お腹の宇宙
有り難いことの1つでもシェアしておこう
松下幸之助氏
” 3月6日
「カンと科学は車の両輪」カンというと、非科学的であいまいのようだが、修練の積み重ねから生まれるカンは不思議な力を持っている。多くの発明・発見が、カンの働きを原理づけ、実用化する努力の中から生まれてきた。つまり、カンと科学は反発するものではなく、いわば同根、この二つを車の両輪として、ともに大事にしつつ、発展、向上をめざしたい。 ”
人にはいろいろな「両輪」感があるものですね。私が同じことを書いても心には響かないかもしれないけれど、あの松下氏の言葉となると皆様「そうだ!」と同意しやすいのではないでしょうか?(笑)
ちなみに私は過去の記事に、潜在意識と顕在意識が両輪と書いていますし、別のとあるDr.は、「不思議に感じることも確かにあるし、それについては否定はしないが、ただ意識だけのスピリチュアル(思想・意識だけでなんとかしようとする思想)については全く受け入れたいという気持ちはない」とおっしゃっていました。
このDr.のおっしゃっていることと(科学的に解明されれていたり、仮説のある不思議系な事の解説など)、私が記事に書いていることが似ているところがあるので、(感性が似ていそうだなぁ)と感じた次第です。
お腹の宇宙
前回の続きになります
前回の「体内に観えた(ように脳内映像が浮かんだ)惑星」あたりからの続きです。
私はこれらを「お腹の宇宙」と呼んでいます。
そして、今日はこちらについてちょっと書きます。
脳内で観えようが観えまいが誰にでもある(はず)
こういった話をすると、こういった脳内映像が観えると立派というか、能力が高いみたいなレッテルを貼る方がいます。他人にも自分にも。
多分そういったことじゃない。と私個人は感じています。
それは、今までも例に書いてきたように、走るのが速かったり、持久走が得意だったりという体感センスみたいなことだと思う。
私は子どもの頃は瞬発力で好成績がでるものはクラスの上位だったけれど、持久走からは逃げたかった。ランナーズハイなどなるわけがないし、経験したこともない。習字は好みではないが、硬筆は好きとか。その延長線上に「脳内映像化」がある。
小説などを山ほど読んだ大抵の方は脳内映像化が得意だと思う。
その程度のこと。
だから、施術をしたり、会話をしている時に、共振率が高い方や脳内映像化が得意な方、運動などをして体感覚が鋭い方などは、「お腹に宇宙はありますか?」と質問すると
「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」みたいな感じで、脳内ではありますが、観えた。観えるようになった。(脳内でも実際でも視覚野にはあまり影響がない。以前もコラムに書きました。とある幻視は見ているご本人にとっては幻視ではなく本当の映像だということを。映画の1シーンをもとにして書きました。)
シュレーディンガーの猫のごとく、その瞬間を境に脳内視覚ではありますが、「観えた」「現れた」わけです。
これは、そう思いたいから、自分もそれを見たいから、自分もそれを欲しいからといって妄想・創造で創り出すのではないのですが、こういった感覚は分かる方にはわかるとしか書きようがない。
「(初めて気がついたけれども)ある。」「あら?ある!?」という、混じりっけなしの「キョトン」なのか、とっさの無意識的と言いつつ意図的な「同調」との違いって、ご本人よりも案外他人にはわかるもんですよ。
空間感覚の共有、共振とも言えるのかも知れない。その空間がじつは枠のない無限大「宇宙」みたいな感じだというところがまたシュールである。
大丈夫です。伝授とかいって講座開いてませんから(笑)
伝授ではなくて、ただの「気づく人は気づく」だけですから。
見ようとして躍起になって厄介になるような瞑想とかお気をつけくださいませね。(それも人生のお好みですが)
足腰の違いが現れるケースが多い?
不思議と言えば不思議な体験をしたその後に割と2極化するようなことが多いみたい。
- エゴが刺激されて一気にあちらへ傾倒していく方と、
- それはそれ、これはこれ、みたいに足腰が強いと感じるほどブレない方。
1. のケースは、簡単に言うと「わかったちゃった。抜けちゃう予備軍」みたくなってくる。ウエ(ってどこ?)と繋がったと思うみたい。だから益々傾倒する。要するに、人間社会にそれまで以上に(それまではこっそり隠していた?)上下やランク付け感覚が育つみたい。エゴ肥大化の無限列車に乗ったか? そして、他の乗客を勧誘しがち。そして、乗り遅れたくない乗客予備軍も多いため勧誘達成率は高い。
例:一時期の「次元上昇に乗り遅れるな」の煽りは凄かった。煽られて焦っている方も結構多かったみたいだし、妄想で「私は流れに乗った」とした方も多かったのかも知れない。あの最中も「ナンダコレ」と思っていたが、今はどの位の方が(結果煽られただけだった)と逆に安心しているのだろうか? みなさん良かったですね。一緒に居ますもんね(^^)
2. のケースは、最初は ナニコレ? とただ自分の体内を傍観している感じでも、おそらく時間経過と共に独特の安心感を得るのではないかと推測している。
私達はいろいろな体験により胸やお腹に空虚な穴が空く(空いていると感じる)事がある。その穴も虚空と言えば虚空だし、お腹の宇宙も虚空と言えば虚空なんだけど全然体感覚が違う。宇宙的虚空は虚空のくせに安心感がある。究極の安心感とは言わないが、とある安心感にはなる。
それは人間が本当は嫌っていると言われている「自由」感なのかもなぁ とこのブログのメモ書きをしていた時に感じた。自分のお腹に、何にも囚われない「自由」がある。
これらを踏まえてちょっと振り返る
1. をもう少し書く。 お腹に宇宙があるのに、繋がりたい「ウエ」ってなに?どこ? と思った時に、やっぱり自由になるのは怖い、枠組みの中に居たいとそれこそ潜在意識、身体の核でそう思って居るのなら
ウエとかシタとか、そういった設定がある方が生きやすいのかも知れない。枠の中で行きていると安心するというように。
想念で(意識で)いろいろ知識を得ても、興味はあるけど本当は怖いってことってありますよね。生命維持のための危機管理的に。本能的な反射、反応として。
だから、足腰がしっかりしていないなどと失礼な表現をしましたが、こういったことが露見するっていいチャンスではないかと思う。
多分、情報に翻弄されたり、体験では無くて刷り込まれた情報優位なんだと思う。
潜在意識って集合無意識ということになるんだとしても、そのコンタクト具合って個体差があってもおかしくないですよね? なんだか皆均一みたいな錯覚を起こしている可能性ってありませんか? 個体の脳、肉体、精神の許容量によって扉の大きさが違うような意味合いです。
現代絵画のようなイメージで
非常に抽象的な現代絵画を見て、「凄い!」と思う方も「ナニコレ?」と思う方も「これが良いって言うんなら良いんだろうね。うん、だんだん良い気がしてきた!」というような様々な反応があって然るべきでも「好き好きですから」とか「それぞれの感性ですから」とあまり自己否定に繋がらないけれども、こと、こういったスピっぽいことになると途端に能力の優劣みたいなモノサシを持ち出されることも不思議ではあるんですが、
それもこれも好き好きで、正解はないんだろうという事ですね。
A. こういったことのエビデンスもなくてもOK、あってもOK
B. 証明もなくてもOK、あってもOK
C. 真実、真理・教え・法則もあってもOK、なくてもOK
ただ、もし私個人が「ウエ」と繋がろうとしたら、それは自分のお腹の中だということになるわけで、フワフワしようがない。だってどこまで行っても自分の中だから。みたいな感じ。
他のことでフワフワすることがあっても、宇宙云々では外へ外へと彷徨い出ちゃうようなことはあんまりないんですよね。
そもそも「ウエ」と繋がろうとかしないし。だってもう「在る」し、そもそも「ウエ」じゃないし。
今気がついたのですが、こうなってくると、
またまた究極的な表現になりかけますが、 A. B. C. のどれもが自分の中にあると言えるのかもしれないですね。自分の中に、ナニカを証明する後ろ盾、承認される理由、存在理由がある(またはそれらが必要ない)。
だとしたら、アラマア タイヘン! な話になってきましたが、わたくし個人的には非常に地味な生活をしておりまして(飛行機はエコノミークラス)、生活に概ね満足しておりますが、なんでも叶えてあげるよ!と言われればメキメキと欲の皮が突っ張ってきます。(いつもファーストクラスに乗れたらいいのに!)
一粒で最大限の利益を享受したいと思えば、めっちゃ素直になったりします。利益を得る準備として「我」を消すというような本末転倒な感じです。(笑)
我を消すのと、染まる(洗脳される)のはちょっと違うんです。素直って幾つも種類があるんですよね。
これが今日現在の私の脳内と、思考と、現実のバランスでございます。
凡夫極まれり。
あんなに抵抗していたのに、もうすっかり、「人間だから。」って開き直ってきました。
なんだか素直になれてきました。祝