自己選択か? 天命か?
後悔しない人生ってなんだ? 2
今回は、前回の続きで、「後悔しない人生ってなんだ? 2」として書いていきます。
前回の予告通り
まぁなんというか、行動と結果の法則とでも言うのか。
自己選択というのか、天命と言うのか。
について。
論理の飛躍かも知れませんが
論理の飛躍かも知れませんが、私のブログに自分で書く事なのでご了承いただきたい。
まぁなんというか、行動と結果の法則とでも言うのか。
自己選択というのか、天命と言うのか。
というこの辺りについて、能動性と受動性という視点を加えると理解しやすいように思っています。
Aさんが「行動」と思っていることを、Bさんは「行動とは言えない。それは受動的だ。」と感じる価値観があったりするなぁ と考えたりしています。
良い悪いでは無くて、これが感性や価値観の違いなんだろうと思います。
例題】お財布を振る
お財布を振る? ナニソレ? と思う方に簡単に説明しますが、「満月の時に月に向かってお財布を振るとお金が入ってくる」という考え方があるんですね。
「おまじない系」と書きたいのですが、「いや、おまじないなどでは無くて、引き寄せ手法の1つです」とおっしゃる方がいらしても不思議じゃない。
「おまじない」と「引き寄せ」が明確に区別できるのかどうかわからないし、「いや、一緒っすよ。ネーミングの違いです」という認識なのかもわからない。
いつも通り、わからないことが多いままに書き進めます。
「能動的」と「受動的」の解釈が違う?
Aさんは月に向かって財布を振ることが「行動」「能動的な行動」と認識しているとしましょう。仮定です。
BさんはAさんの行動を見て、「お金を手に入れる具体的な行動ではなく、ナニカをあてにした受動的な態度」と認識するかも知れない。
で、結果は?
で、結果は?
そう、どこが結果なのか、どれとどれが因果関係で結ばれているのか? どれとどれを因果関係と認識するのか? が多岐に渡るんである。
人生って深く感じようとしたらキリがない。
意味づけしようとしてもキリがない。
もうこの辺は「お好み」であると思っている。
だから、「結果」などと胸を張って言える真実というか、唯一無二の答えは無いんじゃないかと思っている。
いや、これが正しい答えだという意味での「結果」って、「そう思いたい」「そう信じたい」以外にどうやって認識・判定するんだろう?
財布を振るとお金は入ってくるのか? 結果は?
あんた(武田)の「わからん、わからん」は読み飽きた(聞き飽きた)。
で、財布を振るとお金は入ってくるのかこないのか? ハッキリ答えだけが知りたいのが人情だろう。
私の場合
事実1>私も昔、数回の満月の際にお財布を振ったことがある。
事実2>今日現在お金は足りている。
じゃあ、結果は「月に向かってお財布を振ればお金は入ってくる」で良いんじゃないか?と思ってもらっても良いんだけど、
でも、でも、でも、大切なまた別の事実もある。
事実3>財布を振るというおまじない(?)を知るずっとずっと前から「お金は足りていた」
そう、因果関係を発生させる根拠が弱いと言えば弱い。無いと言えば無い。しかし、おまじないを信じる要素はある。
これを「行動と結果」と言って良いのか?
科学的という表現が合っているのかわからないが、私の場合はこの「財布を振る」については科学的な証明ができる案件にはならないと思っているし、
そもそも、「行動と結果」という話をする際に、「月に向かって財布を振る」という行為を「行動」の事例として挙げて良いのか?と感じている。
しかし、財布を振るという話を知る前も、知って振った(1年位?)後も、振らなくなって数年?10年?10数年?経った今も、生活するためのお金は足りています。
財布を振るのをやめても(しかし、振ったという行為の後に辞めてるわけです)、お陰様で生活するお金は足りています。
今生活のお金が足りているのを、過去にお財布を振ったことと関係がないという証明も出来ない訳です。
では、なぜそういった行為をしたのか?
足りては居たけど、多分「もっと楽にお金が入るならラッキー」みたいな感じで、例の独特な欲・執着みたいなものが私に財布を振らせた。
と書くと受動的、被害者的ですが、財布を振るという行為をしたのは能動的。
この辺が人間の面白い所だと思う。
結果!
お財布を振るとお金が入るのかどうかはわかりませんが、ここまで文章を書いてきて、今日現在の結果として、
「行動」と「行為」について、なんだか根底のニュアンスを違えて受け止めている自分がいました。国語辞典に書いてある意味以外に、私個人が勝手にニュアンスを形成しているみたい。
これが感性や価値観というものでしょうね。
使い分けの妙?
そして、「能動的」と「受動的」というものを多くは無意識に、気づいている人は自己選択的に使い分けているんだろう。
そして、人生がシンドイ。上手くいかない。と感じる時期は、何を「能動的」にして、何を「受動的」にするか?という選択が逆転しているという可能性もあるかもしれない。(そこに、正解のように感じる順行があるのなら。だけど)
心理的逆転って多分、これらも含んでいるような気がしています。
「潜在意識と顕在意識」というような言い換えも出来るかもしれない。
結果のようなものをもう一丁
なにを潜在意識と捉えたり、感じたり
なにを顕在意識と捉えたり、感じたりするのかも、かなりの個人差、グラデーションがあるように感じています。
これらに対して、能動的と受動的という要素が掛け合わさっているようなイメージが今現在の私にはあるんですよね。
それを天命と位置付けたり、自己選択と感じたりしてるんじゃないかな?
こんなことを考えていると、卵が先か鶏が先かみたいなことになっちゃうんだけど。という話で今回は〆ます。