前回の記事の一部分を継承して
前回の記事はこちら
これを書いたら、数珠つなぎなことになった。
好意、気遣い、配慮をしてもらって当たり前だと思っているのは、反応のこんなところでわかる
好意、気遣い、配慮をしてもらって当たり前だと思っている・いたかどうかは
こんなところで分かります。
それが無い・無くなった時に
凹んだり、イラっとする、不満があるような反応が出る。
それが無い・無くなった時にすぐに
それがある間、有り難かったな。とはならないようだ。
それをしていた方は、
どんなに好意、気遣い、配慮をしていても吸い取られる一方のように感じ、報われなさを感じる一瞬ではないだろうか?
でも、それを相手が当然と思っている場合にはそれが無くなった時に
怒ったり、
ムカッとしたり
イラッとしたり
焦ったり
凹まれることもある。
されるばっかりではなく
同じように、自分がその反応をすることだってある。
良い悪いは難しくてわからないけど
そんな時は違う方法を試してみても良いんじゃないかと思うケースだって多い。
境界線を認識することが難しい方には
与え続けずに、与えることをやめたり、やめることを伝えることが親切なケースだってある。
※与えるというのは、上から目線の与えるという意味ではありません。
前回の記事の動物園出身のApeが、人間の女の子に寒いでしょ?と防寒具をあげたり、友達だからとクッキーをあげたというような意味合いです。
そのパターンを一度やめてみて、
自分の心の反応を見てみるというのも良い。
あって当たり前だと思っていたことや
居て当たり前だと思っていた人が
無くなった時、居なくなった時にどう思うのかも
自分の認知バイアスを確認できるいいチャンスだと思う。
私は以前、転職した後に
元居た会社の先輩に
「たけちゃんが居なくなったら、飲み会がつまらなくなった」と言われたことがある。(笑)
特に盛り上げ役でもなかったし
下戸だから度々こっそり吐いていたし
酔っぱらわずに素面な時間が多いものだから、(あ~~早く帰りてぇ。明日も仕事があるんだよ)と思っていたけれど、振り切って帰ることもできない感じだったからこその飲み会要員だったんだけど。(いやいや、自分も楽しんでいた時のことを忘れているだけだという事にも気がついた)
どうやらそこに居るということを楽しんでもらっていたらしい。
有り難いことですわ。
それが、飲み会要員なだけだとしても。(-_-)
存在を楽しんでもらっていた事を素直に喜ぼうじゃないか。
自分の存在の余りの軽さを心底嘆いたことのある私にとっては、人生の中の有り難いセリフTOP10に入りそうです(笑)
後になってわかることってある。
当たり前じゃなくなったときにわかること。
自分が何を当たり前だと思っていたのかということ。
それが尽きる日がくることなどある訳ないと思っていたことを。
好意、気遣い、配慮を享受する時に、その相手を忘れていたという事なども。
自分に「無いもの」に意識の多くが向くこともある。
そんな時期は誰にでもあると思う。
自分に「ある」ものに感謝の気持ちがわくこともある。
そんな時期がくるのは、なかなかいい体験だと思える。
こんなことも愛という漢字には含まれているような気がするし、
一種の大人脳になると気がつけることなのかもしれない。
いつも書くけれど、良い悪いという単純な話ではない。
ただ1つの「良いと思っている」「誰かが良いと言った」やり方を貫くのは、
目の前の相手を見ていないという事もあるのではないか?ということも含めて
それなりに難しさはあると思っている。
良い悪いという単純な話ではない。
ただ1つの「良いと思っている」「誰かが良いと言った」やり方を貫くのは、
目の前の相手を見ていないという事もあるのではないか?ということも含めて
それなりに難しさはあると思っている。
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