私が度々使う言葉。表現。

「酔っぱらう」

 

と、

ここのところブログやコラムで触れた「自己犠牲」

 

この2つの言葉が登場した。

 

こちらに。

 

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他にも、またまたコラムに書きたいことが書かれていました。

 

 

私は福祉は全然関係ない仕事をしていた時、

そして、カウンセリングとも全く関係ない仕事をしていた時に

精神状態と室内(家庭内の片付き具合)の様子の関連性について目の当たりにしたことがある。

目にした数例の、その余りの共通性に(コレは・・・)と母数は数例ながらもその特徴に気が付かずにはいられない程だった。

 

 

また、もっともっと遡ること、はるか昔に

その時の私には非常に印象的な違和感を残した家というか、部屋というかがあり、

その後、それは、とあるカテゴリーに分類される精神状態の典型的な室内の在り方だと後に知った事もあった。

それを知った時も(まさに)と深くうなづいた。

 

 

タイトルを見て、こんな実体験を思い出したのでこの書籍を手に取りました。

 

この書籍はその時の体験の裏付けのような役目を果たしていますが、

書籍を読む前から、精神的に痛みを負っている時や不安定な時に、室内がどうなるのか? 前述した通り(数例という母数ですが)myデータとして保存されていた。

 

 

しかし、室内云々よりも

私が日頃、例えば自己犠牲にしても、幸せの感じ方は人それぞれと書いていることなどを、春日先生が「生き甲斐」と書かれているのを読むと

確かに。一理ある。とコレまた納得してしまいました。

 

 

多分、体感としての幸せや、朗らかさや、爽やかさとは異なるだろうけど

辛さを感じることをいつも間にか生き甲斐としてしまう事もあるだろう。

 

なにもないと「生きている感じ」がしないのだから。

 

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「人間は執着・煩悩があるから生きている感じがするんだろう」ってことを体感しました。

生きている感じを味わいたいから、苦しんだり、悩んだり、喜んだり、耽溺したり、争ったり、愛したりするんだろうと。

上のコラムの中に書いた文章です。

 

 

 

これらが、たとえそれが苦しくても「生き甲斐」になる根拠だと理解するようになりました。

そういう意味で、私自身非常に稀な素晴らしい体験ができて幸運でした。

 

ですから、私個人の「良かれ」などはちっぽけな事です。

そのちっぽけ繋がりで言えば、臨床的な正義も、知識も、どんな法則も、素晴らしいスキルやアイテムや手技もろもろ同じでしょう。

 

(乱暴に書いていますが、また機会があればこれより丁寧に書いてみます)

 

ただ、ちっぱけだとしても、体験や知識がお役に立つ時があるようなので、私自身はコラムやブログを書いていますし、個人セッションや講座も行っています。

 

 

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