余計なお世話

勝手に同志な意識

大袈裟かもしれないが、私も似たような体験をしたという話を何度も書いたけれど、また書きたい。

特定の宗教を信仰していませんが、自分なりの信仰心のような心持はあるという一個人が書く、小池龍之介氏のごく少ない情報を見たことへの反応です。

ご本人は、(もうそっとしておいてほしい)と思っておられそうだから、やはり目に入らないことが最良かとも思う。だけど書く。

自分の振り返りと、ひょっとしたら迷っておられる方のために。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

挫折感

最初は挫折感についてです。

前回の記事でふれた、小池龍之介氏が挫折感を感じたという伝聞を目にして、ご本人の目に触れることはないが文章を書きたくなりました。ご本人の目には触れなくても、ひょっとしてそういった類のこと(悟りとか覚醒とか)を目指して挫折感を感じそうな方がいらしたら、知識の1つにはなるかもしれない。

時間が経つと、それは経験という感覚に変わる

挫折も、いつしか「経験」だと表現する言葉が変わることがある。

私はそうなった。出来事は覚えているけれど、それに伴う感情が風化したように感じた時に「経験だった」という過去形になる。過去完了形になる。

失敗は無い、経験だ

失敗は無い、経験だ。とよく目にしますし、今は私もそう思います。

しかし、挫折を知るまでは、ただこの言葉を知っていただけで、多分同意するような体感はやっぱりイマイチだった。

そう、いかに自分が、「わかったつもりの集大成」だったか、ということは大きな挫折をしてグウの音もでない体験をしないと中々わからない。

 

しかし、回復したらいいだけなんだ。そしたら降伏するしかないことってあると気がつく。それは「知らなかった自分」に降伏するような感覚で、そういったことに抗うのをやめると、「経験したらわかることってあるね」と思うしかなくなるし、「経験して良かった」と思える位回復したら勝ちだと思う。自分に勝つって感じ。自分の体験に勝つって感じ。

勝ちもないし、負けもないけど、なんだか「勝つ」という言葉がそんなに遠く感じないのが不思議。

そう、誰でも挫折したと感じることがあるやもしれないが、その後、いつの日か回復したらいいだけなんだと私個人は考えるようになった。

慌てても、心体は心体のペースでしか回復しない。ゆっくりじっくり回復するということを寄る辺なさや虚無感で身体に空洞があるような感覚を感じながらも自分に言い聞かせるしかない。

 

私の場合はそうした。

 

懺悔

小池氏が話されたという言葉の伝聞でしかありませんが、「懺悔」という気持ちがあると読んだ。

懺悔というのは、なにか「自分をゆるせない」時に使う言葉かもしれないが、自分がゆるせない限りは悟りもないような気がする。

 

多分、こういった心の持ち方を「伝える」ことは容易いけど、自分に置き換えることや、自分も同じだと認める事がツライのではないだろうか。

先程と同じことを書くと、ヒト様の失敗に対しては「心の持ち方」をアドバイスできるけど、自分が失敗だと思った事は「懺悔の念」をも伴って「ゆるせない」。

この反対の「私は知っている」という意味でも、こういう意味での「失敗や懺悔」も自分を特別扱いしていて、人間の共通性を拒否しているような風合いを感じる。

しかし私たちはさして変わらないし、皆同じ。

 

ということをわかっているつもりだったけどその実は違う自分に気がついた。ということだけで大いなる一歩だと思うんですよ。

 

学びと実際

多分、仏教やいろんな宗教でもこんなこと学びませんかね?

学んでも、学ぶ事・知る事によっての、エゴ肥大系の「私は特別」感が熟成することもありますしね。

 

それほど自分を高め設定にする時ってあるんですよ。生きてると。

生意気言うな!と言われそう(-_-)

完璧人間が悟るわけじゃない。

 

自分が完璧じゃないことを受容した時に悟りの扉が開くんじゃないかな?

 

って、誰が誰に向かって言ってんだ!って自分でも思ってるんだけど、小池氏の感じた挫折感ってとんでもなく大きくて、メンタルも危うくなるし、シンドイにも程があるほどシンドイ事を勝手にお察ししてる。

 

私も同じような大きな挫折感を味わい、一時はもう回復できなくて地を這う感じがした。

地を這う前は、奈落の底に落ちていく感じがした。

大きな挫折感ってホントにダメージがデカすぎる。

 

根底が揺らぐどころか、足元の地面がパックリ割れて、真っ逆さまに落ちる感じがするんだよ。

 

そう思うと、今の自分に対して、

人間は復活する事ができるんだ! 運が良かった!と毎回思う。

そして、折れた骨が折れる前より強くなる的な、なんだか鍛えられた感がある。

 

だからこそ、小池氏にも、勝手に「今からが本番だよ」と言いたくなった。

 

振り返ると、わたしもあの挫折感のあとから人生の本番が始まった感があるし、非常に心体が弱った時に不思議な体感が幾つかあった中にそんなことを象徴するような脳内映像があったことを覚えてる。

簡単に書くと、脳内で「人生ゲームが始まった」ようなことを知らされている?というようなイメージ映像だった。

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奈落の底から回復

かなりしんどかったんだけど、もう過去だし、過ぎてしまったら忘れてる。

イェイ! (^^)

だって、最近も、海風に吹かれて「あーしあわせーーーー」って心が幸せを感じたし、ニコニコ笑ってるちびっ子を見て、幸せを感じたもの。

 

ずっと長い間 身体に開いていた虚無感の穴も随分前に閉じたし、足元はしっかりしているように感じるし、ずーーーっと一緒に居た「自分に対する心もとなさ」「不一致感」という感覚もない。

 

昨晩も、おやすみーと布団に入った時にも幸せだった。この先も同じだろう。

 

気がついたら、もう地を這ってる感じなんて全然しない。普通に歩いてる感じがしてるし、なんなら身体が軽いもの。

おそらく似たようなことを書いて出版されていたのでは?

多分これまで書いてきたような事を含めて、以前は書籍や講演?放送?を通じてマス(大多数)にお伝えされていたんじゃないかと予想してる。

 

私はある意味筋金入りで、中学生、高校生の時には人生を苦しいと感じて「悟りたい」って思って居た派です。

私が昔目標としていた理想人間は、完璧人間で、ほぼ悟っているような精神状態だった。だから私も手法は違えども「悟り」を目指し、それに近づいてきたと思ったところで、そのために努力したつもりだった我が実態が目指していたものとは全然違うという現実に気がついたので、挫折感がすごかった。多分小池氏と雰囲気は似てると思う。

 

悪い意味でも良い意味でも、人間らしさみたいなものを嫌ってた。でも、マジメ人間ではあった。

いろいろ苦しくて、その苦しみの元が「人間らしさ」からきていると思っていたものだから、人間らしさを排除したら生き易いのかと思ったし、感情が動かないような達観者を目指したし、人間臭さの薄い完璧人間を目指すという大間違いをやらかした。

しかし、この大間違いと挫折が無ければ今の私は居ない。

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しかし、多分書籍には書いてないと勝手に予測しているその先もあるんだよ

そう、生命の灯がうす~~~~く、消えそうだよ~~~ 消えるかもね~~~ と感じた時期もありましたが、こんな凶事は吉事となりましたよ。こんな有り難いことってあるだろうか?

挫折の前には感じなかった「生まれてきて良かった」「生きてて嬉しい」などを今はマジで思うもん。

 

こんな日が来るなんて!

ありがとう神様!

ありがとう皆様!

「生まれてきて良かった」「生きてて嬉しい」

私はこういったことを感じたくて、勘違いして「悟り」を求めたのかもしれないね。悟ったらラクになって「生まれた事が嬉しい」というような根底の基礎固めがされるのかと勝手に思い込んだのかもしれない。

こういった事を感じたいなら「しっかり生きる」とか「丁寧に生きる」という方が最短ルートなのかもしれないが、「しっかり生きる」とか、「丁寧に生きる」ってどういうことなの?と理解できなかったから、そんなことを教えてくれるのかも!と仏教やキリスト教とか禅とか神道とか、その区別がよくわからないままごちゃ混ぜにしたままで信仰や思想に関する書籍などを読んだり、出家などは選択せず自分なりに勉強したりしたのかも。

 

粉々に挫折した感 → 数年かけてゆっくり回復 → 今 元気

神様ありがとう。

自分よありがとう。

皆様ありがとう。

 

多分これらは、まだ小池龍之介氏が感じた事のない領域だと思うが、回復したら多分同じことを思う(と思う)。

 

概念と勉強と観念、思想では理解できない領域がある。

フシギとか、ライトなスピリチュアルとか、ある種の瞑想で得るようなそれらしい感覚とは全く違って、人間の根源を強固にする体験や体感は、ただ生きているだけでも得られる。ちゃんと得られる。

というか、そういった思念や瞑想ものと一線を画した「体験」「体感」ってある。ユニバースもマルチバースも貫通しちゃうと書きたくなるような「体験」「体感」が。

 

なんならあの挫折感から回復したからこそ美味しさ数倍みたく、その素晴らしさに付加価値がつくような気持になる時ってある。

今からが本番

小池氏も私と同じように、大きな挫折感からが人生の本番スタートという可能性だってあるわけです。

 

書籍を多く出版したから、それが自分の重荷になることもあるようですが、それは自分だけの世界の話で、”ドリーン・バーチュー氏のオラクルカード” で救われた気持ちになる方が今でもいらっしゃるのと同じで、やっぱり小池氏の書籍が支えになった方も居ると思うんです。

環境を変えた先、自分以外の世界で挫折を感じたかもしれないが、元々いた環境で、自分以外の世界で救われている方もいる。

 

ご自身は解脱失敗と感じられたかもしれないが、仏教をわかりやすく伝える能力は解脱とは関係ない。そうなると、解脱者しか仏教に関わってはいけなくなっちゃう。

信仰ってそういうものじゃないですよね? 違うの?

 

こんな個人的な理解も含めて、「これからが本番ですね!」 こんな捉え方もありますよ!と文章に残したくなった。

 

解脱は知らないが、さとりって・・・

わたしごときがどんな立場? どんな立ち位置のつもり? と自分でも自覚はあるけれど、過去のコラムにも既に書いているので同じことを書く。

 

さとりって瞬間的な事だと思うんです。「今」。その瞬間。

解脱が永続的な状態を指すのかどうかはわからないが、それは前回も書いたように、世界の覇者になることじゃないですよね?

今いる世界(ユニバースと仮定してみる)で解脱?

マルチバースで解脱?

 

全世界制覇?

 

でもですね、全世界ってどこ?

 

前回のブログに書いたように

思考と想念と感覚と実際

ヒト・個の中に

  • ユニバース ⊂(含む) マルチバース
  • マルチバース ⊂(含む) ユニバース

という面がある。と私は思っているからです。

という前提に立った場合に、全世界ってどこ?

(あくまでも私個人の見解の話ですからね。)

 

いったい どこから脱する(解脱)つもりなんだろう?

 

と、またまた禅問答のようなことを書いて終わります。

 

私はこういったことを考えるのは好きだけど、今ある生命を大切に生きることを優先しております。

だから「悟り」もましてや「解脱」も目標にしていない。

生きている間には悟れないということを悟った?

遥か昔、「生きている間には悟れないということを悟った」と対話の中で発言したことがありましたが、今はあの表現が間違っていたと理解している。

 

私の真意は、「生きている間に、悟りを目標にする事をやめた」ということでした。

私はそれで良い。

 

それを数年前?10数年前?に自己理解できて以来なにかが軽くなった。なにかがラクになった。

 

文章の締めくくりは、小池氏の目指すところとは目標や目的が異なっているようですが、この文章を書き始めたきっかけは、勝手に、余計なお世話と知りつつ、エールを送りたくなったからです。

 

そう、私も昔、願ったことのある『「救われる」と望みを持った道』でしたから。

ついつい余計なことを書いちゃった。

 

小池龍之介氏がHappyを感じますように!

RalphによるPixabayからの画像