願望実現系よりもストレスケア
自覚あり
私は自覚がありますし、そしてそれを正直に何度も書いていますが、同じようなことを手を変え品を変え書いています。数年前も同じようなことを書いていますが、でもやっぱり少しずつ自分の中に落とし込んでいる量が増えていっています。
それまではバラバラだった思考が、じわじわとそれぞれから枝が伸びて融合して、(あ!そういう感じ?!)と新たな広がりがあったりしています。神経も手足を伸ばして結合したりしますでしょ? ほんとあんな感じ。フラクタルですかね。こんなのも。脳内のシナプスが伸びて他とくっついて成長するのが頭に浮かびますね。
日々成長ってこんな意味もあるでしょうし。
じっくり も良いもんだよ
今はタイムパフォーマンスが特に重視されるそうで、数分に要約されたものが良しとされるそうです。ですから考えるより見たら早いショート動画人気がでるというか、人気があるというか。その点からすると私のブログなど真逆だし、ましてやブログに書いているような内容を要約した動画を出す予定は今現在ゼロです。私にもタイムパフォーマンスを大切にする分野もあるような気がしますが、それはショート動画で情報を見ることがそれだという価値観と若干ズレてる気がします。
人類は変化し続ける分野がありますね。歩いて地図を作った方も居れば、ドローンで地図を作る方もいる。グーグルアースで鳥観図をそのまま見たら、もう地図はいらないという方も居るかもしれない。
今回はここのところのシリーズみたいなブログの続きを書くつもりなのですが、読み返したらキモはもう書けているような気がしました。なんだか満足しちゃった。が、こんなこともあろうかと、次に書こうとしていたことをメモしていて良かった。
今回また再確認したのは、「良さそう!」「できそう!」だからなんでもやっちゃってOKってわけじゃない。と感じるような一筋縄ではいかないこともありそうだな。ってことでした。
「良さそう!」「できそう!」だからなんでもやっちゃってOKみたいに言いたくなることもあるけれど、ケースバイケースという視点もあるもんね。
振り返りつつ補足
まずはこちらの補足から
薄氷の違い? 同じ?
上のブログに、「イマジナリーフレンドと神の違い」というようなことを書きましたが、そもそも神についてどう理解しているのか?そもそもの設定や定義について全人類共通ではありませんでしょ? だから「これは神ですか?」「これは正しい神ですか?」というようなことをON、OFFで確認するというような価値観が視野狭窄的、偏狭とも言えるような気もするけれども、本当は違うかもしれない。答えがあるのかどうかもわからない。その答えが正しいかどうかもわからない。
ただ、何かしらの価値観や信念が自分にストレス反応を起こしているのならON、OFFという反応は出ると思う。
しかし、それらにうっとりしていたり、自らハマっていきたいような状態(磁場環境)にいるときは、そういう意味では信念にもなっていそうだし、その信念に心酔して同調しているのならば、正解不正解とは無関係にONになりそうですよね。そもそもストレス反応をON、OFFで見ているという前提にするのなら。または、ONやOFFの原因や意味のようなものを都合よく解釈したくなるというようなこともありそうです。
正解、不正解という立場や視点によって変わる可能性のあることを決めるのがON、OFFじゃないよね? とキネシオロジーテストを知るとたいていの方が通るあたりだと思うことを書きましたが、ON、OFFが正解、不正解だと教えていらっしゃる流派(のようなもの。そういった教え方をされているキネシオロジスト)もあるかもしれません。
私個人は、こういったことも個人の好みが選択の基準だと思いますから私が他者のされていることをジャッジする立場にはありませんが、私個人はON、OFFはストレス反応ということでセッションを行っています。
ですから、OFFでもバランス調整をしてONになった後にその道を選択して、後日(数年後でも10年後でも)ご本人が「あの時、あの選択を迷っている時はOFFだったけれどONにするというバランス調整をしてあえて挑戦してよかった。」ということってあるし、私もそうですが、生まれてから現在にいたるまでバランス調整という行為を知らない期間の方が長いわけですが、それでもたくさんの選択をしててきました。ストレスも抱えてきました。思いっきりOFFまみれだったでしょうが、結果今となっては幸せだという状態だと感じています。
何時も書きますが、自分に合ったストレスケアを知ったあと、「癒し」というよりガッツリ自分の深部に向き合って「ストレスケア」をしつこく行ってきたことが人生を変えた気がします。
ストレスケア 継続は力なり
こういった経緯もあって、ストレスケアをコツコツとしていると結果良くなる。選択の際に必ずしも一発ONでなくても、それがOFFでも向くとか向かないとか、正解とか不正解とかせず、ストレスケアとしてONにして、こちらもコツコツとやることをやっているといかようにも展開していくと思えてしかたありません。先程も書きましたが、私は筋肉の反応を確認する筋肉テスト(キネシオロジーテスト)を知る前からストレスを感じようが感じまいが、やるしかないと思えばやり、やってみて向き不向き(向き不向きの要素)を体験から学び、経験を積むことでOFFがONになっていったこともあると思っています。
こんな経験からも、「OFFなら私に向かないんだ・・・」と何をする前からそれを理由にあきらめることもないと思うし、ONなら成功の保証になるわけでもない。
ON、OFFも揺らぐと思うんですよ。私たちが生きていること自体が揺らぎの上に成り立っているような気がしているし、人体の生体電気や磁場状態も刻々と変化しているのにすべてのことに対してON、OFFの反応だけは固定しているってやっぱり矛盾を感じるし。
磁場がとても乱れているのに、ON、OFFだけが正確(なにをもって正確としますか?)ってねぇ・・。どう思います?
以前のホームページのコラムにも同じようなことを書いています。
そして、読み返してみたら、「スピリチュアルエリート気取り」ってどんなこと?という例も書いていました。
そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?
ONなら「ALL OK」以外に、思考力、観察力、感じるチカラ、勘も自分のチカラ
だからセッションの前に一旦「平」という状態にした方が良いよね。という行為もしますが、ここのところ話題にしていた松果体の磁場と言うか、状態が、キネシオロジーテストをする側もおかしなことになっていない方がより好ましいし、受ける側もそうなっていない方が好ましいとか、セッションを受けてバランスが整うというようなことが好ましいとは思います。が、スピリチュアルエリート気取り風な状態になっているときに「自分は整っている」と疑わないだろうことが多そうだなぁとは思うし、「ほら やっぱりONだよ」と確認したそのONの質も様々だという可能性もありそうです。
別に松果体のアンバランスだけじゃなくても、エゴ炸裂傾向の施術者・キネシオロジストがOFFをONにバランス調整したとしても、やっぱり質は様々かも知れないと思う。セラピーをするとかしないとか関係なく、ストレスケアってしておくのが良いよね~って言うのはこんなことを考えているからです。
キネシオロジーテストをする側だから、ヒトとして優れているなんてことは無いし、イマジナリーフレンドと神の違い(があるとしたら)をジャッジできるわけでもない。それを信じている方の価値観や脳内でなにがどう繰り広げられているのかを見抜ききることも、完全理解することも難しいですよね? わかったつもり、全能感に浸ってしまう方が厄介が深いと思えています。
書き方は難しいし、書き方も考え方も私こそ間違っているのかもしれませんが、ヒト自体が揺れていると思っているので、セッションをする側も受ける側もそれは同じ。
悪魔的なものも、ご本人が「神」だと思えばそれが信念になっているという事例は古くから枚挙にいとまがないし、信仰によっては神も悪魔ももとは1つが別れた存在(視点の違い)説もあるし、ヒトの創った概念に絶対的な正解、不正解があるの?という哲学的なのかなんなのか領域不明な価値観だってあるんですよね。
指標はONとかOFFだけじゃない。
ONとかOFFがあったとしても、心の中の小さな声も重要かなという価値観が私にはあります。人間という全体性を大切だと思うが故。
指標はONとかOFFだけ、あまりにそれだけになるとゼロ(0)ヒャク(100)思想にしか過ぎなくなるような気もして、それはバランスが崩れているような感じがするんですよね。
願望実現系について減らず口を書くと
私も願望が叶ったら良いな~って思いますよ。今から減らず口を書きますが、私がそれらを一切したことが無いなどという嘘も書くつもりがない。
私もやってみて思うことがあったんですよね。
そのうえで減らず口を書きますと、願望実現系の何か(儀式とか他にもいろいろありましたよね)をしますでしょ? 「自分には(今)それがない。」と無意識なのにそこをしっかり頭に浮かべて。
現状確認と言えばそう、現状把握と言えばそう。しかし、「もう叶ったかのようにイメージする」という段取りとは違ってきます。
願望が叶わないと幸せじゃない。というその認識は幸せか? そこには矛盾がないの?というようなことです。
私も過去、満月に向かって財布を振るとか、願いを書くとか、コラージュやマップを創るとか一通りやりましたが、数回やって、(毎回叶っていないことを確認しているみたい。これってナニ?)と思ったのでやめました。何年も前にやめました。
しかし、これらについては、こういったメソッドの推奨者さんが私の減らず口を論破できる根拠をお持ちだと思います。ですから、私個人の独り言の域を出ませんが。ものすごく簡単に書くと、「やってみたら最初凄いと思ったけど好きじゃなくなった。やってみたらしっくりこなくなった。」という感じです。
ヨガ的な思想について減らず口を書くと
もうすでにホームページのコラムの方に書いていますのでご紹介します。
ONの中のON ONの中のOFF
どうしてこうなっちゃったんだろう?と思った時に
そう、私は瞑想らしい瞑想もヨガもやっておりませんけれども、↑ に書いた、多分私が今回書いてきたような「松果体のバランスが崩れる」ということが今回の自分の体験を通してどういう要素が関わっているのか?の一例を理解できたような気がします。
今回私の場合は、メンテナンスを受けた際にありがたく「松果体のバランスがちょっと・・・」と指摘をしていただいたのと、自分の心の小さな声(ON/OFFなどは確認していませんので、勘みたいなこと?)があり、粒々モーフィアス方式の脳の使い方と瞑想と、ヨガ的なナニカ(瞑想かもしれないし、型(カタ)が関係するのかもしれない)の際の脳の状態が似ている箇所があるんだろうか?と仮説を立てました。
神の領域
以前のブログにも書きましたが、「神の領域」みたいなところを操作しようとするような行為や勘違いやエゴや思い込み、「神の領域」を操れる側の一員なんだという行為や勘違いやエゴや思い込みが関係しているのかな?と仮説を立ててはみたものの、文中に戻りますが「神」の定義すら様々で、かつ、「領域」という境界線のない概念も受け止め方は人それぞれです。
だから表現は難しいので、何一つ断定できません。
一度こういった仮説も考えたものの、人体が宇宙という東洋思想を取り入れてみると、自分をコントロールしようとすることは社会生活の中にはあることだし、生きていくときにとても重要な時もあります。神の領域と私が勝手に表現したあたりも自分の領域とも言えなくもない。そう考えると量子力学的粒々モーフィアス方式で現実を創り上げようとする行為は良くも悪くもないかも?? とも考えたりしたんですね。
ですから、今日現在(2023/11/05)は結果と言うか、なにも断定はできませんけれども、私個人は「神の領域」系操作と思うような行為はやらない方向性で今後も行きたいですし、今まで全能者になろうとか目指したことはありませんが今後もそういったことは得意な方にお任せして、私は一人間として生きていきたいと思っています。
総括 ストレスケア
今回のことで、それまで行っていたイメージワークの安全性を再確認できたし、それはきっとストレスケアに方向性を向けていたからだと思えた。
自分に矢印が向いていて、自分を大切にする行為。
粒々モーフィアス方式は他者や環境を操作しようとしていたんだなっていうところが明確になって良かったです。もっとシンプルに書くと、ONとかOFFとか抜きにしても「健康的な感じがする、しない」という感性ですかね。人によっては粒々モーフィアス方式を健康的だと感じるかもしれないので、あくまでも私個人の感覚です。
もう1回このシリーズの続きを書けそうです。
今回みたいにアップまでに時間がかかるかもしれませんので、気長にお待ちください。
ではおやすみなさい。
誤字脱字、おかしな文章は明日以降気づき次第訂正します。