今は2023年8月最後の日。昨晩も美しく輝く月を見ました。今晩も強風に流れる雲の合間に大きな月が見えました。

またまた台風の影響が始まっています。

 

昨日か一昨日、運転中だったのかな? 過去のアレコレを思い出して、(嫌な事とか、嫌な人とかいたな~ でもみんなどっかいっちゃったな~ 今はもう誰もいないな~)と思って(今はマジ幸せだし、楽しいことが多いよな~ ありがたいな~)と思った時に気がついた。

 

悪くなってることが・・・無い!

こりゃあ 大層ありがたい

なんだかんだ日々の細かいことがあるときもあるし、日々の細かいことすらない時もあるんですが、

悪くなってることってなんもないんじゃない?

って気がついた。

今幸せなのは気が付いていたけど、悪くなっていることがないってことに気がついて ハッ とした。  これは大変!  めっちゃありがたい!

2023年1月の時点よりも9月になろうとしている今の方が超楽しい。2021年9月に日常生活の環境変化があって、久しぶり、数年ぶりにシンドイことがギュッと集中したんですが、今日現在ぜーーーーんぶ終わったし、なくなっちゃった。

すべて去っていった(◎_◎)

 

そう、悪くなっていることがない! 全方位でそう。

いやいや、ありがたいです。

 

お陰様で幸せにやれてるな~って日々思っているし、ブログにもそう書きますが、それは本当なんです。神様ありがとうございます!っていつもお礼を言いたいから言ってます。心の中で。独り言が大丈夫な環境だったら独り言を言う時もある。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

人生の前半と後半

人生、前半が苦しいのと、後半が苦しいのとどっちがいい?と考えたことありますか?

PexelsによるPixabayからの画像

 

私は子供の頃というか、成人する前から(ということは人生の前半にいる最中。成長期の最中。)考えていまして

「今は苦しいが、前半苦しい方がぜんぜん良い。大器晩成で後半は楽に過ごしたい!」

と何度も考えました。(二者択一とは決まってないけど、成長期の私が想像する長い人生って、前半や後半というザックリしたイメージしか持てなかった。)

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

願ったというか。

 

そして願いが叶ったんでしょうか? 全く嫌なことがなくなるわけじゃないとしても、昔と比較したらなんのことはない。

 

楽勝。

 

そして、忘れるチカラというか。過去のことを過去として脳内処理していく能力が上がったことにより、シンドイ最中や、イヤだな~~~~って思っている最中も、そのダークモードに完全に浸りきらずに頭と心の片隅で(これもそのうち忘れるし)と思っている自分へと成長(?)している。今現在は。

ささやかな実例

本日も運転中、ちょっとした不快に思いそうなことがあったんですが、全然心中ザワザワしないので アレ? と思いつつ自分を観察した。感情に感情で反応しないなぁ って。そう、感情に巻き込まれたり、影響を受けないとまぁまぁ楽ではあるんですが、この時は無意識に自分を押し殺して無感情なふうを装っているわけでもなかった。

自分のよく見られる脳の傾向として、(あの感情的で強気な態度をとった女性のことを忘れるだろうな)と思ってなんとなく自分を観察して数分後、・・・忘れてました(笑)

途中、運転中なのでイメージワークで1~2秒のストレスケアを行いましたが、ひょっとしてあのストレスケアをしなくても忘れたかもしれない。

 

ボケが始まった可能性もちゃんと頭に置いてあります。そういう冷静さは今はまだあります。

 

ストレスケアを続けてきて「脳」が変わった?

いや、年齢による変化か?

多分、私は自分に合うストレスケアを見つけることができたのかもしれない。と今思った。

世間的に、一般的に、ストレスケアと言われるアレヤコレヤは多いけれど、私の場合はストレスケアの研究が趣味みたいなところもあったし、自分への影響を観察してきたら、よりシンプルに、アイテムなどを使わず身1つで、みたいなスタイルが非常に自分に合っていることが発見できた。

思想でストレスケアをするということもしなかったのも個人的にはとても相性がよかった。(いや、思想でなんとかできると思ったんだけど、それがなにやら複雑さを生んでいるような気がして、それらをやめたことが良かった)

 

不思議体験とかまぁあるような気がしていますが、ストレスケアに関してはとても現実主義というか。「不思議」と「ストレスケア」、これらをごちゃ混ぜにしないという脳の傾向が自分には良かった。現象と作業を区別していたとでも言えるのか? もっと適した表現があると思うけど残念ながら今は出てこない。

 

なんでしたっけ? 行動と結果という言葉がありますが、「結果」の捉え方というか、なにを「結果」とするのか?も私なりにルールがあるみたいで、スピ寄りじゃないような気もするし、そのあたりに「法則」類を持ち出さずに、事実を見るみたいな姿勢を持ちたいと決めたのも個人的には良かったのかもしれない。

目の前の一次情報を大切にするというか、理由付けやそれを何かのルールを基にして解釈する癖を控えるというか。

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 

余談

話の筋は大きく変わります。

いきなりですが、散歩していた時に気が付いたことがあったので書きます。

 

なぜ自分が「法則」とか「波動」とかに ちょっとした抵抗感があるのかについては既に過去記事に書いているんですが、今回気が付いたのは、私の抵抗感についてではなくて、

私と、「法則」とか「波動」とかを推奨している方はどこが違うんだろう? ということです。

 

私は以前も書いたでしょうが、私の考える「シンプル」には、「思想」「法則」とか「波動」とか持ち出さないことを指す。というようなざっくりとしたニュアンス・意味がありまして、「法則」とか「波動」というようなことについて(目の前の出来事について、そのまま認知するのではなくて、1枚重ねて、1枚挟んで思考しているのでは?)というような感覚がついて回っておりました。

しかし、「法則」とか「波動」というようなことを推奨されている方は、こっちが根っこだと感じておられるんだな。と思い当たった時に そうか! すっきりしたよ! と思いました。

 

そう、前提が違うことを今までで最高に理解できた気がしたんです。

読んでいる方は、(それって当たり前の話でしょ?)と思うかもしれませんが、価値観の違いという理解を私は私の価値観を基に考えているというアホほど基本的なことを体感として感じたような気がしたんです。

 

ヒトはそれぞれの価値観で生きていることはわかっているつもりでしたが、その「それぞれの価値観」についてもう一段階理解できた気がした。

世の中にはいろいろな価値観があるね。と言うのは簡単だし、わかっているつもりになるのは簡単だけど、自分に無い価値観について想像するのってそれに興味がないと難しい。自分の想像力を基に他者を理解しているつもりになるけれど、なんだか今回はこれまでの私の想像力の範囲がほんのちょっと広がった気がした。

 

例え

この そうか! というそれまでの理解よりも一段階進んだ気がしたのは。幻聴や幻影が「本当のこと」として脳が認知しているということを映画の1シーンを見て理解できたような気がした時と似ています。

私たちは勝手に「幻聴」「幻影」「幻視」みたいに「幻を本当なんだと訴えている」というレッテルと貼ったり、判断を下すけれども、ご本人の脳では本当だと訴えているわけではなくて「事実」なんだということを、それこそ「盲点」に気が付くかのような ちょっとした衝撃があった。

 

そして私はまた楽になった

こうやって自分以外の方の脳の癖や、価値観や信念を自分なりに理解できるようになると、そういうことに由来するストレスが減る。他者理解とまでは言わないけれど、認知や受容というようなことには関連するような気がしてる。

するとちょっと前に書いたこちらの記事の、ご本人が今聞いた話や、見聞きしたちょっと良いな~と思ったことや、感銘を受けたことを「ヒラメイタ」と変換することも

そうだった そうだった、ヒトにはいろんな脳のタイプがあるんだった。ただ単にそれだけの話だった。その辺りを(それってどうなの?)と思うこと自体がナンセンス。

と思うことが易くなるし、

それが心理的な作用からくる行動だとしても、それだって他人には変えられない。

 

出所が他者でも、自分発信みたいにマルっとパクったり真似したりということの敷居が低くなるだろうけれど、そんなことを言い始めたら今の世の中誰一人オリジナルを発信している方はいないような気がするし、そもそも私だって他者からの情報の集大成+感性、感覚で出来上がっている。

カマされてしまっても良いし、影響を受けなくたって良い

そう、みんながみんな古来からずーーーっと影響し合っているわけですよね。

 

泡宇宙みたいに。

だから それがナニカ? と言われましても

 

私はこうやって、何度も何度も行ったり来たりしながら ほんのちょっとずつ理解が進んでる気がしてる。

 

遅いんです。

本当に進みが遅い。

 

行ったり来たり、ゆらゆら揺れながら人生が進んでる。

そんな感じがしています。

Esi GrünhagenによるPixabayからの画像