Blog投稿久しぶりです。

ふと、(あら、私って こーゆーことを考えるのから離れたかと思っていたけれども、三つ子の魂百まで風に脳の底の方では考えているんだね)なんて思ったことを書きます。

 

タイトルを一度「信念と価値観」と書きましたが、堅苦しいのでやめました。

「法則」について

中二か?

中二病とか言われますでしょ? モラトリアムみたいなことを言ってると。

ところで、改めてモラトリアムの意味を検索したら、元々は経済用語が転じて心理学用語として使われるようになったそうだ。今日現在の私がこれを検索したことと、その意味もまた妙なシンクロ性があって不思議なんだけど、そんなことはさておき、心理学的には「アイデンティティの確立を先延ばしにする心理的な猶予期間」ということらしい。

しかし、私はある程度出来上がってしまった感がありますんで、一応「自己研究」「自主研究」ということでやらせてもらってます。夏休みの自由研究的な意味合いのある「人生の自由研究」。

それに、世の中おかしくない?みたいな中二風味な怒りややるせなさ、無力感という、これらおそらく一種の正義感から発生するような感情も、経年によるあきらめのような諦観のような、感性の摩耗のような状態の影響で、いろいろなことが「有るもの」「しょうがないこと」と納めたいから納めているわけじゃないんだろうけど、納めるしかないというような感じもあったりします。

しかし、以前のような不満や被害者感や不幸感などはお陰様で今日現在は無い。昔はありました。いまここ、今この瞬間はそれらに囚われていないというだけです。未来はわからない。

 

そしてしばらくブログを書いていなかった今も、考えてもしょうがないことかもしれない、こういったこと(何時も書くようなこと)をなんとなく脳内在中させておくという価値観というか、習慣は健在だった。

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

違和感の理由を考える

過去のブログのサイトを閉鎖したので、以前そのサイトから現サイトに流し込み(引っ越し)できたものはしたような気がしますが、なにしろ過去記事内のリンク先がなくなったわけです。ホームページの過去の記事やこのブログの過去記事を読んでいただく際にいろいろ不都合があると思いますがご了解ください。

 

そして、サイト「こすも」はアメブロと連携させていたのに、アメブロを先に抹消してしまったためサイト自体を抹消できずにいます。サイト運営者に抹消を依頼しておりますが返信がありません。(訂正:私の勘違いでした。返信を読み落としていました。あらぬ疑いをかけて申し訳ありませんでした。サイト削除申請希望ですが、非表示にすることしか出来ないかもしれません。)

もう一度抹消依頼をする予定なので、伏線回収じゃないけどなにかと猶予期間が付いて回りますわ。時間がかかっても結果希望通りに事が運べば良いのです。時間の作用って現実には影響ありますね。

 

そして本題ですが、私はかねてより、「法則」という概念に違和感を感じる時があります。すべての「法則」について違和感を感じるというわけではなく、例えば「万有引力の法則」をはるか昔習った時に「へぇ~」と思った時以来今だにその法則はあるという前提におります。今のところ違和感がない。

しかし、思想的なジャンルの「法則」と言われる場になると、確かにそう言えることもある、しかし、万有引力の法則ほどは納得できないように感じるんだけど・・・という、この「・・・」が自己認知している違和感と感じる反応。

 

という、相も変わらず自分以外の誰の役にも立たないかもしれないことを考えてる。私個人には役に立つと思う。別に役に立たなくても、ただこーゆーことを考えるのが好きだからそれで充分ではある。

 

この誰かが「法則」といったものを、物理的に科学的に、エビデンスがあるからというような理由付けで「正しい」とするのも1つの価値観や感受性だし、「正しい」と聞いてしまうとすべてのものがそれに従っている、含まれていると「感じていると信じる」という脳の作用もあるとは思うし、誰かが「法則」といったものでも体感的に(それホント?)と違和感を感じることもある。

こういったことも価値観だったり、信念だったりする。

というようなことは過去に何度もしつこく書いてきた。

 

不思議なことに、今日家の掃除をしていたら、そこ(上述の内容)に違った方面から融合してきた観念があった。

それが、マルチバースとユニバース。

 

Alexander AntropovによるPixabayからの画像

 

なんでも優劣をつけようとしなくていいのに

例えば、ユニバースとマルチバースだったら、マルチバースの方が凄いと無意識的に優劣や序列をつけるようなそれこそ概念が働いたりしませんか?

これはあくまでも人間の概念であって、優劣をつけるものではないんだということで書き進めます。(優劣をつけたい方はお好きにどうぞ。もうこういったことは脳内反応だと思うんですよね。それまでのご本人が培った信念というか、取り入れた価値観。)

 

で、(あ! こう考えたら私が自分の違和感を脳内に収まりやすくなるじゃん)と思った内容は、そのご本人がユニバースに生きているか? マルチバースに生きているか? というものだった。

Clker-Free-Vector-ImagesによるPixabayからの画像

 

絶対的な「法則」が多ければ、生きている世界はユニバース?

優劣じゃなくて

魚派ですか?肉派ですか?ベジタリアンですか?というようなイメージをしてみてください。

優劣じゃないですよね? 価値観や好み、体質というようなことでどうです?

 

雑食な方は多ジャンルな味を体感しているというか、知っている。

でもこれは「知っている味」の話であって、他の多くのことはまた別でしょ?

 

自分の世界が広かろうが、狭かろうが、ご本人が人生に満足していたらそれが何よりかもしれない。かもしれないというより、それを一度でも体感したことがあるか無いかでまた人生って変わってくるし、その「人生の満足」も種類が変わることがある。

 

ユニバースだろうが、マルチバースだろうが。

 

他人が他者のユニバースを馬鹿にすることもないし、意味もないし、他者に自分のマルチバースを自慢したってそれにも意味がないし、うらやましがられたくて、自慢したくてマルチバースに生きている勘違いを生む・創り出す必要もない。

ようなことが家を掃除中に頭に浮かんだので久しぶりにブログに書き留めました。

 

いつも通りの独り言でございますが。

法則が絶対的であればあるほど、法則が多ければ多いほど、それはユニバース的な世界観なのかもしれない。という信念の違いの理解の1つの方法、私個人的な脳の納め方です。保証もないし、根拠もない。ただただ個人的な「反応」の薄め方というか、減らし方というか、そーゆーものです。

 

これで収まるか?

そう、こういった脳内の独り言により、「法則」という言葉を聞くと時々ふわっと香る違和感反応が収まるような気がしています。

ちなみに、昔何度も書いた「うつりたくない口癖」についてですが、しつこいバランス調整、ストレスケアによりすっかり消失いたしました。祝。

これは自分の人生のストレスが減った。脳内に条件反射のように浮かんでくる言葉にストレスを感じておりましたが、その脳は皮膚や内臓・臓器や神経と相互関係にあるのでバランス調整の取り掛かり口としてフル活用しました。

私はこの場合のセルフバランス調整にアイテムや道具類は使っておりませんが、アイテムや道具類を使いたい方はそれを選択されたらいいでしょうね。

 

生きているといろいろありますし、いろいろな反応をしますよね。

私も人間なので当たり前に反応します。

が、昔は反応する自分を否定していたというか、優劣をつけていました。反応しないのが優れているんだと大勘違いもしたけれど、そののち「反応は有るもの」「反射もあるもの」という当たり前のことを理解したし、新しい習慣を自分で練習して身に着けていくというチャレンジをしてみたら良いんだということも理解できた気がするし、ストレスケアを知ってからは怖がっていたり不安に囚われたらまずはストレスケアしてみるというスキルに助けられた。

 

凹む思考や感情に囚われる時間が短くなった。とっても短くなった。

こういう体験から、個々のタイミングで凹む思考や感情の囚われから脱すれば良いんじゃないか?とも思うようになった。

 

脳の反応の仕方が以前とは変化したような気もするけれど、どうでしょうね。

価値観や信念は割と変化したのは確かだと思う。

そして、人生のQOLは良くなってる。人生というか、心と体のQOLでもしっくりくるけど。

加えて、私は「時間」にも感謝している。練習を重ねる時間だったり、新しい習慣が身に付く時間だったり、思考を重ねたり進めたりして今がある。行ったり来たりしながら変化してきた記憶と実感がある。

 

という久しぶりの投稿でした。(^^)

 

今日現在沖縄のダムの貯水率が低くなっています。どうぞ貯水率が回復しますように。

皆様に健康と笑い声のある生活がありますように。