「魔境」の正しい状態は知らなかったけれど

2年前、がっつり長文を書いていたんだなぁ

以前、頭が非常に軽やかに高速回転していた時期に長文を沢山書いていた。

時間もたっぷりあったし、「ゾーン」のようなものに入っていたような気がするほど考えるチカラがハイパワーだった(気のせい?)。たっぷりじっくりなことを高速で考えて、過去の体験とその当時の思考、データの紐づけ・関連性の類がサクサクと脳内で整理され、その思考と体験のシナプス結合も怒涛の如く進むようなシンクロニシティ(かと感じた)も多く、

ゾーンに入って神がかる

みたいな感じだった(気のせいか? しかし今日現在よりは頭が良く働いていた)。

その時は、脳の調子が良いな~ 軽いな~ という感じでしたが、生きている間にこのような体験と実感を味わえたことは僥倖でございました。

そのONは、OFFの中のONだとしたら、どうやって解決していこうか?

上の記事の他にも色々とコラムを書いているので、興味を持っていただいた方はご一読くださいませませ。

コラム集

 

正直、(このヒトいったい何が言いたいの?)という意味不明な文章も多いので、申し訳ありません。

で、昨日運転中に浮かんだ言葉

最近は、これといって決まったテーマがあるわけではないので、特定のテーマをつきつめて深く考えていませんが、しかし無意識にもなにかは考えているんですよね。誰でもそうで、思考が止まらないと自覚している方もいらっしゃる。

 

浮かんだ言葉は

目から知性の輝きが失われている

です。

 

運転中に考えていた事

渋滞していたんですよ。で、その時に考えていたことは、私が「酔っぱらっている」とか「魔境に入りそう(既に入っている?)」とか、感じるのはどこだろう? どうしてだろう? です。

渋滞してる最中に思考がアチラコチラ、過去や未来?に彷徨ったんでしょうね。

多次元と素粒子とミラーニューロン その他もろもろ みな一緒

 

過去のコラムに書いたように、多分、「気」の質のようなものとか、生体電気のようなモノと言った全体的なものを私なりに感じているのは確かだと思いますが、そこには、波動という言葉が好きな方は波動の質のようなことも含んでいるようです。

しかし、大きく占めているのは、「目・眼」だな。ということで

目から知性の輝きが失われている

と感じるみたい。私が。

 

面白いことに、「酔っぱらっている」とか「魔境に入りそう(既に入っている?)」方も目が輝いている、光っているように感じる方も居るんです。

 

ですから、私の中での輝きのポイントは、表面的にキラキラとしたものではなくて(表面的なキラキラもそれはそれで結構ヤバイのかもしれないと思うケースが実はあった)、その奥の静かで深淵さを感じるような輝きを知性と感じるみたい。

Rudy and Peter SkitteriansによるPixabayからの画像

 

そう、ウットリしている時って結構目の中ってキラキラしてたりするようで、魔境の中で夢を見てウットリしているときも目がキラキラしてるかもね。キラキラというか、焦点があってないというか、焦点がぼやけてるというか・・・

 

禅病という状態も「眼」にそれは現れているんだろうと思う。(というか、私がそう感じた事があったという話ですが)

 

解脱や悟りが「目的」になるとヤバイ?

この手の話題については、私から新たな視点や見解や意見が出てくることは当分ない様な気がする。当分どころか、今生の理解はここまで。ここが終点って可能性もあるかもしれない。

 

ですから、今から書くことも過去に書いたことの刷り直しでしかないってことはご理解頂きたい。

 

目的とは?

解脱や悟りが「目的」になるとヤバイ? とは見出しに書いたものの、実はヤバいもヤバくないも無くて、人生の生き方は自由。(と益々思うようになった。)

それこそ、魔境に入ろうが、入らなかろうがその人の大切な人生。

人生に目的があろうが、なかろうが好き好きなんだと思うんですよね。

 

私も変わったわ

以前はここまで開き直ったような感じじゃなかったし、フワフワしちゃうことや、酔っぱらったようになることに警鐘を鳴らすというようなニュアンス強かった。が、私もちょっとずつ変わるもんである。

マジで。

 

ただ検証しているだけ

目・眼の輝きがどうとかって先述しておりますが、今はもう、良いも悪いも個人の好み、好き好きだけれども、私はそれが子どもの頃からの習性のため、引き続き変化や状態を淡々と検証?(ただのMyデータとして蓄積していく)して、私なりのその時々の検証結果を脳内に収めていくだけなのかもしれません。

 

いや、またこの先に、主義主張が変わるかもしれませんが、今のところ、ここのところは、その手のこだわりというか、情熱というかが治まっているみたい。

 

「時間」の作用でしょうか。

 

メッセージ依存

そう、なにかと「メッセージ」を欲しがったり、「メッセージ」を得られるものに依存していくという事に対しても、この文章を書き始める前は思うところがあったし、今も私なりに「メッセージを得られるものに依存していると考えるチカラ(考え抜くチカラ)が減退する(育たない)」というようなイメージはあるものの、私がイメージしている「考えるチカラ」というようなモノに価値を感じない感性もあるし、生き方の好みってあるし。

 

私も「とことんナニカからの、ナニカを利用したメッセージ」を聞いてみようじゃないか!と、これでもか!と触れてみました。

そしてこれでもか!と随分見聞きしてみて、ふと頭に浮かんだ言葉が「これがナニになるの?」でした。(笑)

「これを知ってどうなるの?」というような意味です。

 

いや、ヒトによってはいかようにもなるんでしょう。

私には、依存性、中毒性のその先の「もう飽きた」まで針が振り切っただけなのかもしれません。というか、私はもう随分前に一度針が振り切ったために「メッセージもの」から健康的に離脱したようなつもりでおりましたが、離脱した(つもり)からと言って評論やジャッジするのもなんだな~とも思ったわけです。

じゃあもう一度湯船に肩までつかってみるか!という感じで改めて「メッセージ」というものを見聞きしてみましたら、「これを知ってどうなるの?」と疑問が湧きました。お腹いっぱいになるのが早かったのかな?

 

メッセージがあると安心するんだよね~というのは理解できるつもりですが、1回目の離脱の時は意識のチカラで「断つ」という感じでしたが、今回はお腹いっぱいになった。その理由として私には巷の「メッセージ」類よりも安心を感じる体験とその記憶があるので、まぁ「メッセージ」類はなくていいや。と思えたんですよね。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

かなり有り難いことだと思います。

 

強さといえば、確かに一種の強さではあると思う。

自分で鍛えたわけじゃないので、棚ぼたラッキーでしかないのですが、

”実父ではなくて、なぜか本当のお父さんと脳内が感じた不思議体験はサイト「こすも」に書いています。https://cosmos358.amebaownd.com/posts/11647278 )”

↑ このような感覚が私を内側からも外側からも丸っと支えてくれている。

 

John HainによるPixabayからの画像

 

あるがまま

今回のブログは論点も主旨もブレブレ

いつも通りですが、話がどんどんズレてきて、着地出来なくなってきました。

 

そうですね、まとめるのならば、「あるがまま」でしょうか。

今あるように、あるがままを認識する。自分もことも他人様のことも。

 

取り入れるとか、参考にするとかは別の話。取り入れない、参考にしないってこともある。

 

 

今は今でしかない。

未来はわからない。 といういつも同じ事ばかり書いていますが。