計画を進行中
車を買い替えました
これを書いている今日はまだ納車されておりませんが、かねてより予定していた計画が無事進行しまして車を買い替えました。
今の車も、今までの車と同様非常によく働いてくれまして、お別れが間もなくですが変わらず安全に動いてくれています。
今年の6月までに買い替え計画は終了させると決めていたので、予定通りです。
ベンツを買ったわけではありませんw
次は引っ越しだ
車の買い替えと引っ越しがダブルで計画進行中でしたが、車の件は完了したので次は引っ越しです。
そうですね~ 2024年内に新居が決まるといいな~って思っています。内覧とか何軒かしたんですが、今日現在決定に至っておりません。
引っ越しもここ数年ずっと頭にありましたが、いよいよ(もう先延ばしにするのはこの位にしておこう)という時期がきました。
ですので、家の中もじわじわと片付け進め始めました。日頃も断捨離というか、片付けはしていますが、もう少し本格的な整理を始めました。引っ越しの時にもっていかないものはどれ?という視点でものをみるとかなりスッパリと線引きできます。
ラジオ放送について
既に書いていますが、「沖縄カウンセリングラジオ」も以前はユーチューブで配信したり、アーカイブを残していましたが、ここしばらくは画像系は一切残さず、ラジオ放送のみにしています。
現在のところ私は特に後世に名前や存在を残したいというような願望が無くて、生きている間にやれることをやる、生きている間にやりたいことにトライするという感じなので、格好よく書けば過去にも未来にも執着していません。執着が薄いという感じでしょうか?自分の人生に満足しているというようなことなのでしょうか?
例えば、伝説になりたい!と私が思うような場合は、生きている間に(あぁ 貢献できたのかな?)と自覚できれば嬉しいです。有名になりたいという他者の価値観に影響を受けるものよりも、自分自身の満足感が優先されています。ありがたいことですよね。私自身は今日現在そう思えています。
どんな弔辞をいただきたいか?
昔、自分のお葬式になんと言われたいか? 何名の方が参列するか? というようなコーチング的質問があり、
彼女は〇〇だった。 とか
彼女との出会いによって〇〇だった。とか言われたら嬉しいな~とお題に沿って考えたこともありましたが、
今日現在は弔辞が無くてもOKだし、参列者が居なくてもOKだし、そもそも私が他界したことを誰も知らなくてもOKくらいの感じです。
もう私自身は意識がないんで後のことは知りようがない。
今日現在はこんな感じですが、私が家庭をもって家族と暮らしたらまた話は変わってくるでしょうね。しかし2024年5月1日は一人住まいなんで。
日々が楽しい
実はここ数年、赤の他人の多くの皆様と出会いがありまして、会話はほぼしませんが親しみを感じています。彼や彼女の幸せ願っています。理由はわかりませんが勝手に愛情をたっぷりと感じています。こんな感じがするのは何かしらの相性が良いのかな?と思います。ちびっこもいれば、ファミリーもいれば、前途ある若者たちも居ます。人生の先輩もいます。
今を生きる方式ですとこういった生活でも十分幸せで、自分でもこんな幸福感が存在するのだと不思議ですしありがたい。
強いて言うのなら
どこで耳にしたのか忘れましたが、私のように多業種多職種道をあえて選んでいるような場合、「人生で、自分の能力を多面的に発揮したい」というような意味を持っていることもあるそうです。
私個人的には世の中、社会をいろいろ体験してみたいというような「興味」は自覚している気がする。まっさらな場に行くと、「過去はあーだった、こうだった」なんて通じないことが多いし、常識も変わることが多いし、プライドがこりこりに固まってる場合じゃないし、自分のやり方とか知識とか役立つとも限らないし、周りや相手が自分の思い通りにならないのが当たり前、なんなら経験や能力が目立って劣っている、なんてことがあると柔軟性みたいなものや視点に幅が持てるような気がする時がある。気のせいかもしれないし、同じことをしても人によって結果は違ってくるけれど。
しかし、柔軟性などかけらもなくてもご本人が幸せならそれが幸せ。良し悪しも価値観も様々だとますます思うようになったし、不平不満、後悔、恨みつらみを言っている方が幸せなら言えばいい。
私はそういった日々を送りたくないという価値観があるがゆえに機嫌よく過ごしていたい。
でもまぁ、私の「興味のあることをやってみたい」というようなことは小さなことや極小のことから、ちょっと大きめに感じる案件までそれなりにやったり、やれたりして満足してる部分が多い。
言葉を変えたら、後悔が少ないというような感じか? それが「執着が少なめ」という表現になったようなんだけども、他人のせいにしても、理不尽の被害者に浸っても、他者が人生の最初から最後まで責任をとってくれることはほぼ無いんで、自分でやれることをやるしかないんかな?と思えることもお陰様で幸せを感じられる理由なのかもしれない。
他人のせいにしても、理不尽の被害者に浸っても、他者が人生の最初から最後まで責任をとってくれることはほぼ無いんじゃないかな?と私は思うものの、他人のせいにして、理不尽の被害者に浸り続けたい方もいらっしゃると思う。自分の人生の責任を負いたくないんだろうかと思うこともあるんだけどそれもそれ。生き方はそれぞれ。
生命活動をしていて、意識がある時間は限られているから。
こんな風にいろんなことを「あるもの」と受容できるようになったことも、人生の中の変化になります。
その時、その時、良かれと思ってきたことが、2024年5月1日の今日は選択しない、良かれと思わないことだってあるけれどもそれだって成長に伴う変化だったりします。
幸せの感覚の変化
やたら「今を生きる」みたいなことを見聞きした時期や、自分も感じたこともあったんですが、もう「今を生きる」という金言を忘れるほど今を生きてる。
なんも考えてない。www
こんな幸せがあったんですね。
ありがたいことです。