他者を観察ではなくて

心理の研究はまずは自分から

ここにもフラクタル形があるねぇ と思った話

「自分と世界は相似形。自分と宇宙は相似形。」と書いてみた。

 

いやいや、ナニソレ!? スピ? コワインダケド。

 

そう思われました?ですよね? (笑)

 

ははは、書いた私が笑えてきました。

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今回私が注目したのは「無関心」という現象

そのためにも自分を冷静に観察してみる

私は発達障害系のいろんな要素が少しずつ?沢山?持ち合わせておりますので、「興味が無いモノを勉強する」ということが苦手です。ですから、勉強自体が好きとか、良い成績を取ることに興味があるのなら優秀でしょうが、これらは私にはモチベーションにならない。ですから、興味がない教科がありますと大変でした。興味のない商品の営業をするのも非常にキツイ。しばらくはできるけど、長くは続かない。

(自分はバカなのか?)

とも当然思ったんだけど、しかし、ヒト様が気が付いていない「心理」とか「精神」「感情」「その行動をとった思考展開」とかは誰に教えてもらわなくても子供のころから割と理解していたから

(100%バカじゃないかもしれないけど、さりとて自分を活かすこともできない)

という感じでした。

 

なんなら人間の闇のように感じる側面や、負・ネガティブと感じるものをじゃんじゃん知覚するわけですからね。子供の頃は自分にもそういった要素があると理解するに至らず(あぁ 嫌だなぁ)(この世は理想と現実が乖離しすぎているなぁ)(言いくるめたいんだろうな)と思うわけですよ。子供ってこういう思考をするんでしょうね。

 

しかし、いくら私が(嫌だなぁ)と感じようが、「心理」とか「精神」「感情」「その行動をとった思考展開」ということに興味・関心があったということにほかなりません。

 

そして、この後

(あぁ 嫌だなぁ)と思うソレは自分にもあり、

(この世は理想と現実が乖離しすぎているなぁ)と思うソレも自分もあり

(言いくるめたいんだろうな)と思うソレは、自分の本心を誤魔化す自分にもあるという

悲しい現象にも気が付くんですよね。

 

他人のこと、社会のこと、環境のことが不満に感じたその時に、同じようなものが自分にあるか、そうさせる要素が自分にあることが実に多い。

嫌なら嫌だと意思表示したらいいのに、それをするのは疲れるし面倒だし嫌われそうだから、自分では何もしない。それどころか、他者を操作して自分の欲求を満たそうとしたり。自分の手を汚したくないみたいなイメージかなぁ。

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今回私が注目したのは「無関心」という現象

ここしばらく、「無関心」という現象について考えていた。

 

前回のブログを書く前から推敲しているんだけどこちらの続きにもなるかな。

→  全てをあきらめると幸せになる?! – 武田美紀のブログ

 

ナニカについて発言があるとかないとか、行動したとかしないとか、そういったことは2次的要素と分類して、そもそもの「無関心」。

これは私が自分について注目したら1つの答えがわかる。そこで自分を観察した。自己観察というか、自己分析。

https://takedamiki.wpxblog.jp/20240129/

例えば

「A」に無関心だとする。「A」はヒトでも事象でも物でもいい。

Aに興味が無いということは、Aに対する愛が無いとも言い換えられる。関心が数ミリだとしたら、数ミリの愛しかもっていない。数ミリの愛を持っている。

子供に興味が無い親もいるが、子供に愛が無い。日本に興味が無いのなら、日本に対する愛がその程度。

 

がしかし、人間はそれまで興味がなかったけれども、失う、無くなるとなると「惜しくなる」こともある。初めてそこで自分に「惜しくなった」分量の愛があったんだと気づくこともあるだろう。無くなるのは惜しいけれど、それに至るまでにいつも意識するほどの量の愛はなかったとか。

 

さんざん家族を顧みなかったけれども、家族が去ったり、身近から失ったときに「愛していたんだ」と気が付くことがあると聞きますでしょ?

無理に無理を重ねて体調を崩して、健康の大切さを思い知ったとか。

 

あって当たり前、居て当たり前と思ってることって、それに対して愛を自覚しているとは限らない。

 

愛って不思議ですね。

 

与えられるものじゃなくて、気づくものだという一文を目にするような気がしますが、「なるほど」と思ったりします。

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自分に興味がない、自分を愛してない

自分のことがわからない。私は私を知らない!と感じる瞬間があったりするけれど、じゃあアレはどういうこと?

 

自分よりもほかのナニカを優先していて、それまで自分を愛していなかった可能性もある。自分に興味が持てなかった可能性がある。自分の愛し方を知らなかったかもしれない。

 

「他のナニカ」の例として、

  • 世間体とか
  • 他者の価値観(親とか)
  • 夫、妻、家族
  • 地位、名誉
  • お金
  • プライド
  • 自分の思い込み、価値観

これらは「他のナニカ」に該当するだろうか?

 

自分には興味や愛があまりなくて、他力本願意識はあったり。

人間って複雑なんです。シンプルだけど複雑。こんな表現をしたくなる時があります。それは、意識や意図以外にも偶発性や奇跡性が大きく影響しているからだろうか。

 

ElisaによるPixabayからの画像

 

これらの相似形、フラクタル性を感じた

政治的なことを勉強しています。とすでに書いていますが、私が日本に大した愛が無ければ、日本の政治家の多くや、多くの国民も同じだろう。

こんな日本に誰がした!と怒ったとしよう。

それは自分もそこに含まれているという相似形をしみじみと感じた。

 

私は「どうせ」と諦めていたので、こんな日本に誰がした!と怒ることすらないわけだから、その程度の愛の量だった。

しかし、「これはまずい。国を失うかも。」と思えば勉強もするわけだ。「嘘ばっかりだし、すでに失っているかもしれない(そもそもそう思っていたんだけど)。しかし諦めたら最後だ。」とこれぞ悪あがきかもしれないが勉強を始めた。

あがけるうちはあがいてみよう。

 

日本人が目覚めるとか、覚醒するとかスピ界で好んで発信されているが、急に悪あがきして勉強を始めることがコレにあたるのならそうだろう。

目が覚めたから、覚醒したからと言って何の保証もない。そう今書いていて気が付いたのは、スピ界の方は、目が覚めたら、覚醒したら「幸せが保証される」「勝利が保証される」みたいな理解してませんかね?

それはやっぱりスピ界の思想遊びだと思う。現実はまたそこに「行動」というような具体的な何かが加わらないとバタフライエフェクトは起こらないんじゃないかな? 少なくとも「現実の保証」「結果の保証」はされてないと思う。

 

思念だけでなんとかなれば楽だというのはわかる。

ネットの中のどこかで、祈れば神風が吹く。という言葉を見た。私は不勉強でしたので歴史に明るい方に質問した。

「祈れば神風は吹いて平和になるんですか? 過去もそうだったんですか?」と。

答えは「神風が吹かないことも何度もあった」ということでした。

 

政治と、国と国の権力闘争、メガ企業の戦略に祈りがどこまで届くのか? スピ界の公式・法則保証があるならば、すでに、いや、とっくに届いていて世界平和が実現していてもおかしくないと思うけど。

 

世の中の事象すべてに、スピの公式で一点突破するのは難しいのではないかと今日現在は考えています。世の中に相似形、フラクタル性が存在するとするならば、陰陽両方あるわけだから。

陰の属性の祈りも陽の属性の祈りもあることになるし。

 

現実を認知することも大切だと思っています。

スピ界の思想は、ある意味、現実認知に対しては無関心、興味が無い、愛が持てないということかもしれない。と書いたらひど過ぎるだろうか? ひど過ぎたらゴメンナサイ。

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祈り

私も祈りますが、「(私が)祈ればすべて解決!」とは思っていない。解決する分には大感謝ですが、他者を変えることはできないという意味的に、私が祈りによって他者を変えたい意図はない。「他者を変えたい」となればそれは呪いじゃない?

 

祈りにより自己内部の平安が訪れることがあったり、愛を再確認することもありますが、祈りで外界や他者を変えてやるぞ!というソレは下手したら呪いとなるので注意した方が良いし。

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まとめ

言いたいことが伝わるように書けているだろうか?

 

世の中の相似形、フラクタル性をもし人間側から利用できるとしたら、「まずは自分から。」「自分が行動する」ということが冒頭に書いた

「自分と世界は相似形。自分と宇宙は相似形。」

にならないだろうか?

 

変えたいこと、理想がある。ならばすでに関心を持っている、その関心・興味の本質(愛?欲?嫉妬?羨望?支配欲?)を自覚する、愛の向け方・表現の仕方を考える、まずは自分から行動する。

こんな感じ。

 

祈りも「行動」にカウントするのは好き好きだけど、祈り以外の「結果から逆算したより具体的な行動」が一層バタフライエフェクト的には有効だろうと感じる。

 

おそまつ(笑)