数ミリの話
理解が数ミリ進んだような気がしたので、その数ミリ分進んだと感じた内容を書きます。
前回の記事のこの部分を引き継ぎます
私の今のこのブログ、編集の際に”引用”というスタイルを選択するんだけど、どうもそれが出来上がった記事に反映されないんですよ。(-_-)
だから手作業で ” ” こんなマークを入れてます。
どうしてこんなことになっているのかわからないし、私ができるのはhtmlをネットの中の先生方に教えて頂いて少し参考にできる程度。で、htmlも書くんだけど、反映されないというこのサイトの頑固さ。
cssが書けるようになりたいです。これはもう何年も前から思ってる。しかし今はそこを勉強しておらず書けないので、引用部分は文字の色を変えてみます。(原始時代方式)
前回、
”
東洋医学的というか、ヨガ的というか、禅的というか、なにかしらの思想的に傾倒して、失礼にも私が「厄介なことになってる」と感じる場合は、こういった「宇宙」の概念がどこかズレてるから、人間も大切なところがズレてくるのかもしれない。
いや違う、そのご本人の「宇宙」の概念とご本人の「内なる宇宙」が相似形を成す場合に、なぜか「禅病」とか「魔境」というような状態として表面に出てくる場合がある。と書いたら良いかな?
生きてきて、次第に理解していくものを、結論や概念、効果(なんですか? 特殊能力的なものですか? 悟りとか覚醒者というタイトルホルダー希望ですか?)ありきで、なにかする(瞑想?修行? なに?なにしてますか?)、それも過剰になにかするから生体(脳内)電気が乱れるんですかね?
その方の想定している「宇宙」「おおいなる仕組み」とご本人の「内なる宇宙」が相似形を成したら、結果「厄介になった」というのはなかなかキビシイ。ツラい。我ながらひど過ぎることを書いたと反省しております。が、私は昔「理想の人間」になりたくて、そうなるようにそれなりに励んだつもりだったけど、結果めちゃんここじらして非常に生命力が弱まった。という経験があるので、同じ事だと思います。そう、私はこのキビシイ、ツラいことを経験済みでございます。(笑)
”
と書きました。
この記事を書いた後に、とあるサイトで紹介されていた小池龍之介氏の「解脱失敗とその懺悔-小池龍之介さんからの電話」というWEBサイトの内容について触れているブログを目にしました。
時系列としては、
前回の記事を書いた → こちら ↑ のブログを読んだ → 今から書く内容が頭に浮かんだ
という流れですが、この間24時間経ってないですよね。これが良かった。丁度前回の記事を書いた後だったから非常に短い情報記事を読んだことで、私の思考が数ミリ進んだような気がした。
抜けた。自分は特別になった。と、思うもんなんだね
過去のコラムにもブログでも散々使った表現ですが、「抜けた!」「抜けたい!」とある一定数のヒトは思うようです。
- 現世を抜けたいとか、
- 周りの人々から抜けたいとか、
- 俗世から抜けたいとか、
言葉は違えども、根底に流れているモノは一緒なのかな。
そして、その感覚が味わえるような環境で暮らせるときも確かにある。
そう、ここ大事。
「自分が中心の世界」と「世界の構成員の一人としての自分」
「自分が中心の世界」と「世界の構成員の一人としての自分」。こんなことも同時進行していると仮定してみた。
解脱とか悟りとかそういった事では無いが、わかりやすい私個人の例で言えば、
A.個人事業主として自分のルールで自分の世界で生きる事ができる(これが私がスタッフを雇用していて複数人で構成されているとなるとまた話は別です)
B.勤め人になれば、上司も居て、先輩、同僚もいて、自分以外の人間関係や諸条件に影響を受ける。指示系統や業務内容があるので自由に思うがままに自己裁量する面が減ったり、会社の方針というようなことに属している。
というような違いがあるよ、というイメージです。
環境が違うってこんなことでもありますね。
あくまでも私の場合ですが、Aの環境では、(あぁ私ってストレスケアを行ってきたおかげで、もうストレスに強くなって、「抜けた」かも)と勘違いしますよ。しかし、その同じメンタルでBの環境に属した時に(ストレスケアをしても追いつかない。ヤバイ。ある程度は俯瞰や達観ができるけど、その先はキツイ! じわじわ効いてくる! ヤバイ!)ってことがあります。
Bの程度にもよるし、相性などもあるけれども、「属さないといけない」「属していないといけない」というような縛りが発生した場合に、そうそう涼しい顔もしていられないってことってあります。
私は今これを書いている数時間前に小池龍之介氏についてのほんの少しの情報を目にするまで、どういった経緯があったのかを全く知らなかったんですが、その知らなかったことを知った時に、小池龍之介氏が「限りなく悟りに近づいた」と感じていた環境から、違う環境に移ったことによって「自分の状態に気がついた」とおっしゃったそうですが(伝聞ですけれども)、例にあげた自分自身と照らし合わせても、「そりゃそうだ」と思えたわけです。
そこは、小池龍之介氏が中心な世界じゃなかった。
そこは、私が中心の世界じゃなかった。
単純な理由だと思う。
こういったことも相似形なのか?
私は複数回転職しているし、おかげさまで多業種多職種のお仕事をするラッキーに恵まれたので、自分の能力や個性と合う環境も合わない環境も体験したし、「合う」という感覚もいろんな側面があるという体験もした。
そして、仕事とはまた別の方面で「私の世界」という感覚もある。
2つがうまいこと両立する時もあれば、全然反りが合わない感じもあった。組み合わせは数限りなくあるだろうけれども、この「組み合わせ」みたいな視点も大切かも知れませんね。
それは、「1つじゃない。」「1つ。とそれ以外」みたいな視点が活きる時もありそうだから。
やっていたことをやめた
今日現在はわからないが、私が読んだブログによると、その当時の小池龍之介氏はお坊さんをやめたそうです。
船井幸雄氏
ドリーン・バーチュー氏 に続き、
小池龍之介氏もかなりのブームを起こし、心酔する方を多く生んだ方と認識しておりますが、「あれは魔境の最中の出来事」というような発言をされたのかな? 書籍は今でも「良書」として世の中で評価されているように思いますが。
私は単なるへそ曲がりで、1~2冊(数冊)書籍を読んで、すーーーっと離れてしまったのですが、心酔する皆様の気持ちがとっても分かる。理解しやすいような書き方がしてありましたよね。
一見とっても良さそうでしたが、私はその底辺に何かしら感じました。とかじゃなくて、ただ単に、過去私なりにこの辺りを深堀したことがあったので、(もうこういうのはいい)というへそ曲がりな好みだっただけです。
ある意味の「私は覇者になった」感か?
悟り=世界の覇者 じゃないんですよね。
小池氏が環境を変えたことが自分への失望感を生むきっかけになったのだとしたら、世界のどこでもそれ(その価値観、やり方)が通じるという勘違いをしただけだと思う。そこにはやはり「今」という時間(感覚)を忘れただけだろうと思うんですよ。『「今」を =(イコール)ALL(すべて)』と思うときってありますもんね。
前回「そもそもの設定」と表現したことになります。
世界観とか、人生観とかって自分が感じるものだから、良いも悪いもなく、そこには「覇者感」というか「世界の中心感」が実はあるんですよね。実際にそれをそう感じるあなたが中心だし。
だから、調子がいいと、その環境すらも自分が内包しているように感じるんだけど、しかし実際は、環境って「属している側」だったりするんですよね。
人体に宇宙はあるけれど、地球に住んでる。みたいな意味で。
前回書いた
”
ヒト・個の中に
- ユニバース ⊂(含む) マルチバース
- マルチバース ⊂(含む) ユニバース
という面がある。と私は思っているからです。
”
という意味と似ています。
思うようにならない環境に属したら、それまで培ってきた自分が通用しない。だから一層思うようにならないと感じる。という人間社会のある種当たり前のことを忘れちゃうのかも。
- 高尚過ぎて?
- そういった現世を抜けかけているという幻(というか、なんというか、難しいですが)状態って気持ちいいし、気分も良いし
- 現世よりもアッチ(どっち?)の方がランクが上というようなことに結果なってしまっている元々の設定が違うのか?
上も下もない(並行宇宙)という前提に立つと、それらの設定も随分違ってくるような気がします。
というようなことを既に書いています。 ↓
自分は特別
自分はいい意味で特別だと思うと気分が良いですよね。我が子が素晴らしくて鼻が高いとかも「自分が特別」みたいな優越感をくすぐる時があります。
私は本当にへそ曲がりなのですが、
「〇〇の法則をつかって」とか「覚醒」いうような謳い文句を見ると、それが宇宙だろうか何だろうが、
”
ヒト・個の中に
- ユニバース ⊂(含む) マルチバース
- マルチバース ⊂(含む) ユニバース
という面がある。と私は思っているからです。
”
ということも法則だよね。と頭によぎるし、なにかしらのパターンや相似形も頭に浮かんだりする。
もちろんそこには私も居る。含まれている。
忘れかけると、思い出すような出来事がおこって、(あぶねぇ あぶねぇ 勘違いするところだった)と思う事もある。別に勘違いしていたって構わないことって多いけど、(あぶねぇ あぶねぇ)と感じる類のこともある。
ヒトは一人ひとり特別。
その特別感が反作用に働くかのような時もあると思わない?
みんな一緒
”
ヒト・個の中に
- ユニバース ⊂(含む) マルチバース
- マルチバース ⊂(含む) ユニバース
という面がある。と私は思っているからです。
”
と考えると、大嫌いなあのヒトとあなたは同じであり、大嫌いな出来事を引き起こすナニカや集団は=(イコール)あなた。 まんま=(イコール)ではなくて、成分表の構成物は共通してるという意味です。ただ配合は個々による。しかし、他人の性質であなたがとても嫌っている部分はあなたにもある、私にもある。他人の性質でとても好ましい部分はあなたにもある。分量は違うみたいだけど。
だから、随分前に既に書いているように、はるか昔に私も「悟り」を求めていたし、引き寄せの法則みたいな知識を得たら使いこなしてラクしたいし楽しみたいと思いました。
しかし今は、しいていうのなら「意識してそれを選ばない」という感じです。
そうそう、私は自ら瞑想もしないっす。数年前は試験的にやってみた事がありましたが、それももうやめました。思いがけず瞑想みたいなことをしている時があるのかもしれません。というのは、施術中は自然にそんな状態になることがあるようなんです。
しかし、何か目的をもって瞑想をすることはやめています。多分瞑想類は得意だと思うんだけど、なんというか、あくまで感覚的なものなんですが、ハズレやすくなるような気もしたので、別にわざわざ瞑想しなくてもいいかなって思ってる。ハズレるっていうのは自分がズレるというイメージです。良くなるためにやっていたはずなのに、やり方や嗜好が影響して、アレ?!おかしいな?! ってことになる例もあるような気がするし。
瞑想せずにいられなくなるような中毒性にアテられるのもイヤだし。(って言いながら、コーヒーを毎日のみ、砂糖が入っているお菓子もパンも食べてます)
これらを選択肢から外していった理由って簡単に言うと何だろう?と自分に訊ねたら、
『「それらを選んで、ラクになりたい。ラクしたい。不思議を体験したい。ワクワクしたい。楽しみたい。叶えたい。抜けたい。」という方法を取らない人生を生きてみよう。』という選択をしたいみたい。そして、実際にやってみてる。
あら~失敗だったわ。も経験だし、
人間まだまだだわ。と思えば、人間だもの。と思ってみたり。
今のような人生観を選択すると、何かを操った結果のラクはできないかもしれないし、抜けることもないかもしれないけど、これはこれの「楽しい」はある。「幸せ」も感じられる。いろんなことに気がつけば「不思議」も感じる。
それで良いよね。って今は思っています。