- 仮面をかぶる努力と成果
- ウチの母
- 「裏目」って悪い事じゃなかった。それを悪いと思っていたのは私だった。
- それっぽいこと
- それっぽいこと。というのは結構トラップになっていたりする(笑)
- 幸せもいろいろ
- あれもこれも変わった
- この続きはホームページのコラムに書きます
仮面をかぶる努力と成果
生育環境がHeavyだった方は多い。
私もなかなかHeavyだった。
そして、外ではそれを見せまいとしていたおかげで、度々「あなたは能天気でいいわね」とか「アナタみたいな苦労を知らない人にはわからない」と言われてきた。
希望通りに見事な仮面をかぶれていたんだな。と当時の自分の努力を自画自賛である。(笑)
自分が希望通りにしていたのに、辛さや悲しさ、怒りを(理解してもらえない)(わかって貰えない)とジレンマも大いにあった。
そりゃあわかって貰えないよね。一生懸命隠しているんだからさ。(笑)
しかし、これらも成長にとっては必要なジレンマで、青年期くらいまではこんなことをやって大人になっていくんだけれど、自分で自分を育てる意識がないままだと、このまま大人になり、最後までいってしまうことが多い。
大人になったら、自分で自分を整えていくことができるのでお薦めしている。
40、50、60.70になっても、いや80歳になって、このジレンマが爆発する方もいる。爆発して周りに当たり散らすケースもある。
自分を大切にするという意味や、自分の人生の捉え方を考え始める年齢は人それぞれだ。
ウチの母
生育環境の話など、それは白亜紀ですか?という程昔の話だが
それでも、長年ウチの母は変わらなかった。
白亜紀でストップして、今回ウチの母はこれで人生を貫き通すんだな。と私も期待や理想などとっくに手放して「どうぞお好きに」と思っていた。
なんであれ、貫き通すつもりならばそうなんだろうし、貫き通せる環境ならばそれを満喫したら良いよ。と。
母が目立つのでその時はわからなかったが、後々父もなかなかなんだと気がついた。笑
夫婦は傍から見ているだけではわからないものです。
その姿勢を子供の頃は批判していたし、なぜウチはこうなんだと嘆き悲しんでいたが、
批判しても嘆いても、切々と話をしても、何も変わらないことを嫌という程体験したおかげで、私も期待や理想などとっくに手放して「どうぞお好きに」と思うようになり、
なんと、後年私が大人になって私自身のカチコチ頭、カチコチ価値観が緩んできたらば「それが幸せなのかどうかは父や母の決めることだから、私からどう見えようが、私の好みは関係ない。」と、その人生を送る事にした母(父)の意志も尊重するまでになった。
例えばそれが、被害者意識を絶対に手放さない!というものならば、それも尊重したら良いじゃないか。という意味あいだ。
しかし、私との出来事以外の感情をぶつけられたり、肩車を強要されるような依存、足にすがりついてきてまでと感じるコントロールはお断りしてきた。
お互い好みの人生スタイルが違うのだから、めいめいそれを生きていく。
家族の必要な事はするけれど、なにもかもが自分の当たり前じゃないということだけは覚えて欲しい。し、私も覚えるわ。と こんな感じ。
こんなlightではなく、葛藤とか実際の軋轢とかいろいろあったんだけど
とことんケアしたため、そのおかげでこういった記事を書こうとしてももうどうでもいいので一々思い出せなくなってる。
そんな母も見事に変わった。
奇跡か? というほど激変だ。
ウチの母は非常に不安定で、自分の感情をとにかく家族や他人に見事にぶつけることにかけては殿堂入りできそうな名投手であったが
それも無くなった。
消えた。
消え去った。
現在のこのコロナ騒ぎになる前から、母と娘として会話が普通になっていたんだけど
今回の騒ぎで 内心(また騒ぎ出すかな~?)と思っていたら、母は全く動じていない。
昔のあれは何だったんだ?と思う程動じず 安定しており、感情の揺れもない。
全く揺れもせず安定している。
落ち着いたもんだ。
私は何もしていない。
今、私は、心体カウンセリング™ ・セラピーということをしているが
母には一切何もしていない。
完全にあきらめて「変えたい」とも思っていなかったので、なにもしていない。
(今では、何があっても 「そうだった。コレが母なんだ」と先ずは思う。)
遠隔とか、本人にわからないようにコッソリ調整ということは私は一切誰にもしないため、母にも勿論しない。コッソリしたことが無いし、これからもしない。
しかし、ここ2年ほどで
母は勝手にどんどん変わっていって、普通の人になった。
白亜紀から続く巨大台風が世界中で暴れまくって、その後熱帯低気圧になって、ついに消失したような感じだ。
「裏目」って悪い事じゃなかった。それを悪いと思っていたのは私だった。
相変わらず、巨大台風だった長年の記憶は無いようだが
憑き物が落ちたような激変だ。
ウチの母にとって、何が憑き物だったかを多分私は理解しているが
だからこそ、執着ってすごいな~ 良い方にそれが働くことがあると「叶える」という事に繋がることがあるけれど、裏目にでると人生のほとんどを自分を無くして過ごしちゃうんだな~と思っていた。
いや裏目に出るというのは私が勝手に下した評価であって、それも「本人の希望が叶った」ということでもあるから、裏目などと思うのは失礼なんだよね。
ということを私も長年かけて理解してきた。
これは母に限らず、誰にでも言える。
もちろん私もご多分に漏れずだ。
それっぽいこと
何事もいろんな面がある。
執着ってまるでいけないことみたいに言う方もいるし
煩悩って 無いのがヒトとして優れているかのようなイメージを持つ方もいるが
なんでも使いようだと私個人的には思っている。
そして、すでに人間の機能としてあるものを「無くせ」「無くすように修行する」と言うようなことは往々にして、それっぽく聞こえるし、それが究極の答えのような表現に変えて使っていらっしゃるケースが多いように(私が勝手に)感じる事があるが
それこそ、その「無くせ」こそ「0 100(ゼロヒャク)思想」じゃないのかな?なんて一人で勝手に思ってる。
もしこれが「0 100(ゼロヒャク)思想」ならば、おそらくこの手の究極の答えではないような気がする。
今現在の私が感じている「シンプル」とはこういった事では無い。「シンプル」とは「無くす」こととイコールではないようなイメージでいる。
そう、以前の私は、「自分の感情を感じないようにしたら楽になる」とか「抑え込みがコントロールだ」「律するとは=抑え込みだ」と思っていたので、それっぽく思える事や聞こえることを実践していた。
今はそれらが(ちょっと違っていたな)と思うけれど、以前はやっぱりこういった事だった。
それっぽいこと。というのは結構トラップになっていたりする(笑)
この辺りの自分の力量は割と把握できているつもりなので、人さまを導くつもりなど毛頭なかったが、良かれとおもう「型」はあった。
その「型」は自分がやりたければやればいいだけで、自分以外にその「自分の良かれと思う型」をはめようとした時点で厄介な事になることが多い。
もちろん全てとは言わない。ケースバイケース。
この記事の中でも、良かれという行動。価値観、型が見えないその先で引き起こしている第2、第3のコロナ禍という事例を書いた。
今はこの話題が伝わりやすいから書いているが、第2、第3の「禍」というようなことは遥か昔からあり、多くの場合は、自分がその追突事故にあったときだけ気がつく。イヤだなぁと思う。
追突する側になっている時はなかなかわからない。心理学では「投影」をしてそれによる反応をしあう様もこれに含まれる。
が、その私が思う「良かれと思う型」を手放した時に
すでに人間の機能としてあるものと「共に生きる」「あえて使わない」「自分の生きやすいように共存の仕方を覚える」ということの意味が一層腑に落ちた。
あぁ、やはり意識と無意識は両方使う方が良いな。とか
自分の脳のクセや傾向を知る事は、結果自分に良いな。とか。
幸せもいろいろ
執着ってまるでいけないことみたいに言う方もいるし
煩悩って 無いのがヒトとして優れているかのようなイメージを持つ方もいるが
この辺りを直結するかのように(例 煩悩が無い=幸せ)理解される方も多いとおもうけれど、
それらが無くなったからと言って、幸せと感じるかどうかは別問題だとも思っている。
幸せなら、そもそもそんなことはどうでもよく感じるだろうし
それらが原動力でやりたいことを体験していく。人生を整えていく。という一面もあるだろう。
島倉千代子さんも歌っていたよ。「人生いろいろ」だって。
思考の迷宮に入ることも経験の1つだけど
そんなこと一切関係ねぇ なんて感じで、あっけらかんとHappyを味わう事も経験ではないだろうか?
あれもこれも変わった
そう、ウチの母が変わった。
こんなに変わるなんて。
もっと早ければとは思ってない。だって、一生同じだろうと思っていたくらいだから、変わっただけで十分平和が訪れた。
しかし、こんなことを書くようになった私も変わったんだよね。
自分が変わったという自覚があるもん。
ひとえに、Heavyだった生育環境の賜物だと思えるし、恩寵だったんだろう。
精神力が育ったし、考える力が育ったのは自分のためになってる。
幸せになったもんだ。(笑)
ホントつくづく有り難いと思う。
そもそも、今の状況下でこんなことが書けること自体、有り難いことこの上ない。
Heavyも体験しておくもんである。
そして、その後はちゃんとケアしておくという選択肢があるので、ケアはしておいた方が良い。
だから、今、とてもシンドイ環境の方も、後になってケアするという選択肢があることを知っていて欲しいし、
今現在、それをスタートすることもできる。
命さえあれば、いかようにもなる。
それほど心体カウンセリング™ というものは揺らぎなく存在している。
だからこそ、心体のケアをお薦めしています。
今はオンラインで個人カウンセリング・セラピーを行っています。