主旨を忘れちゃいけないよ

続>教えてもらいたい!安心したい!という欲求と習慣 助走

久しぶりにブログの更新頻度が上がっております。

本日は この↓ 記事の続編です。

 

教えてもらいたい!安心したい!という欲求と習慣

時間が空いた間に主旨を忘れちゃう危険性を感じそうです。ただですね、この続編を書く間の時間にしみじみと感じたのは、私自身の変化です。ふと、昔の自分にはなかった感覚が今はそれがデフォルトになっているなぁ。根底が違うなぁ と有り難くて胸がいっぱいになりました。

伝わりやすい表現を探した時に、「報われた気がする」という言葉が浮かびますが、これも100%しっくりきていません。報われたって書くと「過去との対比」とか「過去の自分の苦労」みたいなことの上に成り立っている感じがしませんか? 今の私のこの感覚には、そういう過去の自分に対する意識は関係なくて、「ただただ今が有難い」という感じなんです。

過去はどうでもいい、未来もわからない。「ただただ今が有難い」。

という本日のブログの助走でした。

正しく生きたい。とか、修行とか、尊敬されたい、好かれたい、認められたい

多くの場合の

”教えてもらいたい!安心したい!という欲求と習慣”

の根底にあるものは、正しく生きたい。とか、修行(したい、しなきゃいけない)とか、尊敬されたい、好かれたい、認められたいというような欲求や反応、反射がゆえとも言えないだろうか?

 

だから、

  • 間違いたくない。
  • 格好悪いことはイヤだ。
  • 失敗したくない。
  • 出来が良いと認めてもらいたい。

からこそ、

”教えてもらいたい!安心したい!”

 

そりゃそうですよね。私だってそうですよ。

 

でもね、”教えてもらいたい!安心したい!”ばかりですとこんなことになりかねない。

WikiImagesによるPixabayからの画像

 

これって、良さそうなものも、ヤバそうなものも、構造は一緒。

一見良さそうなら、フィーリングや無考えでついて行ってもOKってことでもないし、いかにも良さそうでも何も考えずにいてもOKってことでもないみたい(だと私が感じるだけですが)。

当たり前ですが、私達は見たいように見て、聞きたいように聞きますから、「安心したい!」と熱望すると、いろんなものを「安心させてくれるもの」として認知してそれらに「教えて教えて!」と手を伸ばすだろうし、信じたいから信じるし、酔っぱらいたければ酔っぱらう。心酔する。

 

良さそうなものも、ヤバそうなものも、構造は一緒なので、多分人間とはこのような反応や反射をして生きていく生物なのだろうと思っている。

 

「判断」という反射

なにかを見たり聞いたりしたら、瞬時に判断し始めてる。

この判断が、

  • 反射タイプの方と、
  • 反応タイプのケースと、
  • 意識してそれらを遅らせることができていると信じているタイプと、

いろいろなケースがあると思う。もっともっと他にも書けるのかもしれない。

ここに例えば先述した

  • 間違いたくない。
  • 格好悪いことはイヤだ。
  • 失敗したくない。
  • 出来が良いと認めてもらいたい。

という要素が掛け合わさると、脳内の反射も反応も無限大だ。無限大なんだけど

”正しく生きたい。とか、修行とか、尊敬されたい、好かれたい、認められたい”

みたいな欲求に グルン っと回って戻ってくる辺りは非常にシンプルなようにも感じるし、

それが

”教えて!安心したい!”

を叶えるために行っているつもりの習慣にも繋がるのですね?

 

そして、それらの行動がまた不安や依存や中毒という次なる思考、行動に繋がることも全然少なくないというまさにマッチポンプ。

 

これは困ったものだ。と思ってみたり、私達人間の基本習性だと思ってみたり、愚かさだと思ってみたり、愛おしさだと思ってみたり様々です。

わたくしもこのような中で滑ったり転んだり起き上がったり、笑ったり泣いたり喜んだりしております。(笑)

 

寄る辺なさ

基本自分を明け渡したい願望があるのか?

依存願望みたいなものがあるんでしょうね。

「寄る辺ない」という言葉があるように。

修行系って正しいナニカの教えに沿って「ナニカ」になりたいのかな?とも思うし、

メッセージ云々も、「ナニカ」に従うというか、従いたいというか、「ナニカ」に決めて欲しい、自分は楽なまま良き方向へ導いてもらいたいというか、そういう一面もありますか?どうですか? (モノや数字、カードなどからメッセージ云々を得ることはラクにできる?から欲しいもの(安心?)は手に入る。そのあとの行動となるとカロリー(熱量)が必要ですか? いや、チャネリングって体力使うのよとおっしゃる方も居そうだ。そういう意味での「ラク」や「熱量」ではないつもりなんだけど。)

 

または、そのメッセージを発していると想定している側の一員になりたいというか。(神か? 天使か? 龍か? 大いなるものか?) メッセージを発している側と繋がっているという安心感が得たいとか。(チャネリングってそういう要素ありますか?どんな感じですか?)

 

小項目のタイトルに、「基本自分を明け渡したい願望があるのか?」と書いたのはこれらを考えたからです。

 

善いとか悪いとかじゃなくて、人間の行動様式を検証してみると?というだけです。

 

セッションや体験講座(今は行っていませんが)では利用していません

こんなこともちょっと気になったりしたので、数年前から私はカード類やメッセージ云々というものを私のセッションや体験講座(今は行っていませんが)では利用していません。

ストレスケアをしよう!と言っているのに、自分を明け渡して安心を得るという要素って少なくともセッションや講座では要らないなって思った。

 

メッセージ云々を楽しいと感じるその感覚もわかるので、その辺りは個人で楽しまれるだろうから、あえて私が後押しする必要もないかなって考えました。

 

どこを「結果」とするのか?

終末時計という考え方があります。

最初にこの言葉を知ったのはいつだっただろう? 思い出せません。

終末時計の考え方や計算式が正確じゃないことを願いますけれど、未来のことは私にはわかりません。

 

ただ、私達人間の思考、行動様式の結果の1つの現れが「終末時計」でもある?

太古よりメッセージ云々を得てきた事と、その結果が「終末時計」で表現されている事柄ように書くのも先導、扇動、洗脳にもなりますから、私のブログも内容がどうであれ、このような意味を含んでいる。

WikiImagesによるPixabayからの画像

 

ということをちゃんと書いておきたいのですが、

「良くなるように」とメッセージ云々を得てきた結果というか、それらはナニを良くしているのか? 悪くしているのか? 「終末時計」的なことも「あるがまま」ではあるんだろうけれども。

 

こんな難しいことを書き始めたところで、結論を出せないので申し訳ないし、「モノは使いよう」と書くと差し障りがなさそうですが、我ながら全然しっくりこないです。

 

というこの辺りまでが、「今のところの結論?」と眠りながら考えていたことに文章で肉付けした内容です。

 

人生を満喫

いろんなことがありますよ。

ツラいこともある。

心が温まる瞬間もある。

 

人生を楽しもう!と聞くと、(こんなにシンドイのに楽しめないし、楽しくない)とイラッとするような時期があったりする。

酸いも甘いも体験するしかない。と思えればどんなにラクだろうか? そこまで開き直れたらラクだよね。こういうことを「胆力」と言いますか?

胆経をバランス調整したら胆力がつきますか? 鍛えられますか?

 

人生を満喫した結果が「胆力」になるんでしょうか?

 

「胆力」はメッセージ云々で鍛えられますか?

 

答えはないですが、わたし個人は、酸いも甘いも体験して(するしかなくて)、自分なりに一生懸命考えたつもりになって、それが栄養になって胆力になるような気がしています。

わかんないです。正解は知らないです。自分なりに答えを出していくというような感じかも知れない。

昔は、答えや正解を知りたい!ということが先だった。今は正解はともかく、自分なりに答えや傾向を考えていくというように変わった(ような気がする)。

 

それが、今を生きている。ということなのかな???? という感じです。(答えは知らない)