺れ」「振動」を感じるから

1つは、施術中に(この揺れは相談者の細胞が揺れているのか? 私の細胞の揺れなのか? 電気信号を揺れと感じているのか? それとも全く違うナニカなのか?)と思う感覚があって、実際に「人間は揺れている」(理由は特定しないけど)と思っている私がいる。

昔のブログでもご紹介しましたが、施術を受けておられる最中のご本人も「細胞の揺れ」と感じる方もいらっしゃった。

体感覚とは別の「揺れ」

またこれとは別に私が意味したいところは、生命に伴っている「不確実性」というようなニュアンスなんですよ。

揺れている = それは波でしょ? 波動でしょ?  という事では無くて。

揺れている ということをすぐさま「波」とは脳内変換するつもりがない。というニュアンスです。

 

そしてあくまでも個人的な好みとして、「波動」という表現をほぼ使わない。が、そこに電気信号が加わった「生体電気の反応(揺れ)」「磁場」というようなことは非常に私の感性や皮膚感覚にフィットするという個人のこだわりみたいなことってあるんですよね。

 

と、ここまで書いて、ふと気がついたのは、なぜ「電気」を帯びている状況を表す言葉がフィットするのか? 感性や皮膚感覚にフィットするのか? の1つの原因について。

私が「生きている」から?

ただの気のせい。とか、ただのこだわり。ということも十分理由になるし、原因だったりすることも踏まえたうえですが、この辺りの「感覚」「感じ方」というものの私なりの探求心に潜っていくと、その電気を帯びているとしっくりくるという理由のようなモノは、私が今生きているからかな?などと考えてみた。

生きているこの私が電気を帯びているから。

その私の感性には、同じようなものがエッセンスとして抽出されてくることもあるし、違和感をかんじるものとして抽出されてくることもあるというようなイメージです。

プラス、マイナス、中性があるように。(中性という言葉を使うのなら、電気ではなくてイオンと書くのが正しいのかどうかもあやふやです。(T_T) )

同じ波動のモノ(だけ)を引き寄せるというような論理展開とはこの辺りがちょっと異なるのかもしれません。引き寄せるというよりも、「感じる」「反応する」「反応しない」ということを主に置いていると書くと良いのかな?

・・・難しいですね。上手く書けませんので、今後の私の成長に期待しましょう。

 

とんでもない、ブラックボックス案件になりませんように

と、ここまで書いてきて、以前のブログに書いた「潜在意識界の常識 パンドラの箱オープン案件か?」というようなことも本日やらかしちゃうような予感がしてきた。

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

治療体験記 後日編-3 顕在意識について

 

気が小さいので最初にお詫び

私はこの文字を何百回書いただろうか? そして今日も書く。

私は世の中のいろいろな現象や常識や刷り込みについて、一人でコツコツと考えている癖がある。

そして私には私の過程があり、違うと思ってみたり、いや間違ってもいないんだな。と思ってみたりと、それこそ揺れながらなんとなく自分の落としどころに諸事を納めていっているような気もするし、納める必要などなかったと気がつくこともあったりと様々です。

 

これから書くことは、そんな私の思考の過程の話です。

結果では無いし、結果など出す気もそもそもない。

そうですね、「常識」だと思われていることの、「その枠の外」について可能性を考えるのが好きな人が書いている個人の意見ですから、そこのところ宜しくお願いいたします。

 

人間と機械の違い

当初、磁場に関するブログを書こうと思っていて、助走を書いていたら、いきなり曲がり角から想定外のものが登場した。

なぜ、私個人が「そもそも波動(という表現)に興味が無い。」と感じるのか? を改めて考えてみた。

好き嫌いはあっても、その理由は考えてなかったけれども、そう言えばなんで? と自分に問うてみた。

  1. 機械で測定&数値化に興味が無い
  2. 波動という言葉が、引き寄せもそうなんだけど、幸福になるための条件みたいに使われているように感じるから

1.数値化

「パワーか、フォースか」という書籍がある。キネシオロジーテストというスキルを知ったのちその存在を知り読んだ。今も手元にあると思うが、もう随分読んでない。手元に無くて処分してしまっていても不思議じゃない。

数値化とは、人間が理解しやすい有効な手段という事は知っている。それが使われて文明の利器は発達して、私の生活もお陰様で便利だし。

数値が良くなりました。ということが人間の回復を後押しする作用も知っているつもりだ。機械で数値化せずとも、キネシオロジーテストによって人間が数値を計るってことだって当たり前に行われている。

 

ただ、人生は数値だけじゃない。数値に支配されるものでも無い。数値の扱い方や適用部所にもいろんな意味があるよね?って思ったりすると、初めて「パワーか、フォースか」を読んだ時の心情と今現在の心情は少々違っている。

私自身も変化したせいで、感性も変化したみたい。

 

  • 機械で測定する数値って 結局ナニ?
  • いろんな電気状態の測定者がいるであろう、その測定者が計る数値って 結局ナニ?

みたいな、まぁ簡単に言うと、中二病と言われるような視点なのかもしれないですね。

 

ですから、あくまでも私の生きながら考えている「2023年6月19日現在」の過程の話なんですよ。

しかし、なんとなく、そもそもの設定説明や刷り込みの枠からヒョイっと出ると、こういった疑問はブラックボックス案件っぽいような気もするし、パンドラの箱案件のような気もする。

 

が、しかし、私も私の信じているような道があるように、皆様は皆様の信じている道をこれまで通りお進み頂きたい。

私は決して「考えを変えて!」と言いたいわけじゃなくて、自分がふと感じていることを呟きたいだけなんです。

 

キネシオロジーテストのON、OFFにだって同じような視点を持つこともできる。ということを頭の片隅に入れておくことも大切だと私個人は思っている。

Carroll MacDonaldによるPixabayからの画像

2.目的が変わっちゃって

間違った事は言ってないんだろうと思っていますが、引き寄せと波動の関係というか、含み方のようなものになにか違和感を感じるんだよな~ と自分の違和感を深堀してみた。

多分、幸せになるために修行思想。みたいなものと似たニュアンスを感じているんだろうな。

人生の過ごし方や、幸せの価値観はヒトそれぞれですから、修行がお好きならしたら良いんだけど(っていうか、わざわざ修行の現実を自ら創りださなくてもただ生きているだけで好むと好まざると修行みたいな出来事ってあるような気がします)、私が言いたいのは、「修行しないと幸せになれない」というような無意識の刷り込みのことです。

なかなか気がつけない「条件付け」ってありますよ。

 

苦労の前払いみたいな感覚? 前払いシステムは万人のどのような状況にも公平に適用されますか?

 

どんな生き方が正しいとか、良いとか、わかりませんが、「どう生きたいのか?」という軸足みたいなことが、修行という言葉や、波動といういような言葉で煙に巻かれてしまうようなことがないですか? ということが書きたいのですが、どうでしょうか?書けてますか?

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

結局、当初書こうとしていたことは次回以降へ

冒頭に書いた、まとまらなくなった下書きよりはなんとか形になったものの、書きたいことへ到達する前に今回は一旦〆ます。

 

友達との会話にあったという書く予定だった結論にも今回の記事は触れずに終わりました。

 

違う事ばかり書いていて、当初の予定の着地点を忘れてしまわないか心配になりますわ。w

 

ではまた次回 お目にかかります。