昨日の記事のつづきです。
人生の後半に、他人様のご厚意に感謝する機会が爆増していると書きました。
それって私の受け止め方が変わったのかな?とも確かに思うんだけど
とっても冷静に記憶を振り返っても、
やっぱり確かに「増えている」。
私が若かりし頃の結構な長い期間
人生とは、人間とは、なんという残酷でなんと苦しいものだろうか。と感じていたのですが、やはりその頃は他人様のご厚意は今ほど多くなかった。
いや、これは私が成長期に成長期特有の葛藤を抱えていて自分のことで精一杯だったことと、家庭が落ち着ける場所ではなかったことの影響もある。
私自身も「閉じて」いたのも確かだ。
他人様のご厚意もあったのに、そこに感謝する気持ちの その上を「あぁ 苦しい」という想いが覆っていたような感じだ。
しかし、人生の初期から、なんでも最初からってわけじゃなくても
生きていくうちに徐々に、気がついたらいつの間にか、人生に感謝できるようになったり、人生を愛するようになったり、
自分を受け入れて、それが結局他人様を受け入れることになったり、
自分ではどうしようもできないことに良い意味で見切りをつけて、それを「良し」と目の前の事象を受け止めるようになったり(課題の分離に含まれますね。
コラム1
他者との「境界線」と「課題の分離」についてー1 | 沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談
コラム2
他者との「境界線」と「課題の分離」についてー2 | 沖縄の心理カウンセラーによるカウンセリング相談
)
という変化を私もしてきたみたいです。
過去に囚われていても、とりたてて とっても良いことは無いみたいだと学習したとも言えるのだろうか?
「いまここ」と言いながら、過去に囚われている方も多いような気もするが
それも人生だ。
執着の一切ない人間になりたいのなら、過去はどんどん終わらせるしかないが
その方が「今」を生きているのなら、
それが当たり前だから「今ここ」と取り立てて言わない気もする。
それもひっくるめて、
なんでも最初から分かる、出来るってわけじゃなくて
訓練、練習、トライの連続でわかってくるのかもしれない。
少なくとも、私の人生のとある部分は、自分の経験によって理解が進んだ。
そして、こういったことが当たり前じゃなくて、これこそがラッキーなんだと思うようになった。
- 時間をかけられる
- 時間がかかることを待てる
- 時間がかかることを(結果)受け入れられた
ということがラッキーなんだなって今は思う。
これを、時間に対する「執着」と言えるのかどうかはわからない。
時間、年月、月日に対する「執着」と関わっているのかどうかはわからない。