私は瞑想をしない。

えーーーーっと、この「瞑想」の意味は、不思議を求めた瞑想のことです。

 

 

したことはある。

それが瞑想だと知らずに、本に書いてあったワークをやったら、どうやら瞑想だった。

それなりに有り難い体感もあった。

その時の、う~む、なるほど、と脳内で見た映像について、

当時は へぇ と思っただけだったし、

脳内の自己製造か?という可能性も全く捨てていなかったが、

自己製造にしても、私はコレを見たかったのか? という可能性や

自己製造じゃないならそれはそれで。 と1つの体験として流していった。

 

アレをもう一度、もう一度、と習慣化もしなかったし、

執着もしなかったし、

目的もなく 精度(というのか?)をあげたいとも思わなかった。

 

 

また、別の時に、ふいっと、意図せず、次元(のようなもの)がスライドして

あら?ここはどこ?というような気持ちになったことがあった。

あれも、ひょっとしたら瞑想状態の一種だったのかもしれないが、現実の意識はきっちりあった。

だから、

(あら?ここはどこ? 急にどうして?)

(今座っている場所は、このような明度になることは無いけどね。)

とまず何が変化したのか?ということも意識していたし。

 

 

 

こういった体験をした(気持ちになって)、1つ理解したことは

こういった体験は、好きな方は欲望を刺激されまくりなんだろうな。という事だった。

 

 

今でも

なにかの会に参加して、「やれ」と言われたら真面目にやると思う。馬鹿にしたような態度で足を組んで斜に構えることもなく、一度はやると思う。

 

が、日頃はしない。

 

 

私以外にもハッキリと「瞑想しない」と言い切った方も知っている。

 

何故しないのか?をこの方と話題にしたことは無いが、ハッキリ言い切るその感性はとても似ているような気がした。

 

 

で、この先はこの「瞑想業界(そんなものが有るのか?)」が流行っている

いや、昔から好まれ続けているなか

わざわざ こんな私見を書くのはバカだと思うが、

とある投稿を拝見して、バカを承知でちょっと書きたくなった。

 

私の見間違いじゃなければ、

その投稿の言わんとしていることは

「瞑想」は精神の病を生み出す。

というニュアンスの とある方の考えについて短くシェアされていた。

 

 

一言に瞑想と言っても、捉え方も、多分やり方も、それに付随する考えや教えも

多種多様のようだ。

 

流派というか、まぁそんな感じなんだろう。

 

私が瞑想をしないのは、

「瞑想」は精神の病を生み出す。ということをこんなに短い言葉で表現できるほど確信もないなりに

瞑想を始めて、不思議と厄介なことになりはじめる方が多いな~という自社データによるものが大きい。

 

 

このような自社データにより

瞑想=良いもの という認識がそもそもない。

だからと言って

瞑想=厄介なもの という事にもなっていない。

 

 

晴れ 時々 曇り。みたいに

瞑想、時々 厄介。みたいな感じ。

 

皆が厄介になるわけじゃなくて、

瞑想の目的かもしれない状態で 健全さを感じるようにスックリと立たれている方も存じ上げている。

 

そう、健全さと危うさのこの違いは何だろう?と

一応それなりの期間自己研究をしてきたわけです。

(私の自己研究は多分マニアックなんだと思う。)

 

 

なんか様子がおかしくなってきたな~と思っていたら

瞑想を始めていた。ということもあった。

 

 

こんな話になると、やはり専門にしている方や、愛好家は

厄介なことになるのは、正しいやり方じゃないからだ。

と言いたくなられると思う。

 

私も、ストレスケアを始めたら厄介なことになる方が多い。というご意見を見たら

それは「やり方が云々」と言いたくなるもの。きっと。

言わなくても頭にはよぎる。

 

私は、瞑想にしても、ストレスケアにしても、

なんだか厄介なことになる場合は、

広義の「やり方」も含まれるという前提はありつつ

自我の状態が肝だと思っている。

 

魂。という言葉を好む方は

魂の状態 とおっしゃるであろう所ではあるけれど

私の場合、おいそれと魂という言葉を使いたくない傾向にあるので

やはり「自我」と書いておく。

 

なので、

先ほどの自社データの、その厄介の理由としては

自我の状態が一層ややこしくなったことに由来している。という仮の答えを置いてある。

 

 

本来瞑想で何を求めていたのか? それとも求めていなかったのかはケースバイケースだと思いますが、

そのご近所さんには(いや、お隣さんか?)

魂のインフレーション、

魔境よこんにちは。 という扉もあって

自我の具合によっては、この見分けがつかない。

なんていう感じで自己研究中も捉えてきた。

 

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あくまでも私見で、私が自分の認識を整理した際の仮定です。

 

 

ですから、そういった不思議というか、

そういったことを私は フワッと と表現しているのですが

フワッとする系の瞑想はしません。

 

 

自己や自我がしっかりするような方法を採用したい。

 

セルフケアでも、フワッとするのは一旦お休みして頂く傾向だということを

根底に決めている。

 

もちろん、「それはダメ」なんていう権利はないので

今までもし フワッとしていたのなら、一度違う方法も試してみてね。という感じです。

 

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フワッとするのも、呪縛の1つと言えそうだ。

と、友人のブログを読んで理解した。

 

ということは意思の問題ではなくて、

やはり自我の領域か? と再び頭によぎった。

 

これが「呪縛級」の案件ならば、それなりに手ごわくて

ストレスケアという内容も随分変わってくる。

強めの本気度の有無が関わってくる。

今回の人生への本気度が試されるという感じだろうか。

 

こういった呪縛級の案件として直ぐに思い当たるのは

血の呪縛。家系の呪縛、血の連鎖。

私も経験済みだし、おかげさまでもう10年単位の昔に

まだストレスケアなど知らない時期に取り組んだよ。

 

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こういった事に自分が影響を受けている。と気がつかされる出来事があって、愕然として、絶望して・・・・

そして復活だ。(笑)

 

復活後は、気がつく前よりも、伸び伸びした。

人生の本番が始まったような気持になった。

 

 自分が送りたい人生への本気度ということが、途中で投げ出すか、ブレイクスルーするかの違いなんだろうけど、

途中で投げ出す人を誰が非難できようか。

私は非難しない。

いや、自分がそういった呪縛級の案件に気がつくまでは安易な正義感で非難したかもしれないが、実際にそれに取り掛かると中々大変で、道半ばにして元の場所や、別の場所に腰を落ち着けちゃう気持ちも分かる。

それを「逃げ」とレッテルと貼るのは簡単だ。

逃げている意識すらない。

認識してもやめられない。

しかし、人間とはそういう一面があり、一面どころかとても大きく占めているものなんだと思う。

 

呪縛級の案件に向き合うのはシンドイ。

私は当時、今のようなストレスケアなど知らなかったので、精神力と思考能力全開だった。(ような記憶がある)

この全開な様(本気とか本気じゃないとかそういった意識の問題ではなくて、生きるか死ぬかぐらいの気持ちがしたものだった)が私のデフォルトの限界点を突破するきっかけになったようで、この当時、世の中の仕組みがわかったような気持になる映像と感覚があった。

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それは、こちらのコラムの中の

その感じ方の一握りの中に、世の中の仕組みがわかったような、現実だと信じていた世の中の裂け目からチラッと舞台裏を見てしまった気がする体験があった。下の記事の中の「スプーンなんて無い」ということを見ちゃったきがした。そして、これもまた興味深いことに、結局その時「わかってしまったこと」「感じてしまった事」が今の精神や心理を理解することにダイレクトに繋がっているし、大切なことからまんざら遠くもない。

 の部分です。

 

私は追いつめられて(追いつめたれたという受動的な事なのか、自分で退路を断ったという自力なのか正確なところは不明。その後元気になったということは両方だろうと今は思っています)こういったことになっただけで、

何かの教えにのっとって修行した結果ではありません。

しかし、この位切羽詰まらないと、私の場合はド本気・クソ本気・マジ本気にならない(なれない)という性質があるんだと思う。

 

思考じゃなくて、体感覚的な強いインパクトによって本気が促進されるということは、そういったものに出会わないとスイッチが入らないのかもしれない。

人間全般なのか? 私だけなのか?も不明ですが、呪縛級の案件はやっぱりある程度の自分のパワーは必要だと思う。ふんわり流されるというような事で解決している実例は今のところ私は拝見したことはない。

 

 

変化は怖い。

変化して良くなる保証もない。

変化した先に「伸び伸びするよ」と聞いても、ピンとこないし、信用できない、想像できない。

 

 

今が幸せで平和なら、むりやり気がつかなくても良いと思う。

必要ないのなら、底にたまった泥のようなものをわざわざかき回して掬い取らなくてもいいとは思う。

今を生きてみるという視点のレッスンをするのも良いと思う。

 

 

心体カウンセリング™ の時にも、「変化を起こすような行動や受け入れるような、従来とは異なった選択をしたいか? やりたくないか?」ということはご質問する時がある。

決めるのは相談者ご本人だから。

 

 

こちらの記事にも書いたけれど

大多数の側は大多数の側で、いろんな事情や都合や考え方、生き方があるもの。

 ただ、良し悪しじゃなくて、

なかなか出来ることじゃない。

 

takedamiki-j.hatenablog.com

 

 

なかなか出来ることじゃない。ということがあるとして、

そして、そして、

それでも生き方を変えたいという時には、フワッと を一旦お休みするという選択肢はかなり的を得ていると考えています。

だから、

フワッと を促進する事柄、行為をストップすることはやはり的を得ているよね。

 

それが、瞑想であれ、ストレスケアであれ なんであれ。

 

 

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おススメの1つは 土を触ること

 

おススメの1つは 土を触ることだったり、

裸足で歩く事だったりする

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海で泳いだって良い。

 

 

靴を脱いで歩いたり

手袋をとって、直に手で触ったりしてみて。

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しっかりした感覚を利用して、自分を取り戻して

しっかりした感覚を利用して、自分を取り戻して。

そして、自分を育てる。

 

 

頭でなんでも終わるんじゃなくて、

「実際」とか「現実」とか「感触」も大切にすると

人生もまた違った広がりを感じると思う。

 

 

想像しているより楽しいかもしれないよ。

 

今折角生きている人生。

いろんな生き方がある。

本気を出してみたい時には心体カウンセリング™ をご利用ください。

goo.gl

 

 

※最後に

私が拝見したFacebookの投稿の内容と、私の理解が違っていても

私のあくまでも私見については以前から持っていましたし

友人にも時々「なぜだろう?」と思っていることを話していました。

間違っていたとしても、これを書く良い機会になりました。

 


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