話を聴いているつもりの一例
以前より気になっておりました。
そうか、イラスト書いたらわかりやすいな。とこれを書いた。
登場人物を整理します。
Aさん:イラストの左がAさん。AさんはBさんについて悩んでいる(困っている)ので、それについて話している。
Bさん:Aさんの話の登場人物。今、目の前にいるAさんの話を聴いているCさんはBさんを直接知らない(知っていてもいい)
Cさん:今、目の前にいるAさんの話を聴いているという設定
よくあるケース
AさんがBさんについて困っている。とCさんに話したら
それを聞いたCさんは、Bさんについて推量して
「Bさんは〇〇だと思っているのよ」
「Bさんは勘違いしている(知らない)だけよ」
「Bさんは悪気はないのよ。きっと」
「あなたに甘えたいのよ」
というように、話題はBさんのことばかり。
話を聴いてほしいAさんからしたら「私の話を聴いてよ」となる。
しかし、Cさんは聞いているつもりで、「Bさんのことを気にしすぎ」などとアドバイスまでする。
主役は誰?ということになる。
友達同士なら別に珍しく無いし、
私も個人セッション以外ではこんな会話になることだってある。
また、
ある種のスピリチュアル信仰があり、かつ、ポジティブが最善と思っている場合は、「ぼやくと言霊が自分に返ってくるよ」などと脅す気はないつもりでも脅していることになるし
「ありがとうを言え」「感謝が足らない」などと本題とは違う返事が返ってくる。
「それはあなたの修行よ」という人もいる。
言霊云々と言われたら、ひょっとして口封じしちゃってることってないのかな?
感謝が足りないというアナタは感謝は足りているのか?
あなたの修行よと言い放つあなたはどの立場から発言しているのか?
要するにこれらは評価しているだけなのかもしれない。
悪いのはAさんだと無意識にジャッジしていたりする。
悩みを話すのは弱いからだ。と。
人間ができていないからだと。
これをカウンセリングという認識の元、行われているケースもあるだろう。
それも否定しない。
需要があるから成立する。
ただ1つの正解は無いだろうし、話を聞いてもらった側が良いと思えば良いのかもしれない。
いろんな関係性があるから。
友達同士の会話にまでこういうルールを適応する提案でも無いし
カウンセリングの良し悪しを書きたいわけでもない。
あくまでも、こんなケースって多いね。という体験談を書いたまでで、
今日の本題は「話を聞いていますか?」という事だけに絞りたい。
目の前にいる人の話を聞いていますか?
Aさんの話を聴いているか?ということになるとどうだろう?
もちろんケースバイケースだが、
さっきも書いたような目の前のヒトではなく、登場人物Bさんについて深彫りしていくようなケースや、原因特定アドバイスケースが非常に多いな。と思っている。
私は個人セッションで、〇〇術や、占い、特定のタイプ分けをしないけれど
それで悩まなくなるのならそれで良いと思う。
しかし、私は、スピリチュアルやポジティブ、占いもありつつ
それはそれ、これはこれ。としてやっていきたい。
ごちゃまぜにしない。
結果不思議なことがある事も多いが、あくまでも、意図せず起きたことで、
それはそれ、これはこれ。そのように意識していきたいし、実際ごちゃまぜにはしたくないと思っている。
Aさんが、Cさんに話すことで、
益々「理解してもらえない」「なんだか報われない」と思えてしまうような機会が減っていくと良いなとは思っている。
あまり理解されない、話を聴いてもらえないという体験を積み重ね過ぎると
もう話すのを諦めてしまう。
話したら、また「理解してもらえない」「なんだか報われない」という想いがこすられてしまう。またこすられるくらいなら話さない方がまし。と学習してしまう。
理解はしてもらえなくても、聞こうとしてくれた人がいた。という体験でも良いと思う。
そんなことで救われるってことがある。
どんな出来事に「救われた」と感じるのかはケースバイケースだし
周りが全力を尽くしても「救われる」とは限らない。
正解ってない。
万能な方法も無いだろう。
救われずに、底打ちすることが結果良かったという事もある。
いろんな状態の大人、子供がいる。だから気をつけたい言葉
虐待を受けている子供という事を見抜けないのはしょうがない時がある。
見てみぬふりをする落ち度もあるだろう。
だから、せめて
「親に感謝しろ」「育ててもらったんだから」「恩返ししなさい」というような事を絶対正義のように言うのは控えて欲しい。
「親に感謝しろ」「育ててもらったんだから」「恩返ししなさい」というのは、正論を言う気持ち良さに言う側が酔いたいだけの時も多い。
自分に酔っている時は、それを聞いた時の子ども(かつての子供の大人)の伏せた目に気がつけない。
食事もろくに食べていなかったけれど、なんとか無事大人になれたケースだってある。
「大人になって生活できるのも親のおかげだ」と言うのは、何も見てない人に限って言うセリフ。
たとえどんなに身近な距離に居ても、自分の近く(例:身内、親戚、家族)の不幸を絶対に認めないという「見ない人」「認めない人」っているもんである。
認めたくないから弱いもの(例:子供)を助けるどころか、弱いものに責任を押し付ける人っている。
だから、親に恩返しというのも、当人が人生を通して考えていく事だと思う。
いかにも良さそうな「信仰」や「教え」が沢山あろうとも、
それを選択することを強制したくない。
弱いものに、またまた責任を押し付けることにもなりかねない。
スピリチュアル的か宗教的?かは分からないが
「親を受け入れること」「憎しみを手放すこと」というのはたやすい。
そのアドバイスの前に
もっともっと当人の話を聞くことが先決じゃないかと思う。
とても良い「教え」「法則」」でも
それを言われると益々救われない気持ちが増すことだってあるだろう。
そういった、親と折り合いをつけていくのかどうかは当人が選ぶことであって
性善説にのっとった他人や身内がしたり顔で言う事ではないし
それを聴いている目の前の子供の顔を見ていない証拠だと思う。
心の傷を想像できていないからだと思う。
アドバイスする自分に酔っているだけだってこと。
でもやっぱり無理もない
話を聞けない脳のタイプがあると今は理解している。
人によっては、どうやって話を聞いたら良いのかわからないから
「私はもっと大変だった」「その位で甘えんな」ということも言う人がいる。
「人間に悪い人は居ない。私は性善説を信じている。悪く言うもんじゃない」と自分の信念を話す人もいる。
話の主役を自分にする方法しか知らないケースだ。
だからと言って、人の話を訊けるかどうかだけで人間の価値を決めることもおかしいでしょ?
ただ、適材適所では無いだけだ。
もう一度戻ってAさんについて
虐待について書いて、話が横道にそれたかもしれないが
Aさんの話がどのくらい深刻か?ということも目から鼻へ抜けるように理解できないことも多い。
Aさんがメンタル不全を起こしている時って
「そんなの大したことじゃないじゃん」「また?」と聞いている方が思う事を
繰り返し、繰り返し、繰り返し訴えることがある。
本人は「メンタル不全じゃない」と思っている事が多いが
その繰り返しの様が注意報の症状だったりする。
その逆に、なにも発しない(言わない)ことが警報だったということもある。
本人がメンタル不全かも?と思えばカウンセリングなどを利用するけれど
私は違う!と思っている間は嫌がる。足を向けない。
でも、独特の繰り返しはある。
自分は鬱じゃないけど、ちょっとここいらでガス抜きした方が良いな。と自分の体の声(状態)を捉えやすい方の方が回復しやすいというのも当たり前かもしれない。
なんというか、それは回復に意識が向いているからだと思う。
独特の繰り返しをしている最中は、渦中の自分に意識が集中しているとも言えます。
Aさんが回復の段階のどこにいるのか?も大切ですね。
そんなこんなも含めて
内容だけじゃなくて、全体性を聞くことで理解するということも大切だと思っています。
話をしに来てください
なかなか話をじっくり聞いて貰えない。
そんな気持ちを抱えているなら、どうぞウチに話をしに来てください。
責任の追及ではなくて
言葉を飲み込んでしまうあなたが、なにをどう感じて、何が辛いのかを聞かせてください。
そのシンドイ心体の状態が、どのようなケアをしたら楽になるのかをサポートします。
お子さんの場合は、
親御さん抜きで、お1人で話したい方はもちろん1対1でお聴きします。
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