勝負運 一考
タイトルを書き、一行目の見出しを書いておいて なんなんですが、実は非常に興味深い「よくあるヨモギ蒸し」とは異なる、私が勝手に「一味、ふた味ことなるヨモギ蒸し」を体験した体験記を書くつもりでした。
が、
まぁいつも通り、ただの気まぐれでこちらの「勝負運」について昔からの持論、解釈について先に書く事にしました。
負けてラッキー
負けてラッキーと思うまで その1
ヒトは、目の前に起きている争奪戦、勝負に反応して、「負けてなるものか!」と意地のようなものが湧いてきて、そして執着するという性質がある場合が多い。
- オークションやセリ、オーディション
- 恋のライバル
- タレントさん達の言う自分がハマれる「空いている席」の有無
- 具体的な乗り物などの空いた席に座りたい方達
- 採用試験
- 婚活や出会いの場での競争意識
- 成績順、売上順のアレコレ
- バーゲン会場 などなど
こういった渦にはまり込むと、「実は別にそれほど興味はなかった。」ということをすっかり忘れて競争ゲームに一喜一憂してしまう。
本当に人間の意識とは奥深い。
比較や競争が好きでも嫌いでも、これらに意識を奪われると、
ハッ!と気がついたら「競争の洗濯機」に入っていて、グルグルと回っているし、遠心力に逆らえずただ洗濯槽の壁にはりついて起き上がれずにいるという驚きの自分になっている。
いっぱしに理由を考えたり、他者を非難したり、自分を正当化しようとするものの、ちょっと引いた目でみたら、「自分も他人もみんな一緒」と気がつく時もある。
この辺りまで気がつくと、「ヒトのことなんて何にも言えないな~」とガッカリしたり、理想の自分じゃない事に腹が立ったり、プライドを守るべくアレもコレもスルーしはじめたりする。
人それぞれで、人間社会はこういった彩で華やかですわ。
あぁ、以前も書きましたが、「勝ち負け」が目的な事って世の中にありますから、それはそれ。オリンピックで金メダルを決めるとか、高校野球でリーグ戦を戦うとか、それが目的なんだから。
一時が万事という話をしているわけではありませんからね。
ヒトの「好み」って多種多様なんです。
負けてラッキーと思うまで その2
で、その時の勝負や競争に勝っても負けても、「負けてラッキーだったんだ!」と思うまでの大切な要素は「時間」。
例えば、入社試験
入社試験に落ちた。
さてその後、その時に一番入りたかった会社に入社できずに傷心しつつ、違う会社に採用されて(あ! この仕事好き)と思うようなことがあったらどうだろう?
時代が変わり、一番入りたかった若かりし頃の憧れの会社が吸収合併されて社名が消失することもある。吸収合併の具合が、強くない立場になる側の方で、なんだか日が陰ったような気持になる場合も全然珍しくない。
そう、勝負や競争は「今」「一時」のことでしか無くて、将来はわからない。
小説にもよく取り上げられている(こんなはずじゃなかった)という想いを抱くのは将来なんですよね。
「今」「一時」、勝ちだと思えたことが、将来どのように作用するのかはわからないんですよ。
だから、勝負運というものを考えた時に、「負けてラッキー」ってことってある。
そう、「負けることがその勝負の勝ちだった」「負けることが自分の人生の大幸運だった」ということってあるよね。
禍福は糾える縄の如し
私は度々、「凶事は吉事」と書くし、言うし、自分の人生ではまさにその通りという体験が多い。だから「凶事は吉事」という現象が本当にあると信じているし、言葉を変えたら「禍福は糾える縄の如し」ということになる。そして、本当にそうだなぁって思っている。
簡単に書くと、今日は今まで何度も書いてきた、これらを
「負けることがその勝負の勝ちだった」「負けることが自分の人生の大幸運だった」
と文章を変えて書いているに過ぎません。
そう!
私は同じ(ような)事を何度も何度も書いている、成長、発展が極少の人間です。
ちょっと「例」を変えただけ。(笑)
そういう意味では、他人様との競争、勝負事の成績は全然良くない私ですが、自分の人生の勝負運は凄く良いような気がしてる。
遥か昔、または最近の「負け」みたいなことって、今の私、将来の私のラッキーになっている(だろう)。
そういう意味では、「勝負運」という言葉遊びに囚われて一喜一憂するのも馬鹿馬鹿しいよな~って思ったんですわ。
長い目でみると、自分の幸せを感じる感性を自分で育てることができた人が勝ちなのかもしれない。自分の幸せを感じる感性を自分で育てることができた人が「勝ち」とか「負け」とか気にしているとは思えないけど、今日の文章に沿わせて書くのなら「勝ち」ということに一応しておきますか。
自分の幸せを感じる感性を自分で育てることに「勝ち負け」なんてないんだけどね。
一応ね。
わかったようなことを書いてみる
大したことをわかっていないのに、わかったような事を書いてみる。
なにかに勝っても、「わぉ!ラッキー」
なにかに負けても、「わぉ!ラッキー」
じゃあ、何が起こってもラッキーなんじゃん。
と思うくらいになったら「楽」なんだろうな~って思ってます。
こんなことも「こだわりを捨てる」みたいなことに含まれていそうだなぁ。
人生の幸福感には「勝ち」「負け」という知識、認知、価値観は意味が無く、そういった判断をすること自体影響がない様な気がしてる。少なくとも私には。
今の私はこんなわかったようなことを書いているけれど、ちょっとした刺激に反応して、また競争の洗濯機にはいってしまうのが人間たる所以でしょうから、
「できる限りこれらを覚えていたい。忘れたくない。」
と思うだけなんだけどね。(笑)
・・・おそまつ