バリン! と破ったアレは?!

〇才の魂百まで

近況

沖縄は雷と雨です。

長靴買おうかな?と思うほどです。

今日、雨が降り出す前に出かけたのですが、傘を買おうか迷って買わずに帰ってきました。

手持ちの傘は強風で曲がってしまって、多分雨漏りもするんですが、新しいものを買っても多分強風でまたダメになりそうで今日は見送りました。が、やっぱりもう新しいのを買わないといけなさそうです。

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SF映画、小説

3歳の頃にSFは見ていないので、私がSF映画や小説を好むのは何歳の魂によるものなのでしょうか?

 

って聞かれても知らんがな。というあなたの心の声が耳に聞こえそうです。

ということは私はエスパーでしょうか?

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というくだらない書き出しですが、デジャブのような映画のラストを見たのでつい書きたくなりました。

見たのはこちらの映画

シグナル(吹替版)

うまくリンク先が表示されないので、一応長いリンクも貼りました。
韓国ドラマの「シグナル」もあるし、韓国映画のリメイクをした日本のドラマ「シグナル」もありますが、それらではありません。
そうか、これらもSFだったね。
全くジャンルの違うSFですが。

 

韓国ドラマ「シグナル」

あらすじ

あらすじはリンク先をみてください。内容はSFでした。
で、映画のラスト辺りに、
バリン!
といって時間の壁を超えたの?というようなシーンがあるんですが、
そのバリンと割って入ったように見える映像の先が(あれ? 見覚えあるぞ?!)と言う風景でして、デジャブの映画は「インターステラー」だと頭に浮かびました。
(タイトルとかもう全然覚えられない傾向にある私が、「インターステラー」を思い出しただけで100点です。)

 

「インターステラー」
いや、そもそも今回ご紹介している映画「シグナル」の監督さんとかが、「インターステラー」に影響を受けていたり、オマージュしている可能性もあるんですけど。
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ありゃあ 時間の壁なの?

そう、そして、あの バリン! と破ったようなアレは「時間の壁」ですかね?
非常に生意気なことを書くと、「壁」みたいなあーゆー物質的な現象は起きないと思っていますし、境目みたいなものを体感するってないんじゃないかと想像しています。
「気が付いたらそうなっていた。」
みたいな感じ方ではないかと思っています。
人間の捉えられる感覚よりもっと早い変化だからその変化に気が付けないというようなイメージです。

あ! でも映画の中では今書いたような時間よりももっと早くというか、同じくらい早いから「感じた」「感じる」ってことか!

面白いですね。
SFっていろんなジャンルがあるんですが、楽しいです。
非常に薄っぺらい映画感想Blogでした。
おそまつ。

「ステージなんてない」という苫米地氏の動画

私が書くと角が立つ

やっぱりエライ方のハロー効果は大きい

わたくし以前、

「ステージが上がる」とか、「ステージが低い」とか見聞きしますが、「そういった『ステージ』なんて無い」「そういう考え方をしていると後で自分が苦しくなることがある」

という本当に余計なお世話なことを書きました。

そして嫌われることもあるわけです。

 

そりゃそうですよね。

そういう自分を客観視すると、(バカだよね~~)って思う。そう思うからじゃあ止めるか?と言われれば微妙な案件もあるんだけど。まぁ私が信頼されていないわけですが、そりゃそうですよね。信頼関係ができあがるような関係性がそもそもないんだから。当たり前です。

聞いてる方からしたら、ご本人の信念にケチをつけられたとしか思えないでしょうし、(ふん!そんな事聞くもんか!)と余計頑なになる。私もおんなじ事あるし。

 

どれどれ意見として一度検討してみるか。というのは感情的に反応していない時でしょうね。

 

でもですね、こちらの動画がお勧めに出てきましても最初はスルーしてました。苫米地氏のお名前を存じ上げていても実施に話しているシーンを見ることがなかったからです。

ここまで特に私が目にする範囲でのメディアとかのご縁もなかったし、著作も読んでなかったし。

 

しかし、こちらの動画の中で、

私が以前クソお節介で書いた

「ステージが上がる」とか、「ステージが低い」とか見聞きしますが、「そういった『ステージ』なんて無い」「そういう考え方をしていると後で自分が苦しくなることがある」

ということで表現したかった内容が、まぁ~~~~わかりやすく話されていまして、話の内容の背景なども非常にわかりやすくて(やっぱ 頭の良い方は伝え方が上手だな~)と感銘を受けました。

 

私のクソお節介は他人様を腹立たせるけれど、苫米地氏は解説が分かりやすくてちょっと耳を貸そうという気持ちになりませんか?

 

最近ご紹介した加藤諦三先生も苫米地先生も、やっぱ違いますね。

改めて感銘を受けました。

 

いろんな人生、いろんな感じ方

稀ではないのかも

迷いながら生きていく

生きていると、迷いもあるでしょう。

迷う→選択する

 

人生は選択の連続だとよく聞きますね。

迷う→選択する と書きましたが、迷いなどなくても選択しています。

 

迷う→選択する→受け入れる

迷う→選択する→後悔する

迷う→選択する→結果、納得する

という場合もあるでしょうし

 

迷うという揺れがない

そもそも迷わなければ、

選択する→受け入れる

選択する→後悔する

選択する→結果、納得する

 

ただただこちらの積み重ねかもしれない。

 

とある方の語り

こちらの動画以外については各自ご興味がありましたらどうぞ。

 

ただ、こちらの動画を拝見して、(逡巡という言葉は当てはまらないかもしれないですが、躊躇いというのも違うのか、ご本人は後悔という表現されていますか?)こういった心境になるケースも稀じゃないような感があります。

人生の後半で感じるのか、人生の中盤で感じるのか、若い若い時に感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

 

わたしの場合

どこからその概念を手に入れたのか?

私が成人するまでの環境で、「いろいろ後悔している」という内容の話を耳にしました。結構な頻度で結構な量を聞きました。聞かされました。その後悔談を聞いていて、私は「人生の後半、いや晩年で後悔ばかりするのはつらいかもしれない。だからそうならないように生きよう、過ごしたい」と思うようになりました。

避けられるのなら避けたい。

それは自分自身で決められそう、選択できそうだ。

と考えるに至りました。

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それは自分自身で決められそう、選択できそうだ

それは自分自身で決められそう、選択できそうだ。というのが本当かどうかもわかりませんし、実現するかも保証はありませんでしたが、確率と言うか、可能性は高めたいと思ったんですよね。

望めば叶うの?

過去のBlogにも書きましたが、その昔昔にこの本のような考え方が好きだというのはこういった「後悔しないために」というような意味合いもあったし、じゃあ私はどう生きたいのか? どう生きたくないのか? ということを考えたわけです。

叶うなら叶えて!という感じ。

 

成功法則と書いてあるのなんて、のちのち気が付きました。私は一縷の望みのように「望めば叶う」しか見てなかったもんね。(笑)

 

今日現在も、過去も、ヒトを導こうとか望んでないし。

 

 

いろいろな思考を経て

多分、

  • 何を選ぶのか?
  • どう行動するのか?
  • どう考えるのか?

というようなことも頭において生活していたんだと思います。

 

その際に、読書から学んだことや、実際に見聞きしていることや、ヒトの行動パターン、思考パターンをデータとして取り入れて「メタ推理」と呼ばれているらしい手法を人生の中で取り入れた模様です。

自社データとか、当社データによる。などと書いてきたあーゆーものを統計としてつかって推理の基に使っているというようなことです。

この私の思考方法に「メタ推理」という名称があることもつい最近知りました。

 

私の友人は、「それが直観というものですよね?」という意見を聞かせてくれましたが、直観の源とも言えそうですが、若干違うと言えなくもないようなはっきりしないことです。

今はまだ歯切れよく書けません。

 

ですから、心理学は統計を基にしているのが正しい?とか、それが心理学としてあるべき姿というような苫米地氏(先生と書くべき方ですが)のお話を耳にした時に、(なるほど~)と思いましたし、一応私のやり方は遠くないかもしれないな~って思いました。

 

今日現在は

確率論なのか、信念なのか、の影響で?

今日現在は幸せにやれています。シンドイ時期は去り、非常に快適に過ごしています。

 

一応、考えて、行動変容の練習をしたり、せっせとストレスケアをしてきましたので、多少なりとも役に立ったような気もします。全部が全部、自分の計画通りというような捉え方はしていなくて、人生は偶発的なことやいろんな関わり合いや、天文学的な確率で起きることなどでてんこ盛りだと思っていますから、引き寄せとか、因果関係とか、そういった「法則」的な決めつけはしません。

 

これらは【ありがたいこと】という受け取り方が多いです。

 

最近のBlogに書いたような「ブーメラン」も毎分毎秒飛んでいるのを見るわけじゃなくて(あ!これはブーメラン現象のように感じられるな)というケースがあるね、ということですから。

 

正解は知りませんので、私の個人的な好みです。

 

イケイケの時期は、自分のチカラで人生構成している!と思う時もあるし、何かあった時に人生に畏怖の念を抱く時もあるし、自分のチカラなどチッポケだと思うような時期もあるし。

 

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できるかどうかは知りませんが、「〇〇の法則」を逆引きして利用するというような意図がどこまで実現するのか疑うことなく熱中する時期もあったりしますしね。

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人生はいろいろだな。と動画を拝見して感じたという内容でした。

 

結婚したら幸せになると思っている

これはそうだと思う

そうだと思うっていうのは、「孤独解消のための結婚は必ず失敗する」という部分

 

いや、「寂しいから結婚したら幸せになりました~」という運が良い人もいるとは思う。

なんでもゼロってことは無いかもしれないから。

でも、私が見えたり、聞いたりできる範囲では「孤独解消のための結婚で、結婚後悩んでいる方が多い」という事例が多い。

 

だから、、「寂しいから結婚したら幸せになりました~」と言う方はその幸せは大切にしてほしいし、ご自分のご縁の強運を喜んで欲しい。その強運は結構な強運だと私は思いますよ。

 

運命の出会いに取りつかれてしまうこともある。お気をつけて。

運命の出会いだと思ったら、「孤独解消のための勘違いだった」ということも多そうだな~

 

いやこれ、名言じゃない?

「運命の出会いだと思ったら、孤独解消のための勘違いだった」

って。

これは良い。気に入った。

しかし、もうすでに誰か言ってそうだね。

 

もう少し書くと、「私の結婚には『運命の出会い』という条件がプラスされている」と無意識に決めていたり。

相性もさまざま

運命の出会いっていろいろあると思っていて、運命論的には今回の人生で1秒でも接点のあった方は「運命の出会い」になるんじゃない?という論説に基づくと、離婚する人も、相性の合わない人も、喧嘩の絶えない人も、好きな人もイヤな人も、全員「運命の出会い」になるわけで、こう考えるともう少し冷静になれませんかね?

 

なんというか、こんな私も「へぇ~、それは凄いね」というドラマチックな出会いをされた方で、長年添い遂げられていらっしゃるケースを情報として知ることがあるのですが、それを「運命の人と出会ったんだね」という風には感じなくて、自分が幸せと感じる生活を送れる相性の方と一緒になった。相性の合う(良い)方と出会って幸運だったね。と思うんです。

運命と一緒やないか。何が違うんだ。と思われるかもしれませんが、運命よりも相性に注目度が高いとでも書いたらわかりやすいでしょうか?

ドラマチックに出会っても、上手くいかないケースもてんこ盛りあるわけなんで。

 

別れる相性、別れない相性、愛し合う相性、憎しみ合う相性、平和な相性、バイオレンスな相性、本当に世の中は色々です。

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一人の孤独と、二人の孤独

話が脱線しましたので、もとに戻します。

 

コラムやブログに書いてないか、せいぜい1、2回程度サラッと書いた程度かもしれませんが、対話、会話、セッション内では私もよく、「一人の孤独と、二人の孤独の違い」という話をしてきました。

私が書いたり話したりするものあったけど、ご紹介した動画はその辺りが分かりやすい。

(ほんとそうよね~)と思ったからこそ、これはぜひシェアしたい!と思ったもの。

 

そして、コメント欄もご興味があったら目を通してみてください。いろんな方がいます。いろんな意見があります。

中村うさぎさん

中村うさぎさん、以前は今よりもっと全然別世界の方感が強かったのですが、最近?うさぎさんが変わっていなければ私が変わったんだと思いますが、うさぎさんの個性に魅力を感じて他の動画もみてしまった。

おむつ姿や、坊主頭姿や、なんかアレコレ笑ってしまった。格好つけのはずよね? アレ?ここは格好つけないんだ!?みたいな感じで。 ご本人のことはまるきり存じ上げませんが、お話の内容はシャープだな~と思って他の動画も拝見しました。

 

必ずか?

「孤独解消のための結婚は必ず失敗する」という表現について、必ず失敗するかどうかも証明できないからアレなんだけど、高確率で悩みだすということは経験値としては言いたい。

 

結婚する前は「自分は大丈夫」みたいに甘く見積もりがち派もいると思う。

「こなしていける」みたいな。

条件として「結婚している自分」であろうとする。というような感じ。

 

これが思いっきり足元救われるんですわ。そして「自分は大丈夫」「こなしていける」と思っていた割に(思っていたからこそ?)足元救われて転んだ時にかなり痛い。激痛。

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わたしは大丈夫

「二人の孤独はつらいよ」などといくら言っても、体験したことのない方には伝わらないんですよね。そりゃそうなんですよ。頭でわかるのと、体験するのって違うから。だから、何を聞いても「自分は大丈夫」「こなしていける」という感じがあるし、やってみないとわからない、深く考えてもしょうがない、嫌なら離婚したら良いしっていうことも含めて甘く見積もりがちだったりするんよね。

誰しも悩むわけじゃない

でもですね、結婚が「孤独解消のための結婚で、結婚生活がうまくいかなくなり離婚した」方でも悩まない方がいるのも知っています。将来自分が相談業をやるとは微塵も予兆のなかったはるか昔に目にした例です。その方は全然足元を救われなかった。ダメージを受けなかった方。理由は次?の他の方への恋が始まっていたから。

自分とは?というような悩みを持たなかった方。結婚したからには努力しないと!みたいな悩み方をしなかった方。

離婚云々の時に、悩んだりして激ヤセする方も多いのですが、その方は激ヤセとか悩みとかは無くて、次の恋、好きな方に好かれようとしてダイエットを始めていました。超ポジティブと言っていいのか、人間味が少ないと言っていいのか、次の恋、好きな方に心を奪われ過ぎたのか?

 

その方を見て、悩む自分ってどこかが真面目なんだなって当時思ったのを思い出しました。真面目過ぎるのかな?と思えました。いい経験です。そういう意味では私にかなりの時間が経った今この文章を書かせてくれているその方との出会いは良い出会いでしたね。(笑)

 

ほんと世の中いろんな方がいます。

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親が悪いのか?

離婚する夫婦を見て、悩んでウツになって激ヤセしている方を見て、「親が悪いんだよ」と馬鹿にした方が居ました。昔です。

「その点、ウチは幸せだな」と優越感に浸っていたのも見ました。その同じ昔に。

 

月日が流れ、「その点、ウチは幸せだな」のお嬢さんが離婚されました。

 

私は時折、(比喩にはなりますが)飛距離の短いブーメランのようなものが飛んでいるのを見たような気がする時があるのですが(もちろん錯覚かもしれないし、ただ思いたいように事象をみているとも言えますし、自分の都合の良いように因果関係を創っているとも言えます)、この件のように結構な長い飛距離、10年、20年単位のブーメランも見たような気がする時があります。

 

ですから、他者を大切にはできなくても、馬鹿にしたりイジメたりはしない方が自分の安全というか、幸せがまだ確保?保証?される確率が上がるんじゃないかな?と思えるときもあります。

馬鹿にしない。イジメない。=幸せになれる

ということはわかりません。そうだと良いなぁとは思うけど保証はない。

ですから、

馬鹿にしない。イジメない。≒幸せになれる確率が上がるかも

という感じ。

 

それも、時間がある程度かかって人生の舵がゆっくり切られていくように感じる時もあるから、途中、(良い人ってバカを見るだけだ)と腐る時もあると思うんですよね。

腐ってしまうのをグッとこらえた先にひょっとしたら良いことがあるかも。という非常におぼろげな話ではあるんですが。

 

それよりも

他者を大切にする=幸せになる

の方がなにかが早いのかもしれません、確率が高いのかもしれませんが、私一個人ではなんの証明もできないし、約束もできないし、保証もできません。

 

この辺りは人生信条みたいなことで、各々が考えたりしていくことなのでしょうかね?

 

結婚の話から、最後は目に見えないブーメランの話になりました。

いつも通り内容が急カーブを描きましたが皆さんはまだTAKEDA-Blog号に乗車されておられますでしょうか? 遠心力で吹き飛ばされておりませんでしょうか?

 

それではまた。

See you!

視点

視点

他者の考え方を聞いてみよう

全2回対談の2/2回目のご紹介リンクですが、2回とも良いのでお勧めします。

アジャさんは他でもこういったお話をされていた動画を拝見しましたが、う~~~ん お話が分かりやすくて私には良かったです。私の場合は、お考えを聞いて視点を増やすというよりも、アジャさんの語りの耳心地が良かった感じです。

何かが安定している方の語り。という感じでしょうか。何だろう?メンタルかな。人生しっかり生きてきたっていう経験値の多さが口調や思考に反映しているが故だろうか? 自己憐憫感というか、自己陶酔感も自己顕示欲も少ない感じがしたんですが、そういった(どういった?)あたりを既に「超えた」「終えた?」ように勝手に感じました。一周回って。という表現がありますが、二周も三周ももっともっと回っておられるのかもしれませんね。

 

 

探すのも面倒かもしれませんので、1/2回目もリンクはりますね。

私も扉をくぐってみた

Facebookファンページには書きましたが、わたくし、あえて手を出すことは無いだろうと思っていたAIによる画像作成を遅ればせながら初体験いたしました。私は凝った画像が創りたいわけじゃなくて、頭の中にはあるが、フリー画像にはない画像が創りたかっただけなので非常に簡単にすぐできました。

いやはや便利。

当分は、アーティストさんたちのフリー画像をシェアする方向だし、アーティストっぽい活動ができるかも?とかいうことに色気を感じているわけじゃないんですが、(私はそういうの いいわ)と思っていた対象に対して、すんなり扉をくぐってしまった感じです。必要に迫られるって動機の1つですね。

楽しい

冒頭でシェアした動画のサムネイルに「いまの物差しで自分自身を決めつけない」と書いてあると思いますが、私も小さな新しい「ものさし」を人生に加えてみました。楽しいっす。

Pascal UhlemannによるPixabayからの画像

 

わたくし想像力が豊かなものでして、その想像力の表現をAIが助けれくれることに初回で気が付いて、エラク気に入ってしまいました。

今後、なにか我ながら秀逸!と思える画像ができた際にはシャアします。 今日のもなかなかでしたが、今日シャアするのはやめておきます。

ElisaによるPixabayからの画像

 

みなさまも、頭になかにあることを外へ出してみてはいかがですか?

「書く」ということもオススメします。一人でもできますし。

私は前より余程量は減りましたが、今でも頭の中の整理も兼ねて「なんでも帳」に書いたりしています。ノートの消費量も本当に減りましたが、書くことをやめてはいません。

 

しゃべる方が向いてる方は、YouTubeをやるもよし、ネットラジオをやるもよし、「自分のために」やってみたいことはいろいろチャレンジすることもオススメします。

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無条件に愛して欲しい

ありのまま、無条件に愛して欲しい

子どもでいたい。とはどういうイメージか?

私は過去のコラムでも、この

  • 子どもでいたい。という選択
  • 大人にならない。という選択

についていろいろ書きましたが、やはり加藤諦三先生はお話や解説がお上手で、似たようなことを書きたい私とは仕上がりの美しさが違います。

 

どうも私の書く文章は泥臭いというか、生身の人間感が漂いすぎるというか、そんな感じしませんか?

 

知らんがな。という声が聞こえてきそうですが幻聴でしょうか。(笑)

 

動画で加藤諦三先生にご登場いただきました

 

無条件にも条件がある

自分は相手を無条件では愛さないけれど、自分は周りから無条件で愛されたい。

 

わかる、わかるよ、わかるよね~

でも、それに応えてくれないからといって他者を非難するのもどうなんでしょうね。

 

これって、自分は正解だけど、相手は間違っている。と瞬時に思うのと似てますか?

似てませんか?

 

思うのは勝手だし、願うのも勝手、相手の反応までコントロールできないからと言って癇癪を起したり、悲劇に浸ったり、ますますコントロールしようと躍起になったりして、結果幸せになっている方を私個人は存じ上げません。

病的と感じるようなコントローラータイプの方はこういった渇望が強いんだろうな~って思うことは多いです。それはそれで大変だろうな~って思っています。

しかし、

人生っていろいろだものね。と思います。

「人生いろいろ」を和らげてくれるケア

心のストレスを緩和させていきたいのなら「ストレスケア」ってほんと大切だな~って思うし、病的なコントローラーさんたちが、その場がコントロールできて一見満足しても、もういつもいつも他者の動向が気になって、イライラしてっていうのも、長い目でみたら「その他者を思い通りにコントロールしたいという思いにとらわれたまま」っていうのはハッピーになっていくんですかね?

 

いや、ハッピーこそ様々なハッピーがあるので、ハッピーならそれでよかったです。

 

そのコントロール欲の中には、(私を見て!私を大切にして!)という渇望も見て取れるような気がするんですが、それをすると嫌がって離れていく人も多いような気がします。

でも実は相性の合う方もいて、依存症タイプの方や、子どもでいたいタイプの方、言いなりになりたい方は非常に相性がよろしい。

 

ですから、それぞれの個性や性質の相性の組み合わせで、付き合いやすい方としかお付き合いって続かないもんですね。

それはお互いに。

 

そう、最後にもう一度書くと、支配したいタイプの方もいらっしゃれば、支配されたいタイプの方もいらっしゃるわけです。この2つのタイプの方同士はなにかと長続きするようにお見受けしています。

だから、良いとか悪いとかじゃなくて、そういうことと「無意識的に何を幸せと感じるのか?」というのは別問題だなって思うことも多いです。

 

 

画像は昔飼っていた溺愛犬と色は異なりますが、全体は似ていたので選びました。

凄い甘えん坊でしたが、それでもやっぱり私(や家族)を守るときは守るよ!という行動もあったりして、お互い支え合っていました。

他界したあと、夢に出てきたこともあって、そんな時は私も嬉しかったですね(^^)

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囚われ

久しぶりにいろいろ書きます

何を書くのか? それは心理学的なことです

ネタが溜まってきていますが、一度「Blogを書く習慣」から離れたし、さて記事を書こうかと思ってもPCの立ち上がりが遅すぎる(古いので)こともあり、Blogの更新感覚がどんどん伸びております。

 

最近、以前よく著書を読んだ加藤諦三先生をYouTubeでお見掛けしました。

その昔、若かりし頃、加藤諦三先生の本をたくさん読んで、当時非常に重く感じて、読み進めるのがキツイと感じたことがあったように記憶しています。その当時できる範囲で自分を「とことん」深堀したんですよね。深堀がきつかったんかもしれませんが、どこがどうキツかったのかを今はもうはっきり覚えていません。

キツイキツイと思いつつも深堀をやめなかったんですが、結果将来の自分に非常な福をもたらしました。

今は読書ではなくてこういった動画から入る方が多いような感じですが、読書は読書の良さもあるのでお勧めです。

 

ですが今回は動画のシェアをします。

囚われについて

 

自分でいることとは?

 

なんちゃって心理学

なんちゃって心理学と感じるようなメソッドもあるし、時代に乗った短い命のカウンセラーさんもいるように感じることもありますが、それらで幸せになればそれでいいし、その時代にそのカウンセラーさんに救われた方も多いと思うんですよ。

巻き込まれたり、巻き込んだりするのも人生の経験ですものね。

 

しかし、この加藤諦三先生はずーーーーーっと同じ感じです。

いや、いろいろ変化されていらっしゃるのかもしれないけれども、ぶれないな~というイメージが非常に強い。信念なのか、そういった性質なのか、根が大きすぎるってある?とまで感じます(笑)

「とらわれ」という言葉でほとんどのことは言い換えられる?

本当は、違う「とらわれ」について事例を書いてみたくなっていたのですが、

(あら、これは素敵な表現ね。)

という動画をいくつか見てしまったので、次もそれらのご紹介をして、元々書きたかったことは先送りします。

 

いろいろ書きます。と宣言して、動画のリンクをご紹介したに過ぎなくなりました。

失礼いたしました。

次はPC? 

新しい相棒

納車

新しい相棒が到着しました。

ウソでしょ?と自分自身を笑うようなこともあったんですが、もう我が家にやってきましたので仲良くやっていきたいと思い、(ナニナニ??)と取説などを見ているところです。

知っていたよ オートクルーズ

オートクルーズという機能があるんです。

私が今まで乗ってきた車にはその機能が付いていませんでしたが、こういったオートクルーズみたいなものははるか昔からあったことも知っています。数十年前のハイクラスな車に既についていたのを知っています。ですが今ほど一般的じゃなかった。

が、気が付いたら私の新しい車にもついに登場しました。

 

自動車専用道路で使ってみたんですが、ま~~~楽ちん。

今時って前を走る車のスピードを感知して自動でスピードの調整をしてくれるんですね。

あらまぁ ビックリ。

そして、便利。

Melk HagelslagによるPixabayからの画像

久しぶり!

前の車は車内スピーカーが壊れまして、直すほどでもないのでスマホからミニスピーカーにBluetoothで飛ばして音楽を聴いていました。車専用のJBLの携帯スピーカーを積んでいたんです。

それも解消して、今は車内スピーカーにBluetoothで飛ばして音が聞こえるようになりました。

車内スピーカーから音が聞こえるこの感じ、久しぶり~と思いましたよ。

ラジオとか(何年ぶり?)と思う程でした。

 

とまぁ運転時のQOLはいろいろとかなり上がりました。

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いよいよ 次はPCか

ipadでPCの代わりにしようかと思うものの、画面もある程度の大きさが欲しいので、ipadのみではどうでしょう。

 

ホームページも今は以前のようにあれこれと手を加えていませんが、やっぱり私の場合はPCが使いやすくてストレスフリーです。今のところは。

で、モニターは使っていないのがあるので、ミニPCを買えば良いだけにはなっています。

前回のblogに、引越しは2024年内にしたいなぁと書きましたが、引っ越しした後に新居に合わせたPC環境をつくれたら尚良し。洗濯機も冷蔵庫もまとめて一新したい!

と今は思っています。

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願い & 予定

新しい私の「巣」、素晴らしく気に入る快適なものに出会い、引っ越し出来ますように!

するとホームページの中のご案内も変わりますが、ご予約いただいてお越しいただく相談者さんにもとっても利便性がよくなることも願っています。

 

他にもちょっと書きたいこともあるので、また次の機会にします。

私に無かった価値観

伝説って!?

私に無かった価値観

予定通りに購入

 

上にリンクをはった前回の記事に

”例えば、伝説になりたい!と私が思うような場合は”

という文章を書きました。

 

実はこれ、10年近く前に知人が発した言葉です。

 

その方が言ったのは、「簡単にうまくいったら伝説にならないじゃん」というようなセリフでした。

(へぇ~)って思った

このセリフは私にとってとても新鮮でした。

Juanita de PaolaによるPixabayからの画像

(へぇ~伝説になるっていう価値観なんだ!)と思ったし、わたくし普通に会社員などの経験もあるものですから「組織のコマ」みたいな感覚ってあって、これは全然無自覚でも何でもなくてしっかり自覚している分野のことです。

組織のコマ、社会のコマ、組織の一部、社会の一部という感覚です。たとえ私が活躍したとしてもそれで世に名前が出ることは無いだろうという認識だったり、

伝説ってどこで言い伝えられる伝説?という視点に立つと、1つの会社に10年超えで在籍したことがないので、私がいくら優秀な社員であっても、ヒトの記憶に残るのは長くてせいぜい数年。誰がやめても会社は回っていくし、ヒトは辞めた自分のことを忘れていくということも知っています。

 

ですから、「伝説になる」「伝説になりたい」という欲求が無かった。そういう観念がなかった。

「伝説とはどこかの誰かのお話」という距離感でした。

John HainによるPixabayからの画像

伝説

承認欲求はあっても、それを「伝説」級ほど欲していなかったと言えるのかもしれません。賛美されたら嬉しいし、心地よいでしょうが、伝説級ほどの賛美を求めていないという書き方が近いでしょうか? どうでしょう。

 

ですけれど、これらは自己卑下に起因するというよりも、冷静な状況判断によるものだと思っています。

 

ですから、こんな私に(へぇ~伝説!? そういう価値観!)ととっても新鮮だったのを10年経った今でも覚えていますから、今となっては(そうね、人生先のことはわからないから、なにか良い方面の伝説に加わったら楽しいかもね)などと思って(生きているうちに何があるかわからないもんね)類に分類しています。

ですから「伝説になるぞ! うぉー!」という感覚ではなくて、今日現在の人生の心地よさを過去想像していなかったけれども現実になったという、「人生にこういうミラクルって起きるのね~」という軽い感じ。軽いというか、受け身と言うか、自分にできることは積み重ねることだけで結果まではコントロールできないというか。

 

Life is a miracle.

自己顕示欲とか承認欲求というよりも、

Life is a miracle.

というような意味合いです。

 

Life is wonderful.

という感じ。

PexelsによるPixabayからの画像

ついつい忘れちゃうけどね

私たちってややもすると、気が付けば生きていることや毎日がミラクルなのにそれを忘れますでしょ? 悩みに夢中になると「身の回りに起きているありがたいこと」を軽んじますでしょ?

それにまた、伝説って他者が判定すると思うんですよ。他者の価値観の集大成的な意味もあるとするならば、先述していますが、伝説になるという価値観も自己顕示欲とか承認欲求もそれもやはり人間だなぁと。

寄る辺無さ

過去にもこの言葉を多く用いましたが、この言葉を発明した人は天才だと思う。

 

こういった「寄る辺ない」という感覚を自覚していてもいなくても、多くの争いや悩み、もめごと、ストレス、感情・精神の不安定、勘違いの土台になっておりますね。と言いたくなります。

 

皆様の人生に健康と笑い声がありますように。

Alisa DysonによるPixabayからの画像

 

 

 

予定通りに購入

計画を進行中

車を買い替えました

これを書いている今日はまだ納車されておりませんが、かねてより予定していた計画が無事進行しまして車を買い替えました。

今の車も、今までの車と同様非常によく働いてくれまして、お別れが間もなくですが変わらず安全に動いてくれています。

 

今年の6月までに買い替え計画は終了させると決めていたので、予定通りです。

 

ベンツを買ったわけではありませんw

652234によるPixabayからの画像

次は引っ越しだ

車の買い替えと引っ越しがダブルで計画進行中でしたが、車の件は完了したので次は引っ越しです。

そうですね~ 2024年内に新居が決まるといいな~って思っています。内覧とか何軒かしたんですが、今日現在決定に至っておりません。

引っ越しもここ数年ずっと頭にありましたが、いよいよ(もう先延ばしにするのはこの位にしておこう)という時期がきました。

ですので、家の中もじわじわと片付け進め始めました。日頃も断捨離というか、片付けはしていますが、もう少し本格的な整理を始めました。引っ越しの時にもっていかないものはどれ?という視点でものをみるとかなりスッパリと線引きできます。

OkaynowによるPixabayからの画像

ラジオ放送について

既に書いていますが、「沖縄カウンセリングラジオ」も以前はユーチューブで配信したり、アーカイブを残していましたが、ここしばらくは画像系は一切残さず、ラジオ放送のみにしています。

現在のところ私は特に後世に名前や存在を残したいというような願望が無くて、生きている間にやれることをやる、生きている間にやりたいことにトライするという感じなので、格好よく書けば過去にも未来にも執着していません。執着が薄いという感じでしょうか?自分の人生に満足しているというようなことなのでしょうか?

 

例えば、伝説になりたい!と私が思うような場合は、生きている間に(あぁ 貢献できたのかな?)と自覚できれば嬉しいです。有名になりたいという他者の価値観に影響を受けるものよりも、自分自身の満足感が優先されています。ありがたいことですよね。私自身は今日現在そう思えています。

どんな弔辞をいただきたいか?

昔、自分のお葬式になんと言われたいか? 何名の方が参列するか? というようなコーチング的質問があり、

彼女は〇〇だった。 とか

彼女との出会いによって〇〇だった。とか言われたら嬉しいな~とお題に沿って考えたこともありましたが、

今日現在は弔辞が無くてもOKだし、参列者が居なくてもOKだし、そもそも私が他界したことを誰も知らなくてもOKくらいの感じです。

もう私自身は意識がないんで後のことは知りようがない。

 

今日現在はこんな感じですが、私が家庭をもって家族と暮らしたらまた話は変わってくるでしょうね。しかし2024年5月1日は一人住まいなんで。

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日々が楽しい

実はここ数年、赤の他人の多くの皆様と出会いがありまして、会話はほぼしませんが親しみを感じています。彼や彼女の幸せ願っています。理由はわかりませんが勝手に愛情をたっぷりと感じています。こんな感じがするのは何かしらの相性が良いのかな?と思います。ちびっこもいれば、ファミリーもいれば、前途ある若者たちも居ます。人生の先輩もいます。

 

今を生きる方式ですとこういった生活でも十分幸せで、自分でもこんな幸福感が存在するのだと不思議ですしありがたい。

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強いて言うのなら

どこで耳にしたのか忘れましたが、私のように多業種多職種道をあえて選んでいるような場合、「人生で、自分の能力を多面的に発揮したい」というような意味を持っていることもあるそうです。

私個人的には世の中、社会をいろいろ体験してみたいというような「興味」は自覚している気がする。まっさらな場に行くと、「過去はあーだった、こうだった」なんて通じないことが多いし、常識も変わることが多いし、プライドがこりこりに固まってる場合じゃないし、自分のやり方とか知識とか役立つとも限らないし、周りや相手が自分の思い通りにならないのが当たり前、なんなら経験や能力が目立って劣っている、なんてことがあると柔軟性みたいなものや視点に幅が持てるような気がする時がある。気のせいかもしれないし、同じことをしても人によって結果は違ってくるけれど。

 

しかし、柔軟性などかけらもなくてもご本人が幸せならそれが幸せ。良し悪しも価値観も様々だとますます思うようになったし、不平不満、後悔、恨みつらみを言っている方が幸せなら言えばいい。

私はそういった日々を送りたくないという価値観があるがゆえに機嫌よく過ごしていたい。

 

でもまぁ、私の「興味のあることをやってみたい」というようなことは小さなことや極小のことから、ちょっと大きめに感じる案件までそれなりにやったり、やれたりして満足してる部分が多い。

言葉を変えたら、後悔が少ないというような感じか? それが「執着が少なめ」という表現になったようなんだけども、他人のせいにしても、理不尽の被害者に浸っても、他者が人生の最初から最後まで責任をとってくれることはほぼ無いんで、自分でやれることをやるしかないんかな?と思えることもお陰様で幸せを感じられる理由なのかもしれない。

 

他人のせいにしても、理不尽の被害者に浸っても、他者が人生の最初から最後まで責任をとってくれることはほぼ無いんじゃないかな?と私は思うものの、他人のせいにして、理不尽の被害者に浸り続けたい方もいらっしゃると思う。自分の人生の責任を負いたくないんだろうかと思うこともあるんだけどそれもそれ。生き方はそれぞれ。

 

生命活動をしていて、意識がある時間は限られているから。

 

こんな風にいろんなことを「あるもの」と受容できるようになったことも、人生の中の変化になります。

その時、その時、良かれと思ってきたことが、2024年5月1日の今日は選択しない、良かれと思わないことだってあるけれどもそれだって成長に伴う変化だったりします。

幸せの感覚の変化

やたら「今を生きる」みたいなことを見聞きした時期や、自分も感じたこともあったんですが、もう「今を生きる」という金言を忘れるほど今を生きてる。

なんも考えてない。www

 

こんな幸せがあったんですね。

ありがたいことです。

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