私が勝手に認定している不思議系の出来事は
サイトこすもに掲載していますが、今日の内容は不思議系ではありません。
リアルマスターヨーダとの会話
私の父ではありませんが、
キネシオロジーの先輩のご主人で、先輩が「おとうさん」とお呼びになるので赤の他人の私もお会いした時には「おとうさん」とお呼びしている東京のリアルマスターヨーダ(と勝手に書いていますが)に
『例え、その体験を人さまから「さとり」「覚醒」と言われれても、
また、仮に自分の体験が「さとり」「覚醒」だとしても、日常(生活)は変わらない。』と感想というか、思った事をお伝えしたことがあるんですよ。
そう、お会いしたのはもう少し前のことになりましたし、
そのあと、また別のバージョンを体験したのですが、
お会いした時は、20年以上前の体験と、何もかも消え去った感覚があった体験の2つの経験を持った私としてお話しました。
日常と言ったか、世界(私の世界)といったのかは曖昧ですが、
そんなことを話しましたら
リアルマスターヨーダは「それでも、感じ方は変わったでしょ?」というような返事を下さいました。
確かにそうなので、「それは確かにそうです」と答えました。
あの後、
2回ほど追加の体験があり、思うのは
「やっぱり変わった」という事です。
その時はまだわからなかったけれど、
「まだその先があった」
昨日のブログで言うと、
どんどん雑念が消えて、シンプルさが増しているということも日常の変化に含まれています。
リアルマスターヨーダに「変わらない」と言った時より
もっともっとシンプルになっている感覚があります。
内面的な事だけじゃなくて、物質的な変化もあった。
価値観の再構成
ありがたい強制恩寵により、価値観を一掃するチャンスに恵まれたわけですが、今回のこれは非常に穏やか。
あら?
なんだか私がかなり優先順位の高い価値観として持っていた「思考力」って、それは思考力じゃなかったのね。ということまで体感しちゃえましたもの。
これが「楽なコース」に該当するのかどうかということまでは分からない。
この先がまだあるのかはわかりませんが、
こういった体験すらも、時間が熟成のような役目を果たすことがあるんですね。
悟りとか覚醒ということはイメージ先行型の最たるものか?
悟りとか覚醒ということはイメージ先行型の最たるものか?というタイトルについて触れると
形のないものを、想像して、自分も体験しようと焦って妄想を創ったり、
その瞬間を早めたいと自分の思い着く範囲のコントロールしてもあまり結果に結びつかないような種類の出来事もあるのかもしれないですね。
イメージ先行で、そのイメージに縛られてしまうこともある。
崇高な考え。という定義に縛られてしまうこともある。
そう言った事も全て、雑念だという事なのかもしれない。
今日は自分の体験を通じて、こんな言葉で締めくくってみたい。