沖縄の台風6号(名前:カーヌン(Khanun))の影響で停電し、それに伴いネットも使えませんでした。モバイル通信でもネットが使えなかった。
その間の台風体験記も書くつもりですが、その前から下書きに入っていたこちらの記事を先に仕上げます。
本日は高次について
高次って、そんなりすんなり常識に入ってきます?
高次、高次とスピリチュアル界?で使われる言葉がある。
私はこれまで、(それって何かな?)と思いながら話を見聞きしていた。
わからなくてもなんとかなってきたし、高次ってナニ?とネットの民に質問したこともない。検索はもちろん。
いつものお得意なニュアンス理解風味のまま今に至った。
突き詰めたところでねぇ・・・と少し冷めてたし、ネットの中の答えも、誰かがそれっぽく創作した話が多そうね。と相変わらずひねくれ気味だった。
「高次」ビジネス
私は高次についても、(それは高次ビジネスですか?)と感じてしまうことがあり、そんな自分がひねくれてるとも思うことがあるし、冷静に世界を見ているとも思うこともある。
しかし、それはビジネスですね?と思うような高次案件であっても、需要があるから供給もなりたつわけだから良いも悪いもない。人間が「高次」という言葉や思想、ビジネスであったとしてもその取扱い方について魅せられる傾向がある。はるか昔から。
最近では、(それによって安心したいんだよね)と寄り添うことが増えた。
「魅せられる」「心が持ってかれる」というようなことを自分が過去、ホームページのコラムでは「酔っぱらう」と表現したことがある。
魅せられるのも、心が持っていかれるのもそれぞれに理由や原因があるんだろうけど、(安心を得たいんだよね)と思うと、ちょっと物悲しく感じる時もある。
別に私が物悲しく思う必要なんてないんだけど、(世の中っていろいろあるよね。)ってちょっと思う。
ありがたいことに、基本楽しく幸せに過ごしており、しばらく遠ざかっていた読書をしたら1つの視点から解説があった。
スティーブン・キング先生の物語の中で
スティーブン・キングの「アウトサイダー」という小説を読んでいたら、
高次=宇宙
と解説されていた。
”大宇宙こそ偉大な「高次の世界」よ。そして、現世という「低次の世界」にあっても、一握りの砂には砂粒の数を超える宇宙が存在していると信じている。”-書籍「アウトサイダー」より抜粋
私もほぼ同じようなことを感じたし、この小説の中の人物も似たような感性のようです。
そして、私が散々書いてきたことをコレに当てはめると、人間みな高次の存在である。
人間みな高次の存在と書く理由
なんかもう、世の中にはそれらしい理屈や、妙な(と私が感じる)ルールをわんさかと創ってデコレーションされた解説があるけれども、当人が感じようが感じまいが私たちの細胞の1つ1つが宇宙、細胞の1つ1つに宇宙があるという東洋思想にのっとるならば。という仮定というか、前提とした場合ではあるんですが。
多分、よく聞くパターンは、「外」に高次というものを設定しているようだったけど
灯台下暗し、それは個々にすでにある。
同居済みである。生まれた瞬間から今までずっと。
なんという素敵な話だろうか。
これらを尊びたい皆様は、もうそれを探す必要も、ナニカと繋がりたいと色んなオプションみたいなことをしなくて良いんだから。
コレをすんなり受け止めることができると、シンプル化が一気に進むし。
そう、松原先生がFacebookでシェアされていた「太極図は立体球」という記事のリンクをはりましたが、こちらの最後に書かれている東洋思想にのっとるならば、やはり細胞は宇宙。
私たちが生を受けた瞬間から宇宙を内包というか、根本が宇宙ということになり、「高次」を求めたり、つながりを求めてあくせくする必要など一切ない。
自分探しと一緒。
自分探し
私も自分探しという考えにハマったことがあります。それをやった経験から書くならば、探し始めると見えなくなるという不思議な関係性があるように思う。
それは、自分探しと言いながら、理想通りの自分じゃないことは気に入らない、認めたくないという固い決意が心の奥底にあるという心理的矛盾や心理的逆転が影響していることがあるような気がする。
これは受け入れがたい方もいるかもしれませんが、今のあなたが本当のあなた。
過去のあなたも本当のあなた。
未来のあなたも本当のあなた。
人は変わるし、多面的なので、多くの特徴を持っている。
こんなのは本当の私じゃない!と思うのならいつでも変われる。
高次もそう、自分もそう、探したり求めたりすると見えなくなる。それらは「もう在る」「もう有る」という視点もあるということを頭の片隅に入れておくのもあながち悪くない考えだと思っています。
blogを書くネタはたくさんあるので、順に書いていきます。
今日はここまで。
おそまつ。