どれほど好条件で生活をおくっていようと

当の本人がそれを感じられなければ

「私は幸せだ」という事にならないようですが

口で「幸せだ、幸せだ」と言う癖をつけていても、

考えることが なにかと囚われがちで、

結局のところ「幸せだ」という発言を上回る「不満発表・発言」をしているケースも見るし、考えていること・脳内ループが「不満」に囚われているようにお見受けすると

 

全然脳はだませてないじゃん

 

というのが現実じゃないの? という認識になってくる。

 

 

「私は幸せです」というのは他人様に対する建前であって

一皮むくと「私は不満だ」「私は不幸だ」「私は恵まれない」という脳内ループ。

 

脳内発言とでも呼ぼうか。

 

脳内発言の量の比較で言えば、「私は不満だ」「私は不幸だ」「私は恵まれない」が圧倒的に多いということになってるみたい。

 

 

ということを思うと

やっぱり条件じゃないんだな~って思う。

 

自分がなにを感じるか?なんだな~って思う。

 

 

で、こんな時に、

色んなものに囚われている方に、とっても幸せそうな方って見ないな~ というMyデータ(自社データ)がある。

 

 

ということは、条件や環境はどうであれ

自由を感じられる

ということって幸せの条件として挙げて良いのかも知れない。

 

 

こんなことを考えた時に下のコラムに「自由」について書いた。

 

takedamiki.wpx.jp

 

 

自由って何を自由と感じるのか? 理解するのか?も様々ですので

あくまで私の感じたところによると。という話なんですけど。

 

(イラストの後にも文章は続いています)

 

 

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また、

「私は不満だ」「私は不幸だ」「私は恵まれない」と認識されているのは

じゃあ一度ケアしてみたら感じ方が変わるかも? というトンネルの出口を設定しやすいような気がしますが

おそらく、ちょっとやっかいなのは

「私は不満だ」「私は不幸だ」「私は恵まれない」ということを認めたくはないばかりに他の事にすり替えていくケースでしょう。

 

気がつかないから手を付けない。

 

 

 

こういった気づかないということを「これは厄介だ。」と確かに思っていたんですが、

何がその人の支えになっているのかは、他人からは中々わからないもので、

私からみたら「厄介」と思う事も、ご本人には「支え」になっていることだってある。

私にもあった。

変なMyルールを幸せには繋がらないのにそれを続けることを支えにしていたことが。

 

 

ちょっとこんがらがったような状態が「幸せ」と感じる方も多い。

ご本人の人生なので、他人の私がどうのこうのと言う必要もないわけですよ。

ましてや、それが「幸せ」と感じるか、もしくは、「選んでいる」わけですからね。

 

 

こんなことを思うと、

幸せの条件って人の数ほどあるんだろうと思います。

が、私の場合は上に書いたような「私が自由と感じている心体の状態」は今現在の幸せと感じているようです。

 

 

とどのつまり

他人の言う「幸せの条件」に振り回されないことが「幸せの条件」なのかもしれない。

なんか とんち とか、禅問答 みたいになっちゃったけど。

 

「他人の言う『幸せの条件』」に囚われないのも大切ですよね(^^)

 

 

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