人生の中に起きるビリヤード効果 2

変化の数々

ご報告

かねてより予定しておりました、アメブロはてなBlogを抹消いたしました。(もっと以前のBlogやHPは数年前に抹消済みです。)

過去のブログでも大変お世話になりました。ありがとうございました。

現行は、現在のホームページ ↓   (アイコンにリンクを貼っています)

と本Blogのみです。

メルマガも既に数年前にお客様情報も併せてアカウントを抹消しております。過去は過去の素晴らしさがありますが、2023年11月現在に合わせたシンプル化を進めております。

はてなBlogから現行の本Blogに引っ越ししたのは、ホームページと関連づいている同サーバーを使用している(はず)ので、将来的にいつの日にかホームページをたたむ時が来た時に一緒に抹消できると考えたからです。アチコチに散らばっているものを整理整頓して私の脳内もスッキリさせたかったのも理由になります。

何かと手広くやろうとする時期もありますが、シンプルにしたくなる時期が来るときもあります。他にも変化させたものがあり、いったんこれで様子見です。

 

もう2023年12月になるでしょ? ということは、もはや2024年の予定がいろいろと入ってきてる時期ですよ。やれることをやれるときにサッとやっておかないと!なんて気持ちになりました。

本題

今日は前回の続きです。

Facebookに少し書いて、長くなったから改めてBlogに書くことにしたので、この後の文章もそんな感じになってるところがあります。

人生の中に起きるビリヤード効果 1

前回のブログに書いたようなことが起きた日の朝

この2つの出来事の前、家を出た時に 急に アッ!!(◎_◎) と頭に浮かんで気がついた自分の思考がありまして、前回ブログに書いたようなゲームの中のピースが連鎖しあって パパパッと一気に確変が起きたように、無意識だけど脳内にはしっかりあったこだわりが溶けたように感じた瞬間があったんです。

 

そして面白いことに、赤の他人が遊んでいるスイカゲームの動画を自分が見て楽しんでいたことがその確変を起こすきっかけでした。面白いでしょ? 入れ子の箱方式みたいな、フラクタルの渦のような連鎖の仕方をしたんですよ。

socialtrendspr0によるPixabayからの画像

 

これが大確変でして、「もうそれだけで十分。」と思いました。 そう、前回のブログにあったような商品との出会いは、こう思って出かけた後の出来事でした。

 

そして、これが本当に大確変でして、それが頭に浮かんだ時に同じく(人生ほとんど終わったな。)なんて頭に浮かんだ。それは生命じゃないんですが、

? じゃあ何が終わった感があったんだ?

? ほどんどって何%終わった感じがする?

と自分に訊ねてみた。80%? もうちょっと多い? 100%じゃ無いのはまだ生きてるし、おかげさまで元気にやってるからな気がする。

 

こんなのただの思いつきだけど。

 

 

ホント、体感覚に大きな変化とかは無く アッ!!(◎_◎) という感覚だっだだけど、当時の自分の狭い了見やくだらないプライドが消えて、相手に素直に愛情を感じた。

愛が湧き、口に出す

そんな大確変が意図せず起こり、今までとは違い大きい愛情を感じたので、運転席に乗り込んだ時に

◯◯ 愛してるよ

⬜︎⬜︎愛してるよ

△△愛してるよ

と口に出したよ。

 

〇も▢も△も私の人生に深く深く関わってきたからこそ、根こそぎの確変が起きたんだろうと思う。

 

自分の狭い了見やくだらないプライドが消えて、相手に素直に愛情を感じることがこんなに体の中も脳内もスッキリした感じがする以上の細かい細かい軽い粒子感 いや、「無」? 「透明化」? 感がすることを初めて知りました。感じないから「体感」というのも違う感じがするんだけど、「無い感じ」という不思議な感じです。

 

「無い感じ」がするから、(人生ほとんど終わったな。)という言葉が連想されたのかもしれない。

S KによるPixabayからの画像

 

そうか、ブーメランみたいな影響もフラクタルか

コレは先日Keikoさんの音声コンテンツ録音開始の前の打ち合わせの際の雑談で、私が最近よく思ってた「誰も手を抜いてない。皆んながその時その時を生きてる。側がどう見ようと思おうと、その時の精一杯。」という自分の発言がブーメランのように帰ってきて起こしたラッキーだと思える。

この発言を聞いたKeikoさんも、言わんとしてることを非常に的確に拾ってくれて、言葉を続けて下さった事との合わせ技のラッキーだと思ってます。有難いです。

 

対話って素晴らしいなーと思うのはこんな事があるからです。

 

 

どうせ車内は1人だし、他に誰も聞いてないから恥ずかしく無いし、思った時に言葉として口に出しておこうって思ったんですよね。その相手はここにはいないけど、自分から湧いてきた「愛してる」という気持ちは表現・発露させておこうと思ったんです。

 

言える時に、やれるときにやっておこうと思って。

 

他にも

とまぁ

今日もいい1日でした。

 

あぁそうそう。

話題にした以外の商品も他店から取り寄せをお願いした商品がありまして、記録シートに氏名と電話番号を書いた時に担当のお姉さんが

「良いですね! 字が大きくて見やすいです」と褒めてくださったこともありがたいご縁でした。

 

今回のまとめとして

価値観が似ていても、違っていても、信じているものが似ていても、違っていても

相手を非難したくなっても、カタを持ちたくなっても

「誰も手を抜いてない。皆んながその時その時を生きてる。側がどう見ようと思おうと、その時の精一杯。」という視点をもつと、愛せたり、ゆるせたり、受容出来たり、感謝できたり、謝ったりできる。

 

その昔、ホ・オポノポノという概念を知ったけど、今回の確変が起きた時に

(なるほど、ホ・オポノポノを体感したと感じる体験かもしれない)と久しぶりにホ・オポノポノという言葉を思い出しました。10年以上ぶりのブーメラン(笑) ホ・オポノポノに取り立てて信奉しなかったからこそまさかの再登場でした。

 

当時の自分の狭い了見やくだらないプライド、パッと消えた感じがするまで続いていた自分の狭い了見やくだらないプライドを一方的に押し付けていてゴメンね。って思った。

そして、実際に運転席に座って、「ごめんね」とも口に出した。

 

私も精一杯だったんだけど、相手の精一杯を受け入れられていなかった。以前よりは理解できてきたような気がしていたけど、消えたら(まだこの位の量があったんだ)と気づけた。

 

そして”この位の量”が消えたら愛が湧いた。

 

人生ありがたいことが多いです。

皆様の人生にもありがたいことがワンサカありますように。

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

人生の中に起きるビリヤード効果 1

「人生はゲーム」という名台詞を思い出すと今まではボードゲーム版「人生ゲーム」を連想していましたが、人生でおきる出来事の連鎖のようなものがビリヤードっぽいと今このブログを書こうとしたときに気が付いたし、随分前から人気があったスイカゲームの原型はテトリスかと思ったときに、何かがそろうと パッと消えたり、違うものに形を変えたりするのも私たち人間の認知や心の状態でもあるな~なんていう人生ゲームというイメージに幅が広がりました。私の中では新発見でした。

人生って発見の連続だ。これで6マス進んだかしら(笑)

rubyliaによるPixabayからの画像

人生の発見や気づき

欲しいもの と 本当に欲しいもの

現物が目の前に現れた

本日予定通り用足しに出かけました。

そしたら、

1,こんなのがアレば良いけど、無いからそれに近いもので済ませるかな〜?とネット検索とかしていた以上の「コレコレ!! これです!! こんな所にあったのね!」を初めて店内に入ったお店で発見。それまでの選択肢は数多くのネット検索で表示されたものだったわけですが、それらの斜め上というよりも「これ!」という芯を捉えたものが現実として現れました。

 

2,沖縄では実物が無いからサイズ感とか装着感とかわかんないから怖くてネットでいきなりは買えないな。だから(これもまた)代わりに買うならコレかな? でもそれもサイズ感とか装着感とかを見に行ってみようか。とお店に行ったら取り扱いが終了していました。 あらま。
しかしなんとそのお店にネットで見かけて(いいな~)と思っていたけれども(沖縄では実物見られないし)とあきらめていた商品の色違いがあって試着できたと言うオチがあり、サイズも確認できて正規店でネット購入しました。
土地の経済をまず応援したくて、ネットで買わずに取り寄せできるものは取り寄せて店頭で購入する方法をお願いするんですが、今回は「シーズンが終わった商品なので取り寄せできません」とお店の方のお返事でした。

 

「欲しい」の程度も様々あれど

なんというか、
【本当はコレが欲しいんだけど】を【でも◯◯だから】【◯◯があるから】【これで用は足せるから、足りるから】と違うもので補うって事に慣れすぎている事に今年に入ってクッキリ気がついたんですよね。沖縄だと内地ほど実物を見られる場が少ないっていう環境要因もあるし。別にそれでもなんも悪くない。それが頂き物とか、おさがりとかで、嫌いでもないし勿体無いとかあるし。そこまでこだわりが無かったと言えばそうだろうし。これもありがたいしって思うし。自分が感じる2ランク上のモノが本当は欲しいけど、予算が・・・ということもある。例えば私が車好きで本当はフェラーリが欲しいけど、実際はロードスターに乗っているというようなイメージです。(例です。私はロードスターには乗っておりません)

その時その時の身の丈感、自分の経済力と相談し、商品・金銭の価値観や支出に対するMyルールによって現在の生活の基盤とある程度の余裕を生んだわけだし。経済力に余裕があったとしても「これでことは足りる」という価値観を優先して「そこそこで手を打つ」こともしてきたし、それはその分のおさえた支出分を将来に備えるという分野に回したり。自分の価値観によって「え!? それにその額の出費する?」ということもあったし、「ここは倹約しておこう」ということもあった。

多分多くの方はこうやってやりくりされていますよね?

 

今自分の範囲内にあるもので選択しますよね。

知っているものの中から選んだり、その時選択できるのものという条件だったり。

 

Myルールも変えながら生きてきてる

でも、敢えて【本当に欲しいもの】以外のその場しのぎは減らしていこうと試しにやり始めました。
お試しに。
こだわりが薄いけれども、しかしそれでも我慢を減らす傾向にしていると言えばそうかも。

 

2023/11/06のfacebookにはシェアしたリンクに添えて、

「私も小さなところから質を上げて行く作戦を実行中です。」と書いたんですが、こーゆー事も含めてます。

 

”今自分の範囲内にあるもので選択しますよね。知っているものの中から選んだり、その時選択できるのものという条件だったり。” と先程書きましたが、知っていても現実的に選べない事もある。フェラーリを知っていても私はそもそも価格を知りません。

目標設定より積み上げ方式が自分に合っていると思うのは

価格を知らない時点で、「本当に欲しい」とは思っていないだろうなぁと自覚しますが、過去、(いいなぁ)とは思ったけど、(まぁ無理だろうな)とそもそも詳しく知らないこともふと(あれ!無理かと思ったのにそうなってんじゃん (◎_◎) )と現実になっている(願ったわけでもないから、叶っていると書くのも変ですが)ことに気が付いたことも多くて、それらは気が付いたら私の人生劇場に登場していました。それに向けて努力したわけじゃないけど、その時その時の価値観によって努力や行動はした。そうしたらビリヤードみたくアッチやコッチが反応し合って「気が付いたら思わぬものが現実になっていた」という球が我が人生ビリヤード台に登場した。

スイカゲームが下手なプレーヤーが、目の前の果物に気を取られていた先に偶然スイカが幾つかできて驚いているという感じ。

ということは、将来私がフェラーリに乗っていることもあり得るかもしれないですね。乗っても乗らなくてもどっちでも良いし、フェラーリに乗るならもっと他の車の方が良いんだけど。(←これが本当に欲しい車になるのかな?(笑))

 

そう、私が生きやすくなった1つに、目標設定方式よりも日々積み上げ方式が合っているという自己理解ができたことは大きい。

そんな私だって、試験や受験は合格を目指すという目標設定をします。がこれらは小さい積み上げの1つでしかない。整理整頓や断捨離、快適な暮らしのためにアレコレ、自分を機嫌よくしておくように心がけるとかも小さな積み重ねの集合体の要因です。

ということは、自分なりにしっくりくる「目標設定方式と日々積み上げ方式の使い分け」があるんだろうという自己理解が進んだことが良かった。

 

ちょっと話がズレましたがこーゆー感じ。

目標設定方式に重みを感じて嫌だと感じる方タイプの方もいらっしゃると思います。営業さんとか自分で売り上げを上げていく方は目標設定と結果を出していくのは必須かと思いますが、人生というロングスパンの視点に立つと選択肢が広がることもありますね。

あくまでも私の場合は、結果的に日々積み上げ方式を選択しているんですが、またその今のところの結果として概ねいい感じになっておりまして、今日現在は非常にありがたい状態でおります。今のこの状態をイメージしていたかと言えば、こういう状態になっていない時にリアルな想像はしていなかったし未体験だからありありと想像できていないわけです。

昔見た、引き寄せの動画にあったような商品や物質をありありとイメージするのとは違う。少なくとも私にとっては違う。私が叶った(イメージできない範囲のことだから映像系ではなくて分類としては願った状態でしょうか)とういうか、叶えたい具体像もわからないまま暗中模索を続けて自己理解を進めてきて今、(あら? なんだか叶ってる。 願っていたような、何を願っていたのかわからないような不思議な感じだけど、今の状態は願っていた状態だと言えそうだ)という感じになっています。

そう、目標設定が叶ったというわけではないけど、ありがたいことに願っていた状態にはなっている。

目標設定となるとストレスを感じたり重みを感じたりしますが、日々積み上げ方式は私にとっては非常に軽やかで生きやすい。

 

人生ゲーム的には、様々な人生パターンがありますからアレコレ試してみてください。

人生って自分で想定している以外にも、ルートは無限大な気がします。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

私がはるか昔ブロック崩しというか、テトリス系の何かが連鎖して消えるというゲームをしていた時に画面で見ていたような変化が起こったのかもしれない。

下手なゲーマーだった私が、人生劇場に登場した出来事などに私なりに取り組んでいたら不思議にわだかまりやこだわりや苦しく感じることが パッ と消える瞬間がきたり、価値観が ガラッ と変わる瞬間が来たり。

一気に連鎖が起きる大確変みたいな当たりがあったり。

NickによるPixabayからの画像

 

やってみて 感じてみる

話が大きく脱線しましたが、「これで用は足りる」から「本当に欲しい」に切り替えたら何がどう変わるでしょうね。

満足感の変化があったり、機嫌良く居る時間の何かしら変化があるのか?
それとも特には何も無いのか?

お試しを始めた今のところは、やっぱりその品物を見ると(Myルールを変えて、コレを選んで良かった♡)と満足感を再確認するんですよね。すると、(次も本当に欲しいものを買おう)と思う。

しかし、ついうっかり忘れて、(コレで良しとするか)みたいな事に今日もなりかけてたw

 

それを思い出させてくれた2つの出来事でした。

 

身に染み付いた習慣を意識して剥がしていくみたいな事ですかね。

John HainによるPixabayからの画像

 

 

続きは次回以降アップします。

長くなりそうなので一旦〆ます。

ラジオと音声コンテンツについて

気になっていたブログ更新。

いよいよ着手できてホッとしています。そして今は「いい夫婦の日」11/22です。

具体的ではないんですが、私も将来良い夫婦となる可能性があるはずなので、現実になった時にはまたご報告します。

そして、もう1つ、動画で赤の他人様がおこなっているスイカゲームをみて時間を消費するという珍事がわが身におこっています。子供の頃はともかく、もうゲームをしなくなって長く経っています。やってみたい!と思いましたが、どうやったらこのゲームができるのか調べたら、なんと非公式(パチモン)ならネットですぐゲームができるそうなんですが、本物は専用の機器が必要なんですね。そして流行り始めてから既にもう結構な時間が経っていた(笑)

やりたかったらNintendo Switchか、ゲームを開発したプロジェクターが必要って。

 

どっちもない。だからと言って安いパチモンに手を出す気持ちにはならない。

私は時間が経ったらこの手のものに対して興味が薄れることは自己理解していますので、今は先に他のことをしておきます。

音声配信コンテンツのゲスト

こちらの続きです

前回の記事の最後に「ゲストにお招きいただく予定です」と書きました。

そして実行されました。

お久しぶり ラジオ情報

 

私が相も変わらず早口でしゃべっておりますコンテンツのリンクはこちらです。

「初ゲスト、心体カウンセラー武田美紀さんと対談!」とタイトルを書いてくださいました。

https://stand.fm/episodes/6556d565e4b38f2b59a9304b

 

初ゲストという栄誉にあずかりました。

約1時間おしゃべりいたしましたので、興味を持っていただいた方はお耳を拝借します。

 

スマホのマイクって素晴らしいですね。近くで工事が行われていたのですが、その工事の音がBGMになっておりました。いやぁこういうのも味ですね。

 

そしてひるんだ

自分のためだけでもいいので、こういった音声コンテンツを将来やることリストに入れてみようかな?と検討しかけましたが、自分の口調を改めて聞いてひるみました。

 

う~~~む。

これはなかなか強めの味わいですなぁ というところが、う~~~む(-_-) です。

 

おいおいまた考えます。

 

今はこういったブログを書くリズムも間が空きがちなので、こちらがもう少し安定してから改めて考えます。毎日ブログを書くつもりもないので間が空くのは良いんですが、書きたい時にパッと書ける時間の余裕や時間の段取りがもう少し良くなると良いなって。

年内にはもう少し生活のリズムが変化してもろもろ整いそうなので、1つ1つ片づけていきますわ。

Esi GrünhagenによるPixabayからの画像

 

対話って楽しい

日頃、相談者さんのお話をお聞きして対話となりますが、Keikoさんに音声コンテンツの中で質問頂いて考えて話すっていうこと自体が新鮮でした。

良い記念になりました。

 

ありがとうございました!

楽しかったです(^^)

 

お久しぶり ラジオ情報

サーバーの量を増やしました。なにか皆様に良い影響は出ておりますでしょうか?

対話を大切に感じていると書きながら、なんせBlogが一方通行なものでして。カリスマさんなら読者さんとのやり取りが自然発生するでしょうが、なんせこちとらデフォルトがNoレスポンスでやらせていただいているものですから大抵のことが手探りです(笑)

なんと10年以上!?

ゲストさん大歓迎

こんにちは。

わたくし、縁が縁をつないで始まったラジオ番組がなんと10年ほど続いております。

そして、旅の思い出でも、人生の1つの体験としてでも、たまたま縁があったからでも、もうなんでもOKでゲストさん大歓迎なのですが、コロナ騒ぎがあったので3年以上ぶりかと思いますがゲストさんに来ていただいておしゃべりしてくださいました。

 

録画と言わずに、アーカイブと言うらしいのですが、そちらのリンクを貼ります。

 

私は滑舌が良いわけでもないし、不思議な周波数の声の音質のように我が声を感じることがありますが、ゲストのKeikoさんはとっても聞きやすい素敵な声をされています。

海外も良く行かれるし、留学経験もあると番組内でもお話くださっていますが、英語での自己紹介をお願いしましたら、快くOKを出してくださいました。

 

そしてKeikoさんも声で自己表現される番組をお持ちです(^^)

「自分と繋がる心理学と非二元/旅や私の好きなこと諸々」というコンテンツで発信されています。

とても聞きやすい声だと感じますし、自分の想いを語っていらっしゃると受け止めました。

https://stand.fm/channels/6545c9549a21b1adbb8e83bd

 

私も初回放送をお聞きして今文章を書いていますが、ダイビングの仕事をしていた当時、海の中で聞いたクジラの声を思い出しました。

 

お聞きしていたら、このように文章を書くのとはまた別に、自分のためだけにでもいいので私も話してみたくなりました。公共の場や商業ベースではなかなか話しづらい内容の話もできたらそれはまた楽しいな~って。

 

私の価値観にも新しい風が吹き込みました。

やると決めたわけではないのですが、選択肢に登場したという感じです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

ラジオとのご縁、人生の不思議

私は昔、業界の裏側とか呼ばれていたような仕事にかかわっていたことがあったので、ラジオなどの表現を担当するのはタレントさん、私は黒子。という完全なる役割分担意識がありまして、10年以上前に初めてラジオのマイクに向かって自分がしゃべった時に(まさかこんな日がくるとはね~)と思っていましたが、もっともっとまさかだったのは、自分の番組を持って、それが10年以上続いたことです。

 

人生先のことは何にもわかっていない。

 

縁って、good feelingじゃないとそれは良くない縁だというようなことを短期視点では感じますが、長期視点では、縁が縁につながってというようなことに気がつく時があるんですよね。そうなると bad feeling とか good feeling とかもはや関係ねぇみたいことになりそうです。

PeggychoucairによるPixabayからの画像

もう一度、ゲストさん大歓迎

YouTubeの視聴回数は気にしておりませんでしたが、気が付いたら以前より視聴回数が増えておりました。FMよみたんさんのご厚意でアーカイブをアップして頂いておりますので感謝しております。

今後も世の中のお悩みを取り上げて、考えていきたいと思っています。

 

そして、ゲストさん大歓迎です。顔出しNGで「声」だけでご出演もありです。ハワイに住んでいるJUNちゃんが日本に帰省した際に声だけでご出演いただきました。出演して楽しかったって教えてくれました。

 

ですから、人生楽しんでみよう!という感じでお気軽にどうぞ。

 

なんと私も

Keikoさんの番組にゲストとして誘って頂きまして、近い将来実現する予定です。

楽しみです!(^^)

 

ElisaによるPixabayからの画像

 

願望実現系をやめたら

いざPCを前にしたら、書きたい事は一通り書いたなぁ、さて、どうしようか?と思っています。

 

ですが、願望実現系と言われている儀式みたいなこととか、段取りみたいなことをやめたと書いた後にどうなったのか?について書いておこうと思いました。

あと、言霊などについて過去に書いたことも併せて。

 

そして、そのあとの「今」

そのあととは?

そのあとというのは、願望実現系と言われている儀式みたいなこととか、段取りみたいなことをやめたあとです。

 

実はいろいろ昔願ったり、思い描いたり、紙に書いたりした状態になっていることが多いです。

それらをやめた後、数年後に気が付いたら(あら、忘れていたけど 昔願った感じになってるんじゃない(◎_◎))と。

 

願望実現系に、「強く願ったらあとは忘れること。」というような解説もあった気がするし、私もそれが良いと思っています。そこには、「操作しようとしない」というニュアンスが含まれているんじゃないかな?と想像しています。

執着しない方が良い。みたいなニュアンスも。

 

願望実現系、引き寄せ系もいろんな流派があるのかもしれませんが、私は願ったら忘れて目の前のことをコツコツ、粛々と行っていくというような解説が自分の体感としても受け入れやすい。特殊なテクニックをつかって近道しようとしたり、願望実現系、引き寄せにハマって、いつも間にか本質からずれて全能感に浸ることにスイッチしちゃうことじゃなくて。

 

こういったことが「エリート気取り」という辛辣な和訳が的を得ていると感じる所以かなぁって。

ElisaによるPixabayからの画像

禅病

ヨガをしている方が全員そうなるわけじゃないけど、ある一定の割合で禅病風味になっていかれるように感じるのも、こういったあたりに影響を受ける方と、自分のやりたい事ややりたくない事、なりたくない自分を基から意識しているか否かの違いがあるような気もする。

 

優越感やプライドみたいなジャンルですかね。

人間だから、ややもすると、いや、いとも簡単にくすぐられる辺り。

 

今回のシリーズと結びつけるならば、それが松果体のアンバランスを引き起こすということなのかな? ということは「スピリチュアルエリート気取り」とわざわざスピリチュアルと書かなくても「エリート気取り」でもいいんですかね?

 

「純度」という面で考えると、「エリート気取り」でも「スピリチュアルエリート気取り」でも同じように曇りがでるような気もするけど。

 

そうなると、純度、松果体はIQ、情報量、知識だけではなんともならない。こうなってくると精神性のようなものの大切さが引き立ってくるのかもしれない。だから難しいんでしょうね。何かのレールに乗っているだけで構築されるものではなさそうだから。

 

松果体も、何段階もの状態の「質」があるんだろうと思えたりします。

何回登場すんねん。ドリーン・バーチュー氏

信じているもの、信じていたものは変わる

治療体験記 後日編-1 煩悩トラップ

 

治療体験記 後日編-2 煩悩で煩悩を制す?

 

上にリンクを貼った以外にも登場いただいているドリーン・バーチュー氏。

私はまだ何か気になっているようで、頭にチョイチョイ浮かぶんですよ。「サタンの声」と表現したその感覚はなんだろう?って。

 

そして今回のシリーズでまた1つ勝手にしっくり来た。

それは、何かしらのメッセージが聞こえる、得ているというその感覚がおそらく今回書いてきたような「全能感」みたいな感覚なのかもしれないなって。

 

自分の脳内に浮かんだそれを(メッセージ)を「善き」と即解釈し、信じ込むその感覚がすでに「平」ではない感じ? もう少し書くと、それを自分のこととして自分で活用するのではなくて「ありがたいメッセージですよ」と流布する、コンテンツとして流通させるという行為が「全能感」をくすぐるイメージなのかもしれない。

それをドリーン・バーチュー氏は「サタンの声」と表現したのかな?と。

これらを信じて、無考えに「ありがたいメッセージ」と NO thinkingで自分の中にスルっと入れちゃう無防備さを誘発するのも、まぁ見ようによっては悪魔的と言えばそうなのかもしれない。

 

重い軽いはあるものの、カルトってこんな感じで始まったりすることある気がする。

そういったメッセージ類でセッションする側も、される側も好き好きだし、OFFがONになることもあるし、救われると思う感覚もあるし、本当に人の好みと取捨選択は様々ですね。

 

悪いかどうかも知らないし、良いかどうかもわからない。

 

それらが精神性にどんな影響があったのか?なかったのか?は、凄く長い時間が経った後にしかわからないかもしれない。文中のヨガや瞑想の影響か?という話題から一周回って同じことを書くけれども、何をどう使っても良い影響も悪い影響も受けないほど自己がしっかりしている方も居るだろうし。

 

しかし、いつも通りになりますが、影響を受けたから悪いとか良いとかないしね。自分の人生の過ごし方の好みや、自分の人生を過ごす最中のアイテムだし、信念に沿っていたらそれは個々の選択ですし。

 

人間、人生って不思議です。

まとめ

いったい何が書きたいねん。みたいなことに相変わらずなってしまいましたが、自分勝手に脳内にあったことを書けてスッキリしています。

 

ElisaによるPixabayからの画像

 

言霊

あ!忘れてた!

言霊について書くと冒頭にありました。

 

以前にも書きましたが、「無理。」「一生無い。」と口に出して発言したことも私の場合は数年後にクリアしたことがあります。心理的には(そりゃあそれが叶ったら良いだろうけど、まぁ無いな。)とか、(今の生活にその選択を叶える可能性があると思えない)と言う感じでした。

これらは、それらが現実化・実現して暫く立った後、(あぁ そう言えば叶ってるじゃん (・・)  なんというか、忘れてたけど確かに叶ってる・・・ (・・)  人生こんなこともあるのね~)と。

こんなこともコントロールされたり、影響受けたりしませんか?

お願いするときにやたら「言い方に気をつけろ」とか「書き方に気をつけろ」とか言われていませんか? で、そういわれるとナーバスになりますでしょ?

自分が言い方、書き方を間違えて叶わなかったらどうしよう!とか、完璧にしないと叶わない!とか恐怖心をあおられるんですよね。 そして正解は何だろう?とどんどんハマっていくし、ヒトをコントロールしたい人に影響を受けすぎてしまう。

これらを伝えている側も良かれと思っている方も居れば、私はアッチ側(どこ?)なんで知っていますから教えてあげましょう、私が正しいのよ。みたいな方も居る。

 

私は(なんだかな~)と思って離れたというか、やめたというか。

そういう細かいこと以外にも大切なことってあるんじゃないかと得意のへそ曲がりを発動したんですよね。

 

ですから、ヒトそれぞれ、正解というか、生き方があるということにしています。

 

私は引き寄せの法則を伝える側の方が、引き寄せマスターという立ち位置のまま、「思い通りにならない」という出来事と格闘された事例を見聞きしたり、信頼できるアガスティアの葉を見て、「過去もあっていたし、自分の今の事業の成功も知っている。」とおっしゃった方がその事業が成功しなかった事例も見聞きしたことがあるんです。

私たちは確証や保証が欲しいし、安心したいですし、思い通りに物事運びたいし願います。ただただ安心が欲しいばかりにあおられ過ぎるのではなくて、自分は安心を得たがっているという自分の心理を知っていても良いと思う。

rubyliaによるPixabayからの画像

 

なんにせよ、生きているとありがたいことが多いです。

自分でなんとかできる範疇を超えているありがたいことが多い。

こういうことを素直に思える2023年11月8日が来たことがありがたいです。

 

皆様の人生のHappyもお祈りしています。

 

 

Gordon JohnsonによるPixabayからの画像

粒々モーフィアス方式はやめてます

願望実現系よりもストレスケア

自覚あり

私は自覚がありますし、そしてそれを正直に何度も書いていますが、同じようなことを手を変え品を変え書いています。数年前も同じようなことを書いていますが、でもやっぱり少しずつ自分の中に落とし込んでいる量が増えていっています。

それまではバラバラだった思考が、じわじわとそれぞれから枝が伸びて融合して、(あ!そういう感じ?!)と新たな広がりがあったりしています。神経も手足を伸ばして結合したりしますでしょ? ほんとあんな感じ。フラクタルですかね。こんなのも。脳内のシナプスが伸びて他とくっついて成長するのが頭に浮かびますね。

日々成長ってこんな意味もあるでしょうし。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

 

じっくり も良いもんだよ

今はタイムパフォーマンスが特に重視されるそうで、数分に要約されたものが良しとされるそうです。ですから考えるより見たら早いショート動画人気がでるというか、人気があるというか。その点からすると私のブログなど真逆だし、ましてやブログに書いているような内容を要約した動画を出す予定は今現在ゼロです。私にもタイムパフォーマンスを大切にする分野もあるような気がしますが、それはショート動画で情報を見ることがそれだという価値観と若干ズレてる気がします。

人類は変化し続ける分野がありますね。歩いて地図を作った方も居れば、ドローンで地図を作る方もいる。グーグルアースで鳥観図をそのまま見たら、もう地図はいらないという方も居るかもしれない。

Arek SochaによるPixabayからの画像

 

今回はここのところのシリーズみたいなブログの続きを書くつもりなのですが、読み返したらキモはもう書けているような気がしました。なんだか満足しちゃった。が、こんなこともあろうかと、次に書こうとしていたことをメモしていて良かった。

 

今回また再確認したのは、「良さそう!」「できそう!」だからなんでもやっちゃってOKってわけじゃない。と感じるような一筋縄ではいかないこともありそうだな。ってことでした。

「良さそう!」「できそう!」だからなんでもやっちゃってOKみたいに言いたくなることもあるけれど、ケースバイケースという視点もあるもんね。

 

振り返りつつ補足

まずはこちらの補足から

薄氷の違い? 同じ?

上のブログに、「イマジナリーフレンドと神の違い」というようなことを書きましたが、そもそも神についてどう理解しているのか?そもそもの設定や定義について全人類共通ではありませんでしょ? だから「これは神ですか?」「これは正しい神ですか?」というようなことをON、OFFで確認するというような価値観が視野狭窄的、偏狭とも言えるような気もするけれども、本当は違うかもしれない。答えがあるのかどうかもわからない。その答えが正しいかどうかもわからない。

 

ただ、何かしらの価値観や信念が自分にストレス反応を起こしているのならON、OFFという反応は出ると思う。

 

しかし、それらにうっとりしていたり、自らハマっていきたいような状態(磁場環境)にいるときは、そういう意味では信念にもなっていそうだし、その信念に心酔して同調しているのならば、正解不正解とは無関係にONになりそうですよね。そもそもストレス反応をON、OFFで見ているという前提にするのなら。または、ONやOFFの原因や意味のようなものを都合よく解釈したくなるというようなこともありそうです。

 

正解、不正解という立場や視点によって変わる可能性のあることを決めるのがON、OFFじゃないよね? とキネシオロジーテストを知るとたいていの方が通るあたりだと思うことを書きましたが、ON、OFFが正解、不正解だと教えていらっしゃる流派(のようなもの。そういった教え方をされているキネシオロジスト)もあるかもしれません。

私個人は、こういったことも個人の好みが選択の基準だと思いますから私が他者のされていることをジャッジする立場にはありませんが、私個人はON、OFFはストレス反応ということでセッションを行っています。

ですから、OFFでもバランス調整をしてONになった後にその道を選択して、後日(数年後でも10年後でも)ご本人が「あの時、あの選択を迷っている時はOFFだったけれどONにするというバランス調整をしてあえて挑戦してよかった。」ということってあるし、私もそうですが、生まれてから現在にいたるまでバランス調整という行為を知らない期間の方が長いわけですが、それでもたくさんの選択をしててきました。ストレスも抱えてきました。思いっきりOFFまみれだったでしょうが、結果今となっては幸せだという状態だと感じています。

何時も書きますが、自分に合ったストレスケアを知ったあと、「癒し」というよりガッツリ自分の深部に向き合って「ストレスケア」をしつこく行ってきたことが人生を変えた気がします。

ストレスケア 継続は力なり

こういった経緯もあって、ストレスケアをコツコツとしていると結果良くなる。選択の際に必ずしも一発ONでなくても、それがOFFでも向くとか向かないとか、正解とか不正解とかせず、ストレスケアとしてONにして、こちらもコツコツとやることをやっているといかようにも展開していくと思えてしかたありません。先程も書きましたが、私は筋肉の反応を確認する筋肉テスト(キネシオロジーテスト)を知る前からストレスを感じようが感じまいが、やるしかないと思えばやり、やってみて向き不向き(向き不向きの要素)を体験から学び、経験を積むことでOFFがONになっていったこともあると思っています。

 

こんな経験からも、「OFFなら私に向かないんだ・・・」と何をする前からそれを理由にあきらめることもないと思うし、ONなら成功の保証になるわけでもない。

 

ON、OFFも揺らぐと思うんですよ。私たちが生きていること自体が揺らぎの上に成り立っているような気がしているし、人体の生体電気や磁場状態も刻々と変化しているのにすべてのことに対してON、OFFの反応だけは固定しているってやっぱり矛盾を感じるし。

 

磁場がとても乱れているのに、ON、OFFだけが正確(なにをもって正確としますか?)ってねぇ・・。どう思います?

 

以前のホームページのコラムにも同じようなことを書いています。

そして、読み返してみたら、「スピリチュアルエリート気取り」ってどんなこと?という例も書いていました。

そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?

 

ONなら「ALL OK」以外に、思考力、観察力、感じるチカラ、勘も自分のチカラ

だからセッションの前に一旦「平」という状態にした方が良いよね。という行為もしますが、ここのところ話題にしていた松果体の磁場と言うか、状態が、キネシオロジーテストをする側もおかしなことになっていない方がより好ましいし、受ける側もそうなっていない方が好ましいとか、セッションを受けてバランスが整うというようなことが好ましいとは思います。が、スピリチュアルエリート気取り風な状態になっているときに「自分は整っている」と疑わないだろうことが多そうだなぁとは思うし、「ほら やっぱりONだよ」と確認したそのONの質も様々だという可能性もありそうです。

別に松果体のアンバランスだけじゃなくても、エゴ炸裂傾向の施術者・キネシオロジストがOFFをONにバランス調整したとしても、やっぱり質は様々かも知れないと思う。セラピーをするとかしないとか関係なく、ストレスケアってしておくのが良いよね~って言うのはこんなことを考えているからです。

 

キネシオロジーテストをする側だから、ヒトとして優れているなんてことは無いし、イマジナリーフレンドと神の違い(があるとしたら)をジャッジできるわけでもない。それを信じている方の価値観や脳内でなにがどう繰り広げられているのかを見抜ききることも、完全理解することも難しいですよね? わかったつもり、全能感に浸ってしまう方が厄介が深いと思えています。

 

書き方は難しいし、書き方も考え方も私こそ間違っているのかもしれませんが、ヒト自体が揺れていると思っているので、セッションをする側も受ける側もそれは同じ。

 

悪魔的なものも、ご本人が「神」だと思えばそれが信念になっているという事例は古くから枚挙にいとまがないし、信仰によっては神も悪魔ももとは1つが別れた存在(視点の違い)説もあるし、ヒトの創った概念に絶対的な正解、不正解があるの?という哲学的なのかなんなのか領域不明な価値観だってあるんですよね。

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指標はONとかOFFだけじゃない。

ONとかOFFがあったとしても、心の中の小さな声も重要かなという価値観が私にはあります。人間という全体性を大切だと思うが故。

 

指標はONとかOFFだけ、あまりにそれだけになるとゼロ(0)ヒャク(100)思想にしか過ぎなくなるような気もして、それはバランスが崩れているような感じがするんですよね。

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願望実現系について減らず口を書くと

私も願望が叶ったら良いな~って思いますよ。今から減らず口を書きますが、私がそれらを一切したことが無いなどという嘘も書くつもりがない。

私もやってみて思うことがあったんですよね。

 

そのうえで減らず口を書きますと、願望実現系の何か(儀式とか他にもいろいろありましたよね)をしますでしょ? 「自分には(今)それがない。」と無意識なのにそこをしっかり頭に浮かべて。

現状確認と言えばそう、現状把握と言えばそう。しかし、「もう叶ったかのようにイメージする」という段取りとは違ってきます。

 

願望が叶わないと幸せじゃない。というその認識は幸せか? そこには矛盾がないの?というようなことです。

 

私も過去、満月に向かって財布を振るとか、願いを書くとか、コラージュやマップを創るとか一通りやりましたが、数回やって、(毎回叶っていないことを確認しているみたい。これってナニ?)と思ったのでやめました。何年も前にやめました。

 

しかし、これらについては、こういったメソッドの推奨者さんが私の減らず口を論破できる根拠をお持ちだと思います。ですから、私個人の独り言の域を出ませんが。ものすごく簡単に書くと、「やってみたら最初凄いと思ったけど好きじゃなくなった。やってみたらしっくりこなくなった。」という感じです。

 

ヨガ的な思想について減らず口を書くと

もうすでにホームページのコラムの方に書いていますのでご紹介します。

ONの中のON ONの中のOFF

どうしてこうなっちゃったんだろう?と思った時に

 

そう、私は瞑想らしい瞑想もヨガもやっておりませんけれども、↑ に書いた、多分私が今回書いてきたような「松果体のバランスが崩れる」ということが今回の自分の体験を通してどういう要素が関わっているのか?の一例を理解できたような気がします。

 

今回私の場合は、メンテナンスを受けた際にありがたく「松果体のバランスがちょっと・・・」と指摘をしていただいたのと、自分の心の小さな声(ON/OFFなどは確認していませんので、勘みたいなこと?)があり、粒々モーフィアス方式の脳の使い方と瞑想と、ヨガ的なナニカ(瞑想かもしれないし、型(カタ)が関係するのかもしれない)の際の脳の状態が似ている箇所があるんだろうか?と仮説を立てました。

神の領域

以前のブログにも書きましたが、「神の領域」みたいなところを操作しようとするような行為や勘違いやエゴや思い込み、「神の領域」を操れる側の一員なんだという行為や勘違いやエゴや思い込みが関係しているのかな?と仮説を立ててはみたものの、文中に戻りますが「神」の定義すら様々で、かつ、「領域」という境界線のない概念も受け止め方は人それぞれです。

だから表現は難しいので、何一つ断定できません。

 

一度こういった仮説も考えたものの、人体が宇宙という東洋思想を取り入れてみると、自分をコントロールしようとすることは社会生活の中にはあることだし、生きていくときにとても重要な時もあります。神の領域と私が勝手に表現したあたりも自分の領域とも言えなくもない。そう考えると量子力学的粒々モーフィアス方式で現実を創り上げようとする行為は良くも悪くもないかも?? とも考えたりしたんですね。

 

 

ですから、今日現在(2023/11/05)は結果と言うか、なにも断定はできませんけれども、私個人は「神の領域」系操作と思うような行為はやらない方向性で今後も行きたいですし、今まで全能者になろうとか目指したことはありませんが今後もそういったことは得意な方にお任せして、私は一人間として生きていきたいと思っています。

 

総括 ストレスケア

今回のことで、それまで行っていたイメージワークの安全性を再確認できたし、それはきっとストレスケアに方向性を向けていたからだと思えた。

自分に矢印が向いていて、自分を大切にする行為。

 

粒々モーフィアス方式は他者や環境を操作しようとしていたんだなっていうところが明確になって良かったです。もっとシンプルに書くと、ONとかOFFとか抜きにしても「健康的な感じがする、しない」という感性ですかね。人によっては粒々モーフィアス方式を健康的だと感じるかもしれないので、あくまでも私個人の感覚です。

 

もう1回このシリーズの続きを書けそうです。

今回みたいにアップまでに時間がかかるかもしれませんので、気長にお待ちください。

 

ではおやすみなさい。

誤字脱字、おかしな文章は明日以降気づき次第訂正します。

ElisaによるPixabayからの画像

人間の大切な磁場 仮説 

純度とは?

「純度」再び

以前よくホームページのコラムに書いていた「純度」に一周回って帰ってきた感があります。

生きていると面白い現象が起きますね。おかげさまで楽しいっす。

 

実はこちらのブログ ↓ からすでにこのシリーズは始まっていたんですなぁ。しかし、今回はここまで内容が到達できないかもしれない。ですからまた1つ続編を書きそうです。

薄氷の違い? 同じ?

 

しかし、 下記のように ↓ 書きたい順に書いていったら我ながら無意識なのに非常に良い内容展開となり、今回に至ります。

あぶねえ

その領域には手を出すな??

 

最初に結論

忘れないうちに(忘れるもんかね? 結論を。一応の今回のブログの目玉を。)結論を書きますと、

私が「純度」と感じる人間の大切なナニカは個(ヒト一人の意味)の全体(内外含めた全身)が関わっているのはもちろんだけれども、「松果体の状態」と深い関わりがあるのでは?

という仮説を立てました。というのが結論です。

そして、それは

人間個体の大切な磁場とも深い関わりがあるのでは? 

 

かねがね自分の中の「純度」という感覚についてもう少し輪郭?対象?がはっきりしないかな?と思っていたんですよね。

私が良く使う別の「酔っぱらう」「うっとり」という表現も、以前それについて「それはどういう感覚(意味合い)ですか?」と質問されたこともあり、やっぱり感覚的なことって個々の感性の違いがあるからねぇと思うものの、感覚は伝えられなくとも、もう少しなんとかならないか?と思っているわけです。

 

で、文頭のような「純度」について仮説を立てました。これが結論。

 

私が良く使う別の「酔っぱらう」「うっとり」という表現も「本人が意識していない割と大きめに磁場が乱れる影響を受けている最中」「磁場が大きめに乱れる状態を好んで選択している状態」ってことですね。

そうか、こう書いたら自分で非常にしっくり来た。輪郭をはっきりさせられた気がした。

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そう言えば有名なチャクラの本に

そう言えば有名なチャクラの本に、第7チャクラの不安定の原因として、「スピリチュアルエリート気取り」という辛辣な和訳が書かれていたのを読んで笑った記憶があるんですが、これは言いえて妙どころか芯を食ってる。バットで玉のシンを捉えたきれいな打球。お見事。

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

多分こういうことなんでしょうね。

エゴの正体に近いものとして。

量子力学

しかし私は他にも、「量子力学を利用しようとする願望実現系」も似た作用が起こってないか?とにらんでいる。量子力学を理解しようとしているうちは厄介なことが起こらないようだけど、すでにブログに書いたように(俺、私にも使えそう)と思った時が運命の分かれ道。

 

私はセルフケアのつもりで試しに数日こんなことをやってみただけで厄介な入り口に足を踏み入れかけたのでは?と仮説を立てているのですが、私が足をすくわれたのは「セルフケアのつもり」だったところです。セルフケアのつもりでやっていることは願望実現系だった。

それまでの従来の方法はセルフケアで止まっていた。しかし(現実を変えられるんじゃね?脳内の量子操作で。)みたいなことを試験的にではあっても結果的に足を踏み入れていたんですね。スピリチュアル感とかそういう感覚じゃなくて、なんだか脳の使い方系、イメージワークの一環系に感じていたんですが、どうだろう、行為としては「スピリチュアルエリート気取り」みたいな分類になったのかもしれない。

 

あぶねぇ あぶねぇ

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

 

私の学び

ここ最近書いていることはあくまでも仮説にすぎませんが、これがまさに「厄介を引き起こす体験」として良い線いっていたら(自分の体験を通して)また1つお利口さんになった部分がある。それは何度も書いているし、他のことでは体感・感覚があるような気がしていた次の4つのようなことです。

  1. 境界線が有るようで無いようで、でも有りそう。でもそれは境界線として存在しない不思議な空間のような感じ。
  2. この辺りを上手に使いこなせる方もいらっしゃるのかもしれないが、上手に使いこなす=健康的とは限らない
  3. 陰陽の拮抗しているような「場」があるとして、厄介が起きるのは1.のような拮抗状態の「場」を通り越してどちらかに傾いた時なんだけど、その厄介(今回書いているようなケース)は思いのほか人間の深部に到達する?
  4. 生きていると様々な厄介があり、心がひねくれたり、精神が痛んだり、性根が腐ってしまいたいような深いダメージを受ける時がある。それらもダメージによって「純度」に大きく作用するし、ヒトによっては自分の「純度」だけは死守したいと頑張る方も居る。それとは逆の方向のように感じる「スピリチュアルエリート気取り」風な行為もまた「純度」に大きな影響を及ぼす。というか、こういう行為が厄介を引き起こす。

ざっとこんなこと。

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何度も書きますが、私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。ただ私なりの信仰心のようなものはあるんですよね。だから、こういったことを書いてきてもやはり内容が宗教的というか、〇〇道的、◯◯教的みたいなことになっているのかも知れません。特定の宗教を信仰しておられる方は、私が書いているような内容の「答え」に該当することは多分「教え」の中に既にあると思います。

ですが私は自分で考えたり、仮説を立ててみたりはするものの「答え」は無いんです。すべて「仮説」。2023年10月の段階の個人的な仮説です。そして、私はどうしたいか? なにを好むのか?があるだけ。

 

しかし、もう少し他のことも考えていたりするので続きを書きます。

 

視野が狭い? 近視眼的?

運転中に次なる展開が頭に浮かぶことが多いのですが、昨日運転中に

  • 量子や粒子論は一部を切り取っているだけ。
  • 量子力学が全体とか、根本とか思い込みすぎる。
  • 社会、世界、人生との関わり方については盲点、スコトーマがある。

という言葉が浮かびました。

Egonetix_xyzによるPixabayからの画像

なんでしょうか? 私はひょっとしたらまた頭が冴えてるバイオリズムでも来たんですかね?

 

1つのキモはこんなところかな?とまたまた仮説を進めましたよ。

 

そして、唐突ですが寝る時間になりましたので今日はこれで〆ます。

脳内に浮かんだ仮説やその事例などを忘れないように既にメモしました。次回以降はそのメモを見ながら書き進める予定です。

 

おやすみなさい。

ではまた。

その領域には手を出すな??

手を出すな!というよりは

手を出すな! というより、「私は手を出しません」という独り言

書くものを独り言と書いてしまうと、all独り言。ホームページもこのブログもラジオで話していることも全部が全部独り言になりますね。突き詰めてしまうとそうなりませんか?

ですから、私が書いたものを読んで傷つくことなど無しでお願いしたい。だって、世界中の何億という人間のうちの一人が小さな脳みそで考えたことを呟いているに過ぎないから。

という前置きとともに、恒例になった近況報告もさせていただきますが、かねてより買い替えが決定しているけれどもまだ使えるから使っているPCの画面に1か月以上前から数本の「線」が縦横に入りました。最初は1本、今では数本。ぼんやりしている私に「買い替え時期が来てるからね!」とわかるように強くお知らせされています。ですから、時間をたっぷりとれる日にパソコン工房、ドスパラもパトロール先に加えて下見に出かけてこようとワクワクしています。

 

今日は前回の記事の続き、補足を書きます。

あぶねえ

 

わかったようなことを書くと、そもそも満ちていたら「術」はいらない

違う意味で怖い。わかったような書きぶりが怖い。www

私は”天上天下唯我独尊”の言葉の本来のニュアンスも知らず、頭に浮かんだ瞬間に「強烈なエゴ肥大!!?? ヤバイ!」と思ったほどでしたが、そもそもは私がお会いしたことのない、実在の人物かどうかすら存じ上げないお釈迦様がおっしゃったとのこと。

シンプルに想像しますが、お釈迦様が「思い通りの現実を創ってやるぞ」とちょこちょこっと脳内で操作しますかね? その時代に量子力学という概念が無いとしても、陰陽論に「細胞は宇宙」みたく概念があったということは、名詞として言葉は使わなくてもこういった「イメージ」「想像力」「イメージの使い方」「イメージの感じ方」とかの理解はあったと思うんですよ。

そのちょこちょこっと脳内で操作して「現実を創ってやるぞ」ということが人生じゃないんだよ。ということの方を推奨されていたんじゃないかな?と勝手に想像しておいて、驚くほどわかったような口ぶりで文章を書いてしまいました。

 

” 私は”天上天下唯我独尊”の言葉の本来のニュアンスも知らずにいた” くせに。(笑)

 

操作しようとしなくていい

そう、

自分の環境や人生を操作しようとしなくていい。もう完全なんだから。

という感じなのかな?

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神の領域?

私が今回も知識、情報、エビデンス、研究発表・論文があるからと言って、なんでもOKってわけじゃないんだろうな。と考えたりしたんですよね。それらがあればなんでも自分の人生に深く考えず落としこめばいいってもんじゃないって。純粋な研究も使い方によっては破滅的な兵器になるし、便利も追及したら自分が住んでいる環境を汚染して、ひいては自分たちの健康被害を起こしたり、人間以外の生き物がいなくなったり。

 

以前のブログに ” 信仰によってはこういう案件を「悪魔」とか「魔」とか「魔境」というのでしょうか。” と書きましたが、これらはある視点、ある価値観からすると人間の大切なナニカ、ドコカにあまりよろしくない影響があるという意味かと考えたんです。この「人間に大切なナニカ、ドコカ」って何だと思います?

 

あっ わかったようなことを散々書いていますが、これの答えは書きません。

答えはヒトそれぞれかな~って思ってみました。

それに、私が書いていることが正解とは限らないし。

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幸せになるために術を使う?

「操作しようとしなくていい。」の意味は他にもあって、

幸せになるために術をつかう? 努力や行動ではなくて? というような意味合いもありました。

 

私個人は考えようによってはどこを原因とするのか?どこを区切って結果とするのか?の答えがどんどん変わる(幾通りもある)と思っていることを理由として「原因と結果の法則」みたいなものを強く推奨していませんが、こういった法則の際に登場するワードに「行動」ってありますよね。

脳内でちょこちょこっとナニカ(量子?粒子?電子?)を操作して云々ですと、脳内でちょこちょこっと操作という行動には、信仰によってはこういう案件を「悪魔」とか「魔」とか「魔境」という結果を得たように感じるケーススタディを散見しておりまして・・・。

 

私個人は「原因と結果の法則」みたいなものを強く推奨していませんけれども、その私ですらこれこそ原因と結果のような似たケースを散見するという何とも皮肉のような、シュールに感じるような体験というか、経験があるんですよね。あくまでも自社データ(当社調べ)によりますが。

磁場が狂う?

これまで書いてきたようなことを脳内で推敲しておりましたらば、これは私が受け入れやすい「磁場」という考え方が寄り添ってきました。以前ホームページで磁場云々をやたら書いている時期がありましたが、もうすっかり身に沁みついていますので当然脳内にも浮上してきます。

脳コチョコチョのヒントはアニメ「かぐや姫の物語」の解説にあった

 

 

で、” 信仰によってはこういう案件を「悪魔」とか「魔」とか「魔境」という ” この状態を個体の磁場異常、アンバランスが起きていることによるのでは?勝手に仮定しました。

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神になったつもり?

ちょっとまた視点、話題が変わりますが、私が成功哲学的なものであまり好きじゃないジャンルのものに「とある引き寄せの法則系」があるんですが、引き寄せのその考え方の線引きがどこまでも終わりがなくて、もうそれは神の領域では?という違和感を持つときがあるんです。

そもそも「神の領域」という概念、価値観も絶対的なものでもないし、個々の信念も様々だと理解していますので、個々が信じる神が居る居ないという話ではなくてイメージとしての「神の領域」だとして書いています。

 

どのような点に違和感を感じるのか?についても考えてみた。

 

  • 同列で存在しているものを思い通りにしようとする。作ろうとする。
  • 上位概念。
  • エゴ。
  • 全能感
  • 全能感なのに?だから?狭い視野

 

これらが ↑ が浮かびました。

 

でも、他人様に伝える際になんと書こうか? どう表現したら伝わるだろう?? と思った途端に非常にわかりやすいものが目の前に現れた。

映画「ライダーズ・オブ・ジャスティス(吹替版)」

映画です。私が好んで見ている映画紹介YouTube(チャンネル?は沢山あるようですが、私は現在このYouTuberさん一択です。あなたの知らない映画の世界【映画紹介ちゃんねる】 https://www.youtube.com/@eigatube )で紹介されなければ観ようと思わない映画を見た時にそのシーンが現れました。

 

Amazonプライムで、「ライダーズ・オブ・ジャスティス(吹替版)」 を観ていたら、1時間25分あたり。

それは因果関係(引き寄せの法則の別名とも言える時がありますよね)を追求しようとしても、関わり合いは膨大でまともな結論は出ない。というようなセリフでした。それはもう私たち人間がなんとかできる範疇ではなくて関わり合いは果てしないんだからという、私が考えていたようなことが映画の中でやり取りされているようなセリフもあったように思います。

有名な他の映画は「バタフライエフェクト」。日本人の馴染みのある言葉だと「風が吹けば桶屋が儲かる」。

映画を観る前に今回冒頭から書いてきたようなことを考えていたので、それを見た時にまた1つ仮説を立てました。

なぜ脳内でちょこちょこっとナニカ(量子?粒子?電子?)を操作して思う通りの現実を創れそうだから創ろうとすると、私が勝手に、なんだか厄介、弊害があるように感じる現象が起きるのか? 起きているように見える気がするのか?

どうしてこれらが磁場にアンバランスを引き起こすのか?とつい考えたくなるのか?

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一旦まとめ

ここで今日のところの話を非常に簡単にまとめますが、私たちは生きていると様々な影響を受けていて、生体磁場は日々刻々と変化している。生体磁場と書かなくても「健康状態」でもいいです。

その生体磁場(身体、心、精神、脳、他にも大切なナニカやドコカ?)が大きく傾く事象・影響は様々あるようですが、自分が環境や条件を操作(変化じゃなくて操作という感じ)しようとするその程度によって人生が続くことは変わらないけど、その質というか、純度というか、なにかが大きく損なわれたように感じる磁場を形成するというような。

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ホームページのコラムにも「純度」という言葉を何度も登場させていますが、こちらにも使っています。今書いているようなことを既に書いていて、やっぱり私の書くものは、同じことを手を変え品を変えているということが今回もはっきりしました。w

波動よりも、私がしっくり来る感覚「電子・電気・磁場・重力場」

 

もう1回続編を書けそうですが、今日はここまで。

 

おそまつ

あぶねえ

続きをすぐに書けませんでした。もったいぶっていたわけではありません。大阪に数日滞在したのですが、その準備とか、ただぼーっとしていたりでPCに向かえずにいました。落ち着きましたので前回の続きを書きます。

大阪滞在について少し書くと、ホテル良し、シルクドソレイユの内容も良し、東京公演と内容が違ったのも新鮮だったし、観劇した席も正面4列目で非常に感激したのと、じゃあユニバーサルスタジオに行けるねって後から決めたのに丁度ハロウィンで日頃体験できないイベント有り、SINGを見た時に通路を歩くゴリラ君が私の伸ばした手にタッチしてくれた優しい感触も良かったし、沖縄に戻る飛行機が鬼滅の刃号なのもなかなかでしたが、帰りの機内でユニバーサルスタジオジャパンで非常に親近感がわいたマリオブラザーズの映画を見るというちょっとなんだか神がかった展開でした。

楽しかった。書ききれないです。生きていて良かった。腹が立つこともあるけど、凹むこともあるけど、ひっくるめて生きていて嬉しい。

 

あとですね、私は海外を含め凄い数のアタックにもびくともしなかった安心できる有料のサーバー契約を現在していますが、時々ビジー状態になるようです。容量が少ないのか? 容量の割にたまたまアクセスが集中したのか? それともそれなりに月日が経っているので容量をくっているのか不明ですが、もう少し様子を見て引き続き不具合が起きるようなら容量をアップを検討します。

私のホームページやこのブログを訪れてくださっている皆様にご迷惑をおかけしていましたら申し訳ありません。

あぶないところだった。のか?

本日はこの記事の続きです。

上手く書けるかな? 書けるといいな。

薄氷の違い? 同じ?

最新のマトリックスの中のセリフだった(はず)

仮想空間の解説を「全てと無の狭間」と表現されていた。私もたびたび「アッチとコッチの隙間」と書いてきましたが感覚的な表現だったので(自分がアッチとかコッチとかって感じるコレは何だろう?)と考えた時に現在のところまでは「顕在意識と無意識・潜在意識の隙間」という仮説を採用しています。

そしたらば、映画「マトリックス レザレクションズ」では「全てと無の狭間」なんて表現を見たものだから、なんか似ているな~って思いました。

いや、ひょっとしたら別の映画(「レミニセンス」)だったかな?

こんなことも、私が書きたい事の伏線というか、内容の一部のような気がします。

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一旦簡単に流れを確認

自己メンテナンスで施術、治療を受けました。

松果体がなにか反応していた。が、それをはっきりoverしていたとかそういうことは言われていません。その時松原先生がおっしゃったセリフを聞いて私が勝手にoverではないか?と推測したにすぎません。が、overにしてもunderにしてもアンバランスだったということではあると思う。

私がこの数日前から試験的に取り入れていたセルフケアというかイメージワーク(粒々モーフィアス方式、量子論方式とも言えるのか?)に松果体のアンバランスを引き起こす要素があるのでは?と思ったので(あくまでも自分で勝手に考えたことです)その方法をやめました。これにこだわらなくても従来の健康的なセルフケア方法もイメージワーク方法もあるから。

時系列的にはこの施術を受けた後に数日試験的に行っていたイメージワークをやめたのですが、並行宇宙的というか、並行時間的には結果を即座に(同時進行)で感じられるという説を基に考えると、少し先の未来にそのイメージワークをやめることが決まった時点で「天上天下唯我独尊」という感覚につながったのかもしれない。と今日現在(2023/10/中旬)推測いたしました。

SF映画好きですと、こんな文章を書くことはなんら違和感はありませんが、一般的、社会常識的には(このヒト イッチャンテンナー)的という認識はあります。今のところは。

Wolfgang EckertによるPixabayからの画像

 

そう、

” やめることが「天上天下唯我独尊」という感覚につながったのかもしれない。 ”

というところが今回書きたいことです。

 

それと冒頭にリンクをはっている前回のブログに書いた

” なんだろうか? あの人間の本能的な危機管理能力をすり抜ける独特の静かさは。 ”

との関連性。

 

そう、私はこういう類のことを考えるのが好きなんですね。特殊能力を得ることや、特殊能力を使えるようになることや、なにやら別世界に行くことや、教えを広めることなどではなくて。

だから、人生は好き好きで、スピリチュアル界方面的な特殊能力を得ることや、スピリチュアル界方面的な特殊能力を使えるようになることや、なにやら別世界に行くことや、教えを広めることが好きな方は誰に何を言われてもその道を進まれると思うんですよね。良いとか悪いとか、正解とか不正解とか、嘘とかホントとか、正解とか良いとかホントだと思っていたことも時間が経てばそれらの体験もまた逆になることがあるし。体験を経て、その先にまた新しい世界観が現れることがありますものね。

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忍び寄ってくるのではなくて、逆にそれがデフォルトでは?

前回、

” なにかしらの「術」のようなものを使えそうな気持にさせるのがトラップなんだと感じている。いろんなエゴが人間にはあるんだけど、そこのエゴは少々厄介が深い。というエリアがあるんだと思えるパターンがある。”

 

” なんだろうか? あの人間の本能的な危機管理能力をすり抜ける独特の静かさは。 ”

 

”「エゴとの親和性」”

 

と感じたことを書いて、そのあと、(忍び寄ってくるのではなくて、元々人間のデフォルトな状態では?)と思うに至りました。

ですから、こういったことを回避というか、そもそもそれが(危ない匂いがするぞ)と感じる感性というか、なんと書いたらよいのか迷いますが「人間の業」のようなものに対する興味や、自分だけは大丈夫と思うこと自体も「業」「エゴ肥大」ではないか?というような視点というか、そういった思考が無いとこういったことに興味を持った時点でそもそもハマる可能性が非常に高いのかもしれないし、こういったことに興味がわく、わかないという分かれ目も深い意味での「運」みたいなことも関係するような気がします。

 

「運」なんて書くと、(それを言っちゃあおしまいよ)という感じがするから余り好きじゃないんですが、表現力が感性に伴わないもどかしさがあります。ちょっと悔しい。

(※ 「人間の業」というタイトルの書籍があるようですが、私は未読ですし、未読なので推薦もしていません。)

 

「そもそもそれが(危ない匂いがするぞ)と感じる感性」と前述しましたが、危ないとかどうとかいうことも人によっては価値観が違います。前回のブログに ” 信仰によってはこういう案件を「悪魔」とか「魔」とか「魔境」というのでしょうか。” と書いたのは、一応価値観の線引きを提示したに過ぎません。

正解でもないし、不正解でもありません。

 

「運」と同じく、「業」と書いたら、その時点で(それを言っちゃあおしまいよ)とは思うんですが、やっぱりピッタリくるんですよね。

昔は否定的で嫌っていた業のような類の事象は、もちろん今でもそれらに反応して感情は動きますし、当然のごとく自分にもある。しかし年月を経て、自分のケアをしてきて、いろいろ考えてきて、変えていきたいことや、それについてできる行動はして、変化してきて、「業」と言われるようなことを時には人間ならではだと愛おしく感じる瞬間も現れるという奇跡みたいな一瞬も増えてきた。

 

私の中にも「超越したい」という欲求があり、それは特殊能力を得ることを指すわけではなく、ただ「楽になりたい」「生きづらさをなんとかできるならしたい」とことに端を発していたと思う。私の中の「超越したい」は比較対象が他者とか社会ではなくて、自分の「苦しみ」「生きづらさ」を超越したいという一人称だったのも良かったような気がする。

だから、特殊能力を得るとか、抜きんでるということでは、私が求める「楽」にはならないし、返ってこじれていくということを研究していたことが良かったような気がする。

しかし、多分この「超越したい」という欲求はある程度の割合で人間にデフォルト設定されているんだろうと思うんですよね。認められたいとか、カリスマになりたいとか、尊敬されたいとか、その名を轟かせたいとかもそこに含まれていて。

 

そこが「エゴとの親和性」が高いという要素の1つでもあるだろうし、なにかしらの「術」のようなものを使いたくなるという欲求、エゴということになるんだろうな~って思いました。誰もがチカラがあるんですよ。と言いながら心中(自分の方が上だ)と思っていたりとかするのは競争社会が前提になっていやしませんかね? なんてことも含めて。

 

セルフケアでストレスを「抜く」のではなくて、イメージワーク的なやり方で「量子」「粒子」を操作したら思い通りになるんじゃね?という能動性というか。

もう少し書くなら、それはストレスケアではないし、目的のための行動でもない

 

ちょこちょこっと脳内で「術」的なものを使って結果を得たいという欲求でしかない。という視点もあるな~ これがヤバイ入り口の1つかもな~ という1つの仮説に立ちました。

 

天上天下唯我独尊とのつながり

で、こういった「ちょこちょこっと脳内で「術」的なものを使って結果を得たいという欲求でしかない。」という自分の思い通りに周囲を動かしたいという、量子とか粒子とか電子とかなんとなく格好よさげで理論的風を装った「エゴ」みたいなものが私にも表れかけていた。

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できそう。って思わせるんですね~ 怖いですね~

 

いや、できるかもしれませんが、健康的にこの辺りをクリアしている方を私は実際には存じ上げない。その逆に、このトラップみたいなものにハマった方は多く見ています。だから(アッチは危ないな)と思っていたのにこの体たらく。(笑)

 

ということは、多分クリアするハードルはなかなか高いような気がするし、私が勝手に想像したのは、ナニカを超えたというか、ちょっと超越しているように感じる方はこういった類のことをしない。していないように感じます。

理論と、それを人間が扱おうとする際のギャップみたいなものがあるのかもしれませんね。原爆を作った方もそうだったかもしれないし、最初は便利な発明だったプラスティックも今では地球を脅かさんばかりというような意味で。

ですから、理論は知っているし使おうと思えば使えるのかもしれないけれども、実際にこの辺りの領域にハマらず人生を過ごされている方は、そもそもエゴというものをよく知っているというか、人間の業をよくご存じと言うか、自分だけは大丈夫という特別扱いしないというか、そんな感じがします。

 

そういったものを(術? イメージワーク? 願望?)を使わなくても、もう自分には存在意義があるという自己肯定なのかもしれませんね。

またまたもう少し書くと、こういったことをしようと思う時点で無自覚な不満とか、欠乏感とか、コントロール欲、支配欲がそっと? 思いっきり? 発動しているような気もしますね。

 

これらが悪いってわけでもなくて、個々の人生観によっては「術的なものが使えるようになるのが人生の目的」という方もいらっしゃいそうなので、人生については各々で考えて選択して行動していかれるんだと思う。

 

 

まとめると、今回の出来事を通して、無意識にしている他者や自分にしている条件付け、評価。

そんなことに思いをはせました。

 

そのままの自分。裸ん坊の自分を受容しているつもりでも出来ない。していない。

他人様には言えても、自分には適用しない。

そんなことありますよね。

 

思い通りの環境とのギャップ、現実を理想と違うと感じた時の人間の行動や選択、思考についてまた1つ考えました。

 

rubyliaによるPixabayからの画像

 

現在のところで書きたかったことが全て書けていないような気もしますが、今日は一旦〆ます。

続きがありましたらまた書きます。

 

おやすみなさい。2023年10月15日 夜。

薄氷の違い? 同じ?

くっきりした境目はあるのか?

最初に「お礼」

Blogやコラムを読んでくださった方が「自分が書いているかのように感じた」と感想を教えてくださったことがありました。嬉しかったです。それは何かそれらしい、良さそうな言葉や話を書いているわけではなくて、心情や感情や想いが表現できていたかな?と感じたからです。

私もなにかを読んだ時に(あぁ 私と同じようなことを感じているヒトがいる)とそれ自体に救いを感じたことがあったし、会ったこともない、それが小説の中の登場人物の言葉だとしても(理解者がこの世の中にいる)とそれもまた救われる思いを抱いたことがあった。

私が書く文章がどなたかのお役に立てるならばそれはとても嬉しいことですが、やっぱりまずは自分のために書いていると思う。書いて思考を整理したり、書いているうちに思いもよらぬ思考展開がおこったり、それこそ閃いたような気がしたり。

私にとっての暖かいご感想をありがございました。

境目ってなんのこと?

イマジナリーフレンドと神

例えばですよ。

信仰を持っておられる方は自分の中で「神と対話」するような感覚があるのかな?と思ったときに、それがイマジナリーフレンドや、神だと思っている怪しげな存在がいたとして、明確な違いってどう判断します?

ご本人から「私のコレは何でしょうか?本当に神でしょうか?」って質問されたりします?神だと信じていたら「本当に神でしょうか?」なんて聞きます? 信じているのに。

 

この部分の簡単な下書きを書いて早2か月?ほど経っているので、この案件に対しての熱量は冷めておりますが、私が何を書きたいのか?というと、「質」「本質」ってなかなかアヤフヤなもんなんだなって思ったんだと思う。(推測)

薄氷の違い? 明確な違い?

薄氷の違い? 明確な違い? どうやって判断してますか?

 

ところで私はそういったものについて、何を頼りにしているだろうか?と考えてみた。正確な答えというよりも、自分がどう感じるのか?というところです。

 

勘・・・勘に頼るって言葉があるもんね。

 

私はこんな時、気配を感じようとする癖があるのは自覚している。聴覚や嗅覚は凄く使うし、「脳裡に言葉を取りに行く」ような感覚もあるし、イルカやコウモリみたいな音波?電波?の跳ね返りみたいなものを感じようとしたり、それにしっくりくる言葉を脳内で探す。改めて考えてみると、目の裏に(脳か?)これらの感覚を集め浮かべて、総合的に判断を下している時がある。

John HainによるPixabayからの画像

 

似たようなことは過去にも書いたことがあるけど、その時の出来事には「言葉を探す」という要素はなかった。「質」「本質」みたいなことになると「言葉」が欠かせないみたいです。

 

いやいや、眠っていた下書きも書き進めてみるもんですね。私が勘を意識して働かせようとするときの感覚器の使い方の1つのパターンを文章化するときがくるとは思っていなかった。

そして、この下書きがまたまた本題の伏線となりそうで自分でビックリしている。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

私がセルフケアに使うのをお休みしたスキルについて

いったん辞めてみた理由

こちらの記事に松果体云々について書きました。

どうもアンバランスが起きていた可能性があるね。と。松果体が過活動、overだった可能性について書いています。

脳汁(な わけないんだけど)

で、自分でそういったoverに関係しそうなこととして、少しの間試しにセルフケアに使っているスキルの影響かな?と推測もした。正確な答えは知らないけど、(ひょっとしてアレの影響かな?)と推測したんです。

 

それが、こちらのブログに書いた、「粒々のモーフィアス」方式。(どんな方式?)

煩悩と楽しみ

 

気配を感じないほどエゴに親和性があるのか?

とあるところにハマっていくと、なにやら怪しくなってくる領域がある。

以前私が(なんか決まりきったようなパターンがあるんだよな~)と記事に書いていたら、多分それを目にしてくださった松原先生が「禅病」という名称があることを遠回しに教えてくださった(と思う)。

そう、なにやら怪しくなってくる領域がある。というのはこういったイメージ。

これらについての私の勝手なイメージを書いてみる。

なにやら怪しくなってくる領域とは?

境目がはっきりしていないが、ヤバイ扉は静かに口をあけている。

mcmurryjulieによるPixabayからの画像

 

そして、気配を消して静かに開いている扉に入ってしまったことにも本人は気が付かない。

それほど境界線がない。

 

なにかしらの「術」のようなものを使えそうな気持にさせるのがトラップなんだと感じている。いろんなエゴが人間にはあるんだけど、そこのエゴは少々厄介が深い。というエリアがあるんだと思えるパターンがある。

 

「エゴとの親和性」と書いたが、書いた自分が天才に感じるほどしっくりくる表現だ。そう、エゴとの親和性がとんでもなく高い案件が実はアチコチに静かに扉を開けているんである。食虫植物みたいに「(人間が)入ってくるのを待つ」という意識や受動性に見せかけた能動性があるのかないのかはわからないけど、信仰によってはこういう案件を「悪魔」とか「魔」とか「魔境」というのでしょうか。

 

こういったイメージ。

自分で天才かと悦に入っていますが、読んでくださっている方には伝わっていますか?

Peggy und Marco Lachmann-AnkeによるPixabayからの画像

 

 

この領域と松果体

多分、そういったことって松果体に影響するんだと思うから、実験的にやっていたセルフケアも控えめにし始めた。というか、いったん辞めた。(素直なんで。(笑))

 

なんだろうか? あの人間の本能的な危機管理能力をすり抜ける独特の静かさは。

だからハマっていくんだけど。

 

そして、ハマっている自覚が持てないから吸い込まれたら出てきにくい。(ひょっとしてドリーン・バーチュー氏が ハッ(◎_◎) とした感覚ってこういう感じだったのかしら?とまたまた勝手に想像しちゃった。そして、過去記事で書いた4大カリスマ達も???)

磁場は幾つもあるらしい 2

 

と感じることがあるので、今回松原先生に松果体のアンバランスを指摘されてマジ助かった。(先生に対して マジ とか書く失礼をお許しください)

 

興味や研究心よりも、(なんかヤバい可能性ってある? あるかもよ。 あるんじゃない?)と聞こえたような小さな小さな心の声に従うことにした。

立ち止まった今考えていること

扉に吸い込まれかけてというか、自ら足を踏み入れかけて

アレ?

と止まってる。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

その(一度足をとめてみようか)と思えたきっかけはメンテナンスのために受けている施術、治療によるのですが、大いなる幸運でした。

 

私は日々の生活の中でも

あ! 今 護られた!

と ハッとするときがあるのですが(ただの気のせいかもしれません)、今回もまた護られたと理解することにしました。

Jason GohによるPixabayからの画像

 

もう少し詳しく書きたいので、次回に続きます。

 

本日は大枠、プロローグを書きました。