まえがき。ことわりがき。
この記事は、心理カウセリングとは別に考えて欲しいです。
心理カウセリングに「教え」的なものを混入するとかえって混乱することが多いので私はシンプルにストレスケアを行う事が心体カウンセリングだと思っています。
心体カウンセリングの際に、いろいろな事を感じて、「教え」的なものに興味を持つのは個々の自由ですが、私はそれを推奨しているわけではありません。(同じことが書いている書籍などがあればご紹介しますが)
いろいろな事を感じて、「教え」的なものに興味を持つのは、個人の趣味嗜好、研究心だと思っているので、それは心体カウンセリングの次の段階か、派生した視点だと捉えています。
自分などいない。全ては幻だという考え方の1つの理解方法
前回の記事を書いて、
時間が経過していったときに
ふと
仏教的な「自分など居ない」という事を別の側面から見たような気持がした。
自分だと思っているものは、循環の中の一瞬と考えると
「私など居ない」って考えにもなるかもね~。と。
あぁ、なるほど。
こう考えると
比べたり、争ったり、否定したりということは煩悩という説明の背景が理解しやすいような気がする。
だって他人も自分もないじゃん。
構成されているものは一緒で、何度も循環しているその過程の一瞬でしかないのだから。
というような事だと仮定したら理解しやすくなりますね。
上にリンクを貼った前回の記事では、科学的な意見。として小説に登場する言葉を引用しています。
体の原子のほとんどは長くて数年で入れ替わる。死んだら土や空気に還っていく。
今、私の中にある水素は、昔他の誰かが使っていた水素かもしれない。私が使っていた水素は、きっといつか他の生き物が使う。わたしが死んだあとも、繰り返し繰り返し、ずっと。」-小説「月まで三キロ」P207より
私であるという根拠はなんだ?
もう少し視覚的なこういったものをご紹介したい。
ここでキチンと私の考え方を書いておくと、
DNA検査をとりたてて推奨していないし、私は未体験です。
「DNAの旅」 日本語字幕版
自分の無意識部分もよくわからない、
DNAも自分だと思ってる状態と違うし、わからないのなら
そんなに「私が、私が」と我をはる必要もないじゃん。という気持ちも分かるような気がする。
『あなたが「自分」といっているものは何ですか?』というような問いも生まれるのもちょっとわかる。
「私が、私が」と思うこれらの中には様々な心理的な抵抗も含まれているんだろうな。
このDNA検査の会社のキャッチコピーを引用するなら
「ひらかれた世界はひらかれた心からはじまる」
下も上もないものに、下も上もつくるのが観念。
とじられた心で創られる観念と、ひらかれた心で創られる観念の違いはあると思う。
空虚感や虚無感というものを感じ、
繋がり感がないのだったら
その一つが「自分が特別だ」という煩悩(エゴ)によるものだったら
ひょっとしたら心が閉じているのかもしれない。
心をひらいてみても良いかな?と思った時に感じる「抵抗」「恐怖」を感情を一度バランス調整をしてみてはどうだろう?
心をひらくということが怖いのは、
心を開くことと、全てを捧げてしまう事がイコールになっているということも考えられる。
心を開くと、自分以外の不純物が混入するような気がして、排除や浄化に執着するケースもあるようだ。
心を開いてしまう=全てを捧げてしまう。明け渡してしまう。ということは、
それこそ自分が「無い」ことになっているんだろう。
しかし、比較はしている。
仏教的な「自分など居ない」という事と、
この場合の「自分が無い」ということは私には別の次元のことだと思えるけれど、あなたはどう思いますか?
興味のある方は考えてみてください。
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