私の人生に「皿うどん」という言葉はある。自分で作る気などさらさら無いので、皿うどんは外で食べるものであり、数年に1度食べられる条件がそろうと食べている。コロナの前、長崎に旅行に行ったときは中華料理屋さんで皿うどんを食べた。美味しかった記憶がうっすらある(ホント?)。いい記念だった。
なぜこんな私の皿うどん事情など知りたくも無いあなたに教えるのか?
それは数年ぶりに皿うどんを食べて美味しかったから。全国チェーン店の「長崎ちゃんぽんリンガーハット」の皿うどんを食べた。ちなみに長崎ちゃんぽんは食べない。好きじゃない。皿うどん一択。私は細麺好きなので。(ふと気が付いた。そうめんみたいな細麺なのに「うどん」なんですね)
というマクラはさておき、今日も本題をスタートします。
今は採用していないけれども
私も一緒だった
本日はこちらの続きです。
アレヤコレヤ書いている私を「あなたはそうでしょうけど、私は違いますから風味を漂わせている嫌なヤツ」だと感じている方がいらっしゃっても全く不思議じゃない。書き方が嫌味なんだよね~と思う方も居るでしょう。こんな私も大抵の駅には下車しています。
駅???
熊本のえいこちゃんと東京の新大久保の韓国居酒屋さんで夕食を食べた時に話したことを整理して書いていきます。
占い駅
過去にあちこちで書いていますが、随分昔、私は占いの本を数冊丸暗記しました。母親の本棚にあった本を読んだのがきっかけで、(へぇ~)と思って読んだ。新しい本が本棚に入ってこないので、同じ本を何度も何度も読んだら覚えた。活字中毒だからなんでも読んだうちの1ジャンルだった。そのとき読んだ占いの本の1冊に(それは手相の本だった)「自分の可能性を信じたり、自分の可能性を願って手をじっと見始めた時からあなたの運命(手相)は変わる」と書いてあった。その著者は人間の機微というか、人間の悲しみも喜びも清濁併せもった視点や、著者が運命と書いた不思議や不条理も言外に伝えるような書き方をしていた。スピ系というよりも、小説風味に。
こんな風に、占い駅には私も下車したことがある。
私はその駅からまた列車に乗って次へ移動したけれど、その占い駅に生涯、ずっといる方も居る。
人生の選択として、私は占い駅から移動した。
そして、最初に母親の本棚で手相の本を見て、自分の手相を見たあの時と今の手相は違う。
(こんな線があると良いんだ。そうなったら苦しみが去って幸せになれるのかな?)と確かに私も自分の可能性を願って手をじっと見たわけです。あの時本で見た「良い線」があの後自分の手のシワとなって現れた。
だから、誰でもハマる時期があることも知っているし、一生それに左右される方がいることも知っているつもりです。
左右されるというか、信念になるというか。
かつて美輪明宏さんが、「占い? そんなもの!」と軽んじていたけれど、何かしら心当たりがそのあとできて、「満更馬鹿にしたものじゃないと思ったわ」と話していた。私も完全否定などはしていないのですが、
ではなぜ?私は占い駅を後にしたのか?
それは、多くのケースで(健康的な思考とはなんだか違うな~)って感じることがあったから。骨の髄までは影響されなかったから。
当たっていることよりも、自分で考えたり決める方を私は選びたかったし、こちらの方が単純に私に向いていた。なんというか、依存心というか、体質というか、自立できない感じがしたんです。あくまでは私個人の感覚と好みの話ですが。
占いがどう出ようと、自分の人生の責任は自分にかかってくるというか、占いは責任を取ってくれないとか。(笑)
占い駅を後にした後でも、なんとなく年に一度くらいは「どんな感じかな?」って占いを利用していましたが、何年も前からそれも辞めた。おみくじも引かない。
私が過去「楽になりたい」って思った、ただぼんやりした具体的な案のない「楽になる」というイメージでしかありませんでしたが、今のこの状態はその状態になったんですかね? もしそうだとしたら、ただただひたすらにありがたい話です。
しかし、2023年9月の今日に至るまで、底なしに厳しい環境になっていくような、(楽にならない。自分が強くなる分、どんどん逆風も強くなる。これいつまで続くの?)と遠い目になりましたが、振り返れば、ストレスケアを覚えてからは最強のパートナーを得たように回復曲線が右肩上がりでした。
ですから、ストレスケアを知っていて、何年も変わらないとか、ゆっくりと言うよりもはや進んでいないのならば、
そのストレスケアはストレスケアになっていない
か、
ストレスケアというナニカに対して新たな依存みたくなっている
とか、
変わりたくないことを認めたくない
というような可能性も考えられる。
ストレスケアという言葉を「占い」に変えても似たようなことが言えそうだ。
ストレスケアをやっている、占いでいい結果などがでたらOK。というところで完結しているのかもしれない。
ストレスケアをやっている。という行動はしていても、焦点が外れている。すると行動の結果と言われるような現実のあなたに変化は起きていない。
優しくない表現になるかもしれないけれど、多分、「ストレスケアをやっている自分」が好きなのであって、特に変化は求めていないという本来の目的は果たしているのかもしれないから、選択したものは得ている。成功している。達成している。
私はやめることを選んだけど、「占っている自分が好き」という結果を得ている方もいらっしゃる。
だから、他人様の本当の願望を、私がどうこう言うことじゃないなって思うようになったんです。
ヒトの価値観は様々。本当にそう思う。
本当の願望、Top of 無意識
変わることを結果(願望)とするとは限らない。「ストレスケアをする」という状態を結果とする価値観・選択だってあるんだな~って思えるようになった。
「ストレスケアをやっている自分が好き」(他人に行うことも、自分に行うことも)だから、特に自分が変わることには興味がない。そして、(現在のところは)満足している。
そんな価値観を「それってどうなの?」一本やりじゃなくて、その方のその願いを受容しようと思うようになった。
悩んでいるとストレスケアができる。悩みがなくなったり、楽になったら楽しみがなくなっちゃう。目的と結果を両方失ってしまうという方がいるかもしれない。
以前、”悩みや苦しみを手放したら「生きている感覚」を得られない”。逆を言うなら、”悩んだり苦しんだりするから「生きている感じがする」”という無意識of無意識
Top of 無意識
みたいなことに気が付いたような気がした時があった。
過去ホームページのコラムに書きました。
悩んだり苦しんだりして「生きている感じを味わいたい」「生きている実感として体感したい」という心底の願望。Top of 無意識。幸せを感じなければいけないという強迫観念もあるかもしれない。ステレオタイプの幸せを感じないと不完全であり、失敗であるといつかどこかで(子供の頃に読んだ絵本が繰り返しあなたに言い聞かせたかもしれない)思い込んでしまう環境もあったかもしれない。ステレオタイプの幸せとは、他者の価値観に阿たり、他者からそのように判断されることを良しとするというようなイメージだろうか。
成人以上の皆様にこういった「本能」のようなものがあると仮定してみたら、もうね、認知と受容だけが残るような気がしてる。受容。私が壊れたレコードみたいにシンプル、シンプルとばかり書くそのシンプルって何を指しているんだろう?と思った時に「在るがまま」というか「在る様を受容」ということなのかもしれない。
だから、理由とか解説(法則や教えなどなど)を用いた瞬間に「一枚かませた」「1枚挟んだ」と感じるのかもしれないですね。
そうか、それは「なんにもない」と感じる感覚を一度でも感じるとあれ以上のシンプルってないのかも知れず(少なくとも私に人生の最高のシンプル感覚だった。なんせなんにもないんだから)、それが価値観として脳内の底辺に上書きされた(または生まれ直して新たに構成された)のかもしれません。すべては推測でしかありませんが。
そうなって楽になっていくこと
自分と他人は違う。
そういうことを忘れない方が私自身が楽だということも知ったような気がする。何度も何度も知ったような気がするし、この先も相も変わらず知っていくんだろう。
リンクを貼った過去のコラムに「生まれ直し感か?」と書きましたが、何度も生まれ直さないとなかなか自分以外の価値観を受容する(受容しているつもりとは違います)ことによって自分が楽にはなりにくいのかな? いやいやそもそも私が非常に脳の変化、シナプス結合が遅いんだろうと思うんですが。(笑)
他の駅たち
- 教えの駅
- 悟りの駅
- 解脱の駅
- 金言の駅
- ヨガの駅
- 高次崇拝の駅
- エネルギーの駅
- 波動の駅
- 成功哲学の駅
- 潜在意識を使おうの駅
- おろすとか、伝授するとか、繋がるとかの駅
- 龍関連の駅
- 神社仏閣の駅
- 先祖関連の駅
- 過去世とかカルマの駅
- ハイヤーセルフの駅
- メッセージの駅
- 信仰とは異なる天使云々の駅
- 霊云々の駅
- 魔女・魔法使いの駅
- 引き寄せの駅
- 因果応報の駅
- 運命、宿命の駅
- 天職、適職の駅
- ソウルメイト、ツイン何とか、何とか星人の駅
- 信仰の駅
- 目標、願望類が大事駅
- 使命の駅
- キネシオロジーなど、セラピーの駅とかも
- パワー〇〇の駅(石とか、場所とか)
- 新月、満月の儀式系
- 浄化とか祓うとかの駅
- アセンション、次元上昇の駅
- ホロスコープ、星読みの駅
- チャクラの駅
- サイキック云々の駅
- 量子学の駅
- 物理学の駅
- エビデンスの駅
- 風水の駅
- 陰陽師関連とか
- 意味のある記号とか数字とか
- 覚醒の駅
- 陰謀論、結社の駅
- 真理の駅
- 霊能力の駅
- アカシックレコードの駅、アガスティアの葉なども
もっとあるんだろうけど、すぐに思い出せないから思い出したら追記します。(コツコツ追記しています)
私もそれぞれの駅に停車して、下車して街に滞在したこともあれば、ホームには降り立ったものの周りをざっと見渡してすぐさま電車に戻って次の駅へ進んだこともあるし、ボタンを押さないと開かないならボタンを押すほどの興味もわかずスルーしたこともある。
へぇ~こんな駅があるんだ。誰が創ったの?と駅名だけを車窓から眺めたこともある気がする。
駅の掛け持ちとか、行ったり来たりしたり。
この電車の駅は、人生ゲームのマスにも言い換えできるし、並行してダブルゲーム、トリプルゲームを行っている時もありそうだ。
正解でも不正解でもないのかあるのか、アレヤコレヤが各自のルールにのっとって脳内リミックスされています。私は全否定もしていないし、見えないものも(あるだろうな)と信じていることがある。目には見えないけど、脳内映像で見えたりすると(ほほぅ)と思うこともあるし、ひょとして、他人様よりいろいろ信じていることが多いかもしれない。
自己理解
私がこれらの駅をあとにした際にあったものが「自己理解」でした。
- なぜ私はこの駅で降りたのか?
- 私がこの駅を去りがたいのは何故か?
- ここでなにを得たいと思っているのか?
などなど、コーチングという言葉を知る前から自問自答していた。
Top of 無意識。みたいなところに、キネシオロジーテストという類のものを知る前から思考+感性でアプローチを試みていたのかもしれません。
ですから、キネシオロジーテストの際に利用される「無意識」という概念にも深浅や幅があるようだということを自分なりの統計(自社データ。当社調べみたいな感じ)から1つ頭に置いていたり、「本当」「正確さ」みたいなところを追及するセッションよりもストレスケアを大切にしたいという方針を選ぶようになった。
顕在意識と潜在意識は両輪の輪。
この考え方も大切にしている。
占いなど上に書いたようないろんなものを経て、自分の輪郭の手探りをちょっとずつ進めて、考えて、ストレスケアをして、と少しずつ自己理解を深めている。
自己理解と、なにかの教えに忠実に生きることは私の場合はイコールじゃない。
それらが別々だと認識することが私の場合は自己理解に近い。
そのあとに、自分で選んでなにかの教えに忠実に生きたければそうする。
ながながと書いてしまいましたが、果たして読んでいる方に内容が伝わるのだろうか?
余談
勝手に占われて聞かされた結果や、自分が調べたこともあるが、
- 文才がある
- お金に困らない
と言われたことがある。
文才はどうですか? それは私の書いたものを読んでくださってる方が決めることですよね。
お金に困らないというのは、私はこれまで質素な生活をしておりまして、今日食べ物を買うお金がないということは無かった。そうならないように収入を得る仕事をしてきたし、やりくりしておりますので、計画がその通り実を結んでありがたいです。
が、私が若かりし頃から贅沢三昧をしていたらどうだったのか?というのはやっていないからわからない。今日食べ物を買うお金がないということが無い皆様も占いで同じように「お金に困らない」と言われるのではないでしょうか?
大器晩成と書いてあるのを読んだことは前のブログにも書きましたが、
(頼むよ)
と心底願いましたよ。
ここから救って!とすがる思いのような。
別に大物にはなっておりませんが、あのすがるような思いは今はない。
だって、ラクだから。
占いは当たったかもね。マジで感謝。
というところで今回は終わります。
長文におつきあいいただいてありがとうございました。(^^)
See you!
(2023/09/17以降も文章を手直ししたり、コツコツ加筆しています)