今日まで生きてきて、

「先のことはわからない」

と何度も実感しました。

 

推測通りの未来展開が起きたことも多いけれど、でも人生のほとんどは「先のことがわからない」と実感しています。

 

誰と出会うか? などは会う前には予測できない。

その出会った相手を、

良い人と思うのか、嫌な人だと思うのかも、その先の出来事で印象も変わる。
年月が経つとまた変わる時がある。

 

最近ドミノ倒しのように現在の私の周囲のメンバーが変わりました。

これまでも同じような事がありましたし、この先も変わります。
それはこれまでの人生も同じでした。

 

個人的に「流される」のはあまり好きじゃ無かった。

結局のところ人生は流れており、流されているに過ぎないと感じたとしても

川下りの際に舵を漕いだり、オールを使って進路やバランスをとるように

ただ流されるのではなくて、参加意識を持って進行方向を目視していたい気持ちがありました。

その気持ちは今でも残っている。

 

進行方向を目視していても、今より先のことが人様より早くわかるわけじゃないんだよね。

 

なんて事をまたまた感じた。

 

先のことはわからない。

わかってるつもりや、予定調和を起こすために尽力するときもあるし、そういうことを仕事では大切にするんだろうけど

こと話が人生となると、

時間の影響も、

時間の面白さも、

果てしない物語を産むんだろうな。

 

 

「時間」を理屈で理解したつもりになったとして、自分の人生にはたいして反映できない。

こんなことも大層面白いと思っています。

 

そして、以前よりも「流される」ということについて抵抗感がなくなりました。

これが時間が創った私の変化です。

 

流されるとか、流されたくないとか、そういった感覚こそが固定観念であり、こだわりとか執着なんだろう。

これらが悪いとか良いとかいう話をしたいわけじゃなくて、こういった固定観念やこだわりや執着がフワッと溶けちゃう感覚が体感としてあるってことも人生にはあるんだなぁ と思えたんですよね。

 

もともと、ヒトは生まれてから死ぬまで「一点」にいる。

上り坂も下り坂もないし、もちろん流されもしない。

周りで変化は起きていていも、自分は実は「一点」にいるんだという感覚というか、風景をみたのは20年ほど前ですが、多分これはとっても貴重な人生の真理体験だったろう。しかし、それを見たり感じたからと言って人生の謎(?)や真理が一瞬ですべて理解できるわけじゃない。

やっぱりその後の、沢山の経験が多方向からの理解や体感や実感を積み上げてくれたおかげで、伏線が伏線として意味を成してきたような気がします。

おかげで、映画「マトリックス」などを見ると、なんとなく言いたいことってこんなことかな?と自分の体験が伏線として利用できるような気がする。

 

そして、自分の人生を信頼するという意味の深さを現在進行形で体験しているんだと思っています。

 

時間って凄い力がありますね。

 

生命活動としての人生には限りがある。

そこには時間が伴っている。

時間と変化が伴っているんだなぁ などとまとまりのないような思考が、海辺を散歩していてまとまりました。(笑)