私が天才なら書きたいことを一発、一回で書ききれるのでしょうが、今日現在は天才からは程遠い為今回のように補足記事をせっせと書く事になりました。いつも通りと言わざる負えませんが。

 

こちらの記事の内容について補足します。

これも科学?

 

お好みの宇宙

何を創り出したってお好みだ

 

” これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。 ”

 

と書いたのですが、これは書き方が違っていた。

 

それぞれの人生は、お好み。

 

得意な方は意識をちょっとイジッてホログラムのような映像を創り出すことなんて朝飯前。これが出来るから意識でチョチョチョイッと現実化するぜ! ということがお好みなら、他の誰が何を言おうと「そうしたい」からする。

ramazan balayevによるPixabayからの画像

 

身体に悪いとか、メンタルに悪いとか、そういう情報を見聞きしていてもそうしたければする。

私だってそうだ。今は(あれは間違ってたな)という考え方や行動も当時は「良し」と思っていたであろう、いや、信じていたであろうし、それが「流された、流れちゃった」と思うようなことも、その時はその選択しかできなかった。

 

私個人的には、それらも時々見直したりして行動修正や行動変容することもあるし、身体やメンタルが自然発生的に従来の習慣から離れて行くこともある。

若い頃吸っていたタバコも、すぅーーーーっと苦しまずに離れられたし(ラッキー)、成長期に水のようにガブガブ飲んでいた牛乳も、今となってはカフェオレに少し入れるだけになり、昔は買う気にもならなかった小さな牛乳をたまに買えば事足りている。牛乳だけを飲むなんてことはもう何年もない。この変化に自分が驚いている。

 

今は今。

未来はわからないってことです。

 

悲しいお知らせかもしれませんが

お腹の宇宙の話を書きましたが、今から書くことは読む方によっては非常に悲しいお知らせになる可能性があるので、不快な事からは遠ざかりたい方はもう読まないでいただきたい。と念を押します。

日常生活は続く

それは、お腹に宇宙があっても、お腹に宇宙が観えても、独特の安心感を得ても、

社会に生きているのなら、それはそれなりのストレスもあるし、嫌な人や嫌いな人や不本意だと感じる出来事はあるし、お腹に宇宙があっても、別に世俗から抜けられるわけじゃない。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

 

お腹に宇宙があるということは、シュレーディンガーの猫のごとく意識したときに「現れる」というような感じだし、以前も書いたのですが、悟りって「一瞬」「その瞬間」の出来事であって永続的な事じゃないような気がするというのと同じです。

 

目的じゃない。

これらは私の人生の目的にするものではない。じゃあ手段か?と問われるとそれも違うような気がするから、言葉を探してみたところ、ピッタリきたのは「ただの事象」でした。

意味づけに価値を重く置かなければ、こんな言葉が頭に浮かんだ。

 

少なくとも私にはお腹の宇宙が観たいという意図などなかったし、それにむけて努力したとか行動したとかないんで、偶然現れるモノ(コト)であろうと分類しています。

それを知ろうとやけに調べたり、修行?するという執着があればあるほど遠ざかる類の「偶然現れるモノ(コト)」。そうですね、陰陽論的な「平」、ゼロポイントみたいな状態で「偶然現れるモノ(コト)」「感じるような事」かも知れない。

 

こんなことも過去のコラムに書きましたっけね。

コラム集

 

振り子みたいなイメージ?

私達は固定の状態で生きておらず、揺れている。

感情も揺らげば、ホルモンも揺らげば、内臓も揺らいでいる。

生きていれば生きているという(生体)電気を帯びている。電気を帯びているから揺れている?

 

数えきれないそれらが共振しあうのか何なのか理由は分かりませんが、揺れみたいなものが一瞬「平」「ゼロ」みたいになった時に、

あの白い世界(過去のコラムにも書いた、相談者さんや受講生さんが脳内で見た独特の風景があり、人は違うのに風景はたぶん同じな、「これは悟りなの?(正解は不明)」という感覚があるのですが、それがそうです。映画「マトリックス」にも白い世界が出てきますよね。白い世界に自分で全て(まずはソファーでしたか?)を生み出していくという世界が。あれと一緒なのかどうかも不明。映画を創った方と話さない限り確認できないから)へ瞬間移動みたいなことをする。

私はリアルマスターヨーダの大竹お父さんに、次にお会いした時に「あの白い世界は一体なんですか?」と質問したいと思いつつもう3年?経ちました。多分リアルマスターヨーダはご存じのはずで、今思えばそれっぽい発言をされていたような覚えがあるんですが、肝心の私がぼんやりしているもんだから未だにハッキリしないままフワッと脳内に滞在しております。

 

相談者さんも受講生さんも私も、誰もこんなことを予定していないし、願っていないし、想定していないから、なにか条件が揃うと(かどうかも全てが不明ですが)「偶然現れるモノ(コト)」「感じるような事」なんですよね。

しかし、その後も皆普通に生活している。

色んなことがあって、体験して、考えて、いろいろやってる。

だから別に、少々のことがあったって「抜けない」。

こじらす(これも好きずき。お好みです)ことはあっても、抜けちゃって俗世を離脱した方はいない。

 

一瞬の体験・感覚でしかない。

 

ただ、それらが、人生に影響を与えることはあると思う。それがご本人の生きやすい人生の追い風や支えになったらそれはそれでステキなだぁと思っています。

私も滑ったり転んだり笑ったりしながら生活しておりますが、いつもお腹に宇宙があるということは何とも言えない有り難い感覚です。生きている間にこんなことがあるなんて!という体験はお陰様で多いのですが、このお腹の宇宙もホント有り難い。感謝×1000000乗です。

運が良かったと感謝しています。

 

それとはまた別に、日常生活の「イライラすること」はあるわけです。

しかし、もう本当に生き易くなったし、イライラすることも今日現在はとっても少ない。無い訳じゃない。が、これまでの人生の中で、この状態でイライラするなんて言うのもちゃんちゃらおかしい程度ではありますが、自分に素直になった時に、やっぱり「イヤダ」「嫌い」「イライラする」時間はある。それで良いと思っています。

 

私は「人生生き易くなるといいな」「楽になりたい」と長年思ってきましたが、すっかりその状態になっておりますので大満足です。完璧になろうなどと思っておりませんし、「イヤダ」「嫌い」「イライラする」時間があることで、その他の幸せtimeがより一層輝いて、有り難くて、幸せ感に浸っております。

このささやかな「イヤダ」「嫌い」「イライラする」が無い時間の有り難いことったら! なんて快適なんでしょう! と昨日も満喫して感動していました。

 

スイカに塩をかけて甘味を増す。みたく、幸せ感が増す。どんどん増す。

嫌なことなどゼロになればいいのに。と思うものの、幸せに有り難いと思う気持ちはほんのちょっとの「イヤダ」「嫌い」「イライラする」によって深みが増すということを今この文章を書いていて過去一理解できた気がする。

知識では無くて。

知識で、無理にそう感じようとしている時と、腑に落ちる、体感する事の驚愕の違い。

だったら、ほんのちょっとの「イヤダ」「嫌い」「イライラする」がどんどん我が身に起こったって、それによって私の「幸せ!」「マジ サイコー」みたいな感覚がどんどん増幅されていくんだから嫌がる理由もないし、かえって「ラッキー!」みたいなことになりますね。

幸せ感増幅time

そう、いつからか、それまでの感覚が切り替わって、幸せ感増幅timeに入ったんですよね。

陰極まれば陽みたいに。

自分のストレスケアはずーーーーっとやってきたから、それは土台にはあるものの、それに加わった要素としていろいろあるのでしょうが、自分で印象に残っているのは「恐怖をブレイクスルーする」とやり方もわからないけどちょっとやってみるか。と思ったというか、トライアルを決めたというか。(試験的にやってみたよな~)

 

これもコラムにも書いたのですが、じゃあ具体的になにをやったのか?は覚えてないんですよ。

なんでもノートに書いているから、その当時のなんでも帳を読み返したらなにをやったのか書いてあるだろうけど、なんでも帳って処分してもまだたくさん残っているので探す気力がない。

それは私の本当に性分なんですけど「過去のことだから」熱量がわかない類のことです。

 

執着が・・・薄くて・・・モノによっては執着もあるのですが・・・

まだこれらのノートを残している(見返さないけど)ということが私の執着の表れでしょうね。(^^)

コンマリさんなら瞬殺でゴミ箱案件です。

 

最後に

言いたいことが上手に書けているのかわかりませんが、補足。訂正は早めにした方が良いと思って記事をアップします。

 

好きな人生を生きていきましょう。

自分が選んでいるんだ。ということも人生多いです。

 

失敗したって、後々幸せ感を感じられたら良い思い出、体験です。

後悔したって、それが禍を転じて福と為したら話のネタになる。

 

自分の人生を創造する。

私の好きな考え方です。