素敵なヒト
男とか女とか関係ない
とある女優さんが「素敵な人」はどんな人?
という質問に
「自分で自分を幸せにできる人」
と答えていました。
20歳を少し超えたおきれいな女優さんのこの答えに、
賢くて凄い!
と恐れ入りました。
そして、この回答は私の心にしっかり入った。
自分の幸せを他人に預けないとか、他人に背負わせないとか、そういったことは、言葉を変えれば自分の不幸を他人のせいにしないとか、自分のために他人を搾取しないとか、被害者(もちろん内容によります)に浸らないとか、他人の機嫌を取ることに神経を注がないとか、とも言えそうです。
しかし、こういったことも双方の選択によって成り立つので、これらが成り立つということはある意味それを双方が自分のために選択していることになる。
自分の人生を好きに生きているとも言える時があるので、それを良いとか悪いとか決められない。
ただ、私個人が「自分で自分を幸せにできる人」という価値観が好きなだけです。
ElisaによるPixabayからの画像
MOMOさんもそんな価値観ではないだろうか?
こちらの ↓ ブログでご紹介したダンサーさんも似た感性をお持ちだと感じました。
賢さって?
いろんな賢さがあるなぁ と思う。
でも賢さってわかりやすい指標がないから、勉強とか知識とか情報とかの量みたいなもので判断したくなるんでしょうね。そうすると自分が安心する。
どこに属している?とか、ナニをやっているか?とか、ナニを知っているか?とか、ナニを支配しているのか?とか。
こういうことって、知識と知性って違うって類の話かもしれない。
そして、知性とお人柄って連動の仕方が似てるような気がしません?
随分前に他界した祖父はこういったことを「教養」と表現したのを思い出した。
あーでもない、こーでもないと考えたら賢くなるわけじゃなさそうで、以前私は「下手な考え休むに似たり」としみじみ己を振り返ったこともあるし、自分の「的外れの努力」に脱力したこともあるし、思想とか教えとかを無考えに取り入れてその後(なんか違和感が・・・・)とハタと気が付いたことがあるし、今は思い出せないけどいろいろあったと思う。
激流だ! 激流に飲み込まれた! と感じたこともあったが、あの感覚はもうありありとした体感として思い出せないです。ありがたいことに。
言葉はわかるけど、実はわかってない
20歳少し超えの頃に
「自分で自分を幸せにできる人」
という言葉はわかるし、想像もできるけど、「幸せってなんだ?」みたいなことってシンプル過ぎて体感としてわかってなかった。
ホント、いろんなものを探し求めて本を読み、映画もみた。
会話もした。
年月が経ち、「自分で自分を幸せにできる人」というところに今はいる。
先はわからない。
過去のアレコレは「自分で自分を幸せにできる人」への助走になった。
今日現在の結果として。
もちろんこの先はわからない。
じゃあ私が素敵なヒトか?と言えばどうか?
素敵かどうかはわからないけど、自分の人生を愛しているとはいえる。将来自分が「自分の人生を愛している」と感じるようになるとは想像できなかった。
今はこれで充分かなって思うし、多分自分の人生を愛せることを年月かかって手探りで求めていたのかもしれない。
「幸せってなんだ?」というのと同じで、「自分の人生を愛するってどんな感覚?」という未知の世界だったから。実はもともと自分の人生を愛していたけれどもそれすらわかっていなかっただけかもしれないんだけど。
そう、だから、先に書いた
”自分の幸せを他人に預けないとか、他人に背負わせないとか、そういったことは、言葉を変えれば自分の不幸を他人のせいにしないとか、自分のために他人を搾取しないとか、被害者(もちろん内容によります)に浸らないとか、他人の機嫌を取ることに神経を注がないとか、とも言えそうです。”
というのも、今はこれらがその方が感じる「自分の幸せだ!」という価値観だってことだな~って思ったりもする。社会生活していたら、自分の価値観よりも他者の価値観に全乗っかりで良し!と判断する方も居るかもしれないし。
人生で知りたいこと、体験したいことの好みの多様性
ただ、私は別にナニモノにもなってないけど、もう全然ナニモノかになりたいなんて思ってないし、あぁ自分でいるっていいなって思ってる。
ただただ、今のこの心境がありがたいです。
私がなにをしたか?
いろいろあったんですが、自分のストレスケアをしました。
- 例えばヒーリンググッズを身に着けたり
- パワースポットに行ったり
- 占ったり
- 霊的なナニカを気にしたり、
- 思想とか信仰とかを気にしすぎたり etc
というこれらよりは私は自分のストレスケアが良かった。
この方法が万人に合うかはわかりません。私には良かったですが。