野生の勘のイメージ

以前、独特の感覚について書きました。

野生の本能のようなものだと感じています。

それを、「気」的解説がされていた書籍も読みました。

takedamiki.wpx.jp

 

私の感じる「野生の勘」は、平和な日常生活では登場しません。

日常生活で登場するのは、「勘」「直感」「ひらめき」「第六感」という感じの表現です。

 

日頃使う脳の使い方と

絶対禁忌としていた脳の使い方は少し違うみたい。

 

野生の勘になると、ぐぅ~~~んと距離が伸びる。

そんな感じがします。

 

今日はこんな話をします。

 

 こんな時に ぐぅ~~んと伸びていく感じがする

アメリカで、

それなりの距離電車移動して、

とある駅で下車して、

そこからはロス在住のキネシオロジー仲間であり、かつ、旅友達がピックアップしてくれて一層遠方へ移動するというワクワクする約束をしました。

そのプチ旅に2名増え、合計4名で行動した時のことです。

 

駅のおおよそ到着時間だけが頼り。

 

私は海外でポケットWi-Fiを借りていませんでしたし、

いざとなったら同行するうちの1人が少しの時間LINEが使えるってことでしたので、

いざという時の頼りはそのLINEのつもりでした。

 

しかし、

移動途中に

その頼りのLINEも使えないことが判明。

 

一昔前の、携帯電話のない時代には当たり前だった待ち合わせ風景になりました。

 

目的の駅に私を含めた3名で下車。

こんな感じの風景です。

 

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このような現場でした

 

私達をピックアップしてくれるお友達はどの方角から登場するのかわかりません。

 

確か、この時はまだ

彼女が載っている車種や車の色も知らなかった覚えがある。

 

ぐるっと360度、注意が必要です。

 

最初は、どの方角から来るんだろう?とアチコチ見回して居たんですが、

頼るものが自分だけ(スマホは使えない)という状況が引き金になって、野生の勘が目を覚ましてきたのか

⑤から交差点に入って来る車の流れに注意が絞られてきました。

 

そこから登場するような気がしてならない。

 

そして、

あっ! 来た!と思った時がありました。

 

私は強い近視で、コンタクトや眼鏡を使用していますが、視力を矯正しても言うほど見えていません。

割とボンヤリしています。(普段の頭の中もボンヤリしていますが。)

 

運転席の友達の顔が見えたわけじゃないんです。

でも何かに反応して、あっ!あの車かな?と思ったんです。

確信はない。

 

路面駅から交差点の⑥まで確かめに行きましたが、停車している車は無くて、

路面駅で待ってる2人には「違ったみたい」と報告しました。

 

そして、また振り出しに戻って

駅から やっぱり⑤を見てたんですね。

さっき違ったから、そこから登場するとは限らないのに、この時点では⑤しか見てなかった。

 

そしたら、

ついにお友達登場。

⑤から登場して、今度は顔が認識できたような気がした。

 

そして、⑥まで確認しに行ったら

やっぱりお友達でした。(祝&感謝)

 

 

ピックアップしてくれたお友達に

「ありがとう! 会えて良かった〜〜。

さっき、アレかな⁉︎ と思った時があったのよ〜〜

違ってたけど。」と伝えたら

 

「違ってない。さっきも私だった」と言うではありませんか。(◎_◎)

彼女は私達を認識できていて

私(武田)が反応しているのを見て驚いたって言ってた。

 

そうよね、交差点に進入して駅を見たら、私の顔が自分に向いてたんですものね。笑

 

さっきは⑥に停車できなくて、もう一周回って来たから

2回とも彼女の存在をキャッチ出来ていたそうなんです。

 

いつもは眠っている能力

ですから、

平和で安全ですと、

私の絶対禁忌風 野生の能力は眠っているみたい。

 

それを意図的に使って良いことにしようかな。

そう決めたって、今までコントロールしていたわけじゃないから

意図的にそれができるとも限らないんだけどさ。と思っていたら

以前のこの方のセリフ「俗事には使わず」に出会ったわけです。

cosmos358.amebaownd.com

 

警報

以前、また別のジャンルで

なんだか頭の中で警報がなったので

人様の止めるのも聞かず それを止めたことがありました。

 

当時、それを止めた私は「大きな損」をする行動と捉えられて居ましたが、数ヶ月、真逆なことがおきて、それに関して「損をしなかった」のは私だけでした。

 

結果的にはピンチをすり抜けた。

 

胸騒ぎって大切ですね。助けられました。

 

 

しかし、警報が鳴っているのに無視して、痛い経験をしたこともあります、

 

 

こんな体験を行きつ戻りつして

今は、自然に発動した場合、その野生の勘を信頼して居ます。

 

どうやら、

失敗しても大した事ない。みたいな事には自然発動しないケースもある。

 

ですから、

身体の反応って、誤作動していないことも大切だな。とよく思います。

思考があまりにも優位だと、身体との足並みが揃わずに勘も働かないことがあるし、ストレス反応を自覚できないこともある。

 

また、体の反応を信用し過ぎても、「逆転」が起きている時は自分の為にならないことを尊重したりする。

 

 人間の能力は無限大だけど、それが発動すること=幸せとは限らない

また一方

余りに平和で、勘を働かせる必要がない。なんてことは

刺激が無いように感じる可能性はあるけど、幸せなのかもしれませんね。

 

 

平和で安全が保証されるような生活があったら

持って生まれた能力の出番がなく、その多く使わないかもしれないけど、一つの幸せの姿だろうとは思います。

 

自分の持って生まれた能力を発揮しよう。発揮したい。とすら思わないような、とある幸せってあるんだろうと思う。

 

刺激がなくて、平凡な幸せの風景も、私には愛おしい。

世間で活躍しなくても、ヒトから認められなくても、能力を発揮していなくて

なんという刺激のない平凡な生活なんだろうというその平安さも

それはその生活の愛おしさがある。

 

 私もセッションを行ったり

講座を行ったり

ホームページを更新したり

このようにブログに文章を書いていることも

能力を発揮している感じがするし、能力云々ということを別にしても単純に楽しいです。好きです。

 

なので、もっと活躍したい、活動したいと思う事も正直な気持ちですが、

世間で活躍しなくても、ヒトから認められなくても、能力を発揮していなくて

なんという刺激のない平凡な生活なんだろうというその平安さも

それはその生活の愛おしさがあるのも確かなんですね。

 

ですから、

能力を発揮しても幸せ。していなくても幸せ。

ということに今現在はなっているようです。

 

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やっぱり自然には触れている方が人間の心体には良いのでしょうね

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