続きをすぐに書けませんでした。もったいぶっていたわけではありません。大阪に数日滞在したのですが、その準備とか、ただぼーっとしていたりでPCに向かえずにいました。落ち着きましたので前回の続きを書きます。
大阪滞在について少し書くと、ホテル良し、シルクドソレイユの内容も良し、東京公演と内容が違ったのも新鮮だったし、観劇した席も正面4列目で非常に感激したのと、じゃあユニバーサルスタジオに行けるねって後から決めたのに丁度ハロウィンで日頃体験できないイベント有り、SINGを見た時に通路を歩くゴリラ君が私の伸ばした手にタッチしてくれた優しい感触も良かったし、沖縄に戻る飛行機が鬼滅の刃号なのもなかなかでしたが、帰りの機内でユニバーサルスタジオジャパンで非常に親近感がわいたマリオブラザーズの映画を見るというちょっとなんだか神がかった展開でした。
楽しかった。書ききれないです。生きていて良かった。腹が立つこともあるけど、凹むこともあるけど、ひっくるめて生きていて嬉しい。
あとですね、私は海外を含め凄い数のアタックにもびくともしなかった安心できる有料のサーバー契約を現在していますが、時々ビジー状態になるようです。容量が少ないのか? 容量の割にたまたまアクセスが集中したのか? それともそれなりに月日が経っているので容量をくっているのか不明ですが、もう少し様子を見て引き続き不具合が起きるようなら容量をアップを検討します。
私のホームページやこのブログを訪れてくださっている皆様にご迷惑をおかけしていましたら申し訳ありません。
あぶないところだった。のか?
本日はこの記事の続きです。
上手く書けるかな? 書けるといいな。
最新のマトリックスの中のセリフだった(はず)
仮想空間の解説を「全てと無の狭間」と表現されていた。私もたびたび「アッチとコッチの隙間」と書いてきましたが感覚的な表現だったので(自分がアッチとかコッチとかって感じるコレは何だろう?)と考えた時に現在のところまでは「顕在意識と無意識・潜在意識の隙間」という仮説を採用しています。
そしたらば、映画「マトリックス レザレクションズ」では「全てと無の狭間」なんて表現を見たものだから、なんか似ているな~って思いました。
いや、ひょっとしたら別の映画(「レミニセンス」)だったかな?
こんなことも、私が書きたい事の伏線というか、内容の一部のような気がします。
一旦簡単に流れを確認
自己メンテナンスで施術、治療を受けました。
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松果体がなにか反応していた。が、それをはっきりoverしていたとかそういうことは言われていません。その時松原先生がおっしゃったセリフを聞いて私が勝手にoverではないか?と推測したにすぎません。が、overにしてもunderにしてもアンバランスだったということではあると思う。
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私がこの数日前から試験的に取り入れていたセルフケアというかイメージワーク(粒々モーフィアス方式、量子論方式とも言えるのか?)に松果体のアンバランスを引き起こす要素があるのでは?と思ったので(あくまでも自分で勝手に考えたことです)その方法をやめました。これにこだわらなくても従来の健康的なセルフケア方法もイメージワーク方法もあるから。
↓
時系列的にはこの施術を受けた後に数日試験的に行っていたイメージワークをやめたのですが、並行宇宙的というか、並行時間的には結果を即座に(同時進行)で感じられるという説を基に考えると、少し先の未来にそのイメージワークをやめることが決まった時点で「天上天下唯我独尊」という感覚につながったのかもしれない。と今日現在(2023/10/中旬)推測いたしました。
SF映画好きですと、こんな文章を書くことはなんら違和感はありませんが、一般的、社会常識的には(このヒト イッチャンテンナー)的という認識はあります。今のところは。
そう、
” やめることが「天上天下唯我独尊」という感覚につながったのかもしれない。 ”
というところが今回書きたいことです。
それと冒頭にリンクをはっている前回のブログに書いた
” なんだろうか? あの人間の本能的な危機管理能力をすり抜ける独特の静かさは。 ”
との関連性。
そう、私はこういう類のことを考えるのが好きなんですね。特殊能力を得ることや、特殊能力を使えるようになることや、なにやら別世界に行くことや、教えを広めることなどではなくて。
だから、人生は好き好きで、スピリチュアル界方面的な特殊能力を得ることや、スピリチュアル界方面的な特殊能力を使えるようになることや、なにやら別世界に行くことや、教えを広めることが好きな方は誰に何を言われてもその道を進まれると思うんですよね。良いとか悪いとか、正解とか不正解とか、嘘とかホントとか、正解とか良いとかホントだと思っていたことも時間が経てばそれらの体験もまた逆になることがあるし。体験を経て、その先にまた新しい世界観が現れることがありますものね。
忍び寄ってくるのではなくて、逆にそれがデフォルトでは?
前回、
” なにかしらの「術」のようなものを使えそうな気持にさせるのがトラップなんだと感じている。いろんなエゴが人間にはあるんだけど、そこのエゴは少々厄介が深い。というエリアがあるんだと思えるパターンがある。”
” なんだろうか? あの人間の本能的な危機管理能力をすり抜ける独特の静かさは。 ”
”「エゴとの親和性」”
と感じたことを書いて、そのあと、(忍び寄ってくるのではなくて、元々人間のデフォルトな状態では?)と思うに至りました。
ですから、こういったことを回避というか、そもそもそれが(危ない匂いがするぞ)と感じる感性というか、なんと書いたらよいのか迷いますが「人間の業」のようなものに対する興味や、自分だけは大丈夫と思うこと自体も「業」「エゴ肥大」ではないか?というような視点というか、そういった思考が無いとこういったことに興味を持った時点でそもそもハマる可能性が非常に高いのかもしれないし、こういったことに興味がわく、わかないという分かれ目も深い意味での「運」みたいなことも関係するような気がします。
「運」なんて書くと、(それを言っちゃあおしまいよ)という感じがするから余り好きじゃないんですが、表現力が感性に伴わないもどかしさがあります。ちょっと悔しい。
(※ 「人間の業」というタイトルの書籍があるようですが、私は未読ですし、未読なので推薦もしていません。)
「そもそもそれが(危ない匂いがするぞ)と感じる感性」と前述しましたが、危ないとかどうとかいうことも人によっては価値観が違います。前回のブログに ” 信仰によってはこういう案件を「悪魔」とか「魔」とか「魔境」というのでしょうか。” と書いたのは、一応価値観の線引きを提示したに過ぎません。
正解でもないし、不正解でもありません。
業
「運」と同じく、「業」と書いたら、その時点で(それを言っちゃあおしまいよ)とは思うんですが、やっぱりピッタリくるんですよね。
昔は否定的で嫌っていた業のような類の事象は、もちろん今でもそれらに反応して感情は動きますし、当然のごとく自分にもある。しかし年月を経て、自分のケアをしてきて、いろいろ考えてきて、変えていきたいことや、それについてできる行動はして、変化してきて、「業」と言われるようなことを時には人間ならではだと愛おしく感じる瞬間も現れるという奇跡みたいな一瞬も増えてきた。
私の中にも「超越したい」という欲求があり、それは特殊能力を得ることを指すわけではなく、ただ「楽になりたい」「生きづらさをなんとかできるならしたい」とことに端を発していたと思う。私の中の「超越したい」は比較対象が他者とか社会ではなくて、自分の「苦しみ」「生きづらさ」を超越したいという一人称だったのも良かったような気がする。
だから、特殊能力を得るとか、抜きんでるということでは、私が求める「楽」にはならないし、返ってこじれていくということを研究していたことが良かったような気がする。
しかし、多分この「超越したい」という欲求はある程度の割合で人間にデフォルト設定されているんだろうと思うんですよね。認められたいとか、カリスマになりたいとか、尊敬されたいとか、その名を轟かせたいとかもそこに含まれていて。
そこが「エゴとの親和性」が高いという要素の1つでもあるだろうし、なにかしらの「術」のようなものを使いたくなるという欲求、エゴということになるんだろうな~って思いました。誰もがチカラがあるんですよ。と言いながら心中(自分の方が上だ)と思っていたりとかするのは競争社会が前提になっていやしませんかね? なんてことも含めて。
セルフケアでストレスを「抜く」のではなくて、イメージワーク的なやり方で「量子」「粒子」を操作したら思い通りになるんじゃね?という能動性というか。
もう少し書くなら、それはストレスケアではないし、目的のための行動でもない。
ちょこちょこっと脳内で「術」的なものを使って結果を得たいという欲求でしかない。という視点もあるな~ これがヤバイ入り口の1つかもな~ という1つの仮説に立ちました。
天上天下唯我独尊とのつながり
で、こういった「ちょこちょこっと脳内で「術」的なものを使って結果を得たいという欲求でしかない。」という自分の思い通りに周囲を動かしたいという、量子とか粒子とか電子とかなんとなく格好よさげで理論的風を装った「エゴ」みたいなものが私にも表れかけていた。
できそう。って思わせるんですね~ 怖いですね~
いや、できるかもしれませんが、健康的にこの辺りをクリアしている方を私は実際には存じ上げない。その逆に、このトラップみたいなものにハマった方は多く見ています。だから(アッチは危ないな)と思っていたのにこの体たらく。(笑)
ということは、多分クリアするハードルはなかなか高いような気がするし、私が勝手に想像したのは、ナニカを超えたというか、ちょっと超越しているように感じる方はこういった類のことをしない。していないように感じます。
理論と、それを人間が扱おうとする際のギャップみたいなものがあるのかもしれませんね。原爆を作った方もそうだったかもしれないし、最初は便利な発明だったプラスティックも今では地球を脅かさんばかりというような意味で。
ですから、理論は知っているし使おうと思えば使えるのかもしれないけれども、実際にこの辺りの領域にハマらず人生を過ごされている方は、そもそもエゴというものをよく知っているというか、人間の業をよくご存じと言うか、自分だけは大丈夫という特別扱いしないというか、そんな感じがします。
そういったものを(術? イメージワーク? 願望?)を使わなくても、もう自分には存在意義があるという自己肯定なのかもしれませんね。
またまたもう少し書くと、こういったことをしようと思う時点で無自覚な不満とか、欠乏感とか、コントロール欲、支配欲がそっと? 思いっきり? 発動しているような気もしますね。
これらが悪いってわけでもなくて、個々の人生観によっては「術的なものが使えるようになるのが人生の目的」という方もいらっしゃいそうなので、人生については各々で考えて選択して行動していかれるんだと思う。
まとめると、今回の出来事を通して、無意識にしている他者や自分にしている条件付け、評価。
そんなことに思いをはせました。
そのままの自分。裸ん坊の自分を受容しているつもりでも出来ない。していない。
他人様には言えても、自分には適用しない。
そんなことありますよね。
思い通りの環境とのギャップ、現実を理想と違うと感じた時の人間の行動や選択、思考についてまた1つ考えました。
現在のところで書きたかったことが全て書けていないような気もしますが、今日は一旦〆ます。
続きがありましたらまた書きます。
おやすみなさい。2023年10月15日 夜。