七夕

短冊

自分が日本人だなぁと思うのは、七夕とか、短冊という言葉にロマンを感じるこの反応です。

星空とか、織姫と彦星とか、笹の葉さらさらという歌がありましたよね。

こういった季節事ってやっぱり好きです。たとえ自分は何もしなくても、参加しなくても。

そして本日は丁度ラジオの放送日に当たりましたので、そんなことも少しお話しました。

 

旅行で来沖中のご夫妻(12泊13日で来沖とのことでした)が放送中にお顔を見せてくださったので、良ければご出演ください!と放送でお話頂きました。まだ那覇も楽しんで、そして離島の阿嘉島でもスノーケルの予定とのことで羨ましい!

海で泳ぐのが好き、でもダイビングはなぁ・・・と思う方はぜひ離島でスノーケルしてみてください。素晴らしい世界が待っています。ただ、水中に潜るダイビングよりも、水面にいるスノーケルの方が事故が多いのでくれぐれも安全にお願いしますね。(元ダイビングインストラクターとしては海は必ず安全最優先でお願いしたいです。)

冒険、enjoy、チャレンジ安全ですからね。旅行なんで。安全に家に帰って旅行終了ですからね。

Jan VašekによるPixabayからの画像

 

難しい話

季節のお話などではなくて、私が過去に書いてきた「統計」「My統計」「自社調べ」ということについて、非常に賢い方が私の代わりに私が言葉にできなかったことを既に解説してくださっていました。

私が、なにかを見たり、感じたりしても、必ずそれが実現化するとか、未来が正しくみえるとか、思い込めない、言い切れないことについてです。メタ推理的といっても、これも統計ですよね。その統計の母数や、どういった事象を見て、どういったことをデータとして脳内に蓄積していくのかもあくまでも個人的なことですし。

ただ、結構な割合で当たるというか、当たるというよりも確率が高い結果を推測できるときがある場合も多いのかもしれないと感じたりしますが、でもやっぱり「そうならない」というケースもあるので変に予見力とか透視?とか予知のようなものができると思い込まずに済んでます。結果も確率的なものとして、(今回は違う。)と淡々とデータ集積している感じ。

rubyliaによるPixabayからの画像

 

すると、私個人のメタ推理の当たる確率のようなものも把握できるような気がしますでしょ?

あくまでも、個人的に世の中にある相似形の図形やパターンが浮き上がってきたものを「ただ見る」という物言わぬ静かな世界の話ではあるんですが。フラクタル。物凄い数の入れ子の箱、マトリョーシカ人形が、エッシャーの隠し絵のようになって無限に繰り広げられて世の中は構成されているような気持になっております。

socialtrendspr0によるPixabayからの画像

 

予言

有名どころではノストラダムス、その前もその後も、スピ界も陰謀論界も予言がいつの時代も盛り上がっておりますね。で、こういった将来予知とか、特殊能力についてスティーブンキング先生の書籍があるんですわ。

私はスティーブンキングの小説に出てくる人物の背負っている悲しみとか、我慢、喜びや愛が好きでして、SFを書いているんですがとっても等身大、日常なんですよね。

そして、古い作品には私の心に刻まれたセリフが多く登場してきましたし、今回は私が感じる「実現しない、しなかった確率」について大きな回答を得ることができました。

Egonetix_xyzによるPixabayからの画像

ベルヌーイ分布

それは「ベルヌーイ分布」です。

小説「異能機関」下巻 P342(ハードカバー)

 

エビデンスを例にあげますと、何かと言うとエビデンスの有無だけを論理の根拠にするケースもあるんですが、多くのエビデンスとは統計であって、確率論ということになります。(1つの事例をエビデンスと表現する場合も「あった」という確率になるのかな?)

よく医療などで使われる際のエビデンスは優位性を示した多くの値を切り取るわけですが、エビデンスとして用いたい値から外れる確率というものがあるんですよね。(どうやら私のこの記述の仕方は、ベルヌーイ分布と二項分布がこちゃまぜになっているみたいなので正しい概念は各自お調べ下さい。)

 

ですから、私は自分のメタ推理や予見が外れる確率も念頭に置いているというこの癖は確率論的には良い線いってるというか、(こんなん社会に出たら必要ないし!)と思っていた数学が案外脳内の思考癖には根を張っているようで驚いた次第です。

 

そう、そしてこの確率の変動(当たるか?外れるか?)に関わり合っているのが「時間」だということでした。

 

そうですよね。

 

原因と結果とか簡単に言うけど、いつのどこを結果として切り取るかで解釈が変わってきますしね。

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変数

これについてはますます数学的視点からはズレているのかもしれませんが、

先述した

”ただ、結構な割合で当たるというか、当たるというよりも確率が高い結果を推測できるときがある場合も多いのかもしれないと感じたりしますが、でもやっぱり「そうならない」というケースもあるので変に予見力とか透視?とか予知のようなものができると思い込まずに済んでます。結果も確率的なものとして、(今回は違う。)と淡々とデータ集積している感じ。”

という時にも、経過や結果という段階には「時間」が関係しています。

淡々とデータ集積している。ということにも「時間」が関係しています。

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今日の結論

小説の中に、「変数を無視したり、考慮していないのは科学じゃない、ただの迷信だ」というようなセリフがあったはずですが、これらも含めて、ヒトは見たいように見て、聞きたいように聞くということだなぁと思いました。

 

というか、ヒトは見たいように見て、聞きたいように聞くという確率はかなり高いということになりそうですが、〆方としては大丈夫でしょうか?

 

皆様の生活と、私の生活がHAPPYでありますように(^^)

 

というか、そもそも私は書きたいことを読んでくださった方に伝わるように書けているんだろうか?心配です。心配ですが今日現在のベストは尽くしました。