今日は、半年?1年?以上前に知人と交わした会話に一瞬登場したキーワードをちょっと再生してみます。

運命なら絶対でしょ?!

運命ってなんだっけ?

半年?1年?以上前に知人と交わした会話ということは、その時の私の中では既に(こういうことかな?)と答えというか、自社データから考えられる統計のようなものが有ったことになります。

こういったその時その時の答えのようなモノは、経験を積むことで変化してきましたし、これからも考え方にもっともっとバリエーションが増えていくかもしれないし、減っていくのかもしれません。

 

という背景をご紹介したうえで書き進めていきます。

simple_tunchi0によるPixabayからの画像

 

信じ込むことの賛否

キャッチ―なので「賛否」と書いておりますが、前回のブログに足並みを揃えるのなら「好み」ということになりましょう。

運命という概念をどの位信じ込むのかが人それぞれの好みという至極当たり前のことを書いているわけです。

 

その「運命」と感じる根拠が、

  • 占い類
  • 他人の意見
    • それって運命じゃない?というような他人の意見とか
    • 本やブログや動画で見たのと同じ!と思ったり
    • 上と同じ理由で、他者と同じ体験を自分がしていると思う・感じる
  • 直感(と、本人が感じる感覚であり、良否や正しい、間違っているなどの話は別)
    • 運命と思いたい!という願望を、これは「直感」だと感じる場合もあるでしょう。

こういった例があるかな~?と私が感じております。

 

運命という概念が正しいとか間違っているとか答えが無いのだとしたら、なにをどう感じようと正解も不正解もないということになるので、この先私が何をどう書き進めても一個人の意見です。

 

きっと、その瞬間、その瞬間のそれぞれの好みの考え方を信じているのだろう。

 

運命ってことにしておくと楽?

  • 願望・希望だと信じたい時も
  • シンドイことを諦めて受け入れる時も
  • 特別感、優越感を主張したいときも

運命という概念を持ってきたい時があるというか、運命だと思いたいというか、運命だという概念を持ってくると何とも言えず「楽」だというような感覚ってありませんか?

 

何とも言えない、手っ取り早さみたいなものがあるような気がします。

 

しかし、私自身も(なんだこの感じ!?)(今まで生きてきてこんな感覚無かった! これが運命的と信じたくなる感覚か!?)と感じた事がこれまでの人生で数回ありました。

そう、それが人生で初めてならば、運命的なものって唯一無二なのかと思うのが当たり前なのかも知れません。しかし、あくまでも私個人の感覚ではありますが、なんと過去数回ありました。

ヒトや出来事やそういったジャンルも様々でございます。

 

じゃあ私が、超ロマンチストで「運命大好きっ娘(表現が古いですね。笑)」かと言えば、中学生や高校生の時ならいざ知らず、社会に出てからはそういう傾向は薄れていき、今は・・・

(なんだこの感じ!?)(今まで生きてきてこんな感覚無かった! これが運命的な感覚か!?)と感じた事がこれまでの人生で数回あったお陰なせいか、フラットです。

運命だと思い込みたいケースと(なんだこれ?)と感じるこの2つの感覚が全然違いましたので、こんなことは自分でコントロールできる事じゃない。と完全に傍観者な感覚です。

なんでしょうか? とんでもなく恵まれているのかもしれませんが、体験回数のようなものが複数回あったおかげで、

うわーーーー 運命だーーーーー!

と浮足立つことが無いような気がします。でも、とっても有り難いという感謝は溢れます。

そう、有り難い余りにフラットな感じになるという面白さ。

 

こうなったのも理由があるんです。

 

出会い、ファーストインパクト「を」運命と捉えている

そうなんです。

確かに人や出来事の出会い、ファーストインパクトに運命という概念を持ち込みたい感覚はあると思います。というか、今文章を書いていて、(それに限るのかも。)とも頭に浮かびました。

出会い、ファーストインパクトが起こるまでが運命ならば

ということは、その出会いや出来事がその先どうなっていくのか?はある意味自分次第という割合が多いように思う。自分でコントロールできない領域も当然あると考えていますが、自社データ調べで最も多いのは

「運命だから」

とあぐらをかくこと。

 

そう、察しの良い方は私が「あぐら」という言葉をチョイスしたあとに続く論調を先読みされているかと思います。

 

そののち、あぐら? 油断? 甘え? 雑に扱う?

「運命だから」何をやっても大丈夫。なにをやっても許される。何をやっても将来も関わっていける。というような一種の目の前にそれらが登場したことや、その出来事に遭遇できた僥倖を「軽んずる」ということをその出会いや出来事、ファーストインパクトに関する事に行っていると、その先に

あらまぁ(◎_◎)  運命と感じた幸福感がスルスルと手元から離れていくわ

というような将来を招くケースを散見する(自社データ調べ)と感じるのは私だけだろうか?

 

私個人は、雑に扱わずとも、運命と感じなくても、生きていたら

あらまぁ(◎_◎)  スルスルと手元から離れていくわ

というような事って多々あるんで、その時できる誠実さを大切にすることを学びました。

 

手元にあるように感じるその瞬間を有り難く感じて、大切にする。って感じ。

 

私の考える誠実さのようなものが伝わるがどうかわからないし、それが最善なのかもわからないし、逆を打っていることだってあるでしょうが、自分なりに学んだことはあったので、未来永劫続いて欲しいと欲しても、それがどの位の時間体験できるかわからないので、今体験出来ている時を大切にしようと思うようになりました。

 

別に甘えちゃいけないってわけじゃないけど、甘えて自分の都合だけに会わせて相手(環境)を扱うってことは、多分その先、それらの影響が自分に還ってくるような気もしてる。

ケースバイケースだから上手く書けないし、私がこれらが出来ているわけではないんですが。

 

その時の「精一杯」のようなことは行うように心がけてはいきたい。と心がけることを覚えていたい。それは、実体のない「運命」を上手く乗りこなしたいとかそういうことじゃなくて、その先どうなろうと「出来ることはやった」「出来ることと真摯に向き合った結果がこれだった」と自分が諦められるからです。諦めるってネガティブな意味じゃなくて、納得できるという意味です。

「明らかに見る」のほうの意味合いです。そう思えたら後悔することが非常に少ない。すると自分の中でどんどん完了させて行けて、時間の流れと共に過去になっていく。

時間のない脳内記憶を健康に扱いやすくなるようなイメージです。

 

時間の無い「脳内」について以前書いたのコラムです

多次元の理解。皆が元々それを体験しているという私風理解。

 

私が今は過去に余り執着せずに粛々と心平和に生きているような気持でいるような気分で居るのは、こんなことも大きいし、その生き方に、出来事に対するストレスケアを継続していることは非常に大きな役割を担っています。

 

以前どこかの文章に「女性の『後悔したくない』ということに対する情熱は凄い」というような内容がありましたが、そういう意味では私は女性特有の性質があるのかもしれません。

 

今を生きる。との関わり

「運命だ!」とあぐらをかいた時点で、

  • まだ来ていない未来を手に入れたと勘違いしちゃってるのかも知れないし、
  • 目の前のことが見えなくなっていることもあるし
  • 今、この瞬間を忘れて浮足立ってしまうような強烈な影響があるケースが多いのかも知れない。

 

もうなんだか将来が自分の思い通りにいくような優越感というか、驕りというか、そんな感覚に包まれてしまう。と書いたらマイナスイメージだけど、一方、ふと思うわけです。引き寄せ的にはそんなに高揚感や(もう絶対そうなる感)があったらその未来が到来するはずですよね。

 

なんでしょうね? この差は。

興味のある方は、どうぞ考えてみてください。

 

地に足がついているってことは大きな影響力があると思えますが、あぐら? 油断? 甘え? 雑に扱う? 傲慢?とも思えなくないこれらは、人間だからこそだなぁ とも思っています。

 

愛すべき人間の特性というような。

 

だから、あまり同じことを繰り返したくない ≠ 後悔したくない ≒ 出来事から出来れば学習してその先に活かしたい。というような意識が良いとかでもないと思っています。私はこういった事が好みだと自覚していたり、心がけたいと思っているだけです。

潜在意識的に変化したくない。これらを成長と思わない。これが成長だという概念ならばそもそもその概念・成長に興味が無い。繰り返す人生が好みだ。ということだってある。

 

類似している他のケース

”「運命だ!」とあぐらをかいた時点”

と類似したケースには、権威になった、権力を得た、名声を得た、カリスマになった。というようなことも似ているような気がします。

 

こういった時にも、愛すべき人間の特性というようなことがニョキっと姿を現したりすることも多いみたい。

 

以前書いたホームページのコラムをご紹介

下にリンクを貼りましたが、コラムでご紹介している書籍「不幸になりたがる人たち」というタイトルが頭に浮かんだのですが、不幸とか幸福とか他人が決める事じゃないし、なんであれ、どうであれ、生き方・価値観は好みです。

これらを変化させるのも好み。

変化を好みつつ(変わんねぇかな~)とただ待つのも好み。(変わんねぇかな~)とひたすらその時を期待するのも好み。変化に向けて一歩を踏み出すのも好みです。

 

生き急いでしまう

与えなさい。の罠?

映画の中の「細胞の話」

 

どこまで運命?

運命ってナニ? 運命ってどこまで? については、これこそ個々の好みでしょう。

私個人、この答えは知りません。しかし好みはあります。

あなたのお好みはどういったものでしょうか? 大きなお世話ですが幾つか察してみます。

Alisa DysonによるPixabayからの画像

 

運命と感じる概念にバリエーションがありまして、既にブログに書いたように「卵が先か?鶏が先か?」という意味では

  • あらまぁ(◎_◎)  運命と感じた幸福感がスルスルと手元から離れていくわ。というところまでが運命と感じてみたり
  • 出会いや、ファーストインパクトまでが運命。その先は不確定で自分で運命を創っていく、育てていく、開いていくのはまた別の意味合いの運命だと感じたり
  • 特別感はなにもなくても、日々の暮らしに奇跡的な有り難い運命を感じたり

など、他にもいろいろな「運命」という概念があると思います。

後悔しない人生ってなんだ? 2

運命と宿命

運命と宿命は違うんだ。という内容の書籍を読んだことがあります。

もう内容はほとんど忘れてしまっています。

私個人の歴史的には、こういった運命とか宿命とかに興味があった過去もあるし、その後どんどんこういった事に関心が無くなってきました。

 

そういう細かいことじゃないだな。というのが今日現在の私の捉え方です。

いや、これらの概念や、2つの概念の違いを「細かい」と書くのは酷く乱暴なのでしょうが、こだわりというか、執着というか、これらの言葉や概念以外にもっと大切な事を知ったような気がしているという感じです。

 

その1つに、前回のブログに書いたような「能動性と受動性」を含んでいます。

 

 

歳を重ねて、経験を重ねて、随分と価値観やMy概念、好みが変わったな~と自覚しています。

個人的には過ごしやすくなった。

生き易くなった。

 

それは、顕在意識、潜在意識という精神や心理的な事以外に、現実的な環境や生活や経済というような総合的なバランスも土台になっていて、今の自分を支えています(創っています)。

重ねて書くと、「能動性と受動性」もしかり。

 

と、

後悔しない人生ってなんだ?

こちらのブログをアップした後、久しぶりに続けて記事を書いた流れで知人との会話を題材にまた記事を書いてみました。

 

 

皆様の、そして、あなたの幸せを願っています。

 

幸せにも不幸にも縛られない。そんな価値観もあると思います。

 

今日が佳い日でありますように。

 

 

 

・・・あぁ~ 旅行に行きたいな(^^)