塩ラーメンを頼んだら
豚骨ラーメンに見えるラーメンが出てきた。
なんか久々にラーメンを外食した気がするけど
きっと私のことだから 食べた事を忘れているだけかもしれない。
あぁ、さっぱりした細麺の塩ラーメンが食べたいな~
塩ラーメンを頼んだら
豚骨ラーメンに見えるラーメンが出てきた。
なんか久々にラーメンを外食した気がするけど
きっと私のことだから 食べた事を忘れているだけかもしれない。
あぁ、さっぱりした細麺の塩ラーメンが食べたいな~
愛のこもったステキなカードを頂戴しました。
なんとクジラのデザイン!
我が家の玄関には、クジラが居りまして
このカードを下さった方はもちろんこう言ったことはご存知ありません。
勿体無くて使えないけど
折角のご好意なので、お茶してきます。
もう とても有難くて嬉しかった。
お財布のすぐ目に入るところにこのカードを入れていますが、目に入るたびに気持ちが温かくなります。
生きてるって ありがたい!
ありがたいお友達がいます。
友達には「年齢差」は関係ありません。
ちびっ子達も「友達」だったし、社会に出てからの先輩も、付き合いが続いていたら「友達」ですし。
最近、私が彼女の存在に「救われた〜」と感謝していて、
かつ、
彼女も私に「居てくれるだけで良い。気持ちが変わって楽になった」と言ってくれました。
本当にお互い様です。
お互いがお互いに救われた気持ちになり
そして、何かをしてくれなくても全然良くて
居てくれるだけで良い。ありがたい。
と、言い合ってます。笑
実は他にも、私が
(救われる〜)と感じる数名の方が居るのですが、人生色々あっても
ヒトに恵まれるって強運で、happy度合いが高いよね〜と思ってます。
何も別にしてくれなくても
何かをして欲しい訳でもなく、
「居るだけで救われる」ってありますよ。
なのに、このありがたい皆さんは
実際にも助けてくれるんです。
素直にありがとうと伝えています。
そして、私にお礼ができる時はしたいと思ってる。
あなたにも、そんな方が居ますか?
加えて、
この友達がとても良いセリフを私に投げかけてくれました。
ジワジワ効いてる最中です。
ありがたや、ありがたや。
そして、またまた救われました。
この前も書いたように、昔はよく勝手に(人間とは残酷だ)と凹みました。
今も確かに(そうそう、人間とは残酷なのよ。もうしょうがない。私も他人からそう思われる事も沢山あったはずだね。これからもあるかもしれないね。)と思う場面もあるんですが、
そんなことより「人間ラブ♡」
と感動する事も爆増しました。
天使みたいな彼達や彼女達の人生が
luckyとhappyに溢れかえることを願ってやまない。
神様なんとかお願いします。
ラジオでした(^^)
www.youtube.com
お菓子もパンも焼いたことのない私が
パンを焼く機会に恵まれました。
オーブンに入れただけ。
それを見守っていただけ。
パン生地はすでにあり、それを焼くという行程を行った。
なのに、綺麗な色に焼けたり
綺麗な形に焼き上がった時のあの喜び。
まさか生きている間に、この喜びを感じる事ができるとは思わなかった。
こんなに嬉しいものなんだ!
オーブンから出す、数分の差で仕上がりが変わる事もなんとなくわかったし
季節や湿度で焼く時間を変えるのも そりゃあるだろうな〜と テレビや雑誌などでしか見たことのない情報がとても身近になった一時だった。
いい経験に恵まれてとても感謝しています。
失敗したら大変だぞ!と何度も大きさや焼き加減を覗き込んだのも
良い思い出。
昨日の記事のつづきです。
人生の後半に、他人様のご厚意に感謝する機会が爆増していると書きました。
それって私の受け止め方が変わったのかな?とも確かに思うんだけど
とっても冷静に記憶を振り返っても、
やっぱり確かに「増えている」。
私が若かりし頃の結構な長い期間
人生とは、人間とは、なんという残酷でなんと苦しいものだろうか。と感じていたのですが、やはりその頃は他人様のご厚意は今ほど多くなかった。
いや、これは私が成長期に成長期特有の葛藤を抱えていて自分のことで精一杯だったことと、家庭が落ち着ける場所ではなかったことの影響もある。
私自身も「閉じて」いたのも確かだ。
他人様のご厚意もあったのに、そこに感謝する気持ちの その上を「あぁ 苦しい」という想いが覆っていたような感じだ。
しかし、人生の初期から、なんでも最初からってわけじゃなくても
生きていくうちに徐々に、気がついたらいつの間にか、人生に感謝できるようになったり、人生を愛するようになったり、
自分を受け入れて、それが結局他人様を受け入れることになったり、
自分ではどうしようもできないことに良い意味で見切りをつけて、それを「良し」と目の前の事象を受け止めるようになったり(課題の分離に含まれますね。
コラム1
他者との「境界線」と「課題の分離」についてー1 | 沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談
コラム2
他者との「境界線」と「課題の分離」についてー2 | 沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談
)
という変化を私もしてきたみたいです。
過去に囚われていても、とりたてて とっても良いことは無いみたいだと学習したとも言えるのだろうか?
「いまここ」と言いながら、過去に囚われている方も多いような気もするが
それも人生だ。
執着の一切ない人間になりたいのなら、過去はどんどん終わらせるしかないが
その方が「今」を生きているのなら、
それが当たり前だから「今ここ」と取り立てて言わない気もする。
それもひっくるめて、
なんでも最初から分かる、出来るってわけじゃなくて
訓練、練習、トライの連続でわかってくるのかもしれない。
少なくとも、私の人生のとある部分は、自分の経験によって理解が進んだ。
そして、こういったことが当たり前じゃなくて、これこそがラッキーなんだと思うようになった。
ということがラッキーなんだなって今は思う。
これを、時間に対する「執着」と言えるのかどうかはわからない。
時間、年月、月日に対する「執着」と関わっているのかどうかはわからない。
他人様のご親切に何度も感動し
そして、その幸運に感謝が湧き出てくる。
そんなことが年を重ねるにつけ爆増している。
9月から10月末まで、丸々2ヶ月も
他人様の気遣いや、親切、優しさに何度も感動した。
対話をして、理解が進むことがあり
対話をして、自分の思い込みに気がつく事もあった。
一生に一度しか会わないだろう多くの方と
マスクをしていて表情は分からなくても
アイコンタクトで、
言葉は交わさずとも ふふふ っと笑い合ったりした。
時には短い会話を交わして、ふふふっと笑い合ったりした。
時間は コンマ何秒かの事かも知れないが
何度も「暖かい記憶」としてふと頭に浮かんできて
運転中に一人でまた ふふふ と笑っている。
生きてる喜びって、こんな事。
生きてる喜びって他にも色々あるだろうけど、
私はこんな暖かいささやかなコミュニケーションも生きる喜びの多くを占めている。
空耳じゃないと思う。
2022年の足音が聞こえている。
いや、姿が見えていた。書店では。
もう私は買いましたよ。
手帳(^^)
↓
今の仕事とは関係が無いが
私は宅地建物取引士の資格を持っている。
10年ほど前だったろうか?
あんなに勉強に精力を費やしたのは初めてだった。
そう、私は学校という場所での勉強には全然向かなかったが
社会に出てから自主的に行う勉強には向いているようで、非常に運良く合格した。
資格の更新が数年毎にやってくる。
今回もやってきた。
ぶ厚い本数冊と共に。
確認テストの提出期限があり、ぶ厚い本を前に及び腰だがやるしかない。
無理にでも勉強してるとボケ防止になるのだろうか。
身体も動かすことも大切だと思うので、こちらも出来る範囲でやっていきたいと思っています。
Amazonで買った商品に ちょっと難があり
販売元に問い合わせたり、いろいろ働きかけをしていました。
そもそも、商品を売っている方が認める「難」と
買った方が感じる「難」は違っている時があるし
商取引という法律上となると
などは、主張したら必ずしも通用するとは限らない。
商取引に関わらず、世の中はいろんな考え方やルールがある。
ですから、
これはちょっと・・・・と思っても、その「難」に対応してもらえるとは限らない。
販売元への連絡も以前はついたのに、今回は音信不通。
コロナもあって、発売元の企業が存続しているかどうかも不明。
ダメならダメ、対応してもらえるなら対応してもらう
もうすっかりあきらめて(直ぐあきらめることが多いのですが)Amazonのカスタマーサポートに相談した。
あきらめているのに相談するというのもおかしなものですが
決着をつけたくて、それで納得したかったわけです。
もう終わらせたかった。
あきらめて終わっても良いのである。
宙ぶらりんが気持ち悪かった。
よく言う、白黒はっきり。という状態をつけたかった。
結論は、
Amazonのカスタマーサポートに相談して、白黒はっきりついた。
瞬く間に、そう、一瞬でカタがついた。
カスタマーサポートさん達は顔が出ないし
ご苦労も多いだろうし
顔が見えない電話やチャットだとやけに高圧的なお客さんも多いと思う。
しかし、カスタマーサポートさん達は会社を支えているし
私のような利用者は救われている。
ありがとうございました。